Re:sou 第三十九話「畑」
国境を越えたのは、三日目の昼だった。
街道の脇に、石を積んだだけの詰所があった。兵が二人、槍を壁に立てて昼飯を食べている。
片方が、面倒そうに立ち上がった。
「名と、行き先」
「ジェス。ナンタまで」
兵の目が、少し開いた。
「サイラスとジェニーの倅か?」
ジェスは、一度だけ瞬きをした。
「……そう」
「そうか」
兵は、それ以上を聞かなかった。人数を数え、ヤンさんを見て、通行札を返した。
「通れ」
それだけで、終わった。
クラインさんが、歩きながら帳面に何か書いていた。
「身分証より早かったですね」
「田舎は、親の名前の方が早いんだよ」
ジェスは、前を向いたまま答えた。
*
道が緩く下り始めると、畑が見えた。
麦だった。
まだ青い段と、黄ばみ始めた段が、谷の斜面を埋めている。風が渡るたび、二つの色の境目がゆっくり動いた。
ジェスの足が、少しずつ速くなった。
「おい」
後ろから、ツムグが言った。
「荷が揺れてる」
「揺れてねぇよ」
「揺れてる」
揺れていた。
ジェスは、歩幅を落とした。少しだけだった。
クーリが、外套のフードを外した。
何も言わず、前を見ていた。
*
村へ入る前から、水車の音が聞こえた。
ここが、ナンタだった。
石と木の家が谷筋に沿って並び、真ん中を水路が走っている。水車が二つ、軋みながら回っていた。
村は、半分だけ新しかった。
水路に近い家は、壁板の色が明るい。屋根も葺き直され、窓には洗った布が干してある。
そこから少し外れると、家と家の間が急に広くなった。
草の中に、黒く焼けた礎石が残っている。積み直された石垣も、途中で終わっていた。
戻ったのではない。
人が暮らせる所だけを、寄せて繕ったのだと思った。
「……変わったな」
ジェスが言った。
「変わっていない所もあるよ」
クラインさんが答えた。
ジェスは、返事をしなかった。
村の入口で一度だけ止まり、それから大股で歩き出した。
*
冒険者ギルドは、水路のそばにあった。
ハジのものより小さい。看板には同じ剣が描かれていたが、刃先が下を向いている。
扉を開けた瞬間、俺は半歩だけ下がった。
うるさかった。
昼間から大勢が飲んでいる。奥では三人が一つの椅子を巡って揉め、誰かが皿を落とした。
受付から、しわがれた声が飛んだ。
「割った奴、名乗れ!」
誰も名乗らなかった。
窓口の向こうに、小さな婆さんがいた。積んだ木箱の上に立ち、顔だけを受付から出している。
その顔が、こちらを向いた。
止まった。
「……ジェス?」
ギルドが、静かになった。
「ハンナ婆さん」
「ジェス!」
婆さんが、木箱を蹴倒して出てきた。
それが、合図だった。
*
もみくちゃ、という言葉を、俺はあの日に覚えたと思う。
髭の男がジェスの首へ腕を回した。別の男が背中を叩き、誰かが酒を持ってきた。止めた奴も、結局、一緒に飲み始めた。
「生きてやがった! しかも、でかくなりやがって!」
「死んでねぇよ。死にかけたことはあるけどな!」
「五年も音沙汰なしなら、死んだ扱いだ!」
「五年半だよ!」
「もっと悪いわ!」
ジェスの声が、聞いたことのない高さになっていた。
クラインさんも、すぐに捕まった。
「クラインの坊っちゃんも帰ったぞ!」
「坊っちゃんは、やめてください」
「帝都の魔法学校まで行った坊っちゃんが、まだ本を抱えてる!」
「人生に必要な道具です」
「変わってねぇ!」
クーリは、女の冒険者たちに囲まれていた。
「背、伸びたねぇ」
「伸びたよ!」
「昔は、この辺だったよ」
「そんなに小さくない!」
「口も大きくなった」
「それは前から!」
誰かが笑った。
その笑いの中で、一人の女がクーリの頭を抱いた。
「よく帰ったね」
クーリは、少しだけ黙った。
「……ただいま」
*
俺は、壁際にいた。
こういう時、外から来た人間は壁際にいるものだと思う。
ナナも隣へ立ち、同じ姿勢をしていた。腰の剣が、椅子の背へ当たって小さく鳴る。
