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太平洋の夢「樺太の種」 第七章 説得

第七章 説得

ジュネーブ 一九三三年二月二十四日〜二十七日



二月二十四日、午後三時。

黒瀬誠一郎は国際連盟本部、パレ・デ・ナシオンの大会議室の傍聴席にいた。


傍聴席は二階だった。

手すり越しに、議場全体が見えた。

天井が高く、採光窓から白い冬の光が落ちていた。

温度を持たない光だった。


各国の代表席が弧を描いて並んでいた。

黒瀬はその席の数を、目で数えた。

一度数えて、また数えた。


手帳を膝に置いていた。

ペンを持っていたが、まだ何も書いていなかった。

採決が始まった。


各国代表が次々と賛否を示した。


賛成。

賛成。

賛成。


それが続いた。


黒瀬は手帳に正の字を書いていた。

書きながら、自分の手が機械的に動いていることに気づいた。

結果はすでに分かっていた。

分かっていても、数えずにはいられなかった。


議長が日本代表を指名した。


松岡洋右が立ち上がった。

小柄な体が、会議室の静寂の中で奇妙な存在感を放っていた。


「反対」と松岡は言った。


英語で、フランス語で、それから日本語で。

三つの言語で、同じ言葉を言った。


採決が終わった。


賛成四十二票。

反対一票。

棄権一票。


松岡は立ち上がった。

書類をまとめた。

それから会議室に向かって深く礼をした。

礼の角度が、妙に正確だった。


しかしその背中が、傍聴席から見えた瞬間——黒瀬には分かった。

練習した礼ではなかった。

これが最後になるかもしれない、という覚悟の礼だった。


松岡が退場した。


会議室がざわめいた。

各国代表が隣の代表と話し始めた。

複数の言語が混ざり合って、言語ではない何かになった。


黒瀬は手帳を閉じた。

正の字が八つと、半端が二つあった。


四十二対一。


その夜、黒瀬はミリアムに短い手紙を書いた。


「始まった。明日、松岡に会います」



翌朝、黒瀬は松岡の宿舎を訪ねた。


扉を開けたのは随員だった。

表情がなかった。


「局長は——」と随員は言いかけて、止まった。


廊下の奥から、松岡の声がした。


「黒瀬か。入れ」


執務室に入ると、松岡は窓際に立っていた。

振り返らなかった。


「座れ」と松岡は言った。


黒瀬は座った。

松岡がようやく振り返ったとき、一瞬だけ黒瀬を見る目が止まった。

止まった、というより、何かを確認した。


黒瀬の目の充血。

左手の、ほとんど分からない程度の震え。

松岡はそれを見た。

しかし何も言わなかった。

机の前に来て、椅子に座った。

煙草に火をつけた。


「昨日の採決を見たか」と松岡は言った。


「傍聴席にいました」


松岡は煙草を一口吸った。

しばらく黙っていた。


「四十二対一だ」と松岡はやがて言った。


「私が退場したとき、廊下で拍手が聞こえた。誰かが拍手していた。同情か、皮肉か、分からなかった。どちらにしても、日本は孤立した」


「政府はすでに動いています」と黒瀬は言った。


「採決の四日前、二月二十日の閣議で決まっています。勧告が採択された場合は脱退する、と。昨日それが現実になった。三月二十七日の総会をもって、連盟から正式に脱退を通告する——それが既定路線です」


「知っている」と松岡は言った。


「それが現実だ。陸軍は脱退を既定路線として動いている。国内世論も脱退を支持している。私が連盟でどれだけ戦っても、四十二対一という数字が出た以上、もう後戻りはできない——そう見ている人間が、外務省の中にも増えている」


「しかし」と黒瀬は言った。


松岡が黒瀬を見た。


「別の選択肢があります。三点、提案があります」


松岡の目が黒瀬を見た。

昨日まで連盟の場で戦ってきた男の目だった。

疲れていた。しかしその疲れの奥に、まだ何かが燃えていた。


「言え」


「第一点。ハワイの日米共同統治の提案です」


松岡の目が動いた。

動いただけで、何も言わなかった。


「一八八一年、カラカウア王が明治天皇と結んだ日布親善協定があります。連邦でも正式同盟でもない。移民の往来、漁業の協定、教育の交流——それだけです。しかし五十年間、それが続いた」


「知っている」と松岡は言った。


「閣下はご存知でしょうが、あの協定には別の効果がありました。一八九三年、ハワイでアメリカ人農園主のクーデターが起きました。リリウオカラニ女王を廃位しようとした。」


「しかし日本は女王支持を表明した。日本人移民十数万人の存在が、アメリカの完全な併合を阻んだ。」


「その結果、ハワイはまだ宙ぶらりんの状態にあります。アメリカは準州化を進めようとしている。真珠湾の軍港建設も計画の段階にある。しかしまだ完成していない。今がその隙間です」


「隙間に何を入れる」


「日米共同統治の提案です。ハワイを日米どちらかの領土ではなく、両国が共同で管理する太平洋の安定点として位置づける。」


「アメリカにとっても、これは悪い話ではありません。七年前の一九二六年、ホノルル近郊のサトウキビ農園で事件が起きました。日本人移民とハワイ先住民が連携して、アメリカ人農場主の土地管理権を実力で阻止した。三週間にわたる対立の末、アメリカ人側が折れた。ワシントンは衝撃を受けました。十数万人の日本人移民が、ハワイ先住民と手を結んだとき、アメリカは手が出せない。その現実をワシントンは知っています。」


