Re:sou 第三十八話「千年」
二日酔いの行列が、王城の階段を登っていた。
ジェスは途中で二回止まった。
クーリは日除けに外套を頭からかぶり、幽霊みたいな格好で歩いている。
「なんで朝なんだよ」
「陛下は、朝から炉に入られます」
案内の兵が答えた。
「炉に入る王様がいるか」
「おります」
兵の顔も、うっすら赤かった。
誰も、誰のことも責められない朝だった。
ツムグは、ヤンさんに背負われていた。
「起きてください」
「起きてる。目、閉じてるだけ」
「それは寝てます」
クラインさんだけが、やたらと元気だった。
「僕は早々に潰れたからね。結果として、よく眠れた」
『クラインさまが倒れられたのは、四杯目です』
「記録を捨ててくれないか」
ナナは、いつもと同じ歩き方だった。
腰には、昨日受け取った細い剣を差している。
座り方も、階段の登り方も、鞘の位置を気にする形に変わっていた。
歩くたび、鞘の金具が、小さく鳴る。
ヤンさんが、一度だけ、それを見た。
何も言わなかった。
*
通されたのは、前と同じ部屋だった。
尖塔も、玉座も、絨毯もない。
中央に金床が据えられただけの、巨大な鍛冶場だ。
鍛冶王は、鎚を振っていた。
最後の一撃を落とし、赤い鉄を水へ沈める。
白い蒸気が上がった。
その向こうから、低い声がした。
「町が、妙なことを言っておる」
俺は、背筋を伸ばした。
「山へ登った者がいる。奉納の原に入った者がいる。門が開いたと言う者までおる」
鉄が、水の中で鳴っていた。
「酔っておらん者も、同じことを言う」
蒸気が、少しずつ抜けていく。
王は、鎚を置いた。
その音が、思っていたより大きく、部屋に響いた。
「話せ」
王は言った。
「全部だ」
*
俺は、麓から話した。
息が薄くなったこと。
雪の上で一晩明かしたこと。
尾根を越えたら、山の上とは思えないほど、平らな場所へ出たこと。
そこまで来たところで、王が口を挟んだ。
「その原に」
王は、金床を見たまま言った。
「手前から三列目。左の端に、頭が二つに割れた戦鎚がある」
俺は、言葉に詰まった。
あった。
柄の長い、大きな槌だ。
槌頭が、まっぷたつに割れていた。
あんな割れ方をするものかと思って、俺は二度見た。
「……ありました」
「ワシのだ」
王は、それだけ言った。
「その列の奥に、斧槍が一本」
今度は、バクだった。
「柄の下に、銀を巻いてある」
「ありました」
「あれは、俺のだ」
俺は、二人の顔を見比べた。
考えていなかった。
この国で一番になった者は、自分の最高傑作を担いで、あの場所へ登る。
この二人も、登ったのだ。
あの原は、昔話の場所ではない。
目の前にいる二人が、自分の手で打った物を、置いてきた場所だった。
「まだ、あったか」
王が聞いた。
声の高さは変わっていなかった。
「はい」
「錆びておらんか」
「錆びて、いませんでした」
王が、ゆっくり頷いた。
「あそこは、そういう場所だ」
*
俺が持って帰れる話は、一つしかなかった。
門の内側の話だ。
「開けました」
王の指が、止まった。
俺は、そこから話した。
何もない場所に、門だけが立っていたこと。
刀を当てたら、細い線が走ったこと。
音もなく、門が左右へ開いたこと。
内側から出てきたものが、風ではなかったこと。
クーリとクラインさんが、その場で膝を折ったこと。
ジェスが真っ青な顔で、後ろから応援だけしていたこと。
「応援も必要だろ」
ジェスが、小さく言った。
誰も拾わなかった。
ヤンさんが敷居に足をかけ、そこで止まったこと。
そして、自分の足で、下がったこと。
王が、ヤンさんを見た。
ヤンさんは、何も言わなかった。
「中に、龍がいました」
部屋の空気が、変わった。
「青い龍が、一体。門の前に」
兵の一人が、息を呑んだ。
「その奥に、もう一体」
