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第4章1 雲外

挿絵(By みてみん)

ひとつの物をさす言葉が多くあり

ひとつの言葉で多くの意味になるものもある

和製英語、日本語など色々ありますね

仙崎千夏はパニックに陥っていた、朝10時、患者の退院と患者の検査介助と検温と入院が重なっていた、情報収集の時から分かっていたので、退院はあとは書類を渡して忘れ物チェックするだけにして、検査介助は点滴が必要なので先に点滴を取っておいて薬液や車椅子なども準備、入院セットは部屋に置いておく、退院出しと検査が重なった場合に他の先輩にお願いもしていた、のだが、タイミングの神は微笑まない、その先輩は手術出しに呼ばれ、他の人たちも先生の介助などに駆り出され検査と退院が重なる、とりあえず退院のお迎えに書類を渡して2分経過、その後検査の患者を車椅子に乗せて、と思ったらトイレに行きたいということでトイレに座らせて、やっと検査に行くがその前に血圧を測らねば、血圧も問題なく検査も順調に終わって病棟に戻ったら10時46分、さて、午後からは別の検査のために別患者への点滴も取らなければならない、だがそれをしていたら午前の検温が終わらない、点滴を取るのは後回しにして昨日嘔吐していた患者の検温は終わったのでほかの検温を先にすべきだろう、千夏の部屋への入院だが別の人がアナムネーゼを取っているのでその人から必要なことは聞いておこう、一応朝のうちに外来記録は読んだが気になるのは右処置禁止くらいだろう


何とか検温が終わった時には11時23分、休憩まであと7分だが流石に午後処置がある患者の点滴は取らないと休憩から戻ったらもう検査に呼ばれたとかはザラにある、検温の時見た感じでは血管が見えにくいことは無いので何とかなるだろう、さて物品を持ってきて再度血管を見てみると、駆血帯で圧迫するとしっかり見えるが消毒すると血管がサッと消え一瞬後にまた浮かび上がる…幽霊血管だ、目星をつけて針を刺す、来た、逆血だ、そのまま点滴を繋げて落とす、大丈夫だ、ほっとして時計を見たら11時36分、千夏の病院は休憩はしっかりとるように、という上からの通達である程度しっかり休める体制なので遠くから「仙崎さーん、行けますかー?」という声が聞こえる


「はーい!行けます!」


千夏はものを片付け、休憩に行く、休憩中はナースステーションに居ると「休憩してください」と言われるので記録はできない、確実にこれは残業コースだ、トイレの鏡で千夏は自分の髪が崩れ、疲れた顔をしているのに気づき無理に笑顔を作る、患者には笑顔でなければ、トイレから出るとあの男性の土間に立っていた


男性は火鉢の掃除をしていたようで口元にハンカチのような布を巻いている、男性は振り返り千夏の姿を認めると口元の布を外し手で座るように合図した、千夏は少し頭を下げて土間から部屋への上がり口に座ると疲労がたたってか動けずにいた、祖父母の家のような安心感、帰りたくないと、思ってしまう


男性は何も言わず千夏に水を持ってくる、この冷たい水がどれだけ千夏を救っているか、男性はそのまま千夏の隣に座り沈黙が流れた、だが、不思議と嫌ではない、冷たい水のお陰で自分がやることが見えた、後は検査と入院の対応がメインだ、そしてこの男性が水を差し出して優しくしてくれたように自分も他を頼って良いのではないか、思考が晴れると忘れていたことを思い出す、スプーンだ、千夏はポケットから定期的に買い直していたスプーンを取り出して男性に見せた、が、ここで迷いが生じる、スプーンは英語のはずでこれの日本語は、「さじ」である、普段スプーンとして使う言葉だが男性にはどう伝えたら良いだろうか


「のぬ」


おもむろに男性がそう言う、恐らくこれの言葉だろう、2文字ならばこちらも「さじ」の方が分かりやすいだろう、千夏がこの世界で「さじ」「スプーン」という言葉を使うかどうかは置いておいて、だが


「さじ」


お互いに言葉を交換し千夏はメモをとる、男性は立ち上がりあの棚の紙に書き足した後また戻ってきた、筆を持って、次は筆と言うのだろうがこちらには筆以外にもものを書く道具はある、千夏が今持っているのはシャーペン機能付きボールペン、マッキーペンだがどちらも筆とは似ては無い、千夏は悩むがふと気づく、もし言葉が通じるようになって会話ができた時、相手が「筆」と言っても千夏がペンだと分かれば良いのだと


「ぢあ」


ぢあは筆のことらしい、次亜塩素酸などと間違わないようにしなければ、まず「じ」か「ぢ」かで迷ったが特段発音で困ることがないと思い「ぢ」にしてみる


「ふで」


男性ももう一度立ち上がり千夏の言葉を紙に書いて今度は何も持たずにもとの同じ場所に座る、再度沈黙が流れたが今回の沈黙は少し気まずい、理由は分からないが一度会話をした相手との声のつながりや共通の事が途絶えた時の、やり場のない空気感のような、だがそれとは違う逃げ出したくなる感じは無かった、一連の流れが落ち着くと千夏に寒さがやってきた、どうやらこの世界は冬らしい


男性は立ち上がり千夏の前に立つと手を出してきた、立てるかというジェスチャーなのだろう、一度頷いて男性の手を取る、暖かくカサついた手が心地よかった、そのまま部屋に導かれ火鉢に近い所に誘導されると温かさがじんわりと伝わってくる、例えるならばここでコタツにみかんならぬ火鉢にアイスをしたい感じ、もう一生このままでいいやと思う程である


しかし冷える背中が現実を忘れさせない、一度受け持った患者をそのままにして、ここで暮らすことは出来るだろうが千夏の良心がそうはさせなかった、ジンジンする足裏も落ち着き患者の為にもう一度歩こうと思えた時、隣で息を呑む微かな音が聞こえた


横をむくと男性がこちらを見ている、正確には千夏の顔周りであり目ではない、何かあったのかと周りを見るが何も無く、酷い顔をしているのを見られたのかと思ったがそういう訳でも無さそうだった、あれこれ考えているうちに身体が休まったのか午後も何とか頑張れそうな具合になった、男性に感謝を述べようと向き直るとトイレのドア


この4回ほどで千夏はある仮説にたどり着く、千夏が嫌だと、疲れたと思った時向こうの世界の扉が開かれ、千夏がこの世界の事を気にかけたりした時に戻るのでは、と、しかし今はその事について考えるのはやめよう、時間が溶けてしまう、今はやるべき事が山のようにあるのだからそちらに思考を移す


思ったよりは残業せずに家路を辿りながら考える、千夏の思いで行けたり帰ったり出来るのならばずっと向こうで暮らすこともできる、しかしそんな居候を許すほどの関係でもないのは分かっている、何よりまだ言葉が通じないのだ、それに急に居なくなったとなれば捜索願も出されるし親に心配もかける、特段親と仲が悪いわけでも、仲が良いわけでもないが自分の娘が突然姿だけ消したとなれば心配もするだろう、そこまで考えて千夏はハッとする、向こうの世界で生きるのを考えていた、ここの世界で生まれて生きているのに、弱い人間だなと心の中で呟き1人の家に入る

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