『にぎやかですね』
「そうだね。いい所だ」
『ハジの三倍です』
「……数えたのか?」
『音の量です』
どうやって数えたのか聞こうとした時、近くの卓から声がした。
「だから、亜人だろ。獣人系の、でかいやつ」
「獣人にしちゃ、耳がねぇ」
「片方は、あるかもしれん」
「あと、あれだ」
男が、自分の額を指で叩いた。
「布の下」
「……言うなよ」
「言ってねぇよ」
「今、言っただろ」
二人とも、それきり黙って飲み始めた。
ヤンさんは、入口の柱にもたれていた。
中へ入ろうとしない。
白い髭の男が一人、それに気づいて杯を置いた。
「……旦那」
近くにいた何人かが振り返った。
空気が、少しだけ変わった。
「旦那が来てくれなきゃ、この村は無かった」
「昔の話だ」
「礼も言えねぇまま、行っちまった」
男は、自分の杯を持ち上げた。
「一杯、奢らせてくれ」
「後で……な」
ヤンさんは、短く答えた。
男は、それ以上、勧めなかった。ただ一度、深く頭を下げた。
ヤンさんは、その頭を見ていなかった。
*
騒ぎの向きが変わったのは、ツムグのせいだった。
正確には、荷を下ろすためにジェスの隣へ立っただけだ。
髭の大男が、それを見た。
「ジェス」
「あ?」
「そっちの娘は、なんだ」
ギルドが、また静かになった。
ツムグが、顔を上げた。
「ああ。ツムグ、鍛冶師だ」
「そんなのは聞いておらん」
大男は、身を乗り出した。
「お前の、なんだ」
ジェスが、口を開けたままツムグを見た。
ツムグも、ジェスを見た。
その一呼吸が、致命的だった。
「うおおおおおっ!」
ギルドが、揺れた。
「嫁だ!」
「ジェスが嫁を連れて帰ってきやがった!」
「五年半で嫁!」
「ちげぇ! そんなんじゃねぇ!」
「顔が赤ぇ!」
「うるせぇ!」
ツムグが、ジェスの脛を蹴った。
「痛ぇ!」
「否定するなら、こっちを見る前にしな」
「分かってるよ!」
「分かってないから、こうなってんだろ」
「もう尻に敷かれてるぞ!」
誰かが叫び、ギルドがまた揺れた。
ハンナ婆さんが木箱へ戻り、受付から身を乗り出した。
「あんた、名は」
「ツムグ」
「歳は」
「十九」
「鍛冶師だって?」
「そうだよ」
「打てるのかい」
ツムグは、少し眉を寄せた。
「半分はドワーフだ。腕は、見れば分かる」
婆さんが、ツムグの腕と鎚を見た。
それから、後ろを振り返った。
「誰か、ガルドを呼んでこい! 走れ!」
*
鍛冶場の親方は、すぐに来た。
片腕だけが、妙に太い男だった。
ツムグの背丈を見て、手を見て、指の付け根の胼胝を見る。最後に、自分の鎚を差し出した。
「振ってみろ」
ツムグは受け取り、二度だけ軽く振った。それから、片手を柄の中ほどへ移した。
「重心を先へ寄せすぎてる」
「そうか」
「落とす時はいい。でも、返すたびに手首へ来る」
親方が、片眉を上げた。
「うちで働くか」
「いくら」
「一日、銀貨三枚」
「四枚」
「まず腕を見せろ」
「見せたら四枚」
「三枚と、炉を好きに使わせる」
「炉を直していいなら」
「壊すなよ」
「直すって言ってる」
交渉は、それで終わった。
ジェスが横で、小さく言った。
「早ぇな」
*
ヤンさんが、いなくなっていた。
気づいたのは、日が傾いてからだ。柱にもたれていた場所に、誰もいない。
外へ出ると、水路の縁に立っていた。
村を見てはいなかった。
南を見ていた。
畑の向こうに、低い丘が三つ並んでいる。その一番奥を、じっと見ていた。
「ヤンさん」
「ああ」
「何かありますか」
少し、間があった。
「畑だ」
それだけ言い、こちらを向いた。
いつもの顔だった。
*
遺跡の話を聞いたのは、その夜だった。
ギルドの二階に、古い地図が貼られていた。ハンナ婆さんが、蝋燭を持って上がってくる。
村の東、山際に赤い印がついていた。
「昔は、遺跡と呼んでた」
婆さんは言った。
「石の柱が並んでてね。ひい爺さんの代までは、祭りもやってたそうだよ」
「今は?」