俺は、言葉を選ぶのをやめた。
全部と言われたのだ。
「大きさが、分かりませんでした。頭も、尾も見えませんでした。あの暗がり全部が、そいつで埋まっているみたいでした」
兵の一人が、槍の石突を床へ落とした。
乾いた音がした。
「金色でした」
俺は言った。
「黄龍だと、思います」
*
王は、声を上げなかった。
驚いた顔もしなかった。
ただ、鎚の柄を握り直した。
「何か、言われたか」
「……言われました」
「言え」
俺は、そのまま伝えた。
「ドワーフどもも、劣化の割には、よう頑張っておったが」
炉の中で、炭が弾けた。
それ以外には、何も聞こえなかった。
「……そう呼ぶのか」
やがて、王が言った。
俺は、顔を上げた。
「陛下は、知っていたんですか」
「知っておった、とは言わん」
王は、金床に片手を置いた。
「知っておるなら、もっと上手く話せる」
厚い指が、金床の縁をなぞった。
「だが、何かが低くなっておるとは、思っていた」
「何か」
「分からん」
王は、即座に答えた。
「分からんから、誰も口に出さなんだ」
*
「小僧。千年と、言うな」
王が言った。
「そう言うと、遠い話に聞こえる」
俺は、意味が分からなかった。
「五代だ」
王は、指を折った。
一本。
二本。
三本。
五本を折り終えた手を、そのまま金床へ置いた。
「ワシらは、長く生きる。千年は、その程度だ」
それで、話が急に近くなった。
千年前が、神話ではなくなった。
ひいひいひい爺さんが、まだ若かった頃の話になった。
「五代前の王の記録には、門の内側のことが書いてある」
「残っているんですか」
「帳面は、この城にある」
王は言った。
「字も、変わっておらん」
*
「読めるのに、打てん」
王は、金床を撫でた。
「同じ手順で、同じ炭を使い、同じ回数を叩く」
鎚の柄へ、指を移した。
「だが、帳面に書かれた物にはならん」
俺は、何も言えなかった。
「技術は上がったと、思うておった」
王は続けた。
「道具は増えた。炉も良くなった。手順も細かくなった。それは間違いない」
けれど、とも言わなかった。
王の顔を見れば、続きは分かった。
「上手い奴の数が、五代前と変わらん」
王が、顔を上げた。
「増えた道具を使って、同じ所に立っておる」
少し、間があった。
「それだけなら、まだよい」
王は言った。
「鉄の方が、先に痩せた」
*
「帳面には、鉄の出所も書いてある」
王が言った。
「なんと書いてあると思う」
俺は、首を振った。
「『旅の者が持ってきた』」
王は、それだけ言った。
「どこから来た、何族の、何という者かは、書いておらん」
金床を、指で一度叩いた。
「書くまでもなかったのだろう」
俺の背中が、少しざわついた。
なぜかは、分からなかった。
*
「小僧。妙なことを言うぞ」
王は、そこで鎚から手を離した。
「ワシは、王になった日に、何かを見た」
部屋の兵が、わずかに動いた。
王本人も、どう話せばいいか分からない顔をしていた。
「見た、というのも違う。思い出した、でもない」
王は、自分の手を見ていた。
「入ってきた、という方が近い」
その手を、握る。
「ワシの覚えではない。誰のものかも分からん」
握った手が、わずかに震えた。
「その中に、鉄がある」
王は言った。
「見たこともない鉄だ」
俺は、背筋が冷えるのを感じた。
「打ったことがない。触ったこともない。だが、打ち方を知っておる」
王は、握った手を開いた。
「手が知っておる」
分厚い掌には、何も載っていなかった。
「だが、その鉄が無い」
部屋の誰も、口を開かなかった。
「黄龍の言ったことが、これを指すのかは分からん」
王は言った。
「分からんが——五代前の帳面にある物へ、今のワシらの手が届かんのは、事実だ」
*
「もう一つ、帳面から分かることがある」
王が言った。
「昔の連中は、穴に潜っておった」
