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太平洋の夢「樺太の種」 第三章 上海の匂い

第三章 上海の匂い

上海 一九三〇年秋〜一九三一年



上海の匂いは五種類ある。


黄浦江の泥の匂い。

石炭と機械油が混ざった工場の匂い。

租界の境界線付近に漂う揚げた油と香辛料の匂い。


雨の日の石畳——花崗岩が水を吸って、百年分の靴底と痰と血と精液の記憶を滲ませる匂い。


最後のひとつは、人間の匂いだ。

密度、とでも言うしかない。


一平方メートルあたりの人間の密度が、ある限界値を超えると、都市はそれ自体の体温を持ち始める。


上海はその限界値をとっくに超えていた。


黒瀬誠一郎が上海に着いたのは十月の終わりで、黄浦江はすでに冬の色をしていた。


外務省からの辞令は、六月に来た。

上海総領事館、領事館書記官。


ジュネーブから上海へ。

理由は書いていなかった。

理由など、辞令には書かれない。


埠頭に降り立った瞬間、黒瀬はその体温を感じた。

都市が生きている。

それも、ひとつの生き物としてではなく、無数の生き物が互いを食いながら生きているという意味で。


黒瀬はそういう場所が好きだった。


均質なものが苦手だった。

東京の何が息苦しいかと問われれば、全員が同じ体温を持とうとしているからだと答えるだろう。


南京路を歩いた。

英国資本の百貨店が並び、その隣に露天商が座り、その隣に物乞いがいた。


物乞いの隣に、漆塗りの轎が止まっていた。

轎から降りてきた女は旗袍を着ていて、その刺繡が黒瀬の三ヶ月分の給料に相当した。


女は物乞いを一瞥もせずに百貨店に入った。

物乞いは女を見なかった。


二人は同じ空間にいて、互いに存在しなかった。


あらゆる格差が並列に存在し、それぞれの論理が互いを侵食せずに共存している。


正確には侵食し合っているのだが、その速度が遅すぎて、日々の光景としては共存に見える。

矛盾が矛盾として機能している都市。


黒瀬はジュネーブでもロンドンでも感じなかった何かを、上海の南京路で感じていた。


世界はこういうものだ、という確認だった。


夜は四馬路に行った。

料理屋と賭博場と妓楼と阿片窟が、路地ひとつを挟んで隣接していた。


黒瀬は料理屋で紹興酒を飲み、四川料理を食べた。

花椒の痺れが舌に残った。


隣のテーブルでロシア人が牌を並べていた。

白系移民のロシア人は上海に多かった。

革命で故郷を失い、各地を流れて最終的に上海に辿り着いた人々。

どこにも帰れない人間が最後に流れ着く場所。


黒瀬はロシア人たちを見ながら、ミリアムのことを考えた。


オデッサ出身。

兄を失った。

帰る場所を持たない。


その点ではこのロシア人たちと同型の人間だが、ミリアムは帰る場所を求めていなかった。


代わりに、新しい場所を作ろうとしていた。

その違いが黒瀬には重要に思えた。


前回阿片を使ったのは、この上海赴任の初期だった。


上海でアヘンが蔓延したのには理由がある。


一八四二年、南京条約。


阿片戦争の講和条約で清はイギリスに上海を開港した。

その後数十年、イギリス東インド会社はインドで製造した阿片を中国に輸出し続けた。

清政府が禁輸を試みるたびに、イギリスは戦争で応じた。

阿片は銀の代わりになった。


そして上海には、阿片を売る合法的な権利が、条約によって守られた空間が生まれた。


租界という名の空間が。


黒瀬はその歴史を外務省の資料で読んでいた。

読んだことと、理解したことは別だ、と今の黒瀬は思う。


四馬路の奥まった路地に、見かけは普通の茶館に見える場所がある。

入口の両側に青い布が垂れていて、それが符号だった。

黒瀬は前の赴任時から場所を知っていた。


入らないつもりだった。


ただ前を通ったとき、扉の隙間から香りが漏れてきた。

白檀と、蜂蜜と、燃える草の混ざった匂い。


体が先に動いた。


内部は薄暗かった。

長椅子が三列並んでいて、いくつかに人が横になっていた。

中国人が二人、インド人らしき男が一人。

隅のテーブルに白系ロシア人の女が座って、虚ろな目で天井を見ていた。

店主の老人が黙って黒瀬に場所を示した。


一服目は何も起きなかった。

肺に煙が入り、少し咳が出た。


二服目で、部屋の輪郭が柔らかくなった。


柔らかくなる、というのは正確ではない。

輪郭が消えるのではなく、輪郭への関心が消える。

壁と空気の境界がどこにあるか、それを知ることへの必要性が、ゆっくりと剥落していく。


三服目で、言語が分離した。


普段、黒瀬の頭の中では四つか五つの言語が常に同時走行している。

英語で考え、その思考をロシア語で検証し、フランス語で修辞を整え、日本語で結論を出す。


この多重走行は情報処理の速度を上げるが、同時に頭の中を恒常的な騒音で満たす。


思考が言語に追いかけられている感覚。


どの言語も自分のものでありながら、完全には自分のものではない感覚。

阿片はその騒音を止めた。


言語が分離して、それぞれが静止した。


英語は英語のまま、日本語は日本語のまま、互いに干渉せずに存在した。

その静止した言語の間の、空白の部分。


そこに何かがあった。


言語になる前の何か。

黒瀬が本当に考えていること——その輪郭が、空白の中に浮かんだ。


樺太、と黒瀬は思った。


思ったのではなく、感じた。

樺太という言葉ではなく、樺太という場所の感触

——雪の重さ、針葉樹の密度、人間がいないことの広大さ——

がそのまま体の内側に現れた。


あの島に人が住んだら。


あの雪の下に都市が生まれたら。

それはどんな形をしているだろう。


答えは来なかった。

しかし問いが、初めて輪郭を持った。


四服目を、黒瀬は吸った。


吸うつもりはなかった。

しかし手が動いていた。

パイプが唇に当たっていた。

煙が来た。


それからのことは、断片しか覚えていない。

白系ロシア人の女が笑っていた。

天井が遠かった。

誰かが黒瀬の腕を引いた。

外の空気が冷たかった。

石畳の感触があった。

それだけだった。


目が覚めたのは翌々日だった。


領事館の自室のベッドにいた。

誰かが連れ戻したらしかった。

机の上に水と、布に包んだ何かが置いてあった。

布を開くと、饅頭が二つあった。

まだ温かかった。


黒瀬は起き上がった。

頭が重かった。

口の中が渇いていた。

時計を見た。


二日と十四時間、記憶がなかった。


誰が連れ戻したのか、黒瀬には分からなかった。


翌日、領事館の廊下で料理番の老人と目が合った。

老人は何も言わなかった。

黒瀬も何も言わなかった。


それで分かった。


阿片はもうやめる、と黒瀬は思った。

今度は本当に。


代わりがモルヒネになったのは、それから二週間後のことだった。


モルヒネは阿片より制御しやすいと黒瀬は思っていた。

量を測れる。時間を管理できる。

そういう薬物だと思っていた。


その判断が正しかったかどうか、この時点では分からなかった。


窓の外に、黄浦江があった。

川は夜も、流れていた。

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