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太平洋の夢「樺太の種」 第四章 来訪者

第四章 来訪者

東京 一九三一年四月



東京は匂いが薄い。


これが黒瀬の正直な感想だった。

上海から帰るたびに思う。

街の匂いが、人間の密度に比べて薄すぎる。

整理されすぎている。


丸の内の外務省から神田まで歩いた。

四月で、桜が散り始めていた。

桜の花びらが石畳に張り付いていた。

確かに美しかった。

黒瀬は美しいと思った。


しかし美しいと思いながら、どこか居心地が悪かった。


この美しさには文脈がない、と感じた。

桜は毎年咲いて、毎年同じように散って、それを見る人間も毎年同じように美しいと言う。


その反復の中に、黒瀬が上海の南京路や、ジュネーブのパレ・ウィルソンの廊下で感じた「何かが起きつつある」感覚が、ない。


神田の古本屋街に入った。


ここは東京で黒瀬が唯一落ち着ける場所だった。

英語の洋書が並び、その隣に漢籍があり、その隣にロシア語の革命前の本があった。


本の言語が混在している場所は、人間の思考の混在を許容する。

黒瀬は一時間かけて棚を見て、ロシア語のトルストイと英語のキプリングと、それから理由は分からないがヘブライ語の薄い詩集を買った。


ヘブライ語は読めなかった。

しかし買った。


銀座の通りは整然としていた。

震災で焼け落ちた煉瓦街の跡に、新しい建物が並んでいた。

整然としすぎていた。


隣のサラリーマン風の男が満洲の話をしていた。

関東軍が大陸を押さえれば日本の未来は明るい、と言っていた。男の目が輝いていた。


黒瀬はスコッチを飲み干した。

輝いている目を見ると、黒瀬はいつも不安になった。


宿舎に帰ったのは夜の十一時過ぎだった。

麹町の外務省官舎は古い木造の建物で、廊下を歩くと床が鳴った。

自分の部屋の前まで来て、黒瀬は立ち止まった。


扉の前に人が座っていた。


壁に背をもたせて、膝の上に本を開いて、読んでいた。

読んでいるというより、本を口実に待っている、という姿勢だった。

コートは黒で、髪は後ろで束ねていた。


顔を上げる前に黒瀬には分かった。

その束ね方を知っていたから。

雑で、しかし計算されている。


「鍵を持っていないので」

とミリアムはロシア語で言った。


「外で待っていました」


黒瀬は三秒間、立ったまま彼女を見た。


「どうやってここが分かったのですか」


「外務省に電話しました。親切な方が教えてくれました」


「それは問題のある親切ですね」


「日本人は外国人に親切です」とミリアムは言った。


「少なくとも今はまだ」


その「今はまだ」という留保が、黒瀬の背筋を冷やした。

ミリアムの言葉には時々そういう棘がある。

棘というより、正確な観察。

世界が変わりつつあることへの、冷静な認識。


黒瀬は鍵を開けた。

「入ってください」


部屋は狭かった。

机と椅子とベッドと、小さな本棚。本棚にはロシア語と英語とフランス語の本が混在していた。


机の上に公電の束と、神田で買った数冊の古本を置いた。


ミリアムはヘブライ語の詩集を手に取った。


「読めますか」


「読めません」


「なぜ買ったのですか」


「分かりません」と黒瀬は正直に言った。


ミリアムは詩集を開いた。

声に出して読んだ。


ヘブライ語の音が部屋に満ちた。


黒瀬にはその意味が分からなかった。

しかし音の構造は分かった。

長い母音と、喉の奥から出る子音。


砂漠の言語だ、と黒瀬は思った。

水が少ない場所で生まれた言語は、音が乾いている。


ミリアムが読み終えた。


「ビアリクです。ハイム・ナフマン・ビアリク。ユダヤの国民詩人と言われています。この詩はキシニョフのポグロムについて書かれたものです。一九〇三年」


「オデッサのポグロムの二年前」


「よく知っていますね」


「ジュネーブで勉強しました。あなたに会った後」


部屋が静かになった。

官舎の廊下で誰かが咳をした。

木の床が鳴った。


「東京には何をしに来たのですか」と黒瀬は言った。


湯を沸かしながら。

手を動かしていないと、この女の前では何かが崩れる気がした。


「あなたに会いに来ました。それだけではありません。ヴァイツマンと話し合いになりました。私の考えは彼の方針と相容れない。私は今、どの組織にも属していません」


黒瀬は茶を二つ淹れた。


「それで」


「それで」とミリアムは繰り返した。


「私は一人です」


一人です、という言葉が部屋に残った。


ミリアムが弱音を吐く人間でないことは、ジュネーブの一夜で分かっていた。

組織を失い、資金を失い、しかし思想は失っていない。その状態を彼女は正確に言語化した。


「樺太の話。この三年で調べました。日本の施政下にある。人口が少ない。気候は厳しいが農業は可能。問題は山積みです。しかし不可能ではない」


「それを私に言いに来たのですか」


「あなたが言い出したことです」


ミリアムの目が黒瀬を真っすぐに見た。


「今も本気ですか」


「今はまだ分からない。しかし動く理由は増えています。満洲の情勢が悪くなっています。関東軍の若い連中が何かを計画している。それが動いたとき、日本は国際的な孤立の方向に引っ張られる可能性がある。そうなる前に——」


「そうなる前に、日本が国際社会に何かを提示する必要がある」


「そうです。それが樺太案です」


「ジュネーブに戻ってください」と黒瀬は言った。


「連盟の周辺で情報を集めてほしい。私は東京と上海から動きます」


ミリアムは一度だけ頷いた。それで決まった。


夜が深くなった。

ミリアムは椅子に座ったまま眠った。


黒瀬はそれを起こさなかった。

公電の束を読みながら、部屋の中にミリアムの呼吸音がある、という事実を、頭の片隅で感じていた。


言語の騒音が、今夜は少し静かだった。


モルヒネを使わなかった。


使わなくても、言語が干渉しなかった。

その理由を黒瀬は考えなかった。

考えないことにした。

考えれば言語が戻ってくる。


窓の外で風が止んだ。


東京の四月の夜の、澄んだ静寂の中で、黒瀬誠一郎は三十三歳だった。

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