俺は、顔を上げた。
「何階まで降りた。何を拾った。誰が腕を失った。誰が帰らなかった」
王の指が、金床を叩いた。
「全部、書いてある」
炉の火が、王の白い髭を赤く染めていた。
「塞ぎ始めたのは、三代ほど前からだ」
「危険だったから、ですか」
「ああ」
王は、短く答えた。
「戻らん者が多すぎた」
鎚を取る。
「腕の良い者ほど、深くへ行った」
持ち上げる。
「深くへ行った者から、帰らなんだ」
金床の、何も置かれていない場所を一度打った。
低い音が、部屋を渡った。
「穴を塞いだことだけが、今の全ての原因だとは言わん」
王は、鎚を下ろしたまま続けた。
「だが、ワシらが自分で閉じた道が、一つあることだけは間違いない」
もう一度、金床を打った。
「潜る者が減れば、鉄が減る」
三度目。
「鉄が減れば、打てる物も減る」
四度目は、打たなかった。
鎚が、金床の上で止まった。
「打てぬ物を、打てるようになる腕は育たん」
*
クラインさんが、一歩前に出た。
「陛下。学者として、観測できる事実だけを申し上げます」
王が、頷いた。
クラインさんは、抱えていた帳面を開いた。
「古い記録は、今より数字が大きいのです」
「数字」
「エルフの寿命。人の背丈。獣人の走る速さ。魔法の届く距離」
頁を、一枚めくった。
「もちろん、誇張も写し間違いもあるでしょう。けれど、全てをそれだけで片づけるには、記録が多すぎます」
クラインさんは、眼鏡を押し上げた。
「ドワーフだけではないのか」
「はい」
王は、少し考えた。
「そうか」
それだけだった。
慰めには聞こえなかった。
多分、王も慰めとして受け取っていない。
*
俺は、言った。
言わなければ、この部屋がそのまま沈んでいく気がした。
「陛下。あの穴は、減りません」
王の目が動いた。
「なに」
「俺たちが潜った場所です」
俺は、ダンジョンのことを話した。
二十階まで降りたこと。
壁から鉱石が採れたこと。
魔物を倒しても、鉱石や魔石が残ったこと。
一度掘った場所へ戻っても、しばらくすれば、また石が現れていたこと。
「岩は、戻るのか」
「はい」
「掘ってもか」
「戻りました」
「何度でもか」
「俺たちが見た限りでは」
王が、金床に両手をついた。
この山に、石がないわけではない。
けれど、昔の帳面に書かれた鉄はない。
ツムグは、それで母親の帳面を睨み続けていた。
その国の地の底に、掘っても戻る鉱山がある。
王は、長い間、黙っていた。
それから、小さく言った。
「……旅の者、か」
「陛下?」
「なんでもない」
*
「あそこで出た鉄なら、あるいは」
俺は言った。
「必ず昔と同じ物になるとは言えません。でも、試すことはできます」
「お前の刀の鉄は」
王が遮った。
「お前にしか扱えん熱で溶かしたと聞いておる」
後ろから、バクが答えた。
「炉が届かん」
それだけだった。
俺も、否定できなかった。
ヒヒイロカネを溶かした火は、俺一人の火ではない。
ナナを借りて、ようやく届かせた。
「あれは、そうです」
俺は認めた。
「ですが、あそこにあるのは、あれだけじゃありません」
王は、動かなかった。
「普通の鉄より良い物もある。ミスリルもある。名前の分からない鉱石も、まだ下にあるかもしれません」
「下は、まだあるのか」
「二十階より先がありました」
「どこまでだ」
「分かりません」
王が、鼻から長く息を出した。
「分からんものばかりだな」
「すみません」
「謝ることではない」
王は言った。
「分からんから、打つのだ」
*
「小僧。もう一つ、言っておく」
王は、俺を見なかった。
「ワシは、歴代より弱い」
部屋の誰も、動かなかった。
「腕ではない」
王は、すぐに付け足した。
「腕なら、負けん。そこだけは誇っておる」
王は、自分の手を見た。
「だが、何かが足りん」
