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Re:sou〜超現実拡張妄想変換装置(仮)改〜  作者: 西ノ圭吾
第六章 幕開け
43/44

Re:sou 第三十九話「畑」



 国境を越えたのは、三日目の昼だった。


 街道の脇に、石を積んだだけの詰所があった。兵が二人、槍を壁に立てて昼飯を食べている。


 片方が、面倒そうに立ち上がった。


 「名と、行き先」

 「ジェス。ナンタまで」


 兵の目が、少し開いた。


 「サイラスとジェニーの倅か?」


 ジェスは、一度だけ瞬きをした。


 「……そう」

 「そうか」


 兵は、それ以上を聞かなかった。人数を数え、ヤンさんを見て、通行札を返した。


 「通れ」


 それだけで、終わった。


 クラインさんが、歩きながら帳面に何か書いていた。


 「身分証より早かったですね」

 「田舎は、親の名前の方が早いんだよ」


 ジェスは、前を向いたまま答えた。


   *


 道が緩く下り始めると、畑が見えた。


 麦だった。


 まだ青い段と、黄ばみ始めた段が、谷の斜面を埋めている。風が渡るたび、二つの色の境目がゆっくり動いた。


 ジェスの足が、少しずつ速くなった。


 「おい」


 後ろから、ツムグが言った。


 「荷が揺れてる」

 「揺れてねぇよ」

 「揺れてる」


 揺れていた。


 ジェスは、歩幅を落とした。少しだけだった。


 クーリが、外套のフードを外した。


 何も言わず、前を見ていた。


   *


 村へ入る前から、水車の音が聞こえた。


 ここが、ナンタだった。


 石と木の家が谷筋に沿って並び、真ん中を水路が走っている。水車が二つ、軋みながら回っていた。


 村は、半分だけ新しかった。


 水路に近い家は、壁板の色が明るい。屋根も葺き直され、窓には洗った布が干してある。


 そこから少し外れると、家と家の間が急に広くなった。


 草の中に、黒く焼けた礎石が残っている。積み直された石垣も、途中で終わっていた。


 戻ったのではない。


 人が暮らせる所だけを、寄せて繕ったのだと思った。


 「……変わったな」


 ジェスが言った。


 「変わっていない所もあるよ」


 クラインさんが答えた。


 ジェスは、返事をしなかった。


 村の入口で一度だけ止まり、それから大股で歩き出した。


   *


 冒険者ギルドは、水路のそばにあった。


 ハジのものより小さい。看板には同じ剣が描かれていたが、刃先が下を向いている。


 扉を開けた瞬間、俺は半歩だけ下がった。


 うるさかった。


 昼間から大勢が飲んでいる。奥では三人が一つの椅子を巡って揉め、誰かが皿を落とした。


 受付から、しわがれた声が飛んだ。


 「割った奴、名乗れ!」


 誰も名乗らなかった。


 窓口の向こうに、小さな婆さんがいた。積んだ木箱の上に立ち、顔だけを受付から出している。


 その顔が、こちらを向いた。


 止まった。


 「……ジェス?」


 ギルドが、静かになった。


 「ハンナ婆さん」

 「ジェス!」


 婆さんが、木箱を蹴倒して出てきた。


 それが、合図だった。


   *


 もみくちゃ、という言葉を、俺はあの日に覚えたと思う。


 髭の男がジェスの首へ腕を回した。別の男が背中を叩き、誰かが酒を持ってきた。止めた奴も、結局、一緒に飲み始めた。


 「生きてやがった! しかも、でかくなりやがって!」

 「死んでねぇよ。死にかけたことはあるけどな!」

 「五年も音沙汰なしなら、死んだ扱いだ!」

 「五年半だよ!」

 「もっと悪いわ!」


 ジェスの声が、聞いたことのない高さになっていた。


 クラインさんも、すぐに捕まった。


 「クラインの坊っちゃんも帰ったぞ!」

 「坊っちゃんは、やめてください」

