第6章1 勤倹
千夏はあの男性の邪魔にならない頻度で向こうに行けることができればと考えていた、この世界と向こうの世界の時間の流れが違うことは分かっているがここでは同じような時間帯でも向こうの世界に行くと違う時間帯になることがある、だが間隔が短すぎるということではなく時間の流れは似てはいるが完全に一致しているという訳でもないらしい、そうやっていく中で千夏自身の生きていく意味ややりたい事が見つかれば良いと思う
落ち着いた日々が続いていたが1週間前から怒涛の日々が帰ってきた、手術翌日の患者は酸素化が悪く酸素が取れず、その向かい側の患者は夕方から夜間せん妄で昨日転倒しており、2週間前に手術が終わったが全身状態が悪く鼻から栄養チューブを昨日入れたばかりの心電図モニター付きの利尿剤点滴しなければならない患者の対応をしているが他の先輩も入院や検査などで忙しくダブルチェックの相手を見つけるだけでも一仕事になってしまう
「看護師さん、私そろそろ帰ります」
そう言って帰ろうとする患者の対応する時には12時になろうとしていた、千夏にはこの時間に栄養剤の投与と薬剤の懸濁と食事介助が急務であった
「あら、帰られますか?ちょうどお昼ご飯を頼んでしまいましたので、食べていかれませんか?」
「それは、あなた方が食べていただけませんか?」
「私には別に用意していただいてまして、食べなければ破棄になるんです」
「でもねぇ、娘がそこに来ていた気がするから、帰らないと」
面会は昼13時からなので今はいないはずだ
「娘さんもお昼ご飯を食べているのかもしれませんね」
「なら、食べたあとで行きましょ」
「私も探してきますね」
「あら、ありがとう、助かるわぁ」
よくこのような手を千夏は使うが成功確率は半々である、他の先輩は「無理です」「ご飯が先です」と言う気持ちもわかるし千夏もそう言う時もあるが出来るだけ患者には穏やかに接したいと思っている、誰も嫌な気持ちにさせようなどとは思わないが人は余裕が無くなると本来の性格が出てしまうものである
やはり今日も残業になったが明日が休みなので少しだけ気は軽い、とはいえ記録だけなので残業は付けられないので気が重いのには変わりはないのだが、患者や家族、当直医らには同じ制服を着た看護師としてしか映らないので残業中でも仕事は振られたり話しかけられたりする
「あのー、甘木の家族ですけど、手術が終わったらしいんですけど部屋に入っていいですか?」
先程電話で手術迎えの連絡があったので今ちょうど患者が部屋へ帰ってきているところなのだろう
「部屋へ帰ったあとで着替えや熱を測ったりします、その間に先生からの説明があるのであちらの椅子でお待ちいただいてもよろしいですか?またお呼びしますね」
「分かりました」
夜勤3人が手術迎えに行っており今は助手さんとロング日勤さんしか居ない、そのロング日勤さんは患者の夕食の食事介助に行っており助手さんは患者のトイレ介助に行っている、つまり千夏が対応しなければならない、残業していると記録を自分のペースで出来るがこのような事があるので気は抜けない
記録や経過表、処置のコスト取りの見直しを終えてバックを持ち千夏のロッカーへ向かう、そういえばあの男性は余裕が無くなった時はどのように対応をするのだろうか、人生の先輩として対処法を知りたいと思う、千夏は人付き合いが苦手だ、誰が誰と仲が良く、悪くという裏の付き合いを読むのが苦手で職場でもあまり自分の話はしないので仲の良い同僚はいない、だからこそ、人としての部分は未熟だと自覚しておりそれを知るには両親や友人は距離が近すぎて聞けないところがある
更衣室の扉を開けるとあの世界の土間である、土間の確率が高いのかもしれない、ふと後ろから音がして振り向くと男性が外から土間に入ってきており会釈をした、そのまま何かに包まれたいくつかに分けられた重そうな物をキッチンであろう場所の井戸みたいな掘られている場所に置こうとしているらしい、少し息が上がっているように思える
「手伝いましょうか?」
千夏は返事も聞かずにバックを土間の上がり口に置いて男性の腕から2つほど荷物を持った、確かにずっと持っているには重たく感じる重量でありこれで屈むには腰を悪くしやすい
「…そぶもえし」