手を開き、閉じる。
「何が足りんのかは知らん」
それでも、と王は続けた。
「分かる」
厚い手が、ゆっくり下りた。
「昔の王は、もっと重かった」
誰も、否定しなかった。
否定できる者が、この部屋にはいなかった。
「足りん物の名が分からんなら、名のある物で埋めるしかない」
王は言った。
「鉄と、腕と、数だ」
*
「昨今は、合わせるより、競わせる方へ寄せすぎたかもしれん」
王が、鎚を肩に担いだ。
「来年の大会に、炉を一つ増やす」
部屋の後ろが、わずかにざわついた。
「個人の一振りは、今までどおりだ。王へ挑む道も変えん」
王は、先にそう言った。
「だが、別に一つ設ける」
「別の、部門ですか」
「組んで打て」
ざわめきが、大きくなった。
「刃を打つ者。柄を作る者。魔法を入れる者。使う者」
王は、指を一本ずつ折った。
「何人でもよい。一つの物を、最後まで仕上げろ」
「陛下!」
若い声が上がった。
前掛けの新しい、二十そこそこの鍛冶だった。
「武具大会は、一人の腕を裁くものです!」
「今までどおり、一人で出る部もある」
「しかし、組んで打った物など——」
「弱いと思うか」
王の声は、大きくなかった。
若い鍛冶が、口を閉じた。
「なら、お前は一人で打て」
王は言った。
「来年、組んだ連中の物より良い物を持ってこい」
若い鍛冶が、歯を食いしばった。
「……持ってきます」
「良い」
王は、鎚の柄で肩を叩いた。
「腕で言え」
若い鍛冶は、深く頭を下げた。
*
「それと、穴を調べる」
王が言った。
今度は、兵たちが動いた。
「昔の坑道を、片端から開けるのですか」
「馬鹿を言うな」
王は、即座に返した。
「腕の良い奴から死なせて、何が昔へ追いつくだ」
鎚で、部屋の外を指した。
「まず帳面を集めろ。入口を調べろ。縄と灯りを揃えろ。戻る時刻を決めろ」
誰かが、慌てて書き留め始めた。
「潜った奴の名と、持ち帰った石と、帰らなかった奴の名を、全部残せ」
王の声が、少し低くなった。
「五代前の帳面に、続きを書け」
部屋が、一瞬だけ静かになった。
それから、外へ飛び出す者が出た。
「俺は西の坑道を知ってる!」
「爺さんの地図が蔵にある!」
「先に縄屋を押さえろ!」
誰かが「俺と組め」と言い、誰かが「お前は細工が荒い」と断り、すぐに揉め始めた。
王が、鎚で金床を一度叩いた。
全員が黙った。
「……外でやれ」
全員が、外へ出ていった。
「あの人ら、二日酔いじゃなかったのか」
ジェスが、感心していた。
*
「陛下。一つ、お願いがあります」
クラインさんが、前に出た。
「あの原と、城の帳面を、記録させてください」
王が、彼を見た。
「この国は、奉納した鉄を、一つ残らず書き留めていると聞きました」
「そうだ」
「ならば、その先も書けます」
「その先」
「置いた物が、どうなったか」
クラインさんは、静かに言った。
「五代、誰も書けなかった行です」
王は、少し考えた。
「書け」
それから、付け足した。
「黄龍の言葉も書け」
「劣化、という言葉をですか」
「ああ」
「よろしいのですか」
「分からんものを、分からんまま書け」
王は言った。
「勝手に答えをつけるな」
クラインさんが、少しだけ笑った。
「心得ました」
「それと」
王は、城の奥を顎で示した。
「昔の帳面にある数字と、お前の持っておる他国の数字を並べろ」
「原因までは、書けませんよ」
「要らん」
王は答えた。
「分からんことを、分かった顔で書く奴は、鍛冶場なら指を飛ばす」
*
王の目が、次にツムグへ向いた。
「娘」
「なに」
ツムグは、もうヤンさんの背中から降りていた。
まっすぐ立っている。
少しふらついてはいた。
「門を通したのは、お前の刀か」
「違う」
迷わなかった。
「通ったのは、こいつの技。刀は、そこにあっただけ」
王は、頷いた。