 「帝都の魔法学校まで行った坊っちゃんが、まだ本を抱えてる!」

 「人生に必要な道具です」

 「変わってねぇ!」


 クーリは、女の冒険者たちに囲まれていた。


 「背、伸びたねぇ」

 「伸びたよ!」

 「昔は、この辺だったよ」

 「そんなに小さくない!」

 「口も大きくなった」

 「それは前から!」


 誰かが笑った。


 その笑いの中で、一人の女がクーリの頭を抱いた。


 「よく帰ったね」


 クーリは、少しだけ黙った。


 「……ただいま」


   *


 俺は、壁際にいた。


 こういう時、外から来た人間は壁際にいるものだと思う。


 ナナも隣へ立ち、同じ姿勢をしていた。腰の剣が、椅子の背へ当たって小さく鳴る。


 『にぎやかですね』

 「そうだね。いい所だ」

 『ハジの三倍です』

 「……数えたのか?」

 『音の量です』


 どうやって数えたのか聞こうとした時、近くの卓から声がした。


 「だから、亜人だろ。獣人系の、でかいやつ」

 「獣人にしちゃ、耳がねぇ」

 「片方は、あるかもしれん」

 「あと、あれだ」


 男が、自分の額を指で叩いた。


 「布の下」

 「……言うなよ」

 「言ってねぇよ」

 「今、言っただろ」


 二人とも、それきり黙って飲み始めた。


 ヤンさんは、入口の柱にもたれていた。


 中へ入ろうとしない。


 白い髭の男が一人、それに気づいて杯を置いた。


 「……旦那」


 近くにいた何人かが振り返った。


 空気が、少しだけ変わった。


 「旦那が来てくれなきゃ、この村は無かった」

 「昔の話だ」

 「礼も言えねぇまま、行っちまった」


 男は、自分の杯を持ち上げた。


 「一杯、奢らせてくれ」

 「後で……な」


 ヤンさんは、短く答えた。


 男は、それ以上、勧めなかった。ただ一度、深く頭を下げた。


 ヤンさんは、その頭を見ていなかった。


   *


 騒ぎの向きが変わったのは、ツムグのせいだった。


 正確には、荷を下ろすためにジェスの隣へ立っただけだ。


 髭の大男が、それを見た。


 「ジェス」

 「あ?」

 「そっちの娘は、なんだ」


 ギルドが、また静かになった。


 ツムグが、顔を上げた。


 「ああ。ツムグ、鍛冶師だ」

 「そんなのは聞いておらん」


 大男は、身を乗り出した。


 「お前の、なんだ」


 ジェスが、口を開けたままツムグを見た。


 ツムグも、ジェスを見た。


 その一呼吸が、致命的だった。


 「うおおおおおっ!」


 ギルドが、揺れた。


 「嫁だ!」

 「ジェスが嫁を連れて帰ってきやがった!」

 「五年半で嫁!」

 「ちげぇ! そんなんじゃねぇ!」

 「顔が赤ぇ!」

 「うるせぇ!」


 ツムグが、ジェスの脛を蹴った。


 「痛ぇ!」

 「否定するなら、こっちを見る前にしな」

 「分かってるよ!」

 「分かってないから、こうなってんだろ」


 「もう尻に敷かれてるぞ!」


 誰かが叫び、ギルドがまた揺れた。


 ハンナ婆さんが木箱へ戻り、受付から身を乗り出した。


 「あんた、名は」

 「ツムグ」

 「歳は」

 「十九」

 「鍛冶師だって?」

 「そうだよ」

 「打てるのかい」


 ツムグは、少し眉を寄せた。


 「半分はドワーフだ。腕は、見れば分かる」


 婆さんが、ツムグの腕と鎚を見た。


 それから、後ろを振り返った。


 「誰か、ガルドを呼んでこい! 走れ!」


   *


 鍛冶場の親方は、すぐに来た。


 片腕だけが、妙に太い男だった。


 ツムグの背丈を見て、手を見て、指の付け根の胼胝を見る。最後に、自分の鎚を差し出した。


 「振ってみろ」


 ツムグは受け取り、二度だけ軽く振った。それから、片手を柄の中ほどへ移した。


 「重心を先へ寄せすぎてる」

 「そうか」

 「落とす時はいい。でも、返すたびに手首へ来る」


