第2章1 積水
千夏はあの出来事を忘れたわけではなかったが、日々の忙しさで過ぎたのがたった数日の間であっても日常生活に支障はなかった、今日は術前の説明・処置・書類作成一人、手術後傷から感染が出た患者1人、装具が出来ておらずまだ歩けないが歩こうとする患者1人、足首の切断後だが傷の治りが悪い患者1人、肺炎1人等など、と中々にハードスケジュールな予定を朝の情報収集の時に脳内で立てていた
オムツ交換後感染の人に入ってバイタル取って、環境整備・目薬して、包交の時に切断後の人のに入って、包交は最後に感染に行くから感染も入って、他のバイタル取って、歩こうとする人の所である程度バイタル入力して肺炎の人のネブライザーは今から準備しておくか…と色々算段をつけ鬱々とした気持ちで物品を準備し、感染の部屋に入った、ドアを閉めて患者に向き直った時、目に入ったのは別世界のあの男性が小屋の中で座っている光景だった、すぐに後ろを振り向くが先程の扉は無い、自分は今あの土間に立っている、再度あの男性を見ると男性もこちらを見ていた、手にはあの剣のようなものが鞘から抜かれ手入れ道具のようなものも周りにはある、が千夏には刃を見ても不思議と攻撃されるなどという不安はなかった、以前に顔を合わせたからかもしれない
「また、来てしまいました」
だが男性から返答はなく代わりに棚から元々持っていなかったと思っていた封筒を持ちだしていた、おずおずと受け取った後、どうしたものかと考えていたら男性は剣を鞘に戻して以前と同じように座るように手で促していた、頭を下げて座ると前回は火のついていなかった燭台と行灯が一つずつ付いていた、ここは夜か夕方らしい、仕事のことを考えるとこの暮らしはとても魅力的に見える、男性はコップに入った水を千夏に差し出した
「るに」
男性は何か、単語のようなものを発しコップの中の水を見たあと、千夏へ目線を向ける
「るに?コップのことですか?水のことですか?」
恐らくどちらかだろうと、男性は言葉を探っているのではないか、相手の言語、こちらの言語を知る為の方法ではないかと考える、千夏はコップの中の水を指さし
「るに…?」
と、言ってみる、男性は頷くのみであったが意味が通じたのだろう、これはメモが必要だ、ちょうど古いメモ帳があと数ページで終わる頃であり、新しいメモ帳を持ってきていた、前回来た時のメモは残っていたが意識があやふやだったとして脳内で処理していたのだが、これが夢でも幻覚でもないことを知った、千夏は新しいメモ帳を取り出して「水=るに」と書いた、代わりに千夏もこちらの水の言い方も言うべきか迷った、しかしこちらだけに負担を強いられるのもどうかと思い教えることにした
「みず」
千夏もコップの中の水を指さし、同じように言う
「み、ず」
男性がそう言い軽く頷く、目線はこちらではなく少し遠くを見ている、もうこの水は飲んで良いだろうか、とコップをかかげると同じように軽く頷いたため千夏は水を飲んだ
この水は冷たくて美味しい、千夏は元々水道水派でありペットボトルの天然水などはあまり得意ではなかったが今まで飲んだどの水よりも口当たりが柔らかく冷たいためとても美味しく感じた、昔井戸水は冷たくて天然水だから美味しいとかどっかで聞いたことがあるがそうなのかもしれない、千夏がそう感動している間に男性は千夏に背を向け、机から半紙のような、和紙のような紙を取りだし何かの文字を書いていた、恐らく先程の「みず」なのだろう、互いを知る1歩であったが、これからを考えると憂鬱であった、この世に単語は無数にある、文章や接続詞、名詞などを考えると計り知れない、軽いため息をついた時、千夏は感染の部屋の中に戻っていた
さすがに今ポケットの中を見るのは不潔か、と思いやるべき事を思い出し、やり終えて部屋を出て手洗いなどを済ませてメモ帳を見てみると、新しいメモ帳には「水=るに」と書かれていた、その文字を見て何を考える間もなく「仙崎さーん!」と先輩に呼ばれ業務へ戻る
昼休み、そのメモ帳をまた見返して千夏は考えた、何かトリガーがあって行くのかもしれない、ただこの忙しさの中で非日常も良いかもしれないなと、相手の言語を覚える憂鬱さよりもその楽しみが出てきた、家に帰る前に店に寄って分厚めのメモ帳を買い家でその分厚めのメモ帳に「水=るに」と書き直す、次はいつ会えるかは分からないしもう会えないかもしれないが、ちょっとした楽しみを心の中に残すのも良いじゃないかと思いメモ帳をカバンに入れた




