Re:sou 第三十七話「弦」
ツムグとバクが工房に籠もって、四日になる。
飯は戸口に置く決まりになった。中に入ると、怒られるからだ。
「入んな! 崩れる!」
「何がですか」
「いいから!」
俺は盆を置いて、退散した。中からは、鎚の音に混じって、時々、聞き慣れない音がした。
石が、こすれるような。土が、ゆっくり動くような。
クラインさんが、戸の隙間に、へばりついていた。
「……見えた。今、見えたぞ。バク殿が、石の塊を、手で、撫でて——形が、変わった」
「クラインさん、離れてください」
「土魔法だ。それも、僕が崑崙で三ヶ月かけて齧ったやつの、遥か上だ。頼む、あと少しだけ」
「怒られますよ」
「学問に犠牲はつきものだ」
戸が、内側から開いた。
ツムグが、無言でクラインさんを見上げた。
「……失礼した」
学問は、あっさり犠牲になった。
*
五日目の朝、二人が出てきた。
作業台の上に、それは、並んでいた。
型だった。
黒いのと、鈍い金色の。剣の形に彫られた石、盾の形の石、細長いの、丸いの。内側は磨き上げられて、細かい筋の一本まで、彫り込んである。
「アダマンタイトと、オリハルコン」
ツムグが、目の下に隈を作ったまま言った。
「ヒヒイロカネの湯は、普通の鉄より、ずっと熱い。鉄の型じゃ、型の方が溶ける」
だから、型を、溶けない鉱石で作る。
言うのは簡単だが、あの硬い鉱石を、彫って磨いて、この精度で仕上げたのか。四日で。
「鎚だけじゃ、無理。……父さんに、魔法を習った」
ツムグは、手近な型の縁を、指でなぞった。
石の面が、指の後を追って、わずかに、動いた。粘土みたいに。
「鉱石を動かすのが、土。細工を入れるのが、金。ドワーフの鍛冶は、両方使う」
クラインさんが、身を乗り出した。
「君、通りがいいね。土と金」
「半分、人間だからね。どの属性も、並。……土と金だけ、ちょっとだけ上」
ツムグは、なんでもないことみたいに言った。
バクは、その後ろで、炉に火を入れ始めていた。
耳が、赤かった。四日間、娘に魔法を教えていた男の耳だった。
*
鋳込みの日は、また、祭りになった。
工房の前に人垣ができて、屋台が出て、今度は最初から酒まで出ていた。二回目からは、こういうものらしい。
作業台に、赤金の延べ棒が、並んだ。
六本。
残りの一本を、ツムグはヤンさんに差し出した。
「ヤンの分。何か、作る?」
ヤンさんは、延べ棒を見て、それから、壁に立てかけた自分の斧槍を見た。
「……足りてる」
一言だった。
ツムグは頷いて、その一本を、ナナの格納領域へ戻した。
誰も、何も言わなかった。あの斧槍は、この工房で、生き返ったばかりだ。
「じゃ、始めるよ」
俺は、炉の前に立った。隣にナナ。
「悪い、ナナ。……また、頼む」
『はい』
即答だった。
『型は、全て揃っています。……一度で、済ませます』
一度で。
こいつは、こういうところで、ちゃんと計算している。
火を、入れた。
白が、色を失っていく。あの熱だ。二度目でも、慣れはしなかった。
赤金が、落ちる。
湯が、樋を伝って、型へ流れ込んでいく。一つ、また一つ。ツムグとバクが、湯口を切り替えていく。
外の歓声が、波みたいに、上がっては引いた。
山は——揺れなかった。
もう、知ってる顔だからかもしれない。
*
型を割ったのは、翌日だった。
中から出てきたものが、順に、持ち主へ渡っていった。
ジェスには、刃のない、赤金の剣。
「……なあ、これ、刃は」
「無いよ。研げないんだから」
「剣だよな?」
「剣の形をした、折れない棒」
ジェスは、それを二、三度振って、それから、にやりと笑った。
「いいな、これ。思いっきりいける」