 親方が、片眉を上げた。


 「うちで働くか」

 「いくら」

 「一日、銀貨三枚」

 「四枚」

 「まず腕を見せろ」

 「見せたら四枚」

 「三枚と、炉を好きに使わせる」

 「炉を直していいなら」

 「壊すなよ」

 「直すって言ってる」


 交渉は、それで終わった。


 ジェスが横で、小さく言った。


 「早ぇな」


   *


 ヤンさんが、いなくなっていた。


 気づいたのは、日が傾いてからだ。柱にもたれていた場所に、誰もいない。


 外へ出ると、水路の縁に立っていた。


 村を見てはいなかった。


 南を見ていた。


 畑の向こうに、低い丘が三つ並んでいる。その一番奥を、じっと見ていた。


 「ヤンさん」

 「ああ」

 「何かありますか」


 少し、間があった。


 「畑だ」


 それだけ言い、こちらを向いた。


 いつもの顔だった。


   *


 遺跡の話を聞いたのは、その夜だった。


 ギルドの二階に、古い地図が貼られていた。ハンナ婆さんが、蝋燭を持って上がってくる。


 村の東、山際に赤い印がついていた。


 「昔は、遺跡と呼んでた」


 婆さんは言った。


 「石の柱が並んでてね。ひい爺さんの代までは、祭りもやってたそうだよ」

 「今は?」

 「穴さ。魔石と素材が採れる、この村の稼ぎ場だ」


 ジェスが、地図を覗き込んだ。


 「入口の左の柱、まだ傾いてんの?」

 「傾いてるよ」

 「あれ、俺が生まれる前からだぞ」


 俺は、ジェスを見た。


 「知ってるんですか」

 「潜ったことがある」

 「どこまで?」

 「三階」


 クラインさんが、帳面から顔を上げた。


 「三階まで、ね」

 「行っただろ」

 「行ったよ。君が先へ行こうとして、僕が一緒に引きずり戻された」


 ハンナ婆さんが、鼻で笑った。


 「あんたら、クヴァンに大目玉を食らってたねぇ」


   *


 「怒られたんですか」


 俺が聞くと、ジェスは少し黙った。


 「クラインの親父さんにな」


 クラインさんのペンが、止まった。


 「勝手に行くなって、殴られた」

 「痛かったですか」

 「痛かった」


 ジェスは、地図を見たままだった。


 「どうして、そこまで行こうとしたんですか」


 少し、間があった。


 「早く強くなりたかったんだよ」


 それだけだった。


 クラインさんは、何も足さなかった。


 クーリが、干し肉を齧りながら言った。


 「あたし、入ったことない」

 「小さかったからな」

 「二人だけで行ったんでしょ」

 「連れていったら、親父さんに殺されてたよ」

 「殴られるだけで済んだくせに」


   *


 「話を戻すよ」


 ハンナ婆さんが、蝋燭を地図の前へ置いた。


 「十五階までは、ギルドが出入りを認めてる。地図もある程度のがあるから、上げるよ」


 指が、その下を叩く。


 「それより先は、五年前から禁じた」


 俺は、顔を上げた。


 「何かあったんですか」

 「深くなった」


 婆さんは言った。


 「同じ穴なのに、下が増えたのさ」


 降りた組が、戻らなかった。続けて出た者たちも、帰らなかった。


 それで、ギルドは十五階より下を閉じた。


 クラインさんが、帳面を開いた。


 「五年前、というのは……」

 「ああ……竜が来た後だよ」


 俺は、ジェスを見た。


 ジェスは、地図を見ていた。


 「関係があるかは、分からない」


 婆さんは、先にそう言った。


 「ただね。傷を負った竜が、山の方へ飛んだと言う爺さんがいる」


 クラインさんの手が、止まった。


 「あの晩、空を見ていた者なんて、ほとんどいない」


 婆さんは、蝋燭を持ち上げた。


 「皆、逃げるので精一杯だった」


   *


 「あんたら、潜るのかい」

 「はい」

 「どこまで」