恐らく感謝の言葉なのだろう、何度も患者を持ち上げている千夏にはある程度の重さならば耐えられる、持っている分を掘られているところに入れ終わったあと男性は再度外に出ていた、寒い外についていくと荷車がすぐ目の前にあり薪や食料と思わしき包まれているものが載っていた、食料(仮)はある程度先程の分で入れ終わったのか千夏が来る前に入れていたのか量は少ないが薪が多い、男性は薪を1束持ち小屋に入ろうとして千夏を振り返る、着いてこいというのだろう、薪は土間からの上がり口の下に収納されているようであった、恐らくこの男性は千夏に場所を教えるために一束だけ持ってきたのだろう、千夏は今日はあまり歩いていないので足は昨日ほど疲れてはいなかった、とはいえ9000歩は歩いているが
千夏は薪を2束両手に持って上がり口の下に降ろし、男性は食料(仮)を入れ終わったら千夏と同じように4束薪を荷車から降ろしている、このような生活を毎年毎年やっているこの男性を千夏は改めて尊敬した、よく聞くファンタジー世界などではやれ魔法だの戦闘だの恋愛だのでこのような生活の話が無いから行ってみたいなどと言えるのだろう、だが実際はそうはいかない、最初は警戒されていたとはいえこんななんにも分からない自分を受け入れてくれたのだからこれくらいはさせて欲しい、全て終わったあとは千夏も息が上がっていた、外は寒いというのに体は暖かくなっている
「おにもぃお」
そう言って頭を下げる男性、礼を言われるのは慣れているが頭を下げられるのは慣れていない
「いえ」
男性は居間に上がって火鉢をおこす、ふとバックを持ってきていたことを思い出す、中には何か入っていただろうか、千夏も居間にそろりと上がりながらバックの中を見てみるとポーチの中に折りたたみのとても小さい鏡があることに気がついた、割りそうという理由であまり使わないのだが、鏡であればこの世界にもあるだろう、男性の起こした火鉢で体を冷やさないようにしながら鏡を出して男性に見せる
「鏡」
「かがみ」
鏡を見てみると少しくたびれた自分が映る、だが先程ナースステーションで手を洗った時に映った時の自分に比べたらとても生き生きしているようにも見える
ふと鏡を男性が覗き込み目が合い、男性の距離の近さに驚いて半身仰け反ってしまう、千夏にとってこの男性はどストライクなイケおじである事は前々から分かっていたが今まではそう意識することは無かった、落ち着いて気の抜けた今だからこそ、その意識が出てきたのだろう、男性の目は少し驚いたように開かれた
「おすぬんしぢも?」
前回と同じような言葉、心配するような声色である
「はい」
恐らく顔は少し赤いだろうがそう言って首を縦に振る、努めて何も無いように振る舞うために千夏はポケットから分厚いメモ帳を出した
「……もも゛る」
「も、も゛、る」
もに濁点が付くのは発音が難しい、イントネーションは濁点のもが低くなるらしいが合っているかは不明だがメモはしておくべきだろう
まだ心臓がドキドキしていたが男性が言葉を書き留めに行っているうちに以前より落ち着きは出てきて鏡を仕舞う、バックの中にはスマホがあるが今はそれを出すべきではない、恐らく圏外であろうしこの世界にそのようなもの持ち込むべきではないと脳が告げている
居間から廊下を挟んで庭、というより外に近いがその庭に動く何かが見えた気がした、よく目をこらすと白いキツネがぴょんと飛んでは雪に穴を開けている、可愛らしいがこちらの世界にはエキノコックスがキツネにはあるしあまりこの世界に千夏が触れて良いのかという気分にもなるので遠くから眺めるだけ、まぁこの男性と関わっている時点で細菌などの心配は意味がないことになるのだが
「むいか」
「むいか?」
おもむろに男性がそう言う、男性の目線はそのキツネに向けられていたがゆっくりと千夏へ戻る、キツネと言ったのだろう
「キツネ」
「きつね」
少し雰囲気が和らいだ気がして笑顔になる、そこで千夏には余裕が無かったのだと思い知らされる、しかし多忙ゆえの余裕のなさではなく、この男性に対して、誤魔化しようのない恋慕故の余裕の無さだったと自覚する
少しだけこの時間を堪能してから戻っても良いだろうかと欲が出てくる、キツネを見ているふりをしてようやく自覚した恋慕を大切にするために
寒さで体が震えると男性は居間を閉め切ってしまった、火鉢の温かさを逃がさないためであろうその優しさが嬉しく思えてならない、言葉はまだ通じないがなにか通じるものはある、それが楽しいのもある
ひとしきり男性の隣で暖をとったあと男性の時間をこれ以上奪わないためにバックを持って男性に向き直り頭を下げる
男性も頭を下げ男性の目を見たあと、更衣室へと戻る、この気持ちの整理には時間が必要そうだ




