Re:sou 第四十話「片方」
入って十歩で、光が終わった。
振り返ると、入口だけが白く残っている。外の空が、四角く切り取られていた。
その向こうに麦畑があって、風が吹いている。
前を向く。何も見えなかった。
——ダンジョンだ。
正直に言う。俺は、わくわくしていた。
地下がある。階層がある。宝箱があるかもしれない。人生で一度も入ったことのない場所に、ちゃんと「一階」という名前がついている。
ハジの洞窟は、ただの穴だった。ドワーフ国のは、山の骨だった。
ここは、違う。ここは、「潜る」場所だ。
「ナナ」
『はい』
ナナが掌を上へ向けた。白い光が一つ生まれ、ふわりと浮かぶ。
俺たちの頭より少し高い所まで上がって、ゆっくり前へ進んだ。
道が、現れた。
「無理してないか」
『はい』
ナナは、光を見上げた。
『この程度の照明で生じる損耗は、計測できません』
「なら、いいけど」
『はい』
少し、間を置く。
『暗い場合は、お申し付けください』
「ありがとう。……助かる」
*
クーリが、入口の内側で立ち止まっていた。
矢筒から矢を抜いて、床へ並べている。
「何してるんだ」
「数えてる」
並べ終えて、また戻す。
「二十本」
「入る時に数えるのか」
「入る時と、出る時。合わなかったら、どっかに落としてる」
「落としたら、まずいのか」
「まずくはない。もったいない」
クラインさんが、後ろで頷いた。
「それでいい。数えられるものは、数えておく」
「兄貴、今のは褒めてる?」
「褒めているよ」
「じゃあ、もっと言って」
「……偉い」
「気持ちこもってない!」
*
通路は、思ったより広かった。荷車が二台並んでも、まだ横を歩けそうだ。
壁は、岩だった。削ったというより、裂け目を広げたような粗い面。
そのところどころに、白っぽい、滑らかな板みたいなものが覗いていた。
岩の中に、建物が埋まっている。そんな見え方だった。
クラインさんが、すぐに壁へ寄った。
「触っていいと思うかい」
「たぶん」
「たぶん、か」
指先で、白い部分を撫でる。
「石じゃないね」
「俺も、そう思います」
継ぎ目がない。冷たい。硬い。この感触を、俺は知っている。
ハジの丘の下。ドワーフ国の、あの白い廊下。同じものだった。
「カイくん」
「はい」
「あとで聞くことが、もう一つ増えたよ」
「覚えておきます」
「ぜひ、そうしてくれ」
*
「こっちだ」
クラインさんが、折り畳んだ紙を広げた。ハンナ婆さんから借りた地図だ。
角は丸くなり、折り目は布みたいに柔らかい。何人もの手を通ってきたのが分かる。
「入口がここ。今いるのが、この辺り」
線が、細かい。大通りだけでなく、脇道や行き止まりまで書き込まれている。
「これがあるから、今日中に五階まで行ける」
「無かったら?」
「この分岐へ来るだけで、たぶん一日だ」
「そんなにですか」
「一階だけで、村の外れから外れくらいある」
俺は、地図を覗き込んだ。
線の色が、場所によって違った。濃い炭と、薄い炭と、赤茶けたインクと。
字も、違う。几帳面な小さい字と、大きく雑な字と、震えた字。
「これ、書いた人、何人もいるんですね」
「三十年ぶんだからね」
クラインさんは、地図の中ほどを指した。細く、真っ直ぐで、几帳面な字。
「この辺りは、父の字だ」
「……潜ってたんですね」
「父たちの持ち場だったからね」
それだけ言って、地図を持ち直した。
「行こうか」
ジェスは、何も言わなかった。地図も、見ていなかった。
クーリも、覗き込むのをやめて、前を向いた。
*
少し歩いて、ジェスが口を開いた。
「昔、こんなの持ってなかったよな」
「持たせてもらえる歳じゃなかったからね」
「道理で迷ったわけだ」
クラインさんが、眼鏡越しにジェスを見た。
「迷ったんじゃない」
「ん?」
「君が、勝手に地図の外へ行ったんだ」
「似たようなもんだろ」
「全然違うよ」
クーリが、後ろから覗き込んだ。
「よく兄貴、こんなのについて行ったね」
「置いて帰ったら、もっと怒られるだろう?」
「そっち?」
「そっちだよ」
ジェスが笑った。
「クラインは昔から、そういう奴だ」
*
最初の魔物は、その直後に出た。
角を曲がる。ジェスが手を上げた。全員が止まる。
俺には、まだ何も聞こえない。ジェスは前を見たまま、少しだけ腰を落とした。
「三つ」
『一致します。前方、低位置。三体です』
次の瞬間、闇の中から大きな鼠が飛び出した。犬くらいある。
いや、鼠と呼んでいいのかも、少し怪しい。前歯が、俺の指くらいあった。
「うわっ」
俺が刀へ手をかけるより先に、ジェスが一歩前へ出た。
一匹目。抜き打ちで首を落とす。二匹目が、その横を抜けた。
ジェスは、追わなかった。
「クーリ」
「分かってる!」
弦が鳴った。今まで聞いていた弓より、音が低い。
ツムグの母の弓だ。ドワーフの手が、ドワーフのために作った引きの重さ。
矢が一匹を貫き、そのまま後ろの一匹まで通った。
そして——二匹とも、消えた。肉も、血も、残らない。
薄い灰みたいに形を崩して、床へ魔石が二つ落ちた。
勢いを失っていない矢は、そのまま飛んで、岩の壁へ届いた。
音が、しなかった。