バクの打った黒い大剣と、使い慣れた大槌と、赤金の剣。三本が、ジェスの前に並んだ。
「三本も、どうやって持ち歩くんだよ」
『格納します』
ナナが、即答した。
『必要な時に、お出しします』
「……格納便利だなぁ」
『はい』
クラインさんには、細身の一本。先端が丸く、刃もない、レイピアの形をした赤金。
そしてミスリルの杖
「ありがたい、これでより使えるようになる。レイピアは元より防御用、護身用だこれだけ硬く軽いのは助かるね」
彼は、それを優雅に一振りして、杖と反対の腰へ差した。飾り剣みたいに、様になっていた。
クーリには、赤金の胸当て。ナナには、小ぶりの盾。
俺には、籠手。黒い籠手の甲に、赤金が一筋、鋳込んであった。
「刀の余り。端材で悪いけど」
「いえ。……これで、受けられます」
受けたくば、それで受けろ。
あの声を、思い出していた。鍔と、籠手。受ける場所が、二つになった。
最後に、ツムグが、自分の分を取り出した。
大槌だった。
赤金の、のっぺりした、飾りのひとつもない槌頭。柄も太いだけ。
「……ツムグさんの、ですか」
「旅に出るんだ。あたしも、得物くらい要る」
彼女は、それを軽々と担いだ。鍛冶場で鍛えた肩が、様になっていた。
「なんで、のっぺりなんだ?」
「いずれ自分の力と技でこいつを仕上げるためよ」
ツムグは、あっさり言った。
「これを仕上げる力を身につけるための修行でもあるの」
小さい方の、鍛冶用の小槌も、赤金だった。こっちは、もう手に馴染んでいるみたいだった。
「そういえば」
クーリが、皆の得物を見回して、言った。
「あたしのダガーと、ナナの剣以外……刃物、無くない?」
「「「…………」」」
全員が、自分の得物を見た。
折れない棒。先の丸い飾り剣。槌が三つ。研げない刀。
「……うちのパーティ、大丈夫?」
「頑丈さでは、世界一だと思いますよ」
「いや俺は普段大剣使うから大丈夫だ。重いし修行になるぜ」
ジェスが大剣を手に取り肩に担ぐ
「槌もいいがやっぱ剣のがしっくりくるな」
「確かに様になってるじゃない」
もうツムグは…
いやこれも良い変化だろう。
*
弓は、最後だった。
これだけは、鋳込んだままでは終わらない。ツムグは半日かけて、部品を組んだ。
芯に、銀の線が一本、通っている。ミスリルだ。魔力の通り道。
その周りを、赤金の薄い板が、上下に長く、挟んでいる。しなりと、強さの分。握りには、革が巻いてあった。
赤金と銀の、合わせ物だ。名前は知らないが、とにかく、一本の弓になっていた。
「クーリ。おいで」
クーリは、両手で、そっと持ち上げた。
「軽っ!?」
「そういう鉄なの」
ツムグは、あくびをかみ殺しながら言った。
「銘は?」
クーリが、弓の内側を覗き込んだ。
「入れない」
「え、なんで? 入れなよ、かっこいいのに」
「いつか、自分の鉄で打ったやつに入れる。……それまで、取っとくの」
ツムグは、それだけ言った。
それから、ふいに、変な声を出した。
「……ん」
「どうしました?」
「いや。……初めてかも、って思って」
「何がですか」
「どこも、悔しくないの」
彼女は、弓を、端から端まで、見ていた。
刀の時は、最後に、研げなくて泣いた。
この弓には、研ぐ場所が、最初から無い。糸も、弦も、型も、組みも、どこにも、届かなかった場所が無い。
「……そっか。弓なんだ、最初」
小さい声だった。誰に言ったのでもなかった。
バクが、炭を一本、折った。折らなくていい炭を、折っていた。
*
弦張りは、外でやることになった。
「言っとくけど、全員がかりだからね」
「またかよ!」
ジェスが叫んだ。ツナデの弓に弦を掛けた日のことは、全員、腕が覚えている。
