第三十一話 其の一
かつて、これほどまでに邸も私の髪も艶々としていたことがあっただろうか。
女の髪は命と言わんばかりに、何度も何度も雛菊が念入りに櫛を入れた黒髪は、今は一段と美しく輝いて着物の上に流れていた。邸や、もちろんこの部屋も、父と小梅の言葉通り磨き上げられ、埃一つないほど掃除が行き届いている。
そういう私自身も、つい先ほどまで、まるで人形のようにされるがまま、湯殿で徹底的にお手入れされていたのだが、これが疲れを増長させる要因の一つであったことは確かだ。小梅と雛菊の二名体制で、身体の隅々、足の指の間にいたるまで洗われたのだから。どう考えたって、やりすぎだ……。ちなみに私に一切の拒否権がなかったことは分かってもらえると思う。
ああ、疲れた…… 本当に疲れた。
ここまで疲れたことは久しぶりかもしれない。ちょうどこの世界へ来たばかりの頃、あの目まぐるしい一週間並みに疲労困憊していると言っても過言ではない。
小梅セレクトのお香を焚きしめた袿を羽織り、脇息にぼんやりもたれながら、私は、ふう、と息を吐いた。
もうすぐ宮がここへ来ると言うのに、疲れすぎてドキドキだのワクワクだのが全くない。今すぐ寝所で休みたいというのが本音である。
新婚二日目をまさかこのような気持ちで迎えようとは、私だって思っていなかった。皆、当人を差し置いて、盛り上がりすぎなのだ。しかも、本人は干物のように枯れ果てているというのに、誰も気が付かないのはどういうことか。
「姫様、宮様がお見えになりましたわ」
小梅にそう声を掛けられて、思わず背筋を伸ばした。彼の満月の檜扇を持ちながら、几帳越しにその気配を感じて、少しだけ胸が高鳴る。
自分でも現金なものだなと思う。さっきまで、あんなに元気が出ないと思っていたのに、それは気のせいだったのか。
「姫、今宵も失礼いたします」
「お待ちしておりました、宮様」
「今日ほど一日を長く感じたことはありません、貴女に逢いたくてたまらなかった」
宮は今日も序盤から、愛情全開だ。これはちょっと、なんというか……嬉しいけれど、照れる。
……ドキドキやワクワクが全くないなんて嘘でした、訂正します。あります、とってもあります。しかも主にドキドキが。
私も同じように甘いセリフを言えればとは思うけれど、絶対に言う前に恥ずかしくなって断念するだろうなと思う。宮はどうしてこんなにストレートに言えるんだろう、羨ましいくらいだ。
「私も随分と長い一日でございましたわ」
色んな意味で本当に長かった……それは嘘じゃない。
とりあえずの返事をすると、横で小梅が「私も逢いたかったです、くらい姫様もおっしゃらないと!」と耳打ちしてくる。
お願いだからやめて、恥ずかしいから! 身内に援護射撃なんて望んでない!
「嬉しいです、姫が私と同じ思いで過ごしていたのだと思うと。姫の可愛らしいお顔が見たい。そちらへ行ってもいいですか」
「は、はい……」
几帳の影から現れた宮は、今日も趣味のいい襲に、どこか優しく上品な香りを纏っていた。青系統でまとめられた衣は涼しげで、よく映えるし似合っていた。
この人は本当に、なんでも完璧なんだろう。外見は文句のつけどころは見当たらず、字は達筆で歌は一流、衣や香の趣味もよく、おまけに性格も誠実で穏やか。それなのに、親王という身分に驕るようなこともない。一夫多妻のこの時代で、よく今まで独り身でいられたなと思う。女性からの声掛けも多かっただろうに。平安女性の理想を詰め込んで形にしたようなこの人が、一体私のどこを好いてくれたのか、未だに分からない。
「姫はその扇を使ってくれているのですね」
宮が指したのは、彼にもらった満月の輝く扇のことだ。見事な絵はいつ見ても美しく、私のお気に入りでもある。
彼を鷹衛と呼んでいた頃は、よくこの扇を見て、彼を思い出していた。自分の気持ちに気付くのに随分と時間がかかってしまったが、思えば、あの頃から既に私は彼に恋をしていたのだと思う。そう昔でもないのに、どこか懐かしく感じてしまうのはなぜなのだろう。
いつの間にか傍に控えていた小梅や雛菊の姿はなく、私の前では宮がにこにこと微笑んで座っている。
さすがに、呼べばすぐ来てくれる程度には二人は近くに控えているのだろうけど、「お邪魔虫は消えますからごゆっくり」感がすごい。私も宮との、多分他の人から見たら新婚夫婦のいちゃいちゃを二人に見られるのは羞恥の極みなので、そうしてもらえるのは有り難かった。
「私達が出会った日の夜も、その扇のような満月だったのですよ。初めて出逢ったあの日、貴女はかぐや姫のように忽然と姿を消してしまいましたが、私は貴女を忘れられなかった。その扇は、貴女をかぐや姫に例えて作らせたのです」
「……宮様は、この扇をずっと持ち歩いていらしたのですか」
「はい、肌身離さず。そうしていれば、どこかで姫と会えるような気がしていました。例えれば、お守りのようなもの、でしょうか」
その言葉通り、私達は鞍馬山でもう一度出逢った。そして、また会う約束にと、宮は私のこの扇を渡したのだ。
それからも逢瀬を重ねたが、鷹衛さんが宮だったのならば、出仕した五条院で何度か顔を合わせたことも不思議ではない。対が違うとはいえ、五条院は彼の住まいでもある。邸を自由に歩き回ることも当然許されるだろう。会うべくして会ったようなものだ。