「日米共同統治は、アメリカにとってその問題に法的な決着をつける機会でもある。そして何より——真珠湾を単独の軍港にできない現状を、正式な枠組みで解決できる」


松岡はしばらく沈黙した。


「一八八一年か」と松岡は言った。


独り言のような声だった。


「伊藤が種を蒔いた」


「そうです。私たちは収穫しようとしているだけです」


松岡が黒瀬を見た。

何かが変わった目だった。

反論を探していた目が、別のものを探し始めた目に変わった。


「続けろ」


「第二点。樺太のユダヤ民族への移譲です」


執務室が静かになった。

煙草の煙だけが動いていた。


「もう一度言え」と松岡は言った。


声のトーンが変わっていなかった。

それが黒瀬には意外だった。

怒鳴ると思っていた。


「樺太全島を、将来的にユダヤ民族の自治領として移譲することを、国際連盟の場で提案します」


「馬鹿を言うな」と松岡は言った。

しかし声は静かだった。


「樺太には日本人が三十万人いる。豊原に製紙工場がある。鉄道が走っている。漁業基地がある。それをユダヤ人に渡すと言うのか」


「渡すのではありません。活用してもらうのです。」


「三十万人の日本人移民はそのまま残る。インフラもそのまま使う。ユダヤ人が加わることで、むしろ人口と資本と技術が増える。」


「世界シオニスト機構の背後にあるユダヤ系の資本と知識——化学・金融・医療・メディア——が日本経済圏に流入します。これだけのインフラが整った土地を、一から作るのは大変な労力と資金がかかる。ユダヤ人にとって、これ以上の条件はない」


松岡は煙草を灰皿に押しつけた。

新しい一本に火をつけた。


「ソ連はどうする。北樺太はソ連の管理下にある」


「だからこそです」と黒瀬は言った。


「閣下、樺太はいずれソ連との火種になります。しかしその島に第三者——ユダヤ人の自治国——が存在すれば、日ソの直接対立を避ける緩衝地帯になります。ソ連が北樺太の移譲を飲もうが飲むまいが、樺太全体が緩衝地帯として機能する。日本にとって、これは損ではありません」


松岡は立ち上がった。

執務室の中を、狭い歩幅で歩き始めた。

考えるとき松岡は歩く。


「ユダヤ人がなぜ樺太を選ぶ。彼らはエルサレムを目指しているはずだ」


「シオニスト運動の中でも、パレスチナ以外を主張する勢力があります。一九〇三年、ザングウィルがアフリカ東部を候補に挙げた。しかしアフリカの土地には何もなかった。樺太は違います。」


「そしてドイツの状況が変わりました」


「ヒトラーか」と松岡は歩きながら言った。


「一月三十日に政権を取りました。ナチスは選挙のたびに議席を増やしてきた。一九二八年に十二議席だったものが、昨年七月には二百三十議席になった。世界恐慌で職を失ったドイツの中産階級が、ナチスに流れた。そしてヒトラーは演説のたびに繰り返してきた——ドイツの不幸の原因はユダヤ人だ、と。政権を取った今、その言葉が政策になろうとしています。まだ組織的な迫害は始まっていない。」


「しかしドイツのユダヤ人はもう感じています。空気が変わったと」


松岡が立ち止まった。

「それが樺太とどう繋がる」


「逃げ場が必要です。今すぐ。」


「パレスチナはアラブ人との対立が激化していて、イギリスが移住を制限しようとしている。アメリカはユダヤ人移民にも制限をかけている。行き場のない人々に、整ったインフラを持つ土地を提供する——それが日本にできることです。」


「そしてドイツがユダヤ人を追い出そうとしているとき、日本がユダヤ人の国家建設を支援する。その対比が、日本の立場を世界に示します」



「日本はドイツの側ではなく、国際秩序の側にいる、ということか」

と松岡は言った。


「そうです」


松岡はしばらく黒瀬を見た。

「第三点は」


「南洋委任統治の国際監視受け入れです。」


「第一次大戦後、旧ドイツ領のミクロネシア諸島——マーシャル、カロリン、マリアナ——を国際連盟の委任統治領として日本が管理しています。連盟はその実態を懸念しています。」


「ここに監視機構を受け入れることで、日本が国際秩序の枠内にとどまる意志を持つことを示します。透明性が、今の日本には最も欠けているものです」


三点を言い終えた。

松岡はまた窓際に行った。


二月のジュネーブの空が白かった。


「昨日、四十二対一という結果が出た」

と松岡はやがて言った。


「私は退場した。日本は孤立した。それが現実だ。その現実の中で、お前はまだ別の道があると言う」


「あります」と黒瀬は言った。


「三点すべてが通るとは思っていません。しかし三点を提案するという行為が、日本の孤立をこの先に延ばすことができます。時間を買えます。その時間で、別の手が打てます」


「三月二十七日の総会まで、一ヶ月ある」と松岡は言った。


「はい。その間にヴァイツマンに会います。提案の文言を固めます」


松岡がわずかに笑った。

声のない笑いだった。

肩が一度だけ揺れた。


「お前は本当に外務省向きの人間ではないな」


「よく言われます」


「進め」と松岡は言った。


「ただし——これは私が命じたことではない。お前が独自に動いた。うまくいけば私の手柄になる。失敗すれば、お前が暴走した書記官になる。それで構わないか」


「最初からそのつもりでした」と黒瀬は言った。


松岡はまた窓の外を見た。


「陸軍が動く。閣議決定という壁もある。田中も黙っていない。それは分かっているな」


「分かっています」


「急げ」と松岡は言った。


「時間は一ヶ月しかない」


黒瀬は部屋を出た。

廊下を歩いた。


外に出ると、二月のジュネーブの空気が肌に触れた。

冷たかった。


レマン湖が見えた。灰色だった。いつも灰色だった。

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