慰めも、褒めもしなかった。
前と同じだった。
「……でも」
ツムグが、続けた。
「折れなかった」
王の手が、止まった。
「前の剣は、同じ技で折れた」
ツムグは、俺の腰の刀を見た。
「あたしの刀は、折れなかった」
それから、王を見上げた。
「そこだけは、あたしの仕事」
王は、しばらくツムグを見ていた。
「間違いないのか」
今度は、俺へ聞いた。
「はい」
俺は答えた。
「俺が今まで使った剣なら、耐えられなかったと思います」
王が、もう一度ツムグを見た。
「……劣化の割には、よう打ったな」
ツムグが、口を開けた。
「その言い方、やめてよ」
「気に入った」
「やめて」
後ろで、バクが小さく鼻を鳴らした。
*
「もう一つ、言っておきます」
俺は、ツムグを見ないようにして言った。
「あの龍は、俺の刀を見ました」
「見たか」
「はい」
「なんと言った」
「……特に、褒められてはいません」
ツムグの顔が、わずかに引きつった。
「見て、鼻を鳴らされました」
「それだけか」
「それだけです」
王が、眉を上げた。
ツムグの方は見なかった。
俺も見なかった。
「そうか」
王は言った。
「では、まだ足りんな」
「はい」
ツムグが、むっとした顔で俺を見た。
「なんであんたまで頷くの」
「足りていたら、何か言ったと思います」
「神様の愛想が悪いだけかもしれないでしょ」
「それは、かなりあります」
王が、低く笑った。
「良い」
鎚の柄で、肩を叩く。
「褒められて終わるより、次がある」
*
「小僧。門は、何で斬った」
「刃じゃありません」
「では、何だ」
俺は、少し迷った。
「……無い所を、通しました」
王の眉が寄った。
「分からん」
「すみません」
「なぜ謝る」
「説明できないので」
「分からんから、面白いのだ」
王は、鎚を金床へ置いた。
「褒美は出さん」
「はい」
「なぜか、分かるか」
「この国は、腕にしか払わないからです」
王が、鼻から息を出した。
「半分だ」
「もう半分は」
「お前に借りを作りたくない」
俺は、顔を上げた。
「借り、ですか」
「次に門を開けた時、ワシらだけの手柄にならん」
「次」
「開ける」
王は、当たり前のことを言う調子で言った。
「五代かかるか、十代かかるか。それはワシの知ったことではない」
王は、金床を指で叩いた。
「ワシらの鉄で、ワシらの手で開ける。数代前が当たり前にしていたことに戻すだけだ。そうしたら…」
厚い指が、一度止まった。
「その時、お前に礼を言う筋が残っておっては困る」
「奉納も、続けるんですか」
「続ける」
「登るのも」
「続ける」
「見られているだけでも、ですか」
「見られておるなら、なおさらだ」
王は言った。
「素っ気ない相手に、いちいち腹を立てておったら、鍛冶などやれん」
部屋の後ろで、誰かが低い声で笑った。
俺は、この人が王をやっている理由が、ようやく分かった気がした。
この人は、神に返事を貰いに行くんじゃない。
追い抜きに行っている。
「……覇王だね」
クラインさんが、小さく言った。
誰にも、その意味を説明しなかった。
*
人が少なくなった部屋で、バクが初めて前へ出た。
「頼みがある」
王が、鎚から手を離した。
この二人が、こういう形で向かい合うのを、俺は初めて見た。
「言え」
「あの娘が、帰ってきたら」
バクは、そこで一度区切った。
「もう一度、大会に出す」
王は、少し黙った。
「大会は、誰にでも開いておる」
「知ってる」
「なら、頼むことではない」
「あの刀を」
バクは言った。
「飾りとして見るな」
部屋が、静かになった。
「武器として見ろ」
王は、バクを見た。
バクも、目を逸らさなかった。
「前は、武器に見えなんだ」
王は言った。
「だから落とした」
ツムグの肩が、わずかに動いた。
「次も同じなら、落とす」
「ああ」
