第三十一話 其の二
「ねえ、姫。私が興味があるのは姫だけですよ」
「さ、さようでございますか……」
「はい」
だから、なんでここで、そんなに爽やかな笑顔で私に甘い言葉を言えるのだろう。しかもやたらとにこにこしている。もう「さようですか」としか返答しようがないじゃないか。
私も、宮の男心をくすぐる言葉の一つや二つをさらりと言えたらよかった。しかしながら、そもそも男心って何、というところから始まるくらい色恋には疎い自覚がある。
残念な自覚だが、古典にのめり込み恋愛をおろそかにしてきたツケだろうか…… でも、古典文学のヒーローを空想して素敵だと思うことはあっても、現実の生身の人間に同じような思いを抱くことがなかったのだから仕方がない。私に言わせれば、自分の好みが百パーセント反映された想像の世界にいる物語のヒーローに勝てる相手がいるはずがないだろうと思っていたのだ(……実際は、こうして宮に恋をしたわけなのだけど、宮は例外)。
過去に一度、告白をされて試しにお付き合いをしてみたこともあったが、その男性とはすぐに破局を迎えてしまった。
彼に時間を取られ、研究や古典に関わる時間が無くなることが、私にはものすごくストレスだった。異性と食事やデートをすることよりも、教授や先輩が書いた論文、平安王朝物語や当時の日記を一言一句丁寧に拾って読む方が私には有意義で魅力的だったのだ。
あの時に、「恋愛なんて面倒くさい」と思ったのが多分よくなかった。破局したあとも、せいせいしただけ。それと、こんな古典オタクと付き合いたいと思うなど、世の中には物好きな人間が本当にいるんだなと思ったくらい。
その私が、今は恋に手探りなのだから、人生とは何がどうなるか分からないものだと思う。いや、この世界に来た時点で、そもそも何かがおかしいのだが。
話が横道に逸れすぎた、ええと。
「それで、宮様はなぜ朱雀大路に? 鷹衛様お一人を供人としてお連れだったのならば、私と同じ、お忍びだったのでございますか?」
「……姫はなかなかに鋭いことを言いますね。まあ、そのようなものです。近頃、右大臣家の者が無法な行いをしていると耳にしましたので、事実かどうかを確かめるために様子を見にいったのです。まあ、果敢な女人が民をかばったので、私の出る幕はありませんでしたけれど」
「もう……宮様、意地悪です」
じろ、と睨んでみると「そのようなお顔も可愛らしいですね」とこの一言だ。
私の睨みなんか全く効いてない。むしろ、喜んでいる。それが嫌じゃないと感じる私もどうかしている。 ……本当に、どうかしている。
「あのような場で咄嗟に行動に移すことができる者は、そう多くはありません。どうにかしたいと願っていても、実際には己の身にも危害が及ぶことを恐れ動けぬ。あの日、貴女はそれを易々と飛び越えた。目を奪われました、このような女人がいたのかと」
「先ほどは、あのようなことをしてはいけないとおっしゃっていたではありませんか」
「ええ、勿論、今後はしてはいけませんよ。私が心配ですから。私が言いたかったのは、きっとあの時に姫に惹かれたのだと思うのです。一目見ただけでは、ただの美しいお方だと思って終わりだったでしょう。これほどまでに貴女に興味を持ち、愛しく思うこともなかった」
宮が私を好ましく思ってくれた理由の一つがそれなら、若干プレッシャーを感じる部分だ。きっと、宮の思う私と、本当の私は全然違う。その差を知った時に、宮の心が離れるのではないかと思うと無性に怖くなった。でも……でも私は、決して宮の思うような立派な人間などではない。
完璧なこの人に想われるような人間ではないと、そういう私の自信のなさが、どこか素直に喜べなくしていた。
「宮様……それは違います。あれは、左大臣家女という立場に守られていたからこそ、できたことですもの。違う身分、違う場面であれば、私は声を上げることもきっとなかったでしょう。それに、結果的に母子をお助けになられたのは、宮様ですわ」
「そうでしょうか。私はそうは思いません。貴女のお噂はかねがね耳にしていました。左大臣家の三の君様は、随分と優しく、女房や舎人を大切にされているのだと」
「それは、私が姫として扱われることを当然だと思っていないからですわ。だって、私は……私は、姫などではありませんもの。昨夜お話ししました通り……私は、いつ消えるともしれぬ者、なのです。そんな私に優しく接してくれる家の者達を大切に思うのは、私にとっては、当たり前のことです」
「やはり貴女は、貴女ですね」
「宮様?」
「本当に姫は、ご自分の魅力をもっと理解した方がいい」
