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Re:sou〜超現実拡張妄想変換装置(仮)改〜  作者: 西ノ圭吾
第六章 幕開け
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Re:sou 第四十話「片方」



 入って十歩で、光が終わった。


 振り返ると、入口だけが白く残っている。外の空が、四角く切り取られていた。


 その向こうに麦畑があって、風が吹いている。


 前を向く。何も見えなかった。


 ——ダンジョンだ。


 正直に言う。俺は、わくわくしていた。


 地下がある。階層がある。宝箱があるかもしれない。人生で一度も入ったことのない場所に、ちゃんと「一階」という名前がついている。


 ハジの洞窟は、ただの穴だった。ドワーフ国のは、山の骨だった。


 ここは、違う。ここは、「潜る」場所だ。


 「ナナ」

 『はい』


 ナナが掌を上へ向けた。白い光が一つ生まれ、ふわりと浮かぶ。


 俺たちの頭より少し高い所まで上がって、ゆっくり前へ進んだ。


 道が、現れた。


 「無理してないか」

 『はい』


 ナナは、光を見上げた。


 『この程度の照明で生じる損耗は、計測できません』


 「なら、いいけど」

 『はい』


 少し、間を置く。


 『暗い場合は、お申し付けください』


 「ありがとう。……助かる」


   *


 クーリが、入口の内側で立ち止まっていた。


 矢筒から矢を抜いて、床へ並べている。


 「何してるんだ」

 「数えてる」


 並べ終えて、また戻す。


 「二十本」

 「入る時に数えるのか」

 「入る時と、出る時。合わなかったら、どっかに落としてる」

 「落としたら、まずいのか」

 「まずくはない。もったいない」


 クラインさんが、後ろで頷いた。


 「それでいい。数えられるものは、数えておく」

 「兄貴、今のは褒めてる?」

 「褒めているよ」

 「じゃあ、もっと言って」

 「……偉い」

 「気持ちこもってない!」


   *


 通路は、思ったより広かった。荷車が二台並んでも、まだ横を歩けそうだ。


 壁は、岩だった。削ったというより、裂け目を広げたような粗い面。


 そのところどころに、白っぽい、滑らかな板みたいなものが覗いていた。


 岩の中に、建物が埋まっている。そんな見え方だった。


 クラインさんが、すぐに壁へ寄った。


 「触っていいと思うかい」

 「たぶん」

 「たぶん、か」


 指先で、白い部分を撫でる。


 「石じゃないね」

 「俺も、そう思います」


 継ぎ目がない。冷たい。硬い。この感触を、俺は知っている。


 ハジの丘の下。ドワーフ国の、あの白い廊下。同じものだった。


 「カイくん」

 「はい」

 「あとで聞くことが、もう一つ増えたよ」

 「覚えておきます」

 「ぜひ、そうしてくれ」


   *


 「こっちだ」


 クラインさんが、折り畳んだ紙を広げた。ハンナ婆さんから借りた地図だ。


 角は丸くなり、折り目は布みたいに柔らかい。何人もの手を通ってきたのが分かる。


 「入口がここ。今いるのが、この辺り」


 線が、細かい。大通りだけでなく、脇道や行き止まりまで書き込まれている。


 「これがあるから、今日中に五階まで行ける」

 「無かったら?」

 「この分岐へ来るだけで、たぶん一日だ」

 「そんなにですか」

 「一階だけで、村の外れから外れくらいある」


 俺は、地図を覗き込んだ。


 線の色が、場所によって違った。濃い炭と、薄い炭と、赤茶けたインクと。


 字も、違う。几帳面な小さい字と、大きく雑な字と、震えた字。


 「これ、書いた人、何人もいるんですね」

 「三十年ぶんだからね」


 クラインさんは、地図の中ほどを指した。細く、真っ直ぐで、几帳面な字。


 「この辺りは、父の字だ」


 「……潜ってたんですね」

 「父たちの持ち場だったからね」


 それだけ言って、地図を持ち直した。


 「行こうか」


 ジェスは、何も言わなかった。地図も、見ていなかった。


 クーリも、覗き込むのをやめて、前を向いた。


   *


 少し歩いて、ジェスが口を開いた。


 「昔、こんなの持ってなかったよな」

 「持たせてもらえる歳じゃなかったからね」

 「道理で迷ったわけだ」