「穴さ。魔石と素材が採れる、この村の稼ぎ場だ」
ジェスが、地図を覗き込んだ。
「入口の左の柱、まだ傾いてんの?」
「傾いてるよ」
「あれ、俺が生まれる前からだぞ」
俺は、ジェスを見た。
「知ってるんですか」
「潜ったことがある」
「どこまで?」
「三階」
クラインさんが、帳面から顔を上げた。
「三階まで、ね」
「行っただろ」
「行ったよ。君が先へ行こうとして、僕が一緒に引きずり戻された」
ハンナ婆さんが、鼻で笑った。
「あんたら、クヴァンに大目玉を食らってたねぇ」
*
「怒られたんですか」
俺が聞くと、ジェスは少し黙った。
「クラインの親父さんにな」
クラインさんのペンが、止まった。
「勝手に行くなって、殴られた」
「痛かったですか」
「痛かった」
ジェスは、地図を見たままだった。
「どうして、そこまで行こうとしたんですか」
少し、間があった。
「早く強くなりたかったんだよ」
それだけだった。
クラインさんは、何も足さなかった。
クーリが、干し肉を齧りながら言った。
「あたし、入ったことない」
「小さかったからな」
「二人だけで行ったんでしょ」
「連れていったら、親父さんに殺されてたよ」
「殴られるだけで済んだくせに」
*
「話を戻すよ」
ハンナ婆さんが、蝋燭を地図の前へ置いた。
「十五階までは、ギルドが出入りを認めてる。地図もある程度のがあるから、上げるよ」
指が、その下を叩く。
「それより先は、五年前から禁じた」
俺は、顔を上げた。
「何かあったんですか」
「深くなった」
婆さんは言った。
「同じ穴なのに、下が増えたのさ」
降りた組が、戻らなかった。続けて出た者たちも、帰らなかった。
それで、ギルドは十五階より下を閉じた。
クラインさんが、帳面を開いた。
「五年前、というのは……」
「ああ……竜が来た後だよ」
俺は、ジェスを見た。
ジェスは、地図を見ていた。
「関係があるかは、分からない」
婆さんは、先にそう言った。
「ただね。傷を負った竜が、山の方へ飛んだと言う爺さんがいる」
クラインさんの手が、止まった。
「あの晩、空を見ていた者なんて、ほとんどいない」
婆さんは、蝋燭を持ち上げた。
「皆、逃げるので精一杯だった」
*
「あんたら、潜るのかい」
「はい」
「どこまで」
俺は、地図の赤い印を見た。
「一番下まで」
婆さんは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、ジェスたちを順番に見た。
「止めても、行く顔だね」
「すみません」
「謝るくらいなら、帰ってきな」
蝋燭の火が、揺れた。
「婆あより先に死ぬ奴を、もう見たくない」
ジェスが、少しだけ俯いた。
クラインさんが、帳面を閉じた。
クーリは、干し肉を齧るのをやめていた。
俺は、シスター・ルシアを思い出していた。
あの、刃みたいに鋭いままの目を。
クラインさんが屋根の修繕に来なかった日のことも、一緒に思い出した。高い所が苦手なのだと思っていた。
たぶん、それだけではなかったのだ。
「帰ってきます」
俺は言った。
婆さんは、鼻を鳴らした。
「そうしな」
*
階段を下りかけて、一つ思い出した。
「ハンナさん」
「なんだい」
「南の丘に、誰かいますか」
婆さんが、蝋燭を持ったまま止まった。
「……何か見たのかい」
「ヤンさんが、そちらを見ていたので」
婆さんは、蝋燭を持ち直した。
「三年か、四年か。いつの間にか、妙なのが住み着いた」
「村の人ですか」
「違う」
返事が、少し早かった。
「悪さはしない。麦を買いに来て、銅貨を置いて帰る。それだけだよ」
「なら」
「近づくんじゃない」
言い方が、変わった。
「若いのが二人、肝試しで見に行った」
婆さんは、階段の下を見た。
「何もされちゃいない。声もかけられちゃいない」
一度、言葉を切る。
「一人は、その晩に熱を出した」
火が、揺れた。
「もう一人は、三日、口をきかなかった」
*
クラインさんとクーリが出ていったのは、次の朝だった。