恋愛経験がほぼ皆無の私に、キラキラした女性たちが身に着けているようなそんなものが、本当にあるとは思えない。私が人より優れていることと言えば、古典知識があることだけだ。でもそれだって、研究の世界ではまだ駆け出しで、教授をはじめとした、上には上がいるわけで…… ああ、なんでこんなにネガティブになってしまったのだろう。
「魅力、ですか…… 私にも、魅力はありますでしょうか」
思わずぽつりと言うと、宮は少し驚いて、そのあとくっと笑った。
「ありすぎて困るくらいですよ。でなければ、私は姫を妻にしたいなどと思いません。姫が私に見せていない顔はまだまだありそうですね。どんな姫でも、私は愛しぬける自信がありますよ。今こうして儚げにしている姫も、私は可愛らしく思っています」
勝手に凹んだり、でも一瞬で嬉しくて頭が真っ白になったり、恋がこんな忙しい感情だなんて聞いてない。宮のたった一言に、こんなにも一喜一憂している自分がいる。
「笑っていても、泣いていても、全て含めて貴女です。でも、できれば私は貴女に幸せそうにしていてほしい」
言い終わる前に、長い指が私の頬を包んだ。鼓動が速まる。次に宮がどうするのかは分かっていた。反射的に自然と瞼をおろすと、宮の唇が私のものに触れる。何度か角度を変えて口づけられる度に、身体の奥が熱を帯びた気がした。鼓動が一気に早まる。
ドキドキする、どうしよう。
そこで思い出した。
ああ、そうだった、今日は新婚二日目。昨日は宮の気遣いで何もなかったけれど、今夜は――
「お話はそろそろ止めて、休みましょうか」
耳元で囁かれて、素直に頷いた。心臓は早鐘のように鼓膜に響いてうるさい。
宮の香りを強く感じるのは、これほどに近付いているからだということが、簡単に私の心をかき乱していく。
静かに御帳台へ入ると、いよいよかと身体が強張った。
結婚したのだから当然だけど、でも……三の君のことを思うと、勝手にこの身体で宮と一夜過ごすのはどうかと、抵抗感があるのだ。これは大切なことだが、万が一にも子どもでもできてしまったら……という心配だってある。この時代にそれを避けるための薬や物は当然ない。
だけど、それをどう宮に伝えたらいいのだろう。
まさか、「今宵も供に臥せるだけにしましょう」とでも言うのか……新婚二日目に? 昨日もしてないのに?
そんな、平安婚のルールを壊すような真似をしてもいいの?
宮の顔が、もう一度近付いてくる。でも――やっぱりできない。手間暇かけて部屋ごと私を磨き上げてくれた小梅達には悪いけど、無理だよ……
固く閉じた私の瞼に、ちゅ、と口づけられたような感触。ぱっと目を開けると、宮は首をふった。
「何もしませんから、警戒しないで」
「……え?」
「無理強いはしませんよ。姫はどこかお疲れのように見えますし」
「で、でも……よろしいのですか。今宵も、など」
「よろしいかよろしくないかと聞かれたら、それは間違いなく後者になりますね」
「……では、なぜ?」
宮は昨日も私に触れなかった。それは、宰相中将に襲われかけて怖がる私を案じた、宮なりの優しさと気遣いからだった。
でも、今夜は違う。確かに、一度瞼を閉じれば、まるで底なし沼に落ちていくように意識を手放しそうなほど疲れてはいるが、そんなことは宮には関係がない。だから、宮の言葉は想定外のものだった。
躊躇う私に、宮は「いいのです」と微笑む。
「心なしか、顔色も悪い。そのような日に、褥を共にすることもありません」
「私……そこまで、疲れているような顔をしておりますか?」
「ええ。ですから、今宵は早めに休みましょう」
私の身体をゆっくりと倒して、衣を一枚脱ぐと、宮は隣に臥せた。
「姫はまだ病み上がりの身ですから、無理をさせてはいけませんしね。また、これは私のせいでもありますが、急な結婚となったでしょう。ですから、姫はまだ色々と整理のついていない部分もあるのではないかと思うのです」
「……宮様」
「言ったでしょう、同じ時を過ごすだけで私は幸せだと。今はこれで十分です」
一分の隙もないくらいに、彼が心を埋めていく。どこまで好きになるんだろう、想像もできない。
宮よりも私の方が何倍も、何十倍も幸せなはずだ。
鼻先を彼の胸にうずめて、私も同じ気持ちなのだと抱きついた。宮の手が腰に回る。ぎゅっと抱きしめられて、また彼のことを好きだと思った。本当に際限のない想いが溢れてくる。
「宮様、おやすみなさいませ」
「はい、おやすみなさいませ」
昨日と同じ挨拶を交わして、彼の香りに包まれながら私は瞼を下ろした。
実は、宮はこの日から私の元へ通う日は毎日、「忍耐力とは何か」をひたすらに考えて眠る努力をしていたそうなのだが、それを私は知る由もない。
お待たせしました、本日更新です。
前回四十話くらいで完結と申しましたが、もう少し延びそうです……φ(゜_゜ )
最後までどうぞよろしくお願いします。
本日もお付き合い、ありがとうございました。