 俺は、地図の赤い印を見た。


 「一番下まで」


 婆さんは、しばらく俺の顔を見ていた。


 それから、ジェスたちを順番に見た。


 「止めても、行く顔だね」

 「すみません」

 「謝るくらいなら、帰ってきな」


 蝋燭の火が、揺れた。


 「婆あより先に死ぬ奴を、もう見たくない」


 ジェスが、少しだけ俯いた。


 クラインさんが、帳面を閉じた。


 クーリは、干し肉を齧るのをやめていた。


 俺は、シスター・ルシアを思い出していた。


 あの、刃みたいに鋭いままの目を。


 クラインさんが屋根の修繕に来なかった日のことも、一緒に思い出した。高い所が苦手なのだと思っていた。


 たぶん、それだけではなかったのだ。


 「帰ってきます」


 俺は言った。


 婆さんは、鼻を鳴らした。


 「そうしな」


   *


 階段を下りかけて、一つ思い出した。


 「ハンナさん」

 「なんだい」

 「南の丘に、誰かいますか」


 婆さんが、蝋燭を持ったまま止まった。


 「……何か見たのかい」

 「ヤンさんが、そちらを見ていたので」


 婆さんは、蝋燭を持ち直した。


 「三年か、四年か。いつの間にか、妙なのが住み着いた」

 「村の人ですか」

 「違う」


 返事が、少し早かった。


 「悪さはしない。麦を買いに来て、銅貨を置いて帰る。それだけだよ」

 「なら」

 「近づくんじゃない」


 言い方が、変わった。


 「若いのが二人、肝試しで見に行った」


 婆さんは、階段の下を見た。


 「何もされちゃいない。声もかけられちゃいない」


 一度、言葉を切る。


 「一人は、その晩に熱を出した」


 火が、揺れた。


 「もう一人は、三日、口をきかなかった」


   *


 クラインさんとクーリが出ていったのは、次の朝だった。


 俺は、ついていくか迷った。


 迷っていると、クーリが振り返った。


 「来れば」


 だから、行った。


   *


 水路を三つ渡り、坂を少し上がった所だった。


 新しい家が建っていた。


 板の色が明るく、屋根の葺き方が村の家と少し違う。窓辺には、花の鉢が四つ並んでいた。


 庭で、小さな子供が二人、棒を振り回していた。


 母親らしい女が出てきて、二人をまとめて叱る。


 クラインさんは、道の途中で止まった。


 クーリも、止まった。


 「……あそこ」


 クーリが言った。


 「井戸があった場所」

 「うん」

 「埋めたんだ」

 「新しいのを、向こうへ掘ったみたいだね」


 女が俺たちに気づき、軽く会釈した。


 クラインさんが、会釈を返した。


 それだけで、女は家の中へ戻った。


 子供たちは、まだ棒を振っている。


   *


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 「ねえ」


 クーリが言った。


 「あの子ら、うるさいね」

 「うるさいね」

 「あたしたちも、うるさかった?」

 「クーが一番うるさかった」

 「嘘」

 「本当だよ」


 クーリが、兄を見上げた。


 「……でも、それ知ってるの、兄貴じゃないでしょ」


 少し、間があった。


 「そうだね」

 「ジェスが、知ってる」

 「……そうだね」


 クラインさんは、二度とも否定しなかった。


 クーリが、言ってから黙った。


 黙って、それから下を向いた。


 「……今のは、なし」

 「事実だよ」

 「なしって言ってるでしょ」


 クーリが、道の石を一つ蹴った。


 石は坂を転がり、途中で草に止められた。


 「……よかった」


 小さな声だった。


 「うん」

 「何も無かったら、どうしようかと思ってた」

 「そうだね」


 クラインさんは、それだけ言った。


 妹の背中へ、手は置かなかった。