当たったというより、そこで止まった。そのまま、落ちる。
「……あれ?」
クーリが、弓を下ろした。
*
ジェスが壁へ寄った。矢を拾う前に、当たった場所を指で擦る。
「傷、ねぇぞ」
「え?」
「見ろよ。粉も出てねぇ」
クーリも寄ってきた。
「今の矢よ?」
「そうだな」
「岩に半分入るやつなんだけど」
「そうだな」
「なんでアンタが偉そうなのよ」
「俺は何もしてねぇよ」
ジェスは少し考えて、それから、ナナに手を出した。
「あれ出してくれ。刃の無いやつ」
『はい』
赤金の剣が、宙から出てきた。刃のない、折れない棒。
「ジェス」
「やらせろ」
ジェスは腰を落として、思いっきり岩の壁を殴った。
音が、鳴らなかった。
全力で叩きつけて返ってきたのは、布を打ったみたいな、間の抜けた低い音だけだった。
誰も、しゃべらなかった。壁には、何も残っていない。
「……」
「痺れた?」
「いや」
ジェスは、棒を握った手を、開いたり閉じたりした。
「……なんも、来ねぇ」
俺も、岩へ手を当ててみた。
冷たくない。温かくもない。手を当てているのに、当てている気が、しない。
さっき触った白い板とは、まるで別のものだった。
——押したら、通れるんじゃないか。
そう思って、慌てて手を離した。根拠は、何も無かった。
クラインさんが、帳面を開いた。
「クーリの新しい弓。魔物を二体貫通後、壁面へ衝突」
「兄貴」
「なんだい」
「褒めて」
ペンが、止まる。
「……二体を、一射で倒した。すごいね」
「なんか違う!」
ジェスが、笑った。
*
鼠の魔石を拾ったのは、クーリだった。三つ。すぐ袋へ入れる。
「一匹、いくらくらいなんだ」
俺が聞くと、クーリが眉を上げた。
「カイ」
「うん」
「そういうこと、聞くようになったのね」
「駄目か」
「いい傾向よ」
嬉しそうだった。
「この大きさなら、三つで昼飯一回分くらい」
「そんなに」
「村ならね。ハジだと、もうちょい安い」
クラインさんが、地図から顔を上げた。
「朝、聞いてきたのかい」
「当然でしょ」
「さすがだね」
今度は、ちゃんと褒められたらしい。クーリは、満足そうに歩き出した。
*
その先で、蝙蝠が出た。一匹では、なかった。
天井が動いた、と思った。黒い塊が、まとめて剥がれてくる。
「多い!」
「無理! 散ってる!」
クーリが弓を上へ向けて、すぐ下ろした。
俺は、右手を上げた。
通路の幅、高さ、群れの少し手前。風を薄く、横へ。刃にはしない。押すだけだ。
空気の壁が、群れを一度に崩した。壁と床へ、黒い塊が落ちる。
「今!」
ジェスが走る。俺も続いた。刀身へ薄い真空を置いて、振る。一匹。二匹。
斬った端から形が崩れ、小さな魔石だけが床へ転がった。
最後の二匹は、クラインさんの杖から出た青白い光が、まとめて落とした。
静かになった。クラインさんが、帳面を開く。
「カイくん。今の風は」
「押しただけです」
「詠唱は」
「してません」
「うん。知っていた」
さらさらと書く。
「じゃあ、なんで聞いたんですか」
「記録には、確認が要るんだよ」
「学者って、面倒ですね」
「な」
ジェスが乗った。クラインさんは、顔も上げなかった。
「君たちにだけは、言われたくないな」
*
一階の終わりに、小さな広間があった。
そこで初めて、床にも白いものが現れた。岩の間から、四角く覗いている。
クラインさんが、しゃがみ込んだ。
「上に、穴が被さったのか」
「何がですか」
「分からない」
即答だった。
「遺跡が先か、この穴が先か。どちらかが、どちらかへ食い込んでいる」
白い床と、黒い岩。片方だけなら、見たことがある。
二つが同じ所にあるのは、初めてだった。
「ナナ。分かるか」
『照会します』
少し、間があった。
『現在取得可能な情報のみでは、判定できません』
「そっか」
『申し訳ありません』
「謝らなくていいよ。分からないことが分かった、で十分だ」
ナナは一度だけ俺を見て、それから光を、少し先へ送った。
*
二階へ降りたのは、昼前だった。
「速い」
「そんなにですか」
「異常に速いよ」
クラインさんが、地図を持ち上げる。
「これを作った連中に、帰ったら礼を言うんだ」
「半分くらい、もう死んでるぞ」
「じゃあ、残っている人に」
「ハンナ婆さんに言っとく」
「そうしよう」
*
最初の行き止まりで、俺は足を止めた。
「ありますね」
「何が」
ジェスが覗く。箱があった。木の箱だ。壁際に、いかにもという形で置いてある。
いかにも、というのが重要だった。
どう見ても、そこに置かれている。誰かが忘れたのでも、埋もれていたのでもない。
「置いてある」ものとして、置いてある。
クーリが、俺を見た。
「嬉しそうね」
「そうか?」
「嬉しそう」
ジェスまで頷いた。
「カイ、こういうの好きだよな」
「嫌いな人、いるんですか」
クラインさんが、肩を竦めた。
「罠が好きな人はいないだろうね」
俺は、箱から一歩離れた。
「先に言ってくださいよ」
「言ったよ」
*
ナナが、箱の前へしゃがんだ。
『簡易鑑定を行います』
白い指が、蓋の少し上をなぞる。
『機械的な作動部は、検出できません』
「魔法は」