「あの日から姫は、私のただ一人の大切な方です」
まっすぐな言葉に、思わず目を逸らしてしまった。動揺していることは、もう宮に駄々漏れだ。
伸びてきた手が私を引き寄せた。ぎゅっと抱きしめられると逃げ場なんてない。大人しく抱かれたままの私の髪を、宮はゆっくりと撫でている。それはとても心地よくて、とても胸を苦しくさせるものだった。
「しかし貴女と言ったら、一筋縄ではいかなかった。鷹衛に言って都中の女房を調べさせたのに、貴女に繋がる手掛かりはまるでない。まさか、左大臣家の深層の姫君であろうとはさすがの私も思いませんでした。供もつれず外を平気で出歩く姫君がいるだなんて、想像もしませんからね」
そりゃそうだ、と私でも思う。小梅が聞いていたら「どういうことですの!?」と角を生やして問い詰められそうだが、幸いこの会話は宮と私の二人だけのものだ。
誰に聞かれる心配もなく、私もあの日のことを思い出す。
「あの日は、家移りの日でしたの。皆がその準備に夢中でしたので、少しだけ目をくらませて外へ出たのですわ。私は、その……外がどういったところなのかどうしても見たかったのです。目覚めてからはずっと、邸の中で暮らしておりましたから」
「なるほど。それであのような場所に一人でいたのですね」
「はい」
ここは紛れもなく平安時代なのだという現実に打ちのめされ、思わず涙していたところに、宮は手を差し伸べてくれた。立ち眩みによろめいた私に「知人の邸で休んだらどうか」と提案してくれたが、今思えば、知人の邸でなく自分の邸だったのだろう。しかも、畏れ多くも先帝のいる五条院……
考えるだけで恐ろしい。ほいほいついて言ったら、大変なことになっていた。固辞した自分の英断を心から褒めたい。
「それで、右大臣家の車の横暴を見逃せずに、つい手と口がでたと」
「そ、それは……だって、身分を権威に人を傷付けるなど、あっていいわけはありませんもの」
「ええ、私もそう思います。しかし今後は、あのような危険なことはしないで。心配ですから。姫に何かあればと思うと、私も他人事ではない」
「……はい。次からは気をつけますわ。早まったことをしたと反省しております」
あの時は、まだ今ほどこの世界に現実味を持っていなかったし、どこかで、「左大臣家女」という立場に守られているという安心感があった。それに無意識に背中を押されて飛び出してしまったというところも大きい。現代に生きていれば私はあんなことはしなかったと思う。私は、別に正義感が強いわけじゃない。
一方で、あの瞬間、女性や子供、老人への乱暴を見過ごせないと強く思ったのも事実だ。どうにも我慢できず、あんな思い切った行動に出たが、それに一番驚いているのは私自身でもある。
あれ、それにしても。
「宮様こそ、どうしてあの日、お一人で朱雀大路にいらしたのですか?」
「一人ではありませんよ、すぐ傍に鷹衛がいましたから」
「鷹衛様?」
えーっと、本物の鷹衛さんということか。昨夜、宮の従者と聞いた気がしたけど……
「鞍馬山で供として控えていた男がいたでしょう。彼が鷹衛です。今度、機会をみて姫にもご紹介します」
そういえば確かに、顔は見えなかったが、一人だけ宮の供人がいたような気がする。そうか、あの人が本物の鷹衛さんだったのか。
宮は、朱雀大路も鞍馬山も、鷹衛さんだけを供人として行動していたのならば、よほど気心の知れた仲なのだろう。
「だから、男色の噂となって……い、いえ、何でもありませんわ」
まずい、声に出てた…… 男色話はご法度だったのに。
だって宮はものすごく嫌がっていて、わざわざ自分の口で訂正したくらいなのだから。
「男色、か。別に周りにどう言われようが構いませんし、これまで好きにさせておけばよいと放っておきましたが、姫に求婚した辺りから気になりましたね。まさか姫も、私のことをそのように思っているのではないかと」
「そのようなことはございませんわ!」
「ならいいのです。鷹衛は私の乳兄弟ですよ。幼い頃から共に育ちましたから、彼は私をよく理解してくれているし、勿論私も。互いに気を遣わなくていいのです。それが楽で、いつも鷹衛と行動を共にしているのです。彼は優秀ですしね。友人でもあり、家族でもあり……時には、腹心でもあり、といったところでしょうか」
「信頼なさっているのですね」
私のとっての小梅のような存在なのだろう、気持ちはよく分かる。
私だって、物忌みを覗いては毎日小梅と一緒にいるし、彼女のいない生活なんてもう考えられない。
ここで目覚めた時、何も分からず困惑するだけだった私をことを甲斐甲斐しく世話をし、助けてくれたのは小梅だった。あの日からずっと彼女には感謝しているし、もう不可欠な存在だ。きっと三の君にとっても、小梅はそういう、なくてはならない人なのだと思う。
お待たせしてすみません、ようやく更新です!
不定期になってもブックマークを外さずにお待ち下さる方がいて感謝しておりますm(_ _)m
ラブラブは次話、お話が動くのがその次となります。
大体四十話くらいで終われるといいなと思っています。
※白木さんが多忙すぎて監修が間に合わないため、取り急ぎアップします。
監修後、細かい部分を修正し、差し替えますが物語の内容が大きく変わることはありません。