 置かないのが、この兄のやり方なのだと思った。


 クーリが、鼻をすすった。


 それから、急に振り返った。


 「言っとくけど、泣いてないから」

 「言ってないよ」

 「顔に書いてある」

 「書いてないよ」


 クーリが、俺を見た。


 「カイも、見てない」

 「見てない」

 「見たでしょ」

 「……花が四つあったな」


 クーリが、少し笑った。


 「四つだった」


   *


 その日の昼、俺は南の畑へ行った。


 ヤンさんが見ていた方角が、気になっただけだ。


 麦の間の細い道を歩くと、村が少しずつ小さくなった。丘の裾で、道が途切れた。


 鳥がいなかった。


 麦畑には雀がいるものだと思っていた。一羽も、飛んでいない。


 畦に、一人の男が座っていた。


 座っていても、大きかった。


 肩幅はバクさんより広い。腕まくりした腕には、古い傷が何本も走っている。


 髪は短く、白いものが混じっていた。


 左の耳が、上半分なかった。


 頭には、褪せた布を巻いている。


 畑仕事の男たちが、百歩ほど手前で足を止めた。畦を二本も余計に回り、こちらを見ないまま戻っていく。


 男は、気にしていなかった。


 俺は、近づいた。


 「こんにちは」


 男が、顔を上げた。


 しばらく、何も言わなかった。


 「……わしにか」


 低い声だった。


 「はい」

 「物好きだな」


 男は、また麦へ目を戻した。


 「畑を見てるんですか」

 「見ておる」

 「いい畑ですね」

 「そうだな」


   *


 風が吹いた。


 麦の穂が、こちらへ頭を下げた。


 「一度、焼けたと聞きました」


 俺は言った。


 「その割には、よく育ってますね」


 男が、こちらを見た。


 「その割には、か」

 「あ」


 言ってから、何かを間違えたと分かった。


 男は、麦の穂を一本だけ指で挟んだ。


 「焼けた土は、悪い土か」

 「いえ」

 「灰が混じれば、育つものもある」


 穂を離す。


 「だが、焼けてよかったと言う者はおらん」


 声は荒くなかった。


 荒くないのが、かえって重かった。


 「焼けた土地を、焼けなかった側の物差しで測るな」


 男は、麦の向こうへ目をやった。


 「悪気はあるまい」


 穂の波が、男の前を通り過ぎた。


 「だが、悪気のない者ほど、自分がどこに線を引いたか、気づかんものだ」


 俺は、麦を見た。


 村に近い方ほど、穂が重い。


 「……すみません」


 頭を下げた。


 男が、少し目を細めた。


 「若いのに、謝るのが早いな」

 「間違えたので」

 「間違いを認めるのは、負けとは違う」


 男は言った。


 「認めぬまま逃げるのが、負けだ」


   *


 俺は、しばらくそこにいた。


 男は何も聞いてこなかった。俺も、名前を聞かなかった。


 麦の擦れる音だけが、ずっと続いていた。


 風が強くなり、男の頭の布を押した。


 右の額で、何かが持ち上がった。


 根元だけが見えた。


 木の枝には見えなかった。


 左側には、何もない。


 男は、布を直さなかった。


 「あの」

 「なんだ」

 「村の人、怖がってますよ」

 「知っておる」

 「説明しないんですか」

 「説明して回る筋合いはない」

 「では、どうしてここに?」


 男は、少し黙った。


 「畑を踏まれると、困る」

 「誰にですか」


 答えなかった。


 一度だけ、東の山際を見た。


 遺跡のある方角だった。


   *


 「小僧」

 「はい」

 「怖くないのか」

 「何がですか」


 男が、こちらを見た。


 そのまま、少し笑った。目尻に、深い皺が寄る。


 「四年、ここに座っておる」

 「長いですね」

 「話しかけてきたのは、お前で三人目だ」

 「前の二人に、何かしたんですか」