 クラインさんが、眼鏡越しにジェスを見た。


 「迷ったんじゃない」

 「ん?」

 「君が、勝手に地図の外へ行ったんだ」

 「似たようなもんだろ」

 「全然違うよ」


 クーリが、後ろから覗き込んだ。


 「よく兄貴、こんなのについて行ったね」

 「置いて帰ったら、もっと怒られるだろう?」

 「そっち?」

 「そっちだよ」


 ジェスが笑った。


 「クラインは昔から、そういう奴だ」


   *


 最初の魔物は、その直後に出た。


 角を曲がる。ジェスが手を上げた。全員が止まる。


 俺には、まだ何も聞こえない。ジェスは前を見たまま、少しだけ腰を落とした。


 「三つ」

 『一致します。前方、低位置。三体です』


 次の瞬間、闇の中から大きな鼠が飛び出した。犬くらいある。


 いや、鼠と呼んでいいのかも、少し怪しい。前歯が、俺の指くらいあった。


 「うわっ」


 俺が刀へ手をかけるより先に、ジェスが一歩前へ出た。


 一匹目。抜き打ちで首を落とす。二匹目が、その横を抜けた。


 ジェスは、追わなかった。


 「クーリ」

 「分かってる!」


 弦が鳴った。今まで聞いていた弓より、音が低い。


 ツムグの母の弓だ。ドワーフの手が、ドワーフのために作った引きの重さ。


 矢が一匹を貫き、そのまま後ろの一匹まで通った。


 そして——二匹とも、消えた。肉も、血も、残らない。


 薄い灰みたいに形を崩して、床へ魔石が二つ落ちた。


 勢いを失っていない矢は、そのまま飛んで、岩の壁へ届いた。


 音が、しなかった。


 当たったというより、そこで止まった。そのまま、落ちる。


 「……あれ?」


 クーリが、弓を下ろした。


   *


 ジェスが壁へ寄った。矢を拾う前に、当たった場所を指で擦る。


 「傷、ねぇぞ」

 「え?」

 「見ろよ。粉も出てねぇ」


 クーリも寄ってきた。


 「今の矢よ?」

 「そうだな」

 「岩に半分入るやつなんだけど」

 「そうだな」

 「なんでアンタが偉そうなのよ」

 「俺は何もしてねぇよ」


 ジェスは少し考えて、それから、ナナに手を出した。


 「あれ出してくれ。刃の無いやつ」

 『はい』


 赤金の剣が、宙から出てきた。刃のない、折れない棒。


 「ジェス」

 「やらせろ」


 ジェスは腰を落として、思いっきり岩の壁を殴った。


 音が、鳴らなかった。


 全力で叩きつけて返ってきたのは、布を打ったみたいな、間の抜けた低い音だけだった。


 誰も、しゃべらなかった。壁には、何も残っていない。


 「……」

 「痺れた?」

 「いや」


 ジェスは、棒を握った手を、開いたり閉じたりした。


 「……なんも、来ねぇ」


 俺も、岩へ手を当ててみた。


 冷たくない。温かくもない。手を当てているのに、当てている気が、しない。


 さっき触った白い板とは、まるで別のものだった。


 ——押したら、通れるんじゃないか。


 そう思って、慌てて手を離した。根拠は、何も無かった。


 クラインさんが、帳面を開いた。


 「クーリの新しい弓。魔物を二体貫通後、壁面へ衝突」

 「兄貴」

 「なんだい」

 「褒めて」


 ペンが、止まる。


 「……二体を、一射で倒した。すごいね」

 「なんか違う!」


 ジェスが、笑った。


   *


 鼠の魔石を拾ったのは、クーリだった。三つ。すぐ袋へ入れる。


 「一匹、いくらくらいなんだ」


 俺が聞くと、クーリが眉を上げた。


 「カイ」

 「うん」

 「そういうこと、聞くようになったのね」

 「駄目か」

 「いい傾向よ」


 嬉しそうだった。


 「この大きさなら、三つで昼飯一回分くらい」

 「そんなに」

 「村ならね。ハジだと、もうちょい安い」


 クラインさんが、地図から顔を上げた。


 「朝、聞いてきたのかい」

 「当然でしょ」

 「さすがだね」


 今度は、ちゃんと褒められたらしい。クーリは、満足そうに歩き出した。


   *


 その先で、蝙蝠が出た。一匹では、なかった。


 天井が動いた、と思った。黒い塊が、まとめて剥がれてくる。


 「多い!」

 「無理! 散ってる!」


 クーリが弓を上へ向けて、すぐ下ろした。


 俺は、右手を上げた。


 通路の幅、高さ、群れの少し手前。風を薄く、横へ。刃にはしない。押すだけだ。