『微弱な反応があります。ただし、箱そのものではありません』
「中身か」
『その可能性が高いです』
クーリが、ジェスを見た。
「開けて」
「なんで俺だよ」
「一番頑丈だから」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ジェスは、少し考えた。
「じゃあ、いいか」
「いいんだ」
俺が言うと、ジェスは箱を開けた。
魔石が入っていた。それと、古い銀貨が何枚か。
クーリの目が、変わった。
「触らないで」
「はい」
全員が返事をした。
*
クーリは、銀貨を一枚ずつ並べた。裏。表。縁。最後に、噛んだ。
「本物」
「分かるのか」
「だいたい」
「噛んで?」
「だいたいって言ったでしょ」
数えて、もう一度数えて、魔石も数える。そして。
「……今日の宿代、出た」
真顔だった。
「宝箱って、夢があるな」
「夢じゃなくて現金よ」
*
二つ目の行き止まりにも、箱があった。今度は、ジェスが先に見つけた。
「あるぞ」
「嬉しそうだな」
「嬉しいだろ、普通」
ナナが調べる。罠は、なかった。
ジェスが蓋を開けて、全員で覗いた。
「…………」
「…………」
クーリが、最初に口を開いた。
「靴ね」
「靴だな」
「片方ね」
「……片方だな」
箱の中に入っていたのは、左足の革靴が一つだけだった。
短い靴だ。踵は擦れ、爪先は白くなり、紐も古い。新品には見えなかった。
ジェスが持ち上げる。中を見る。箱もひっくり返す。何も出なかった。
「もう片方は?」
「無いですね」
「なんでだよ」
「俺に聞かれても」
クーリが、腕を組んだ。
「捨てれば?」
ジェスは、靴を見た。
「いや」
「持ってくの?」
「もう片方が、あるかもしれねぇだろ」
「無いかもしれないでしょ」
「そん時は、そん時だ」
「片方だけ持って、どうすんのよ」
ジェスは、もう一度、靴を見た。
「片方だけじゃ、使えねぇだろ」
「だから言ってるの」
「だからだよ」
クーリが、少し黙った。
ジェスは、靴を腰の袋へ押し込んだ。
「揃うなら、揃えた方がいい」
それだけだった。
クーリが、クラインさんを見る。クラインさんは、地図へ目を落とした。
「僕は、どちらの味方もしないよ」
俺は、その袋の膨らみを見ていた。
ゲームなら、これは売っても銅貨にならない。持ち歩くだけ、荷になる。
でも、ジェスは持った。
*
三つ目の箱は、二階の奥にあった。さっきより大きい。
ジェスが、腕をまくった。
「今度こそ」
「何が」
「当たりだ」
「銀貨は当たりでしょ」
「そうじゃなくて、武器とか」
クーリが笑った。
「右の靴だったら?」
ジェスが、止まった。
「それは、大当たりだろ」
「本気なの?」
「本気だ」
ナナが、箱の前へ出た。
『お待ちください』
ジェスの手が止まる。
『作動部を検出しました』
「どこ」
『蓋の内側です』
クラインさんが、しゃがんだ。
「糸か」
『はい。開放に連動します』
ジェスが、蓋から手を離した。
「じゃあ、やめるか」
「え」
今度は、俺が言った。ジェスが、俺を見る。
「罠あるんだろ」
「ありますね」
「中身、紐かもしれねぇぞ」
「でも」
言いながら、自分でも変だなと思った。それでも、口が動いた。
「罠があるってことは、守るものがあるってことでしょう」
クラインさんの手が、止まった。
「……なるほど」
「え」
「いや。書いておく」
帳面が開かれる。クーリが額へ手を当てた。
「兄貴、今の、そんな大した話?」
「大した話じゃないよ。だから書くんだ」
「意味分かんない!」
*
結局、開けた。
クラインさんが糸を一本押さえ、ナナが蓋の正面から全員を退かせた。
ジェスが、横から大剣の鞘で持ち上げる。
蓋が開く。ぱん、と小さな音。針が三本、飛んだ。
ナナが、一歩前へ入った。
左腕が上がる。赤金の小盾が、正面へ出た。
一本目と二本目は、盾の面がまとめて弾いた。
三本目が、少しだけ軌道を外れて、俺の方へ来る。
盾が、返った。
高く乾いた音がして、針が床へ跳ねた。
「ナナ!」
『問題ありません』
ナナは、盾を下ろした。表には、傷ひとつ無かった。
「無理してないか」
『はい』
ナナは、盾の面を一度だけ見た。
『……これは、良い盾です』
「だろ。ツムグさんとバクさんのだ」
『はい』
少し、間があった。
『三本目は、少し遅れました。次は、遅れません』
「そこか」
クーリが、額へ手を当てた。
「なんで反省点がそこなのよ」
*
箱の中には、麻紐が一巻き入っていた。全員で、見た。
「閉めようぜ」
「開けた意味なくなるでしょ」
「針三本だぞ」
「紐一巻きね」
「割に合わねぇ」
クラインさんが、紐を持ち上げた。
「丈夫そうだよ」
「クライン」
「なんだい」
「今は、そういう慰め要らねぇ」
「そうか」
*
三階へ降りる頃には、歩き方が少し変わっていた。
先頭はジェス。少し後ろに俺。ナナは俺の横か、半歩前。
その後ろに、クーリとクラインさん。
ジェスは角へ近づくたび、一度だけ手を上げる。誰も、追い越さない。
ヤンさんに言われたから、というだけではないのだと思った。
多分この人は、昔からこういうことをやってきた。
「ナナ」
『はい』