 「何もしておらん」


 男は、麦を見た。


 「何もせん者が、一番怖いらしい」


   *


 男が、立ち上がった。


 膝の上に置いていた、長い物も一緒に持ち上がる。布が幾重にも巻かれ、形は分からない。長い柄と、俺の肩幅ほどある塊が見えた。


 立つと、ヤンさんより高かった。


 「重そうですね」

 「重い」


 男は、それを片手で担ぎ直した。


 石突きが畦を掠め、乾いた土へ深い穴を開けた。


 本人は、気づいていないようだった。


 「持って歩くの、大変じゃないですか」

 「そういう重さではない」


 男は、麦を見た。


 「わしにも、畑があるのでな」


 意味は、よく分からなかった。


 少なくとも、ここの畑ではないのだと思った。


 「では」

 「ああ」


 俺が歩き出すと、後ろから声がした。


 「小僧」


 振り返った。


 男は、まだ立っていた。


 「連れに、背の高い男がおるな」

 「います」

 「斧槍を使う」


 俺は、少し黙った。


 「……はい」


 男が、頷いた。


 風の向きが変わった気がした。


 「そうか」


 それだけ言い、男は丘の方へ歩き始めた。


 布に包まれた得物が、麦より高い所を進んでいく。


 風の中で、低い声がした。


 「……やっと来たか。待ち侘びたぞ」


   *


 宿へ戻ると、ヤンさんが土間にいた。


 ハルバードを布から出している。


 この人が、宿以外で得物を手入れするのを、俺は数えるほどしか見ていない。


 「ヤンさん」

 「ああ」

 「出かけるんですか」

 「用がある」


 石突きを床へ置き、柄をゆっくり回している。歪みを見ているのだと思う。


 「どこへ?」

 「近い」

 「いつ戻りますか」

 「分からん」


 三つ目だけ、いつもの答えではなかった。


 俺は、少し迷った。


 「南の畑に、大きな男がいました」


 ヤンさんの手が、止まった。


 すぐに、また柄が回り始める。


 「そうか」

 「頭に布を巻いてました」

 「ああ」

 「自分にも畑がある、と言ってました」


 柄の回転が、止まった。


 今度は、しばらく動かなかった。


 「……そうか」


 ヤンさんは、ハルバードを担いだ。


 「カイ」

 「はい」

 「明日、穴へ潜るんだったな」

 「はい」

 「知らん場所で、角を一人で曲がるな」

 「分かりました」

 「それだけだ」


 ヤンさんは、外へ出た。


 戸口で、一度だけ止まる。


 「ジェスには、用足しだと言っておけ」

 「用足しですか」

 「用足しだ」


 斧槍を担いだ男の用足しを、俺は初めて見送った。


   *


 夜、ジェスは機嫌がよかった。


 ギルドで散々飲まされ、散々からかわれたのに、ずっと笑っていた。


 「ハンナ婆さん、俺のこと覚えてたぞ」

 「そりゃ、覚えてるでしょ」


 クーリが、呆れた顔をした。


 「五年半だぞ」

 「五年半で忘れる顔じゃないよ、ジェスは」


 クラインさんは、机に地図を広げていた。


 「明日は、五階までにしよう。まず様子を見る」

 「十五階まで行けるんだろ?」

 「行ける、と、行っていい、は違う」

 「出た」


 クーリが、指を折っていた。


 「兄貴。この村の素材の買取率、聞いた?」

 「……聞いていないな」

 「なんで聞かないの!」

 「必要な話を先にしたから」

 「それが必要な話でしょ!」


 クーリが、立ち上がった。


 「明日の朝、あたしが聞いてくる。兄貴は喋らないで」

 「僕は、交渉が下手かい」

 「下手じゃない。興味がないの。そっちの方が悪い」


 ジェスが、干し肉を齧りながら頷いた。


 「妹の言う通りだ」

 「ジェスも黙ってて」

 「なんで俺まで」


 クーリが、干し肉を噛みながら聞いた。


 「ヤンさんは?」

 「用足しだって」