 空気の壁が、群れを一度に崩した。壁と床へ、黒い塊が落ちる。


 「今!」


 ジェスが走る。俺も続いた。刀身へ薄い真空を置いて、振る。一匹。二匹。


 斬った端から形が崩れ、小さな魔石だけが床へ転がった。


 最後の二匹は、クラインさんの杖から出た青白い光が、まとめて落とした。


 静かになった。クラインさんが、帳面を開く。


 「カイくん。今の風は」

 「押しただけです」

 「詠唱は」

 「してません」

 「うん。知っていた」


 さらさらと書く。


 「じゃあ、なんで聞いたんですか」

 「記録には、確認が要るんだよ」

 「学者って、面倒ですね」

 「な」


 ジェスが乗った。クラインさんは、顔も上げなかった。


 「君たちにだけは、言われたくないな」


   *


 一階の終わりに、小さな広間があった。


 そこで初めて、床にも白いものが現れた。岩の間から、四角く覗いている。


 クラインさんが、しゃがみ込んだ。


 「上に、穴が被さったのか」

 「何がですか」

 「分からない」


 即答だった。


 「遺跡が先か、この穴が先か。どちらかが、どちらかへ食い込んでいる」


 白い床と、黒い岩。片方だけなら、見たことがある。


 二つが同じ所にあるのは、初めてだった。


 「ナナ。分かるか」

 『照会します』


 少し、間があった。


 『現在取得可能な情報のみでは、判定できません』


 「そっか」

 『申し訳ありません』

 「謝らなくていいよ。分からないことが分かった、で十分だ」


 ナナは一度だけ俺を見て、それから光を、少し先へ送った。


   *


 二階へ降りたのは、昼前だった。


 「速い」

 「そんなにですか」

 「異常に速いよ」


 クラインさんが、地図を持ち上げる。


 「これを作った連中に、帰ったら礼を言うんだ」

 「半分くらい、もう死んでるぞ」

 「じゃあ、残っている人に」

 「ハンナ婆さんに言っとく」

 「そうしよう」


   *


 最初の行き止まりで、俺は足を止めた。


 「ありますね」

 「何が」


 ジェスが覗く。箱があった。木の箱だ。壁際に、いかにもという形で置いてある。


 いかにも、というのが重要だった。


 どう見ても、そこに置かれている。誰かが忘れたのでも、埋もれていたのでもない。


 「置いてある」ものとして、置いてある。


 クーリが、俺を見た。


 「嬉しそうね」

 「そうか?」

 「嬉しそう」


 ジェスまで頷いた。


 「カイ、こういうの好きだよな」

 「嫌いな人、いるんですか」


 クラインさんが、肩を竦めた。


 「罠が好きな人はいないだろうね」


 俺は、箱から一歩離れた。


 「先に言ってくださいよ」

 「言ったよ」


   *


 ナナが、箱の前へしゃがんだ。


 『簡易鑑定を行います』


 白い指が、蓋の少し上をなぞる。


 『機械的な作動部は、検出できません』


 「魔法は」

 『微弱な反応があります。ただし、箱そのものではありません』

 「中身か」

 『その可能性が高いです』


 クーリが、ジェスを見た。


 「開けて」

 「なんで俺だよ」

 「一番頑丈だから」

 「褒めてる?」

 「褒めてる」


 ジェスは、少し考えた。


 「じゃあ、いいか」

 「いいんだ」


 俺が言うと、ジェスは箱を開けた。


 魔石が入っていた。それと、古い銀貨が何枚か。


 クーリの目が、変わった。


 「触らないで」

 「はい」


 全員が返事をした。


   *


 クーリは、銀貨を一枚ずつ並べた。裏。表。縁。最後に、噛んだ。


 「本物」

 「分かるのか」

 「だいたい」

 「噛んで?」

 「だいたいって言ったでしょ」


 数えて、もう一度数えて、魔石も数える。そして。


 「……今日の宿代、出た」


 真顔だった。


 「宝箱って、夢があるな」

 「夢じゃなくて現金よ」


   *


 二つ目の行き止まりにも、箱があった。今度は、ジェスが先に見つけた。


 「あるぞ」

 「嬉しそうだな」

 「嬉しいだろ、普通」


 ナナが調べる。罠は、なかった。


 ジェスが蓋を開けて、全員で覗いた。


 「…………」

 「…………」


 クーリが、最初に口を開いた。


 「靴ね」

 「靴だな」

 「片方ね」

 「……片方だな」


