第5章1 東奔
「どういうことですか!」
「トイレに行きたい!」
「点滴終わりましたー」
3つのことが同時に千夏に襲いかかっていた、1つ目は昨日の夜間帯に緊急入院してきた患者が現金50万円が無くなったと言っていること、夜勤の先輩の確認と朝、千夏自身が確認し救急車で来ていた為着の身着のままでお金は1円も持ってきていないことは確認済みの認知症患者である、道端で転倒しているのを通行人が救急車を呼んでくれたが独居で家族は亡くなった息子の嫁(遠方)との事、何度説明しても納得されず、という塩梅である、2つ目は1分前にトイレ(雀の涙程の尿)を済ませた患者がまたトイレを訴えている、この患者はさらに10分前にトイレを訴えるも出ず、そのまた5分前にトイレを訴えしっかり出た、そこからまた3分前にトイレを訴え出ず…を繰り返している、時間を決めておけばという意見も出るかもしれないがそうやっておくとベッドの柵を乗り越えて歩いていっていた(手術した後のため足に体重をかけてはいけない)ためインシデントものである、さらに頻尿の薬も処方しているのだが内服拒否もよくある、昨日の夜はデザートが出たのでそれに混ぜた、今日の朝もそうしたが昨日の夜のデザートが苦かったのもあり拒否、昼は薬として出したが拒否、時間をずらすが拒否、なんなら千夏に唾を吐いて引っかかれてしまった、そして3つ目は抗生剤の終わった患者のナースコールである、これも早く行かないと夜の抗生剤を繋ぐときに血液がルートの中で固まって使い物にならなかったりする
抗生剤の件は同僚が買って出てくれ、現金の件は主任や師長が対応し家族へ連絡、転院または退院も視野に入れるとの事で千夏は本日何十回目のトイレ介助に入った、片方の足に体重をかけてはいけないということを理解できていないため千夏はもう1人同僚と共になんとかトイレ介助を終わらせると師長がどこかへ電話をかけ終わったあと、お金がなくなったことは本人納得していないが今の所暴力行為が無いので打診している病院への転院が決まるまではこちらの病院で対応することとなった、千夏のいる病院は精神科は無く、ドクターも居ないので専門的な治療を始めるのはここでは難しい
そんなこんなで朝の検温の値を入力するだけで朝は終わり、昼は必要度などコストを取るくらいしかできず全く記録が終わらなかった、それも今日は委員会でのカンファレンスと委員会での病棟見回りがあったため残業は必至である、そうして夜勤が動き回っている間にたった1人記録をしていると異世界のあの男性の事を思い出す、最近は千夏自身の弱さに打ち勝つ為に、その世界に行きたいと考えないようにしていた、そうするとやはりその世界には飛ばされなかった、それでも心が傾く時もあり、今もそうであった、最後の記録が終わり見直しをしていると考える余裕も出てきてしまう
目の前が暗く、寒く、座っている椅子の感触が固くなった
土間に座っているが前回この世界に来た時よりもずっと寒く、暗かった、何も見えないし寒い、と震えていると千夏の後ろから布の擦れる音が聞こえる、夜であるならばこの暗さも理解できるしあの男性が寝ていたが起きたということなら音も分かる、寝ているところを起こすのは非常に申し訳ないしプライバシーもへったくれもないではないか
ガチッと音が聞こえたあと部屋の中がぼんやりと明るくなる、寝間着の男性が浮かび上がるがその顔には不機嫌さや眠気などは見られない
「寝ていたところ、申し訳ありません」
男性はただ頷くと火鉢を指さし
「めめあそおおろひえんす」
と言った、そこに行って良いということだろう、千夏が火鉢の近くに行く間に男性は敷いてあった布団を畳み押し入れの中から肩掛けのようなものを出して差し出してくれた
「ありがとうございます」
寒さが和らぎ温かさで心が和らいだ、千夏はどうしようもなく、ここに居たいと思ってしまう、憧れて、努力して看護師になったが日々業務に追われ、患者一人一人との深い関わりもできず患者と過ごす時間より電子カルテと共に過ごす時間の方が多い、これが本当に自分のやりたかったことなのか、このような事は親にも言ったことはない、看護師になる為の努力を1番近くで見て、支えてくれて、合格した時すごく喜んでくれた、そんな2人に言えるはずもなかった、そう考えているとため息が出る
「おすぬんしぢも?」
小声に努めた声が降ってくる、何かあったのかと、言われているようであるが千夏は曖昧に笑い首を振る、それ以上男性が何か言うことは無かったがそれがとても居心地が良かった、そういえばと思い出す、いつも夜勤で好んで使っている千夏のペンライトが古くなったので新しい物を持ってきたのだ、古いペンライトを出して明かりをつけると行灯よりも強くはっきりとした光が出てきた
「明かり」
「…あかり」
光やライト、電気など言いようはあったがどれも違う気がした、そういった後で気づく、こんな真夜中になにをやっているのだろうかと、相手は今の今まで寝ていたのだ、それが顔に出ていたのだろう、男性は微笑、恐らく微笑を浮かべ棚にあった紙に書いていた、そして男性は行灯を指さし
「そもふ」
「そもふ」
メモ帳に書く音が響いたあと無音になる、音もなく男性は火鉢の隣に座っていた、その姿がやけにはっきりと見えるなと、そう思った時陽の光があることに気づいた、空いている小窓から空を見ると冬の色が見える、帰らなければこの男性の睡眠時間を奪ってしまった
頭に温かさがのった
男性の方に向くと微笑では無いが千夏の頭に乗せられた手と同じような温かさのこもった瞳が千夏を捉え、手が離れる
「ありがとうございました」
礼を言って頭を下げると男性も頷いた、それを見たあと、人工的な光が千夏の目を刺激した、少しスッキリした頭で見直しを終わらせ家路を辿る、あの手の重みを噛み締めながら