ヤンさんが弓を押さえ、ジェスが下を踏み、ツムグとクラインさんで、弦を掛ける。あの日と、同じ配置だった。
白い弦が、伸びる。蜘蛛の糸の弦だ。切れない方の。
「硬っ……くない!?」
ジェスが、目を丸くした。
「クーリの寸法だし素材も違うからね。あれは母さんの寸法。……皇国の弓だったの」
それでも、最後のひと掛けは、力が要った。
ツムグが弦輪を持ち、ジェスがその手ごと上から押さえる形になって——二人の顔が、拳一つ分まで、近づいた。
「————」
「————」
弦が、掛かった。
二人が、同時に、反対方向へ跳びのいた。
「か、掛かったな!」
「掛かったね!」
声が、裏返っていた。クラインさんが、実に楽しそうに眼鏡を拭いた。
クーリが、弦を、指で弾いた。
高い音が、ひとつ。
まっすぐ、空へ昇っていった。ツナデの弓の低い音とは、違う音だった。
「……いい音」
クーリが、笑った。
*
試し射ちは、町外れの原っぱでやった。
的の話で、まず揉めた。
「あたしが板持って立とうか?」
「死にたいんですか」
「大丈夫だって、避けるし」
「避ける的があるか」
結局、五十歩ほど先の岩を狙うことになった。人の背より大きい、灰色の岩だ。
クーリが、矢をつがえた。
ただの矢だ。三ヶ月前に庭で削った矢柄に、鉄の鏃。ミスリルのは、袋に入れて取ってある。
「練習で使ったら、勿体ないでしょ」
「賢明ですね」
息を、吸う。
引く。
赤金の弓が、深く、しなった。軋みは、ない。銀の芯が、弦の力を、静かに受けて——
放した。
音が、遅れて来た。
空気の破れる、短い音。
そして、鈍い音が、ひとつ。
岩に、矢が、生えていた。
「「「…………」」」
全員で、近寄った。
矢柄が、羽根の付け根まで、岩の中に入っていた。表に出ているのは、羽根だけだ。
「……刺さってる」
「岩ですよね、これ」
「岩だな」
ジェスが、矢柄を掴んだ。
引いた。
抜けなかった。
両手にして、腰を落として、それでも抜けなかった。
「無理だ! 岩の方が先に来る!」
「あたしの矢……」
「諦めなさい。あれはもう、岩の一部だ」
クラインさんが、しゃがんで、断面を覗き込んでいた。
「割れていない。砕いてもいない。……押し退けて、入っている」
彼は、眼鏡を押し上げた。
「クーリ。今の、何割で引いた」
「え? ……半分、くらい?」
沈黙が、落ちた。
「……ねえ、これ、あたしが加減、覚えるまで」
クーリが、真顔で言った。
「誰も、あたしの前に立たないでね」
全員が、深く、頷いた。
ツムグだけが、岩をぺたぺた触って、満足そうにしていた。
「うん。ヤバイ弓だ」
「作った奴が言うな」
*
昼を回って、工房に戻ると、ツムグが奥から、細長い包みを持ってきた。
「ナナ。おいで」
布が、解かれた。
剣だった。
片手剣より、少し短い。細身で、飾りがない。鞘は新しい木の色で、柄には、まだ誰の手の跡もついていなかった。
折れた剣が、打ち直されて、そこにあった。
「あんたの背丈と、腕に合わせた。盾と、釣り合う寸法。……抜いてみな」
ナナは、両手で、それを受け取った。
丁寧に。壊れ物を扱うみたいに。あの日、折れた刀身を抱えた時と、同じ手つきだった。
鞘を、払う。
細い刀身が、昼の光を、静かに返した。
刃は、ある。
薄く、まっすぐ、切っ先まで通っている。曇りは、ひとつもなかった。
「元の鉄が、いいんだ。素直で、粘りがあって、よく研げた。……前の鍛冶の仕事も、残してある。全部は、打ち直してない」
ツムグは、刀身の根元を、指で示した。
「ここから下は、昔のまま。上だけ、あたし。……継いだの」