「疲れてないか」
『いえ』
少し、間があった。
『……歩幅を、合わせています』
「合ってるよ」
『はい』
*
三階で、人の骨が歩いてきた。五体。古い鎧をぶら下げ、剣を持っている。
もちろん、本物の死体ではない。ダンジョンの魔物だ。
それでも、暗い通路で骨が歩いてくるのは、かなり嫌だった。
「どうする」
「斬る」
ジェスが答えて、一体目へ踏み込んだ。横薙ぎ。
剣が、肋骨の間を抜けた。
「……あ」
骨が、剣へしがみついた。
「ジェス!」
「分かってる!」
柄を引く。そのまま蹴る。骨が後ろへ倒れて、すぐ起きた。
クーリが、呆れた。
「骨相手に、胴斬ってどうすんのよ」
「やってから言うな!」
「やる前に分かるでしょ!」
*
二体目が、ジェスへ剣を振った。
ジェスは半歩だけ入って、斬らなかった。鍔で、顎を殴った。
骨の頭が外れる。宙へ浮いたところを、柄頭でもう一度叩いた。
乾いた音。頭蓋が砕ける前に、全身が灰へ変わった。床へ、魔石が落ちる。
「なるほど」
ジェスが笑った。
「骨は、殴る」
「最初からそうしなさいよ」
「今、覚えた」
残り三体。今度は、早かった。
膝を蹴る。崩れたところへ鍔。剣を逆手へ持ち替え、柄で側頭部。
大剣なのに、途中から完全に棒として使っていた。
俺とナナが、一体ずつ。最後は、クーリの矢が骨盤を砕いた。
全部消えて、魔石だけが残る。
「手ぇ痛ぇ」
「剣で殴るからよ」
「剣は悪くねぇ」
「手が悪いの?」
「俺が悪い」
「珍しく素直」
*
少し進んだところで、ジェスが急に止まった。
壁を見ている。そこだけ、岩が薄く剥がれて、下から白い壁が覗いていた。
その表面に、黒い線が二本あった。
炭だった。
一本は低い。もう一本は、その少し上。
ジェスが、近づく。
「……残ってんのか」
クラインさんも、横へ立った。
「残るだろうね」
「なんで分かんだよ」
「傷がつかないから、炭で書いたんだろう?」
「そうだけどよ」
クーリが、覗き込む。
「何これ」
ジェスが、低い方を指した。
「俺」
上。
「クライン」
「……背比べ?」
「そう」
クーリが、兄を見る。
「何やってんの」
「子供だったんだよ」
クラインさんは、静かに答えた。
ジェスが笑った。
「俺、ここでクラインに負けてたんだよな」
「今も背は僕の方が——」
クラインさんは、ジェスを見上げた。やめた。
「……いや。今は君だね」
「勝った」
「何年かかったの」
クーリが言った。ジェスは、二本の線を見ていた。
「結構」
線には、触らなかった。消そうとも、しなかった。そのまま通り過ぎた。
*
三階の階段は、その先だった。
ジェスが、先頭に立つ。下を見る。暗い。ナナの光が、途中までしか届かない。
「ジェス」
クラインさんが呼んだ。
「ん?」
「ここから先は」
「分かってる」
短かった。
ジェスは、一段下りた。次。次。俺たちも続く。
最後の段を下りて、ジェスが足元を見た。それから、振り返った。
「四階だ」
「そうだね」
「初めてだ」
クラインさんが、小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。ジェスも、それ以上言わなかった。
ただ一度だけ、大きく息を吸って、吐いた。そして、前を向く。
「行くぞ」
クーリが、後ろから言った。
「あたしは、一階から全部初めてなんだけど」
ジェスが振り返る。
「そういや、そうだな」
「今、なんかいい感じだったでしょ」
「ああ」
「入りづらかったんだけど」
「悪い」
「素直に謝るな!」
ジェスが、笑った。
*
四階から、魔物が変わった。
石を齧る虫。天井へ張りつく蝙蝠。壁から生えた、人の背丈くらいある茸。
茸は、動かなかった。
「これ、魔物ですか」
「たぶん」
「動かないですね」
「動くよ」
茸が、動いた。傘が、こっちを向く。
「うわっ!」
俺より先に、クーリが叫んだ。ジェスが横から斬る。茸が消えて、魔石が落ちた。
直後、傘があった辺りから、白い粉がぶわっと広がった。
クラインさんの顔色が、変わる。
「息を止めろ!」
全員が止めた。ジェスが、すぐ俺を見る。俺も、分かった。
風。今度は吸わない。向こうへ押す。粉の塊を、通路の奥へ送った。
しばらく待つ。クラインさんが、慎重に息をした。
「……大丈夫そうだ」
「兄貴、先に言ってよ!」
「言おうとしたよ!」
「動くって言っただけじゃない!」
「動いた後の情報は、今得たんだ!」
「学者、役に立たない!」
「ひどいな!?」
珍しく、クラインさんの声が大きくなった。
*
茸の粉は、結局なんだったのか分からなかった。
「毒じゃないんですか」
「今のところ、症状はない。眠くもない。痺れもしない」
「じゃあ何」
クラインさんは、真顔で答えた。
「胞子」
「それは見れば分かる!」
*
石を齧る虫は、群れで来た。
壁を擦る音が、先に聞こえた。ざり。ざり。ざりざりざりざり。
「多いな」
ジェスの声から、笑いが消えた。
前の通路が、灰色に埋まる。小さい。それでも、一匹が猫くらいある。
殻が重なって、床が見えない。
「後ろ、下がれ」
クーリとクラインさんが下がる。俺は前へ。ナナも、横へ出た。