「旅へ持っていくのだろう」
王の目が、俺の腰へ向いた。
「使ってこい」
俺は、刀の柄へ手を置いた。
「刃こぼれも、曲がりも、研いだ跡も、そのまま持ってこい」
王は続けた。
「何を斬り、何を受け、どこで持ち主を生かしたか。鉄に喋らせろ」
「折れん」
バクが言った。
王の口元が、わずかに動いた。
「なら、折れんかった旅を持ってこい」
バクは、しばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「分かった」
「それでよい」
それで、話は終わった。
けれど、二十年ぶんの何かが、その短いやり取りの中にあった気がした。
*
支度は、昼までに終わった。
終わったのに、出発が遅れた。
工房の前の通りが、また埋まっていたからだ。
「またかよ!」
「またです」
昨日の連中が、そのままいた。
何人かは、そもそも帰っていなかった。
樽が出て、屋台が出て、なぜか肉まで焼かれ始めている。
「朝から飲むな!」
「昼だ!」
「昼から飲むな!」
そこらじゅうで、組む相手の取り合いが始まっていた。
「刃は俺だ!」
「お前は焼きが甘い!」
「柄は誰が巻く!」
「魔法を入れられる奴を先に押さえろ!」
「俺は一人で出る!」
「一人の部も残るって言ってただろ!」
穴の話をしている連中もいた。
「縄が要る」
「灯りだ。灯りが先だ」
「爺さんの帳面が、まだ蔵にあったぞ!」
年寄りの鍛冶が、樽の上に立って怒鳴った。
「ひいひい祖父さんの行った所まで、降りるぞ!」
誰かが笑った。
何人かが笑った。
俺も、笑った。
クーリの新しい弓を見に来た連中が、また列を作っていた。
「一度だけ、引かせろ」
「駄目です」
「なぜだ」
「壊れるのは弓じゃなくて、あなたの肩です」
クーリが、すごく丁寧に断っていた。
学習したらしい。
ナナは、輪の中へ引っ張り込まれ、また足を踏んでいた。
三兄弟が、昨日より上手くなっている。
ナナも、昨日より速くなっている。
誰が誰に合わせているのか、もう分からなかった。
クラインさんは、本を五冊抱えて往生していた。
「持ちすぎです」
「必要な本だけだよ」
「五冊のうち、何冊が必要なんですか」
「五冊だ」
『格納します』
「助かる」
ジェスは、荷を全部担ごうとして、ツムグに叱られていた。
「馬鹿。腰やる」
「やらねぇよ」
「やった奴は、みんなそう言うの」
「じゃあ、半分持てよ」
「最初から、そのつもりだよ」
*
バクは、工房の戸口に立っていた。
通りには出てこなかった。
ツムグが荷を担ぎ、そこまで歩いていった。
俺は、少し離れた所にいた。
聞くつもりはなかったけれど、声は届いた。
「……行ってくる」
「ああ」
それだけで、少し間があった。
「鎚を、置くな」
バクが言った。
「置かないよ」
「置いた奴を、知っておる」
「知ってる」
ツムグが、小さく笑った。
バクは、通りの方を見た。
荷の山と格闘しているジェスの背中を、しばらく見ていた。
「盆を、毎日置いていたのは」
「……あいつ」
「そうか」
バクは、それだけ言った。
もう一度、ジェスを見た。
「馬鹿は、腕がいい」
ツムグが、勢いよく顔を上げた。
「なにそれ」
「伸びる、という話だ」
「鍛冶の話みたいに言わないでよ」
「他の言い方を、知らん」
ツムグは、少しの間、黙っていた。
それから、父親の太い腕を、拳で一度だけ叩いた。
軽く叩き、そのまま歩き出した。
振り返らなかった。
バクも、呼び止めなかった。
戸口に立って、動かないままだった。
*
通りを抜け、町の門を出た。
振り返ると、まだ何人かが手を振っていた。
半分は、まだ杯を持っていた。
「で、どっちへ行くんだ」
ジェスが聞いた。
クラインさんが、帳面を開いた。
「北だ」
「北?」
「図書庫で、それらしい記録を拾った」