ナナは、刀身を、じっと見ていた。
それから、鞘に納めて、胸の前で、抱えた。
『……ありがとう、ございます』
声が、いつもより、少しだけ小さかった。
俺は、馬車の中の問いを、思い出していた。
使えなくなった道具は、どうなるのですか。
あの時、俺は答えられなかった。
答えは、いま、ナナの手の中にあった。折れても、終わりじゃない。直して、継いで、次の形で、隣に置く。
ツムグが、鎚で、そう答えた。
ヤンさんは、少し離れた所に、立っていた。
ナナが、剣を抱えたまま、ヤンさんの方を向いた。
『ヤンさま』
なんでだろう、と俺は思った。剣を打ったのは、ツムグなのに。
『……大切に、します』
ヤンさんは、ナナを見た。
それから、剣を見た。
「ああ」
一言だった。
それだけ言って、ヤンさんは、工房を出ていった。
その背中を、俺は、なんとなく、見送った。
*
夕方、工房の作業台に、道具が並んだ。
赤金の弓と、細い剣。小さい盾と、直った大盾。刃のない剣に、先の丸い飾り剣。黒い大剣。槌が、大小三つ。俺の籠手。そして、腰の刀。
三ヶ月前、ここに並んでいたものと、ひとつも同じ形をしていなかった。
ヒヒイロカネの延べ棒は、一本だけ、残った。
ツムグは、並んだ道具を端から順に見て、最後に、大きく伸びをした。
「……よし。寝る」
「寝てください。六日起きてたでしょう」
「七日だよ」
彼女が奥へ引っ込みかけた、その時だった。
外から、太鼓の音がした。
一つ、二つ。それから、笛。それから、明らかに酔っている歌声。
ツムグの手が、戸に掛かったまま止まった。
「……嘘でしょ」
工房の戸が、外から開いた。
立っていたのは、隣の区画の親方だった。頭に手拭いを巻いて、両手に樽を抱えていた。
「バク! 出来たんだろ!」
「……出来た」
「なら、飲むぞ!」
「そうなるか」
「そうなる!」
親方は、答えを聞く前から、もう入ってきていた。後ろに、大通りの三兄弟がいた。その後ろに、名前も知らないドワーフが、二十人くらいいた。
「あの、うちの炉、まだ熱いんですけど」
「知ってる。だから炙る」
炉で、肉を炙り始めた。
*
工房の前の通りが、そのまま宴会場になった。
誰が用意したのか、板が渡されて長机になり、樽が椅子になり、屋台がいつの間にか三軒に増えていた。
鋳込みの日から、片付けていなかったらしい。
「これ、町のお祭りなんですか」
「炉を積んだのは町だ」
親方が、杯を押しつけながら言った。
「積んだもんが動いた。祝うのは町だ。……理屈だろ?」
理屈だった。
この国は、そういう理屈で動いている。
ドワーフたちは、まず、得物を見に来た。
「持たせろ」
「壊さないでくださいね」
「壊れんのだろ、これは」
クーリの弓が、最初に回った。
一人目が持ち上げて、目を丸くした。二人目も。三人目は、二回持ち上げ直した。
「軽い」
「軽いな」
「軽すぎる」
三兄弟が、順に言った。
「弓は軽い方がいいんですよ」
「そうか?」
「そうです」
適当に答えたが、たぶん合っている。
やがて、一人が弦に手をかけた。
「引いてみるか」
「あ、それは」
止める前に、引いた。
ドワーフの腕である。石を砕いて、金床を叩いて、一日ふいごを踏む腕だ。
弦は、指の幅ほど動いて、止まった。
「……ん?」
もう一度、引いた。今度は両手で。
同じところで、止まった。
「動かんぞ」
「あたしのだからね」
クーリが、弓を取り返した。
そして、片手で、半分まで引いた。
通りが、静まった。
「「「…………」」」
「な、なんだ今の」
「身体強化ですよ」
俺が言うと、親方が唸った。
「あれで半分か」
「はい」
「……人の前で射つな」