「ナナ、数は」
『算定困難です』
「多いってことだな」
『はい』
俺は、床へ手をついた。
通路は塞がない。半分だけ。膝より少し高い石の段を、斜めにせり上げる。
虫の群れが乗り上げて、詰まった。後ろから来るものが押す。前へ。上へ。
ひとかたまりに、なる。
「クーリ」
「待ってました!」
弦が鳴った。低い。重い。矢が、群れの真ん中へ入る。
魔石が、ぱらぱらと床へ落ちた。一射。二射。三射。
通路の灰色が、目に見えて減っていく。
「すげぇな、その弓」
「今さら?」
「狭いとこだと、もっとすげぇ」
クーリが、少し得意そうに鼻を鳴らした。
「並んでくれるからね」
クラインさんが、後ろから言った。
「弓というのは、本来は開けた場所で——」
「兄貴、今はいい」
「そうかい」
*
抜けてきた虫を、ジェスが拾う。一匹。二匹。今度は、斬り方を変えていた。
殻の継ぎ目。脚の付け根。頭と胴の間。硬いところへは、刃を当てない。
「上手いな」
「何が」
「一回見ただけなのに」
「一回見りゃ、だいたい分かるだろ」
「俺は分からない」
「カイは考えすぎなんだよ」
最後の一匹が消える。ジェスは、剣を払った。血は、ついていない。
つくものが、残らないからだ。
「斬れねぇとこがあるなら、斬れるとこ探しゃいいんだ」
簡単に言った。多分この人には、本当に簡単なのだ。
*
魔石を拾うのに、一番時間がかかった。
クーリが数えている途中で、ジェスが一個拾って渡した。
「増やすな!」
「落ちてたんだよ!」
「今、数えてる途中なの!」
クラインさんは、少し離れた所で黙って地図を読んでいた。賢いと思った。
*
四階の隅で、昼を食べた。壁際に座って、ナナの光を少し高く上げてもらう。
持ってきたのは、干し肉と硬いパンと水。それだけだった。
ジェスが、干し肉を噛んでいる。噛んで、噛んで、首を傾げた。
「……なあ」
「何」
「これ、味しなくねぇか」
「元から、そんな味でしょ」
「朝は、もうちょいしたぞ」
クーリも齧る。止まる。もう一度。
「……薄いかも」
俺も食べた。確かに、外で食べるより味が遠い気がする。
「暗いからでしょうか」
「目から入る情報が減ると、食べ物の感じ方が変わるという話はある」
「話はある」
ジェスが、繰り返した。
「つまり、分かんねぇんだな」
「そうとも言う」
「学者って便利だな」
「便利だろう?」
*
ジェスがパンを割ろうとした。割れなかった。両手に力を入れる。まだ割れない。
「……硬ぇ」
クーリが、自分のパンを差し出した。
「貸して」
「割れんの?」
クーリは、弓を見た。
「これで」
「やめろ」
全員で止めた。
ナナが、水筒を差し出す。
『水分の摂取を推奨します』
「腹は減るんだけどな。味だけ、どっか行く」
ナナが、少し考えた。
『記録します』
「それ、役立つ?」
『現在は、不明です』
「正直だなぁ」
*
休憩を終えて歩き出す。四階の最後に、鎧を着た骨が出た。盾まで持っている。
ジェスが剣を抜いた。骨も、盾を上げる。
「カイ。見てろ」
骨が来る。ジェスは、剣を振らなかった。前へ出て、盾の縁へ肩を当てる。
押す。骨がよろめく。そのまま足を払って、倒す。
盾を踏む。骨の腕が固定される。柄頭を、頭へ。一発。魔石になった。
「な」
「何が」
「斬らなくていい。剣士だからって、全部斬る必要ねぇんだよ」
言って、少しだけ笑う。
「俺も今、覚えた」
なるほど。この人はこうやって強くなるのだと思った。
*
五階へ着いた時、クラインさんが砂筒を見た。
「ここまでだ」
「まだ余裕あるぞ」
「あるね」
「じゃあ」
「五階までと言った」
「出た」
「二回目だよ」
「分かってる」
ジェスは笑っただけで、先へ行こうとは、しなかった。
*
問題は、帰る前に地図の確認だけしようとした時だった。
五階の西端。地図では、行き止まりになっている場所。
そこへ行くと、風が吹いていた。
冷たい風。
俺は、足を止めた。入口と、同じだ。
奥から。ずっと奥から。何かが息を吐いているような風。
「クラインさん」
「うん」
クラインさんも、気づいていた。
地図を見る。壁を見る。もう一度、地図。
「ここで終わってる」
「でも」
「風がある」
*
行き止まりの壁は、半分が岩だった。
その岩が崩れたのか、あるいは後から押し退けられたのか。
人一人が通れる隙間が、開いていた。
その向こうに、白い通路が続いていた。
岩ではない。床も、壁も、天井も、全部あの滑らかな材質だった。
ナナの光を入れる。真っ直ぐ。途中で、暗闇へ消える。
地図には、ない。
*
ジェスが、一歩近づいた。
「ジェス」
クラインさんが呼ぶ。ジェスが、止まった。
「見るだけだ」
「君は昔も、そう言った」
「言ったっけ」
「言った」
「クライン、よく覚えてんな」
「君がそのあと、勝手に三階まで降りたからね」
ジェスが、通路を見る。風が、髪を揺らした。
昔なら、多分、入ったのだと思う。
少なくともクラインさんは、そう思っている顔だった。
ジェスは、少しだけ笑った。
「じゃあ、今日はやめとく」
「助かるよ」
あっさり、戻った。
*
クラインさんが、地図を床へ広げた。炭筆を出す。
