第三十話 其の二
「――父上が泣いて喜んでいたよ。宮様とご結婚なさるのだと伺った、おめでとう」
兄は嬉しそうに祝福の言葉を述べた。
几帳越しなのでやはりその顔は見えないが、笑顔なのだろうと想像できるくらいには上機嫌な声音だった。
ちなみにその父上は、つい先ほどまでも私の部屋で、母の東の方と共においおいと嬉し泣きしていたことも付け加える。
なんでも、「三の君様と結婚する運びとなりました」と宮が律儀に文を送り挨拶をしていたそうで、私が話すよりも先に結婚のことを知っていたのだ。
昨夜が初夜で、すでに婚姻関係が始まりつつあることに随分と驚いてはいたものの、やはり末娘の結婚は嬉しかったらしい。「ご報告が遅れまして申し訳ございません」と謝罪した私に、「構わぬ構わぬ」と几帳の隙間から見えたのは満面の笑み。
それから一通り祝福をした後、「姫は昔から病弱で……」と思い出話から始まり、「結婚なんて夢のまた夢と思うておったのに」と泣き出し、「まさか宮様とご結婚などと」と、最後はもう一度大喜びして戻っていったというわけである。
え、私?
私はただ、「はぁ」だの「ええ」だの、適当な相槌を打っていただけだ。朝の小梅とのやりとりでほぼエネルギーを使い果たし、喜怒哀楽の怒だけがないテンションマックスの父母に対しては、返事がするのがやっとだった。もう夜まで体力がもつか怪しいところだ。
この数時間で、これまで左大臣家の三の君には、結婚の「け」の字もなければ、むしろ一番遠いところにいたらしいということはよーく分かった。
確かに、本人は「尼になってもいい」、両親は「尼にさせるしかないのか」と思っていたなら、突然の祝い事にこうなることも仕方なかったのかもしれない。それにしたって限度というものがあるだろう、この邸の者達はなぜ皆こうも、春が一度に四つくらい来たように喜んでいるのか。
父にしたってお花畑全開なのだ。邸中をぴっかぴかに磨き上げるように女房達に指示していたのを見た時は、パワーアップ版小梅を見たような気がした。しかも、小梅と違って、権力絶大の絶対的な存在である。宮が来るころには、おそらく磨きに磨き上げた邸が出来あがっていることだろう。
忘れているかもしれないが、我が左大臣家の女房達は今、病に臥せている者も多い。そんな少人数で家のことを回している中で、大々的に掃除させるなど控えたく、そのように言ったのだが、全く聞き入れてはもらえなかった。聞き入れなかったのは、父だけではない。女房連中なんかも「お命じがなくともそういたしますわー」と、どこか歌うような返事をしたのだから、異常具合は分かってもらえると思う。
東の方はというと、夜のお作法といえば聞こえはいいものの、R18マークのきわどい内容をこっそり耳打ちしてきたから堪らない。お母様、おしとかやかそうに見えてそれを言いますか、と衝撃的すぎて言葉も出なかった。「だから、宮様とお文のやり取りをしていてよかったでしょう」とも言われた。ええ、確かに、その通りでしたが。
傍に控えていた小梅は小梅で、父が「今宵はよろしく頼む」などというものだから一層やる気に火が付き、雛菊もまた然り。「殿様のお許し」を盾に、私の意見はそっちのけでやりたい放題やるらしい。いや、私だって同じようなことを姫宮にしたのでどうのこうのとは言えないが……でも、それとこれとは違うはず!