俺は、ついていくか迷った。
迷っていると、クーリが振り返った。
「来れば」
だから、行った。
*
水路を三つ渡り、坂を少し上がった所だった。
新しい家が建っていた。
板の色が明るく、屋根の葺き方が村の家と少し違う。窓辺には、花の鉢が四つ並んでいた。
庭で、小さな子供が二人、棒を振り回していた。
母親らしい女が出てきて、二人をまとめて叱る。
クラインさんは、道の途中で止まった。
クーリも、止まった。
「……あそこ」
クーリが言った。
「井戸があった場所」
「うん」
「埋めたんだ」
「新しいのを、向こうへ掘ったみたいだね」
女が俺たちに気づき、軽く会釈した。
クラインさんが、会釈を返した。
それだけで、女は家の中へ戻った。
子供たちは、まだ棒を振っている。
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
「ねえ」
クーリが言った。
「あの子ら、うるさいね」
「うるさいね」
「あたしたちも、うるさかった?」
「クーが一番うるさかった」
「嘘」
「本当だよ」
クーリが、兄を見上げた。
「……でも、それ知ってるの、兄貴じゃないでしょ」
少し、間があった。
「そうだね」
「ジェスが、知ってる」
「……そうだね」
クラインさんは、二度とも否定しなかった。
クーリが、言ってから黙った。
黙って、それから下を向いた。
「……今のは、なし」
「事実だよ」
「なしって言ってるでしょ」
クーリが、道の石を一つ蹴った。
石は坂を転がり、途中で草に止められた。
「……よかった」
小さな声だった。
「うん」
「何も無かったら、どうしようかと思ってた」
「そうだね」
クラインさんは、それだけ言った。
妹の背中へ、手は置かなかった。
置かないのが、この兄のやり方なのだと思った。
クーリが、鼻をすすった。
それから、急に振り返った。
「言っとくけど、泣いてないから」
「言ってないよ」
「顔に書いてある」
「書いてないよ」
クーリが、俺を見た。
「カイも、見てない」
「見てない」
「見たでしょ」
「……花が四つあったな」
クーリが、少し笑った。
「四つだった」
*
その日の昼、俺は南の畑へ行った。
ヤンさんが見ていた方角が、気になっただけだ。
麦の間の細い道を歩くと、村が少しずつ小さくなった。丘の裾で、道が途切れた。
鳥がいなかった。
麦畑には雀がいるものだと思っていた。一羽も、飛んでいない。
畦に、一人の男が座っていた。
座っていても、大きかった。
肩幅はバクさんより広い。腕まくりした腕には、古い傷が何本も走っている。
髪は短く、白いものが混じっていた。
左の耳が、上半分なかった。
頭には、褪せた布を巻いている。
畑仕事の男たちが、百歩ほど手前で足を止めた。畦を二本も余計に回り、こちらを見ないまま戻っていく。
男は、気にしていなかった。
俺は、近づいた。
「こんにちは」
男が、顔を上げた。
しばらく、何も言わなかった。
「……わしにか」
低い声だった。
「はい」
「物好きだな」
男は、また麦へ目を戻した。
「畑を見てるんですか」
「見ておる」
「いい畑ですね」
「そうだな」
*
風が吹いた。
麦の穂が、こちらへ頭を下げた。
「一度、焼けたと聞きました」
俺は言った。
「その割には、よく育ってますね」
男が、こちらを見た。
「その割には、か」
「あ」
言ってから、何かを間違えたと分かった。
男は、麦の穂を一本だけ指で挟んだ。
「焼けた土は、悪い土か」
「いえ」
「灰が混じれば、育つものもある」
穂を離す。
「だが、焼けてよかったと言う者はおらん」
声は荒くなかった。
荒くないのが、かえって重かった。
「焼けた土地を、焼けなかった側の物差しで測るな」
男は、麦の向こうへ目をやった。
「悪気はあるまい」
穂の波が、男の前を通り過ぎた。
「だが、悪気のない者ほど、自分がどこに線を引いたか、気づかんものだ」
俺は、麦を見た。
村に近い方ほど、穂が重い。