「みんなそう言うんだよね」
クーリは、けろっとしていた。
*
次に始まったのが、腕相撲だった。
誰も言い出していないのに、机の真ん中が空いて、酒が退けられて、いつの間にか始まっていた。
最初にジェスが座った。
「よし、来い!」
「ジェス、相手ドワーフですよ」
「だから面白いんだろ!」
三秒で負けた。
「もう一回!」
二秒で負けた。
「もう一回!」
一秒で負けた。
だんだん短くなっている。
「なあ、これ強くなってんの俺か? 相手か?」
「相手が本気になってるんです」
ジェスは、それでも笑っていた。負けるたびに笑って、腕を振って、次の相手を手招きしていた。
ドワーフたちが、それを気に入ったらしかった。四人目のあたりから、負けたジェスに酒が回るようになった。
「兄ちゃん、いい負け方するな」
「そうか?」
「負けて凹むやつと、飲むのはつまらん」
ツムグが、少し離れた樽に座って、それを見ていた。
「……馬鹿だね」
言いながら、口の端が、上がっていた。
俺は、見なかったことにした。
ヤンさんが、一度だけ呼ばれた。
通りが、少し静かになった。皆、この大男が何をするのか見たかったらしい。
ヤンさんは杯を置いて、机に肘をついた。
三十を数える間、動かなかった。
それから、相手の腕が、ゆっくり倒れた。
「「「おおおおお!!」」」
ヤンさんは、何も言わずに杯へ戻った。
次の相手が来た。断らなかった。
結局、七人と組んで、七人倒して、それから「もういい」と一言言って、通りの端の石に腰を下ろした。
どの腕自慢達も拍手喝采だ。
ヤンさんは相変わらずすごい。
*
騒ぎの途中で、ジェスがいなくなった。
次に見た時、両手に皿を持っていた。
肉と、芋と、パンと、何か煮たやつ。積み上げすぎて、傾いていた。
それを、ツムグの座っている樽の横に、置いた。
「食え」
「は?」
「六日、まともに食ってないだろ」
「七日」
「じゃあ七日ぶんだ」
ツムグが、皿を見た。それから、ジェスを見た。
「……多い」
「足りなかったら言え。まだある」
「いや、多いって言ってんの」
「聞こえた」
ジェスは、隣の樽に座った。
そして、自分の分を食い始めた。何も言わなかった。喋りに来たわけではないらしかった。
ツムグは、しばらく皿を睨んで、それから、芋を一つ取った。
食った。
もう一つ、取った。
「……ん」
「うまいだろ」
「腹、減ってたんだ」
「知ってる」
ジェスは、それだけ言って、パンを噛んだ。
ツムグの手が、少し速くなった。皿の半分まで、あっという間になくなった。
それから、彼女は、急に手を止めた。
「……なんで知ってんの」
「盆、毎日置いてたの俺だぞ」
ジェスは、正面を向いたまま言った。
「戻ってきた盆、半分残ってた。毎日」
ツムグが、動かなくなった。
クーリが、少し離れた所で、肉を食う手を止めていた。
俺も、止めた。
ジェスは、気づいていなかった。本気で気づいていない顔で、二個目のパンに手を伸ばしていた。
「……あんた」
ツムグの声が、小さかった。
「なに」
「馬鹿だね」
「よく言われる」
ツムグは、皿を持ち上げて、ジェスの方へ、少しだけ寄せた。
「……半分、食べて」
「食える」
「食えって言ってんの」
「おう」
クーリが、盛大にため息をついた。
「……ねえ、あの二人、いつ気づくの」
「僕は半月と言った」
「クラインさん、もう半月経ってますよ」
「延長する」
*
クラインさんは、三杯で駄目になった。
「いいか、聞きなさい」
誰も頼んでいないのに、講義が始まった。
「土は、鉱石の配位を緩める。金は、その表面に秩序を与える。……つまり、緩めて、整える。分かるか?」
「分かんない」