通い婚というのは、三日目の婚姻関係の成立まで、男性が通っていることは知っていても邸の者達は基本的に知らないふりをしなくてはいけない。事実を知りながら三日間逢瀬をサポートするのは、それこそ新婚夫婦になる二人の供人のほんの一部の人間だ。私の場合は、小梅や雛菊になるし、今晩、宮を手引きするのはおそらく小梅がやるのだと思う。
しかし、左大臣家という家をあげてのお祝い事に誰もが皆浮き足立っているこんな様子で、気付かぬふりなど本当にできるのか。まだ二日目だというのに、漂うのは既に露顕のような空気感。
これじゃ明日の、本当の露顕はどうなるのだろう。考えるだけでも恐ろしい……
お願いだから、もう勘弁して……
「それで幸せまっただ中のお前が、私に何用なのだ?」
兄に声を掛けられてはっとした。
そうだった、私にはまだやるべきことが残っている。ここでぐったりと回想している場合ではない。宰相中将とのことをなんとかしてもらわねばならない。
あの男は、私が人妻になったとしても絶対に退かない。
『万葉集』の歌のように「人妻ゆゑに我恋めやも」なんて言いながら、隙あらば自分の望みを叶えようとするに違いないのだ。非常に不服だが、幸せいっぱいの中でも、現実問題、そういう危惧が一方であることを決して忘れてはならない。
「お兄様にお願いがあるのですわ。お兄様がこちらへお泊りになる際は、今後、絶対に宰相中将様に送っていただくことはおよしになって下さいませ」
「お前、なぜ私が朝霧に送られたことを知っている?」
「……そのようなことを聞かずとも、お兄様ならお分かりなのではございませんか」
「……まさか」
「そのまさかですわ」
「まさか、あいつはまたお前を!?」
「当然未遂です!! しかし宮様との結婚が破談になる寸前でしたわ!」
「な、なんということだ……あいつ、いや、確かに先夜は酒をいつもよりすすめられたが」
やはりそういうことか。本当に油断ならない! 宰相中将は、初めから私を襲うために兄を酔いつぶす気満々だったのだ。
兄だって、いつもはあんなにキリリと隙もなさそうなのに、酒の席では脇が甘すぎる。
「とにかく、私はもう二度と中将様に近付いていただきたくありませんの。宮様におかしな誤解をされても困りますし」
「そうか、すまぬ…… 私も朝霧がそこまでお前に執着していたとは知らなんだ。確かにお前は可愛くて魅力的だし、朝霧の気が分からないでもないが」
この際シスコン発言はスルーする。
その上で言うけど、いやいやお兄様、宰相中将のフォローなんてしないでよ、あの人執着しまくりだよ。一体今までどれだけの文がわんさか届いたと思ってるの?
マメな男性は好きだけれど、しつこい男性は嫌いだ。このマメとしつこいは紙一重で、人の気持ち次第でどちらにも転ぶが、宰相中将にいたっては「しつこい」以外の要素がないと断言できる。もう何度お断りをしたことか。
「私も色々と思うところもあってな……確かに、羽目を外してしまった部分は否めぬ。勧められるがまま飲んだ私も悪かったよ」
「お兄様? 何かあったのですか?」
「いや、取るに足らぬことさ。しかし、朝霧がそのような行動を取るとは。宮様とお前の結婚の話が出ていることで、一度は身を引いたようだったのだがな。あいつには、今後一層気を付けると約束するよ」
……はて。身を引く?
身を引くの言葉の意味を、正しくお分かりでしょうか。それはお兄様の前でだけそういうアピールをしたのではありませんの?
事実、宮と文のやり取りをしている間も、宰相中将からの文が途絶えることはなかった。
なんというか、どこまでも計算高い男なのかもしれない。兄は兄で優秀だが、人がいいというか、騙されやすいというか……どこか抜けているのだろうか。だとしたら、うっかりの血筋は父、左大臣譲りである。
「宮様は、お前を大切にして下さっているのか」
「なんですの、お兄様、突然」
昨日のことを思い出して、顔が熱くなるのを感じた。あれで大切にされてないはずがない。
一人もじもじとする私を見て、隣にいた小梅がにやにやとしている。なんだその顔は! やりにくいなぁ、もう!
「お前が宮様と結婚するとはな。出家しようとするほど嫌がっていたじゃないか。そんなお前の心を、宮様はどのように変えたのだろうと思ってな」
「……それはその……返答に困ります。気が付いたら、お慕いしていたと申しますか……」
「そうか。まあ、宮様は才に溢れた素晴らしいお方だし、宮中での人気も随分高い。そのようなお方の寵を受ける妹を持った私も鼻が高いよ。私に言わせれば、宮様がお前に惹かれたのは当然だがね」
「お兄様ったら!」
冗談なのか本音なのか、いまいちよく分からないが、とりあえず笑っておいた。なんだってこんなに妹バカなのだろう。兄の、この三の君への深い妹愛は無自覚なのだろうか。ことあるごとに、私の妹は可愛い!と、ドヤ、と言われている。
そう思っていると、兄は一言、ただ一言、静かに優しい声で言った。
「きっと幸せにおなり」
ドクン、と心臓が大きく打った。
この言葉を、私は知っている。どこで? どこで聞いた? どこかで確かに――
そうだ、三の君の夢の中だ。あれは三の君が裳着をする直前のことだったはず。
ふいに確かめたくなった。
私は毎夜、三の君の夢を見せられている。それは、どこかで漠然と、現実に起こった過去の出来事、つまり三の君の記憶なのだろうとと思っていたが、本当にそうなのか。今は、それを兄に問ういい機会だ。