地図の端。本来なら線のないところへ、一本、細い線を引いた。
「何してるんですか」
「足すんだよ」
「地図に?」
「地図だからね」
線の先は、途中で止まった。先を、知らないからだ。
クラインさんは、その横へ小さく印を書いた。
自分の字は、細くて、真っ直ぐで、几帳面だった。
「この地図に、自分で線を足すのは初めてだ」
ジェスが、覗いた。
「昔は、増やす側じゃなかったもんな」
「迷う側だったからね」
「俺のせいみたいに言うなよ」
「君のせいだよ」
クラインさんは、地図を畳んだ。丁寧に、折り目の通りに。
*
「ナナ。下の反応って、こっちか」
ナナが、白い通路へ顔を向ける。数秒。
『判定できません』
「近くはなったか」
『反応そのものに、大きな変化はありません』
「そっか」
『ただし』
ナナが、床を見た。
『下方です』
やっぱり。ずっと下。まだ、その程度しか分からない。
「今日は戻ろう」
『はい』
*
外へ出た時には、日がかなり傾いていた。
穴の中から見る夕方は、驚くほど明るかった。
一歩出る。風が頬に当たる。土の匂い。麦の匂い。鳥の声。空が、広い。
クーリが、両腕を上へ伸ばした。
「外!」
「外だな」
ジェスも笑う。クラインさんは、すぐ地図を広げた。
「風で飛ぶよ」
クーリが言った。慌てて、畳んだ。
*
クーリが、矢筒を下ろした。地面へ並べる。一本ずつ。
「二十本」
顔を上げた。
「全部あった」
「そりゃよかった」
「よかったの。これが一番よかったの」
*
村へ戻る前に、ジェスが一度だけ穴を振り返った。俺も、立ち止まる。
「どうした」
「いや」
三階までしか行けなかった穴。今日は、五階まで行った。それだけだ。
ジェスは、前を向いた。
「昔より、近かったな」
「何が」
「階段」
笑った。
「俺が、でかくなったからかもな」
それ以上は、言わなかった。
*
村へ入る道の途中で、ジェスがもう一度だけ足を止めた。
今度は、穴ではない方だった。畑の向こう、低い丘が三つ並んでいる。
その一番奥を、少しの間、見ていた。
何も言わなかった。俺も、聞かなかった。
*
クーリは、帰るなりギルドの帳場へ行った。魔石を全部、机へ並べる。
ハンナ婆さんが、木箱の上から見下ろした。
「ずいぶん拾ったね」
「五階までです」
「五階で、これかい」
婆さんの眉が、少し上がった。クーリは、気づかなかったふりをした。
「買取、村相場より低いです」
「誰から聞いた」
「三軒」
「この村に、三軒しかないよ」
「だから全部回ったんです」
婆さんが、笑い出した。
「クーリ。あんた、ここに残らないかい」
「給金次第」
「即答だね」
*
交渉は、長かった。俺とジェスは、途中で椅子へ座った。
最後、クーリが戻ってきた。
「勝った」
「どれくらい」
「ちょっと」
「ちょっとかよ」
「ちょっとを笑う奴は、金持ちになれないの」
ハンナ婆さんが、後ろから怒鳴った。
「次は下げるからね!」
「上げさせるから平気!」
強かった。
*
帰り際、クラインさんが帳場へ寄って、地図を返そうとした。
婆さんは、受け取らなかった。
「持ってな」
「まだ、借りていていいんですか」
「いいも悪いもないよ」
婆さんは、手元の紙を睨んだまま言った。
「そりゃ、あんたらのだ」
クラインさんは、少しの間、地図を持ったまま立っていた。
「……お預かりします」
「持ってなって言ってんだろ」
*
宿へ戻ると、クーリは今度は帳面を開いた。
銀貨。魔石。宿代。食料。矢。油。
そこで、ペンが止まった。
「……油」
「どうしたんだ」
「使ってない」
俺も、気づいた。松明を、一本も使っていない。
灯りは、一日中ナナが出していた。
クーリが、ゆっくりナナを見る。
「ねえ」
『はい』
「あんた、一日中光ってたわよね」
『はい』
「油、一滴も減ってないんだけど」
『はい』
クーリは、計算し直した。もう一度。そして、ナナの両手を握った。
「あんた、経費に優しい!」
『節約に、貢献できています』
「すごい!」
『はい』
ナナが、少しだけ胸を張ったように見えた。気のせいかもしれない。
「ナナ」
『はい』
「今日は助かった。ありがとう」
ナナが、俺を見る。
『……はい』
*
鍛冶場は、まだ火が入っていた。日が落ちても、中だけは昼みたいに明るい。
ツムグが、炉の前にいた。顔の半分が、煤で黒い。
「戻ったよ」
「見りゃ分かる」
ツムグは、炉から目を離さない。
「五階まで」
「早かったね」
「地図が良かった」
「怪我は」
「無し」
そこで初めて、ツムグが振り返った。ジェスを見る。俺たちを見る。
「そう」
短く答えて、また炉へ向いた。
*
ジェスが、袋を一つ出した。
「これ」
「何」
「分かんねぇから持ってきた」
黒っぽい鉱石だった。四階の壁際。岩の割れ目から出ていたものだ。
魔物の魔石とは、違う。
ツムグが受け取る。重さを見る。爪で擦る。金床の角へ軽く当てて、音を聞く。
「鉄じゃない」
「駄目?」
「駄目とは言ってない」
もう一度、音を聞く。
「分からない、って言ってる」
「じゃあ」
「明日、割る」
作業台の端へ置く。
「次、見つけたら場所も覚えてきな」