 箱の中に入っていたのは、左足の革靴が一つだけだった。


 短い靴だ。踵は擦れ、爪先は白くなり、紐も古い。新品には見えなかった。


 ジェスが持ち上げる。中を見る。箱もひっくり返す。何も出なかった。


 「もう片方は?」

 「無いですね」

 「なんでだよ」

 「俺に聞かれても」


 クーリが、腕を組んだ。


 「捨てれば?」


 ジェスは、靴を見た。


 「いや」

 「持ってくの?」

 「もう片方が、あるかもしれねぇだろ」

 「無いかもしれないでしょ」

 「そん時は、そん時だ」

 「片方だけ持って、どうすんのよ」


 ジェスは、もう一度、靴を見た。


 「片方だけじゃ、使えねぇだろ」

 「だから言ってるの」

 「だからだよ」


 クーリが、少し黙った。


 ジェスは、靴を腰の袋へ押し込んだ。


 「揃うなら、揃えた方がいい」


 それだけだった。


 クーリが、クラインさんを見る。クラインさんは、地図へ目を落とした。


 「僕は、どちらの味方もしないよ」


 俺は、その袋の膨らみを見ていた。


 ゲームなら、これは売っても銅貨にならない。持ち歩くだけ、荷になる。


 でも、ジェスは持った。


   *


 三つ目の箱は、二階の奥にあった。さっきより大きい。


 ジェスが、腕をまくった。


 「今度こそ」

 「何が」

 「当たりだ」

 「銀貨は当たりでしょ」

 「そうじゃなくて、武器とか」


 クーリが笑った。


 「右の靴だったら?」


 ジェスが、止まった。


 「それは、大当たりだろ」

 「本気なの?」

 「本気だ」


 ナナが、箱の前へ出た。


 『お待ちください』


 ジェスの手が止まる。


 『作動部を検出しました』


 「どこ」

 『蓋の内側です』


 クラインさんが、しゃがんだ。


 「糸か」

 『はい。開放に連動します』


 ジェスが、蓋から手を離した。


 「じゃあ、やめるか」

 「え」


 今度は、俺が言った。ジェスが、俺を見る。


 「罠あるんだろ」

 「ありますね」

 「中身、紐かもしれねぇぞ」

 「でも」


 言いながら、自分でも変だなと思った。それでも、口が動いた。


 「罠があるってことは、守るものがあるってことでしょう」


 クラインさんの手が、止まった。


 「……なるほど」

 「え」

 「いや。書いておく」


 帳面が開かれる。クーリが額へ手を当てた。


 「兄貴、今の、そんな大した話?」

 「大した話じゃないよ。だから書くんだ」

 「意味分かんない!」


   *


 結局、開けた。


 クラインさんが糸を一本押さえ、ナナが蓋の正面から全員を退かせた。


 ジェスが、横から大剣の鞘で持ち上げる。


 蓋が開く。ぱん、と小さな音。針が三本、飛んだ。


 ナナが、一歩前へ入った。


 左腕が上がる。赤金の小盾が、正面へ出た。


 一本目と二本目は、盾の面がまとめて弾いた。


 三本目が、少しだけ軌道を外れて、俺の方へ来る。


 盾が、返った。


 高く乾いた音がして、針が床へ跳ねた。


 「ナナ!」

 『問題ありません』


 ナナは、盾を下ろした。表には、傷ひとつ無かった。


 「無理してないか」

 『はい』


 ナナは、盾の面を一度だけ見た。


 『……これは、良い盾です』


 「だろ。ツムグさんとバクさんのだ」

 『はい』


 少し、間があった。


 『三本目は、少し遅れました。次は、遅れません』


 「そこか」


 クーリが、額へ手を当てた。


 「なんで反省点がそこなのよ」


   *


 箱の中には、麻紐が一巻き入っていた。全員で、見た。


 「閉めようぜ」

 「開けた意味なくなるでしょ」

 「針三本だぞ」

 「紐一巻きね」

 「割に合わねぇ」


 クラインさんが、紐を持ち上げた。


 「丈夫そうだよ」

 「クライン」

 「なんだい」

 「今は、そういう慰め要らねぇ」

 「そうか」


   *


 三階へ降りる頃には、歩き方が少し変わっていた。


 先頭はジェス。少し後ろに俺。ナナは俺の横か、半歩前。


 その後ろに、クーリとクラインさん。


 ジェスは角へ近づくたび、一度だけ手を上げる。誰も、追い越さない。


 ヤンさんに言われたから、というだけではないのだと思った。


 多分この人は、昔からこういうことをやってきた。


 「ナナ」

 『はい』

 「疲れてないか」