「……すみません」
頭を下げた。
男が、少し目を細めた。
「若いのに、謝るのが早いな」
「間違えたので」
「間違いを認めるのは、負けとは違う」
男は言った。
「認めぬまま逃げるのが、負けだ」
*
俺は、しばらくそこにいた。
男は何も聞いてこなかった。俺も、名前を聞かなかった。
麦の擦れる音だけが、ずっと続いていた。
風が強くなり、男の頭の布を押した。
右の額で、何かが持ち上がった。
根元だけが見えた。
木の枝には見えなかった。
左側には、何もない。
男は、布を直さなかった。
「あの」
「なんだ」
「村の人、怖がってますよ」
「知っておる」
「説明しないんですか」
「説明して回る筋合いはない」
「では、どうしてここに?」
男は、少し黙った。
「畑を踏まれると、困る」
「誰にですか」
答えなかった。
一度だけ、東の山際を見た。
遺跡のある方角だった。
*
「小僧」
「はい」
「怖くないのか」
「何がですか」
男が、こちらを見た。
そのまま、少し笑った。目尻に、深い皺が寄る。
「四年、ここに座っておる」
「長いですね」
「話しかけてきたのは、お前で三人目だ」
「前の二人に、何かしたんですか」
「何もしておらん」
男は、麦を見た。
「何もせん者が、一番怖いらしい」
*
男が、立ち上がった。
膝の上に置いていた、長い物も一緒に持ち上がる。布が幾重にも巻かれ、形は分からない。長い柄と、俺の肩幅ほどある塊が見えた。
立つと、ヤンさんより高かった。
「重そうですね」
「重い」
男は、それを片手で担ぎ直した。
石突きが畦を掠め、乾いた土へ深い穴を開けた。
本人は、気づいていないようだった。
「持って歩くの、大変じゃないですか」
「そういう重さではない」
男は、麦を見た。
「わしにも、畑があるのでな」
意味は、よく分からなかった。
少なくとも、ここの畑ではないのだと思った。
「では」
「ああ」
俺が歩き出すと、後ろから声がした。
「小僧」
振り返った。
男は、まだ立っていた。
「連れに、背の高い男がおるな」
「います」
「斧槍を使う」
俺は、少し黙った。
「……はい」
男が、頷いた。
風の向きが変わった気がした。
「そうか」
それだけ言い、男は丘の方へ歩き始めた。
布に包まれた得物が、麦より高い所を進んでいく。
風の中で、低い声がした。
「……やっと来たか。待ち侘びたぞ」
*
宿へ戻ると、ヤンさんが土間にいた。
ハルバードを布から出している。
この人が、宿以外で得物を手入れするのを、俺は数えるほどしか見ていない。
「ヤンさん」
「ああ」
「出かけるんですか」
「用がある」
石突きを床へ置き、柄をゆっくり回している。歪みを見ているのだと思う。
「どこへ?」
「近い」
「いつ戻りますか」
「分からん」
三つ目だけ、いつもの答えではなかった。
俺は、少し迷った。
「南の畑に、大きな男がいました」
ヤンさんの手が、止まった。
すぐに、また柄が回り始める。
「そうか」
「頭に布を巻いてました」
「ああ」
「自分にも畑がある、と言ってました」
柄の回転が、止まった。
今度は、しばらく動かなかった。
「……そうか」
ヤンさんは、ハルバードを担いだ。
「カイ」
「はい」
「明日、穴へ潜るんだったな」
「はい」
「知らん場所で、角を一人で曲がるな」
「分かりました」
「それだけだ」
ヤンさんは、外へ出た。
戸口で、一度だけ止まる。
「ジェスには、用足しだと言っておけ」
「用足しですか」
「用足しだ」
斧槍を担いだ男の用足しを、俺は初めて見送った。
*
夜、ジェスは機嫌がよかった。
ギルドで散々飲まされ、散々からかわれたのに、ずっと笑っていた。
「ハンナ婆さん、俺のこと覚えてたぞ」
「そりゃ、覚えてるでしょ」
クーリが、呆れた顔をした。
「五年半だぞ」
「五年半で忘れる顔じゃないよ、ジェスは」
クラインさんは、机に地図を広げていた。
「明日は、五階までにしよう。まず様子を見る」
