太平洋の夢「樺太の種」 第八章 脱退か、提案か
第八章 ジュネーブの冬
ジュネーブ・旧市街 一九三三年二月二十五日〜三月二十日
二月のジュネーブは雪だった。
レマン湖の岸に薄く氷が張っていた。
朝、旧市街の石畳を歩くと、霜で足元が滑った。
宿舎の暖炉は一日中焚いていても、窓際は冷たかった。
黒瀬は窓の結露を手で拭いてから、湖の方を見た。
湖面が灰色だった。いつも灰色だった。
ミリアムのアパルトマンは旧市街の外れにあった。
石造りの古い建物の三階。
階段が急で、踏み板が鳴った。
扉を開けると、テーブルの上に地図が広げてあった。
樺太の地図だった。
手書きの書き込みがあった。
ミリアムの文字だった。
キリル文字と、ところどころヘブライ文字が混じっていた。
人口分布、農地として使える土地の範囲、港の位置、既存の集落、鉄道の路線。
書き込みの密度が、三年分の仕事の重さを示していた。
「いつ作ったのですか」と黒瀬は聞いた。
「少しずつ。この三年で」とミリアムは言った。
四年ぶりの再会だった。
しかし二人の間には、再会の儀礼が存在しなかった。
東京で別れたときと同じ場所から、話が始まった。
その日から、二人の作業が始まった。
午前中は地図と向き合った。
樺太の地理、気候、農業適地、港湾の規模、既存の日本人集落との位置関係。
ミリアムは数字に強かった。
黒瀬は樺太の実情に強かった。
二人の得意が補い合った。
午後は文言を練った。
フランス語で書き、英語に直し、日本語で検証した。
どの言語でも崩れない論理を探した。
崩れる部分が見つかれば、また最初から書き直した。
夜は議論した。
ヴァイツマンをどう説得するか。
各国代表の反応をどう読むか。
陸軍の圧力にどう対処するか。
ミリアムはガロワーズを吸いながら、地図を指で押さえながら、話した。
黒瀬はモルヒネを使いながら、ノートに書きながら、聞いた。
その繰り返しが、十日続いた。
三月に入っても、雪は残っていた。
旧市街の屋根に白い帽子が乗っていた。
朝、ミリアムが窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。
アルプスの方向から来る風だった。
三月六日の夜、黒瀬はミリアムに言った。
「薬を抜きます」
ミリアムは少し間を置いた。
「今ですか」
「今です。ここで作ったものを、素面で確認したい。発表の場に薬物を持ち込みたくない」
ミリアムは何も言わなかった。
頷きもしなかった。
ただ、ガロワーズを一本取り出した。
それが答えだった。
一日目の夜は眠れなかった。
発汗があった。
体の節々が痛かった。
黒瀬は毛布を引き寄せたが、寒かった。
部屋の暖炉は焚いていたのに、体の芯が冷えていた。
二日目、頭の中で言語が走り始めた。
走るというより、暴走した。
英語が叫び、ロシア語が怒鳴り、フランス語が泣いた。
日本語はどこかに消えていた。
母語が消えるとき、人間は何かを失う。
黒瀬はその喪失を、暖炉の火を見ながら感じた。
ミリアムはずっとそこにいた。
何もしなかった。
ただいた。
三日目の明け方、黒瀬は聞いた。
「あなたはなぜ素面でいられるのですか」
ミリアムはしばらく黙っていた。
窓の外でジュネーブの夜が明けつつあった。
湖の方から光が来た。
「記憶を消したくないからです」とミリアムはやがて言った。
「消えてしまったものが多すぎる。これ以上消したくない」
部屋が静かになった。
暖炉の薪が爆ぜた。
黒瀬は記憶を切断するために薬物を使ってきた。
ミリアムは記憶を維持するために素面でいた。
同じ痛みを持ちながら、正反対の方向に向かってきた二人だった。
四日目、言語の暴走が止まった。
疲れ果てて、静止した。
薬物によってではなく、燃え尽きることによって。
その静止の中で——阿片のときと同じ、モルヒネのときと同じ、しかし今回は体の奥底から来た——何かが浮かんだ。
アイヌのことを、黒瀬は考えていた。
樺太の提案を連盟の場で発表するとき、アイヌの問題を避けて通ることはできない。