「クーリ。君は僕の妹だぞ」
「妹だけど分かんない」
クーリは、肉を食っていた。ずっと食っていた。この子は宴会になると、まず量を確保する。
「ツムグ君。君は分かるだろう」
「分かるけど、あんたの言い方だと分かんない」
「なぜだ」
「難しく言いすぎ」
クラインさんは、たいそう傷ついた顔をして、四杯目を飲んだ。
そして、五分後には、ナナに向かって喋っていた。
「君は、聞いてくれるね」
『はい。記録しています』
「記録!?」
『後日、正確に読み返せます』
「やめてくれないか」
ナナは、酒を飲まない。
かわりに、いつの間にか、飲み比べの記録係になっていた。
『親方さま、十四杯。三兄弟の長兄さま、十一杯』
「まだいける!」
『次兄さま、九杯。……ただし、六杯目以降は、半分こぼしています』
「言うな!!」
通りが、どっと笑った。
ナナは、少し不思議そうな顔をして、それから、また記録を続けた。
やがて、誰かが立ち上がって、足を踏み始めた。
踊りだった。
両手を腰に当てて、片足で床を三つ打って、回る。単純だが、二十人でやると、地面が鳴った。
「娘っ子! 来い!」
ナナが、名指しされた。
『わたしは、記録係です』
「記録は明日でいい!」
「行っといでよ」
クーリが、背中を押した。
ナナは、輪の中へ引っ張り込まれて、それから、足元を、じっと見ていた。
三つ、打った。
回った。
完璧だった。
一度見ただけで、完璧にやった。踏む間も、腕の角度も、隣のドワーフと寸分違わなかった。
「「「おおおおお!!」」」
「筋がいいぞ!」
『……再現です』
「なんでもいい!」
二周目で、ナナは、少しだけ、速くなった。
三周目で、隣の男が追いつけなくなった。
四周目で、輪の全員が、ナナを見ていた。
俺は、樽に座って、それを見ていた。
覚えるのが、速い子だ。前から知っている。
でも今、こいつが覚えているのは、戦い方じゃない。
夜に、意味もなく、足を踏んで回るやつだ。
輪から抜けてきたナナは、髪が少し乱れていた。
『……速すぎた、でしょうか』
「いや」
『はい』
「楽しかったか?」
ナナは、少し黙った。
『——記録します』
「そうか」
俺は、笑ってしまった。
*
夜が、更けた。
太鼓が止んで、笛が止んで、歌だけが残って、それも一人ずつ抜けていった。
通りの端で、机に伏せて寝ている者が、何人かいた。
俺は、樽に座って、なんとなく空を見ていた。
崑崙は、暗くてよく見えなかった。
少し離れた石に、バクが座っていた。
膝に杯を持って、炉の方を見ていた。もう火は落ちている。
「バクさん」
「……ああ」
俺は、隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
この人は、そういう人だ。三ヶ月一緒にいて、それは分かっていた。
「……よく、出来た」
やがて、バクが言った。
「型の話ですか」
「弓だ」
杯を、少し傾けた。
「あれは、全部、あいつの手で終わった。……糸から、弦から、鉄から、最後まで」
俺は、頷いた。
「途中で、俺が入る所が、無かった」
バクは、そう言って、笑った。
笑ったのだと思う。口の形は、そうだった。
「相槌を、打たせてもらえなかった」
それが、この人の言い方だった。
「……ツナデには」
声が、少しだけ、変わった。
「ツナデには、そういうもんが、一つも無かった」
俺は、何も言わなかった。
言うことが、なかった。
二十六話で、鍛冶王が言っていた。ツナデの刀は、四撃目で折れた。この国では、それが評価だった。
「あいつは、一人で試して、一人で書いて、誰にも見せなかった」
バクは、杯の中を見ていた。