「十五階まで行けるんだろ?」
「行ける、と、行っていい、は違う」
「出た」
クーリが、指を折っていた。
「兄貴。この村の素材の買取率、聞いた?」
「……聞いていないな」
「なんで聞かないの!」
「必要な話を先にしたから」
「それが必要な話でしょ!」
クーリが、立ち上がった。
「明日の朝、あたしが聞いてくる。兄貴は喋らないで」
「僕は、交渉が下手かい」
「下手じゃない。興味がないの。そっちの方が悪い」
ジェスが、干し肉を齧りながら頷いた。
「妹の言う通りだ」
「ジェスも黙ってて」
「なんで俺まで」
クーリが、干し肉を噛みながら聞いた。
「ヤンさんは?」
「用足しだって」
「……ふうん」
それ以上、誰も聞かなかった。
この一行は、そういうところがある。
*
ツムグが帰ってきたのは、夜も遅くなってからだった。
ジェスが扉の音を気にし続けていたのは、少し面白かった。
ツムグは、煤だらけだった。機嫌は悪そうなのに、目だけが光っている。
「あの炉、癖がある」
「怒られました?」
「怒った。あたしが」
鎚を壁へ立てかける。
一度、柄へ手を添え、頭を下げてから椅子へ沈んだ。
「風の入りが、左へ寄ってる」
「直せそうですか」
「三日で直す」
「炉を?」
「誰も気づいてなかった」
ジェスが、素直に感心した。
「すげぇな」
ツムグは、目を閉じたまま答えた。
「アンタは、アンタの心配をしてな」
片目だけを開ける。
「あたしは、あたしの仕事をする」
「ああ。分かってるよ」
ツムグは、小さく頷いた。
あの一礼を、俺は何度見ても好きだった。
*
朝になっても、ヤンさんは戻っていなかった。
誰も、そのことには触れなかった。
ツムグは、先に鍛冶場へ向かった。
出がけに、ジェスへ声をかける。
「今日は、穴へ行くんだね」
「ああ」
「何が出るか知らないけど、いい鉄があったら頼むよ」
「任せとけ。俺は、俺の仕事をするさ」
「……気をつけていきな」
「おう」
ツムグは、それだけ言って歩き出した。
ジェスは、見えなくなるまで背中を見ていた。
*
宿を出て、東へ向かった。
水路を渡り、畑の縁を回り、山際の道へ入る。
俺と、ジェスと、クラインさんと、クーリ。
ハジで初めて、冒険者になるため洞窟へ入った時と、同じ四人だった。
「なんか、久しぶりだな」
ジェスが言った。
「俺ら四人だけって」
「そうだね」
「大丈夫か、俺ら」
「ジェスが一番の不安要素」
「なんでだよ!」
ナナが、俺の隣へ並んだ。
『五人です』
「え?」
『カイさま。ジェスさま。クラインさま。クーリさま。そして、ナナ。五人です』
ジェスが、足を止めた。
それから、笑った。
「そうだったな」
『はい』
「五人だ」
『はい』
*
穴は、山の腹に開いていた。
思っていたより、大きかった。
入口の両脇に、石の柱が二本立っている。上は欠けていたが、彫られた文字は残っていた。
左の柱が、傾いている。
「変わってねぇ」
ジェスが言った。
「ここまではね」
クラインさんが答えた。
彼は柱を見上げ、すぐに俺を見た。
「……カイくん」
「はい」
「読めるかい」
俺は、文字を見た。
読めた。
『第三研究所 第十二観測所』
その下に、もう一行ある。
『地質・地殻変動観測所 第一種立入区分』
読み上げなかった。
クラインさんは俺の顔を見て、帳面を取り出した。
「後で聞くよ」
「はい」
ジェスが、穴の中を覗き込んだ。
「涼しいな」
「風が出ています」
穴の奥から、冷たい風が吹いていた。
大きな何かが、暗闇の中で息を吐いているようだった。
『カイさま』
念話だった。
『反応があります』
『どこだ』
『真下です』
少し、間があった。
『……深度は、取得できません』
俺は、暗闇を見た。
ジェスが、剣の柄へ手を置く。
クーリが、新しい弓を背から外した。
クラインさんが、杖を握り直す。
ナナの腰で、細い剣が鳴った。
「行きましょう」
「おう」
五人で、穴へ入った。
(第三十九話「畑」・了)