三の君の夢に現れることが一番多いのは、彼女の他に、目の前の兄なのだから。
「お兄様、以前も私にそのようにおっしゃいましたか? 私の裳着をする頃でしたでしょうか」
「え?」
「私は……お兄様に『幸せにおなり』と言われたことがあるように思うのです」
「確かにそうだね、言ったことはあると思うが…… しかしいつとは覚えていないさ。裳着なんてずっと昔のことだし、兄として妹の幸せは常に願うものだろう」
「ではお兄様、裳着を終えた私が琴を弾いていた時に、笛の音を響かせてこちらへいらしたことはありませんでしたか。幼い頃、私が好きだった白い花をいつも下さっていたことは?」
「お前……なぜそれを知っているのだ? 記憶が戻ったのか!?」
兄の反応に確信する。
やはり、そうなのだ……
あれは過去にあったことだ。ということは、私がこれまで見てきた夢の全ては、間違いなく彼女の記憶ということか。何か、きっと意味がある。何かを私に伝えたくてそうしているはずだ。
それは何? 考えなくてはいけない。なんだろう、とても、とても大切なことを見落としているような気が――
「姫、記憶が戻っているのか?」
強く問われて、思わず顔を上げた。目の前には几帳があるだけだが、落ち着きのない様子の兄がその向こう側にいるような気がした。
兄の声は、どこか余裕がないようなものだった。
「いいえ、お兄様。記憶は戻ってはおりませんわ。ただ、このところ夢を見ておりまして、夢にしてはあまりにも現実的なものですから、もしかしたら、私の過去の思い出なのかと思ったのです」
「夢? お前が他に見た夢とは何だ? 一体どのようなものだ?」
「先ほどお話しした通りですわ。他には何も」
見るには見たが、すべてを話す必要はないだろう。
この兄はこう見えて油断ならないところがあるのは、鞍馬の天狗の一件で既に分かっている。二度も同じ過ちはしない。兄が鞍馬の天狗の件を隠していたことは事実だし、なぜそうしていたのかは未だに謎のままだ。その状態で信頼するというのは、今の私には難しいことだった。
「本当に何も思い出していないのか? あの日のことも――」
「あの日のこと?」
「あ……いや、何でもない」
「何ですの? お兄様こそ、何か隠していらっしゃるのではありませんか?」
兄がたじろぐことなど滅多にない。攻め込むのは今とばかりに聞いてみたが、それは無駄なことだった。
次の瞬間には、いつもの兄に戻っていたからだ。ほんの少しだけ見えた焦りの色など、何事もなかったかのように振る舞っている。
「何も隠してなどないさ。ただ、兄上のことをお前が思い出していたのならば、またあのような辛い思いをさせるのではないかと心配になっただけだ」
兄上――、一番上の、幼少期に亡くなられたという兄のことか。
確かに、三の君の悲しみは相当深いものだったらしいとは聞いている。でも今、兄はそれを指して「あの日のこと」と言ったわけではないはずだ。直感だった。
なぜこんなに気になるのだろう。兄の隠していることと、三の君が深く関わっているような気がしてならない。
私に、いや、三の君に思い出されてはいけない「何か」があるのか?
「お前は今幸せなのであろう。であるなら、昔のことなどもうよいではないか。今は宮様とのことだけを考えなさい」
「ええ…… お兄様、最後に一つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「うん?」
「お兄様は、私が記憶を取り戻すとお嫌ですの?」
「……そんなわけはないさ。お前は、何をおかしなことを言っているんだ」
「お兄様が余りにご心配なさっているようですから、その方がいいのかと思ったのですわ。ですが、大切な思い出もあったでしょうし……さようでございますわね」
「無理に思い出す必要はないよ、思い出ならこれからいくらでもできるだろう? また北山の天狗がどうのとは言い出さないでくれよ。今度は父上や母上ばかりではなく、宮様まで心配なさるのだから」
「まあ、お兄様ったら! もうそんなことはいたしませんわ!」
少し大げさにそう返したけれど、私の中では一つの結論が出ていた。
兄はやはり、三の君に記憶を取り戻して欲しくないのだ。何か都合の悪いことがあるのだろう。
とても自然に、本当に気を張り巡らせていなければ分からないほど自然に、そうではないように見せているけれど、一瞬だけ間があった。私が記憶を取り戻すことが嫌かと問うた時に、ほんの少しの迷いがあったのを私は見逃さなかった。
以前、北山の天狗の話を兄とした時、何故兄はあそこまで天狗のことを隠すのかと私は疑問に思っていたが、そもそもの目をつける場所が違っていた。確かに兄は天狗のことを知られたくなかった、だから父母や私にはそのことを教えなかったのだろうが、それはここに結びついていた。
兄は天狗それ自体の存在を知られることよりも、私が天狗と会うことで『記憶を取り戻すこと』を恐れていたのだ。
兄は、何をそこまで隠している?
三の君に関わり、三の君が思い出してはいけないようなこと――……? だめ、分からない。でも「あの日」と呼ばれる日に何かあったのだろう。それだけは確かだ。
それを知るのは、そう遠くないような気がしていた。
本日もお付き合いありがとうございましたm(_ _)m