 「……ふうん」


 それ以上、誰も聞かなかった。


 この一行は、そういうところがある。


   *


 ツムグが帰ってきたのは、夜も遅くなってからだった。


 ジェスが扉の音を気にし続けていたのは、少し面白かった。


 ツムグは、煤だらけだった。機嫌は悪そうなのに、目だけが光っている。


 「あの炉、癖がある」

 「怒られました?」

 「怒った。あたしが」


 鎚を壁へ立てかける。


 一度、柄へ手を添え、頭を下げてから椅子へ沈んだ。


 「風の入りが、左へ寄ってる」

 「直せそうですか」

 「三日で直す」

 「炉を?」

 「誰も気づいてなかった」


 ジェスが、素直に感心した。


 「すげぇな」


 ツムグは、目を閉じたまま答えた。


 「アンタは、アンタの心配をしてな」


 片目だけを開ける。


 「あたしは、あたしの仕事をする」

 「ああ。分かってるよ」


 ツムグは、小さく頷いた。


 あの一礼を、俺は何度見ても好きだった。


   *


 朝になっても、ヤンさんは戻っていなかった。


 誰も、そのことには触れなかった。


 ツムグは、先に鍛冶場へ向かった。


 出がけに、ジェスへ声をかける。


 「今日は、穴へ行くんだね」

 「ああ」

 「何が出るか知らないけど、いい鉄があったら頼むよ」

 「任せとけ。俺は、俺の仕事をするさ」

 「……気をつけていきな」

 「おう」


 ツムグは、それだけ言って歩き出した。


 ジェスは、見えなくなるまで背中を見ていた。


   *


 宿を出て、東へ向かった。


 水路を渡り、畑の縁を回り、山際の道へ入る。


 俺と、ジェスと、クラインさんと、クーリ。


 ハジで初めて、冒険者になるため洞窟へ入った時と、同じ四人だった。


 「なんか、久しぶりだな」


 ジェスが言った。


 「俺ら四人だけって」

 「そうだね」

 「大丈夫か、俺ら」

 「ジェスが一番の不安要素」

 「なんでだよ!」


 ナナが、俺の隣へ並んだ。


 『五人です』

 「え?」

 『カイさま。ジェスさま。クラインさま。クーリさま。そして、ナナ。五人です』


 ジェスが、足を止めた。


 それから、笑った。


 「そうだったな」

 『はい』

 「五人だ」

 『はい』


   *


 穴は、山の腹に開いていた。


 思っていたより、大きかった。


 入口の両脇に、石の柱が二本立っている。上は欠けていたが、彫られた文字は残っていた。


 左の柱が、傾いている。


 「変わってねぇ」


 ジェスが言った。


 「ここまではね」


 クラインさんが答えた。


 彼は柱を見上げ、すぐに俺を見た。


 「……カイくん」

 「はい」

 「読めるかい」


 俺は、文字を見た。


 読めた。


 『第三研究所 第十二観測所』


 その下に、もう一行ある。


 『地質・地殻変動観測所 第一種立入区分』


 読み上げなかった。


 クラインさんは俺の顔を見て、帳面を取り出した。


 「後で聞くよ」

 「はい」


 ジェスが、穴の中を覗き込んだ。


 「涼しいな」

 「風が出ています」


 穴の奥から、冷たい風が吹いていた。


 大きな何かが、暗闇の中で息を吐いているようだった。


 『カイさま』


 念話だった。


 『反応があります』

 『どこだ』

 『真下です』


 少し、間があった。


 『……深度は、取得できません』


 俺は、暗闇を見た。


 ジェスが、剣の柄へ手を置く。


 クーリが、新しい弓を背から外した。


 クラインさんが、杖を握り直す。


 ナナの腰で、細い剣が鳴った。


 「行きましょう」

 「おう」


 五人で、穴へ入った。


 (第三十九話「畑」・了)


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