クラインさんは、頁の端を指で押さえた。
「崑崙で見たものと、造りの似た遺構の話が、北の国境沿いに残っている」
「国境って、どこの」
「帝国だよ」
ジェスの足が止まった。
次の瞬間、跳ねた。
「待て待て待て! 北へ抜けるなら、俺らの村を通るぞ!」
「そうなるね」
クラインさんは、帳面から顔を上げた。
「あれから五年、帰っていないだろう」
「五年と、半年」
クラインさんの手が、帳面の上で止まった。
「数えていたのか」
「たまたま覚えてただけだよ!」
「そうか」
「そうだよ!」
クラインさんは、それ以上、聞かなかった。
「なあ、ギルドのおっさんども、まだやってるかな」
ジェスが言った。
「あぁお前にとってはそこも家同然だったな。やってるさ」
クラインさんが答えた。
「あの人たちは、しぶといからね」
「帳場の婆さん、まだ怒鳴ってるかな」
「怒鳴ってるよ」
「よし」
ジェスが、拳を握った。
「胸張って帰れるぞ。あれから凄い成長したからな!でけぇ魔物を倒したり、崑崙の門を開けたり!」
「開けたのはカイでしょ」
クーリが言った。
「見てた!」
「ほとんど後ろにいたじゃない」
「後ろを見る奴も必要なんだよ!」
「顔、真っ青だったけど」
「必要だから青くしてたんだ!」
クーリが、噴き出した。
「じゃあ、おっちゃんたちになんて言うの」
にやりと笑う。
「嫁、連れて帰ってきたって?」
ジェスが、固まった。
ツムグが、無言でジェスの脛を蹴った。
「誰が」
「俺は何も言ってねぇ!」
「言われる前に否定するな」
クラインさんが、静かに言った。
「兄貴!」
「事実の指摘だよ」
俺は、少しだけ引っかかった。
村の話をしているのに、三人とも、家の話をしなかった。
誰に会うかという話が、全部、ギルドの人たちの話だった。
ドラゴンにやかれたという故郷にはもう…。
*
俺は、ヤンさんを見た。
ヤンさんは、北を見ていた。
振り返っていなかった。
あの山を、一度も見ていなかった。
「ヤンさん」
「ああ」
「北で、いいですか」
間があった。
いつもより、長かった。
「……いいだろう」
それだけだった。
ハジを出る朝、この人は言った。
北に、迎えに行かなきゃならん奴がいる。
あれから半年、一度も、その話をしなかった。
鉄を待つのも。
炉を待つのも。
ツムグが泣くのも。
全部、黙って見ていた。
毎晩、木剣だけは投げてきたけれど。
「行きますか」
「行くぞ」
*
街道に出て、しばらくしてから、俺は一度だけ振り返った。
崑崙は、白かった。
昨日と同じだった。
門が開いても。
奉納の原へ人が入り、その数を確かめても。
あの山は、何も変わっていなかった。
あそこにいるものは、たぶん、もう俺のことを考えていない。
次に来いと言われたのは、権限が一つ上がった時だ。
遺跡は、あと2つ。
——けれど、あの門を次に開けるのは、俺ではないかもしれない。
あの王が、開けると言ったのだ。
『カイさま』
ナナの声が、頭の中へ届いた。
念話だった。
『反応があります』
『どっちだ』
少し、間があった。
『……前方です』
『方角は』
『正確には、取得できません。街道の先に、存在する可能性があります』
今の俺たちに分かるのは、まだ、その程度だった。
俺は、前を向いた。
ジェスが、村の自慢を始めていた。
クーリが、それを片っ端から否定している。
クラインさんが、両方を採点していた。
ツムグが、残った一本のヒヒイロカネを何に使うか、真剣に考えていた。
ナナが、俺の隣を歩いている。
腰の剣が、歩くたび、小さく鳴った。
「ナナ」
『はい』
「重くないか」
『いえ』
少し、間があった。
『……鳴ります』
「うん」
『歩くと、鳴ります』
「そうだな」
ナナは、鞘へ一度だけ手を添えた。
『——記録します』
俺は、笑った。
(第三十八話「千年」・了)