「ああ」
「壁のどっち側だったかも」
「ああ」
「色も」
「分かった」
「周りの石も持ってきて」
ジェスが笑った。
「注文増えてるぞ」
ツムグも、少し笑った。
「持って帰ってくるって言ったの、アンタだろ」
「ああ。任せろ」
*
ツムグが、ジェスの手を取った。
自然すぎて、一瞬、何をしたのか分からなかった。
掌を上へ向ける。指の付け根を見る。
「あ」
ジェスが言った。豆が、潰れていた。
骨相手に、大剣の柄で殴り続けた方の手だ。
「何したの」
「骨を殴った」
「剣で?」
「剣で」
ツムグが、目を細めた。
「馬鹿」
「ああ」
反論しなかった。
棚から小さな壺を取る。蓋を開ける。匂いがした。ジェスの顔が歪んだ。
「臭ぇ」
「効く」
「それとこれとは別だろ」
「手ぇ出しな」
「出してる」
「黙ってな」
「ああ」
大人しく、塗られていた。
*
クーリが、俺の袖を引いた。外を指す。俺も頷いた。
二人で鍛冶場を出た。ナナも、ついてきた。
クラインさんは、最初から外にいた。
「兄貴、早い」
「賢いだろう?」
「そういう賢さ要らない」
*
しばらくして、中からジェスの声がした。
「あ。そうだ」
嫌な予感がして、全員で中を覗いた。
ジェスが、腰の袋をひっくり返していた。
魔石。銀貨。紐。そして、靴。片方。
作業台へ、落ちた。
ツムグが、見た。
「何、それ」
「宝箱」
「靴が?」
「宝箱から出た」
ツムグは、しばらく靴を見ていた。
手に取る。裏返す。中を見る。指を入れる。
「……これ」
声が、少し変わった。
「どうした」
「繕ってある」
踵の内側。細い糸が走っていた。古い革と同じ色で、ぱっと見では分からない。
「靴なんだから、直すだろ」
「二回」
ツムグが、指先でなぞる。
「ここ。一回裂けて、縫った」
少し横。
「そのあと、また裂けてる」
「同じ人か」
俺が聞いた。
「たぶん」
「分かるのか」
「糸の締め方が、同じ」
ツムグは、糸の走りを指の腹でたどった。
「……自分で直してる。しかも、道具が足りてない手だ」
「分かるのか、そんなの」
「穴が、揃ってない。錐で開けてない」
彼女は、少しだけ眉を寄せた。
「よく縫えたもんだよ、これ」
ツムグは、靴をひっくり返した。底を見る。踵。爪先。しばらく、黙る。
「ちゃんと履いてた靴だね」
「うん」
「なのに」
親指で、糸を押した。
「糸が、死んでない」
「死ぬんですか。糸」
「古くなればね」
ツムグが、俺を見た。
「革だって、もっと固くなる」
もう一度、靴を見る。
「古そうなのに、古くない」
意味は、分からなかった。でも、言っていることは分かった。
使った跡だけが、古い。
*
「もう片方は?」
ツムグが聞いた。
「無かった」
「捨てなかったんだ」
「揃うかもしれねぇから」
「そう」
ツムグは、それ以上聞かなかった。
靴を、作業台の端へ置く。無造作では、なかった。
置いてから、少しだけ、向きを直した。
左の爪先が、戸口へ向いた。
*
その晩の飯は、ツムグが作った。宿の厨房を借りたらしい。
鍋から、濃い匂いがした。いつもの煮込みより、色も濃い。
塩。干し肉。豆。何かの葉。
それとは別に、硬いパン、炒った麦、干した茸、蜂蜜、油、塩の塊。
机の上へ、並んでいた。
「多くない?」
「明日、詰める」
「何日分」
「泊まるんだろ」
「そうだけど」
ツムグは、鍋を混ぜながら言った。
「地下は、思ったより食うよ」
ジェスが、顔を上げた。
「やっぱり?」
「何が」
「今日、飯の味が薄かった」
「ああ」
ツムグは、当然みたいに頷いた。
「あるよ」
クラインさんの眼鏡が、光った。
「知っているのかい」
「親父たちが坑道へ入る時、飯作ってたから」
鍋へ、塩を少し足す。
「下は暗いし、水ばっかり飲むし、疲れてくると味が分かんなくなる」
「原因は?」
「知らない」
「そうか」
クラインさんが、少し残念そうだった。
「兄貴、原因はいいから食べようよ」
*
ツムグが、鍋を指した。
「外で食べたら、ちょっと濃いくらい」
ジェスが一口食べて、止まった。もう一口。
「うまい」
「そりゃどうも」
「今日これ持ってきてほしかった」
「行く前に言いな」
「知らなかったんだよ」
「じゃあ次から」
「頼む」
「ああ」
それだけだった。
*
クーリが、並んだ食料を数える。
「こんなに持つの?」
「持つ」
「重いよ」
『格納します』
ナナが言った。クーリが、振り返る。
「あ」
『収納可能です』
「……ずるい」
「何が」
「冒険者の苦労が、一個消えてる」
『問題でしょうか』
「最高」
ナナが、小さく頷いた。
*
「何日ぶん?」
クーリが、もう一度聞いた。ツムグは、しばらく考えた。
「予定の倍」
「そんなに?」
「下で予定どおりに戻れると思わない方がいい」
ツムグは、蜂蜜の瓶を一番上へ置いた。
「腹減ってから食うんじゃ、遅いよ」
「なんで」
「足が止まるから」
「飯で?」
「飯を食わなくなった奴から、動かなくなる」
鍋を混ぜる。
「地面の下じゃ、動けない奴から帰れなくなる」
言い方は、軽かった。多分、何度も聞いた言葉なのだと思った。
*
ジェスが、懐から石を出した。灰色の、艶のない石だ。