「見せる相手が、ワシ以外には居らんかった。ツムグは多く見つけたようだ。……」
そこで、言葉が、止まった。
長かった。
「旅に出るんだろう、世界を見るんだろう、…娘を頼む。」
バクは、空を見上げた。それから、手の甲で、目を一度、拭った。
一度だけだった。
「……酒が、悪い」
そう言った。
「そうですね」
「悪い酒だ」
「はい」
俺は、そう答えた。
少し離れたところで、足音が止まった。
ツムグだった。
小槌を持ったまま——たぶん、宴会中もずっと持っていたんだろう——そこに立って、父親の背中を見ていた。
バクは、振り返らなかった。
ツムグも、近づかなかった。
それから、彼女は、小槌の柄を、両手で握り直した。
「……酒臭い」
声が、少し掠れていた。
「泣いてない」
「言っとらん」
「言う前に言った」
「そういうとこ、そっくりだね」
ツムグは、鼻を一度すすって、それから、上を向いた。
目のあたりを、袖で、ぐいっと拭った。
そういう拭い方だった。刀身を拭く時と、同じ手つきだった。
——そこで、後ろから、盛大な音がした。
「うわあああああん!!」
クーリだった。
全力で泣いていた。
「ちょっ、クーリ!?」
「だっ、だって、だってさぁ!!」
顔がぐしゃぐしゃだった。手には、まだ肉の串を持っていた。
「そういうの、無理なんだよぉ! 父娘の、そういうの!」
ジェスが、慌てて駆けてきた。
「わかった、わかったから、串置け! 危ないから!」
「置かない!」
「置け!」
ツムグが、目を丸くして、それから、脱力した。
「……なんであんたが一番泣いてんの」
「知らないよぉ!」
クラインさんが、ゆっくり歩いてきた。
酔っているのに、足取りが、しっかりしていた。
彼は、妹の頭に、手を置いた。
何も言わなかった。
妹の隣に座って、自分の杯を、置いた。
それだけだった。
俺は、二人の父親のことを、思い出していた。
五年前。ドラゴンが故郷を襲い。
庇って、死んだと聞いている。
この二人は、目の前で、それを見ている。
だからか、と思った。
だからこの子は、父娘が仲良く並んでいるのを見ると、思い出してしまうのかもしれない。
バクが、困った顔をしていた。
この国で一番寡黙な男が、他人の娘に泣かれて、どうしていいか分からない顔をしていた。
「……そんなに、大したことは、言っておらん」
「言ったよぉ!」
「言っておらん」
「言ったし!」
クーリが、串を振り回した。
「ジェス! 串!」
「取るな!」
「危ないだろ!」
結局、ジェスが串を取り上げて、そのまま自分で食った。
「あーっ! あたしの!」
「泣いてる奴に食う権利はない」
「ある!」
通りに、また笑いが起きた。寝ていた連中まで、何人か起きた。
ツムグは、その騒ぎを見て、それから、俺を見た。
「……あんたら、うるさいね」
「はい」
「旅って、毎日こんななの?」
「大体こんなです」
ツムグは、しばらく黙って。
それから、小さく、笑った。
「……悪くないね」
バクが、その顔を、見ていた。
何も言わなかった。
ただ、杯の残りを、一息で飲んだ。
*
朝、工房の戸を、誰かが叩いた。
叩かれても、誰も起きなかった。通りには、まだ何人か転がっていた。
俺が開けると、立っていたのは、王城の兵だった。革の前掛けの上に、正装の帯だけ締めた、妙な格好の兵だった。
その顔も、うっすら赤かった。
「バク殿。ツムグ殿。……それと、旅の方々に」
兵は、息を整えて、言った。
「陛下が、お呼びです」
奥から、呻き声がした。
ツムグが、机に伏せたまま、片手だけ上げた。
「……寝てからじゃ、駄目?」
(第三十七話「弦」・了)