ユダヤ人が移住する土地に、すでにアイヌがいる。
ニヴフがいる。ウィルタがいる。
彼らを無視して進めれば、それはパレスチナで起きていることと同じ構造になる。
移住が既成事実になり、力が既成事実を守る。
黒瀬はその繰り返しを樺太でやりたくなかった。
北海道のアイヌ自治区。
樺太の先住民族の権利保護。
三点ではなく、四点にする。
「ミリアム」と黒瀬は言った。
ミリアムが顔を上げた。
「四点目を加えます」黒瀬は言った。
「アイヌの自治区です。北海道に。樺太の先住民族の権利保護とセットで」
ミリアムはしばらく黒瀬を見た。
「それが必要です」と彼女は言った。
「それなしでは、私たちがパレスチナと同じことをしていることになる」
「そうです」
ミリアムは頷いた。
一度だけ。それで決まった。
四点目の文言が最も難しかった。
日本語では明確に書けた。
しかしフランス語に直すと、どうしても「植民地政策の反省」という文脈に引っ張られた。
それは黒瀬の意図ではなかった。
共生の宣言として書く。
樺太の先住民族とユダヤ人が共に自治する——その具体的な枠組みの提案として書く。
日本が何かを認めるのではなく、日本が何かを提案する。
その違いが、フランス語の語順に現れる。
翌朝、黒瀬は早く起きた。
ミリアムはまだ眠っていた。
テーブルに座り、四点目の文言を書き直した。
下書きを、もう一度フランス語で整えた。
ミリアムが起きてきた。
黒瀬の書いたフランス語の文書を見た。
声に出して読んだ。ペンを取った。
一か所だけ直した。
フランス語の語順の問題だった。
意味は変わらないが、音が変わった。
修正後の方が、会談の場で読んだときに響く音になっていた。
「ありがとう」
「私のフランス語はあなたより上手です」
「知っています」
窓の外でジュネーブの朝が始まっていた。
三月の光が石畳に差していた。
屋根の雪が少し解けていた。
湖の色が、夜の黒から灰色へ、それから薄い銀色へと変わった。
三月十六日の夕方、松岡の随員が旧市街のアパルトマンを訪ねてきた。
「局長がお呼びです」と随員は言った。
それだけだった。
松岡の宿舎は連盟本部に近いホテルだった。
黒瀬が部屋に入ると、松岡は窓際に立っていた。
外を見ていた。
振り返らなかった。
「陸軍から最終通告が来た」と松岡は言った。
「二十七日の総会をもって脱退を宣言する旨、閣議に提案する。私に同意を求めている。今夜中に返答しろとのことだ」
黒瀬は黙っていた。
「お前の進み具合はどうだ」と松岡は言った。
「三点の提案の文言が固まりました。四日後にヴァイツマンと会います」
松岡がようやく振り返った。
黒瀬を見た。
「四日後か」
「はい」
「ヴァイツマンが黙認すれば、次は二十七日の総会で私が発表する。
閣議決定に反して、陸軍の反対を押し切って、私が発表する。
それがお前の言う「別の選択肢」か」
「そうです」
松岡はしばらく黒瀬を見た。
「なぜ私がそこまでやると思う」
「二月二十四日、閣下が退場される背中を傍聴席から見ていました。」
「あれは脱退を喜んでいる人間の背中ではありませんでした」
と黒瀬は言った。
松岡は何も言わなかった。
窓の外に目を戻した。
レマン湖が夕暮れの中で光っていた。
「陸軍に返答する前に、お前に聞きたかった」
と松岡はやがて言った。
「ヴァイツマンは動くか」
「動かすつもりです。黙認だけでいい。公式の支持は要りません」
「四日で結果を出せるか」
「出します」
松岡は深く息を吐いた。
「分かった」と彼は言った。
「今夜の陸軍への返答は保留する。ヴァイツマンとの会談の結果を待つ。ただし——二十日の夜に報告に来い。それが私の最後の判断の場になる」
「はい」
「急げ」と松岡は言った。
「時間はない」
黒瀬は部屋を出た。
ホテルの廊下を歩いた。
外に出ると、三月のジュネーブの夜気が肌に触れた。
冷たかった。
屋根の雪がまだ残っていた。
レマン湖が見えた。夕暮れの中で、湖面が鈍く光っていた。