「これ、ここでも使えんのか」
「たぶん」
俺は、答えた。
「ダンジョンなら、どこでも」
「一度きりかもしれない、というのは変わらないね」
クラインさんが言った。
「じゃあ、持ってく」
ジェスは、石を懐へ戻した。
「使わねぇけどな」
*
戸が開いた。全員が、そっちを見た。
ヤンさんだった。
朝から、いなかった。
斧槍は布に包まれている。外套の肩に、乾いた土がついていた。
手の甲に、浅い傷が一本あった。新しい。
それ以外は、何も変わっていなかった。
「おかえり」
「ああ」
「用、済んだ?」
「ああ」
それだけだった。
*
ヤンさんは、斧槍を土間の隅へ立てた。椅子へ座る。
ツムグが、皿を置いた。何も聞かない。ヤンさんも、何も言わない。
食べ始める。速い。いつもの食べ方だった。
「今日、五階まで行きました」
「ああ」
「三階までは、ジェスとクラインさんが昔行った道でした」
ヤンさんが、ジェスを見る。
「そうか」
「四階からは、初めて」
ジェスが言った。
「ああ」
「五階に、地図にない道があった」
ヤンさんの匙が、少しだけ止まった。
「入ったか」
「入ってない」
ジェスが答えた。
「今日は五階までって、決めてたから」
ヤンさんは、一度だけ頷いた。
「そうか」
*
俺は、少し嬉しくなった。なぜかは、分からない。
「角も、一人で曲がりませんでした」
ヤンさんが、俺を見る。
「ああ」
それだけだった。でも、多分、それでよかった。
*
ヤンさんは、皿を空にした。匙を置く。立つ。
その時、一度だけ、ツムグを見た。
「うまい」
そして、斧槍を持ち、外へ出た。
戸が、閉まった。
俺は、空いた椅子を見ていた。座っていた時間より、空いている時間の方が長い椅子だ。
飯を作る人が、飯を食う側に一度だけ座って、また出ていった。
*
誰も、喋らなかった。
ツムグが、鍋を持ったまま固まっている。
クーリが口を開いて、閉じた。
ジェスが、最初に言った。
「聞いた?」
「聞いた」
ツムグの返事が、早かった。
「今、言ったよね」
「言った」
「うまいって」
「ああ」
「もう一回言わせて」
「もういねぇよ」
「なんで止めないんだよ!」
「止められるか!」
クーリが、吹き出した。
*
クラインさんが、帳面を開いた。さらさらと何かを書く。
クーリが、覗く。
「何書いてるの」
「記録」
「何の」
「ヤンさんが、ツムグの料理を『うまい』と評した」
ツムグが、振り返った。
「消しな!」
「なぜだい。貴重な一次資料だよ」
「どこの学問だよ!」
「民俗学かな」
「知らないよ!」
ジェスが、机へ突っ伏して笑っていた。
*
少しして、ツムグはまた鍋を混ぜ始めた。耳が、まだ赤かった。
味見する。首を傾げる。塩を少し足した。
ジェスが、見ていた。
「今、変えた?」
「変えてない」
「塩入れたろ」
「入れてない」
「見てたぞ」
「うるさい」
多分、明日の鍋は、少し濃くなる。
*
夜。土間に、荷が積んであった。明日は一日、泊まりの支度に使う。
食料。水。縄。予備の弦。矢。薬。布。鍋。
それと、クラインさんの本。クーリに二冊までと言われて、三冊に減らした本。
「減ってないじゃない」
「二冊も減った」
そんなやり取りの後、皆、寝た。
*
俺は、まだ起きていた。
荷の横にしゃがんで、硬いパンを一枚齧っていた。
外で食べると、ちゃんと味がした。
「……本当だ」
ナナが、隣に立っていた。
「ナナ」
『はい』
「座れば?」
少し考えて、それから、俺の隣へ座った。同じ目線に、なった。
*
ナナは、荷物を数え始めた。一つ。二つ。声には出さない。目だけが動く。
「忘れ物、あるか」
『現時点では、確認されません』
「そっか」
荷の一番上に、靴があった。左足。片方だけ。
ジェスが、紐で荷へ括りつけていた。捨てていない。持っていくつもりらしい。
「もう片方、見つかるかな」
『不明です』
「だよね」
『ですが』
ナナが、靴を見る。
『ジェスさまは、探されるのだと思います』
「うん」
それは、俺にも分かった。
*
卓の端に、たたんだ地図が置いてあった。
クラインさんが、寝る前にそこへ置いたのだと思う。
俺は、少しだけ広げてみた。
細くて、真っ直ぐで、几帳面な字が、真ん中の方に並んでいる。
その端に、同じ形の字が、一つだけ新しく足されていた。
どちらが古いのか、俺には分からなかった。
畳んで、元の場所へ戻した。
*
しばらく、外の水路の音を聞いた。
昼間とは違う。人の声が消えると、水だけが村を通っていく。
遠くで、犬が鳴いた。
ナナが言った。
『……次は、長くなります』
俺は、齧るのをやめた。
同じ形の言葉を、前に一度、聞いたことがある。別の人の口から、別の夜に。
——寝ろ。明日からは、長い。
ナナは、荷を数え続けている。俺が何を思い出したかは、知らないままだった。
「ナナ」
『はい』
「……ああ。長くなるな」
『はい』
俺は、パンをもう一口齧った。硬かった。
「寝ようか」
『はい』
立ち上がる。ナナも立った。腰の細い剣が、小さく鳴った。
荷の上では、片方だけの靴が、戸口の方を向いていた。
(第四十話「片方」・了)