 『いえ』


 少し、間があった。


 『……歩幅を、合わせています』


 「合ってるよ」

 『はい』


   *


 三階で、人の骨が歩いてきた。五体。古い鎧をぶら下げ、剣を持っている。


 もちろん、本物の死体ではない。ダンジョンの魔物だ。


 それでも、暗い通路で骨が歩いてくるのは、かなり嫌だった。


 「どうする」

 「斬る」


 ジェスが答えて、一体目へ踏み込んだ。横薙ぎ。


 剣が、肋骨の間を抜けた。


 「……あ」


 骨が、剣へしがみついた。


 「ジェス!」

 「分かってる!」


 柄を引く。そのまま蹴る。骨が後ろへ倒れて、すぐ起きた。


 クーリが、呆れた。


 「骨相手に、胴斬ってどうすんのよ」

 「やってから言うな!」

 「やる前に分かるでしょ!」


   *


 二体目が、ジェスへ剣を振った。


 ジェスは半歩だけ入って、斬らなかった。鍔で、顎を殴った。


 骨の頭が外れる。宙へ浮いたところを、柄頭でもう一度叩いた。


 乾いた音。頭蓋が砕ける前に、全身が灰へ変わった。床へ、魔石が落ちる。


 「なるほど」


 ジェスが笑った。


 「骨は、殴る」

 「最初からそうしなさいよ」

 「今、覚えた」


 残り三体。今度は、早かった。


 膝を蹴る。崩れたところへ鍔。剣を逆手へ持ち替え、柄で側頭部。


 大剣なのに、途中から完全に棒として使っていた。


 俺とナナが、一体ずつ。最後は、クーリの矢が骨盤を砕いた。


 全部消えて、魔石だけが残る。


 「手ぇ痛ぇ」

 「剣で殴るからよ」

 「剣は悪くねぇ」

 「手が悪いの?」

 「俺が悪い」

 「珍しく素直」


   *


 少し進んだところで、ジェスが急に止まった。


 壁を見ている。そこだけ、岩が薄く剥がれて、下から白い壁が覗いていた。


 その表面に、黒い線が二本あった。


 炭だった。


 一本は低い。もう一本は、その少し上。


 ジェスが、近づく。


 「……残ってんのか」


 クラインさんも、横へ立った。


 「残るだろうね」

 「なんで分かんだよ」

 「傷がつかないから、炭で書いたんだろう?」

 「そうだけどよ」


 クーリが、覗き込む。


 「何これ」


 ジェスが、低い方を指した。


 「俺」


 上。


 「クライン」


 「……背比べ?」

 「そう」


 クーリが、兄を見る。


 「何やってんの」

 「子供だったんだよ」


 クラインさんは、静かに答えた。


 ジェスが笑った。


 「俺、ここでクラインに負けてたんだよな」

 「今も背は僕の方が——」


 クラインさんは、ジェスを見上げた。やめた。


 「……いや。今は君だね」

 「勝った」

 「何年かかったの」


 クーリが言った。ジェスは、二本の線を見ていた。


 「結構」


 線には、触らなかった。消そうとも、しなかった。そのまま通り過ぎた。


   *


 三階の階段は、その先だった。


 ジェスが、先頭に立つ。下を見る。暗い。ナナの光が、途中までしか届かない。


 「ジェス」


 クラインさんが呼んだ。


 「ん?」

 「ここから先は」

 「分かってる」


 短かった。


 ジェスは、一段下りた。次。次。俺たちも続く。


 最後の段を下りて、ジェスが足元を見た。それから、振り返った。


 「四階だ」

 「そうだね」

 「初めてだ」


 クラインさんが、小さく頷いた。


 「うん」


 それだけだった。ジェスも、それ以上言わなかった。


 ただ一度だけ、大きく息を吸って、吐いた。そして、前を向く。


 「行くぞ」


 クーリが、後ろから言った。


 「あたしは、一階から全部初めてなんだけど」


 ジェスが振り返る。


 「そういや、そうだな」

 「今、なんかいい感じだったでしょ」

 「ああ」

 「入りづらかったんだけど」

 「悪い」

 「素直に謝るな!」


 ジェスが、笑った。


   *


 四階から、魔物が変わった。


 石を齧る虫。天井へ張りつく蝙蝠。壁から生えた、人の背丈くらいある茸。


 茸は、動かなかった。


 「これ、魔物ですか」

 「たぶん」

 「動かないですね」

 「動くよ」


 茸が、動いた。傘が、こっちを向く。


 「うわっ!」


 俺より先に、クーリが叫んだ。ジェスが横から斬る。茸が消えて、魔石が落ちた。


 直後、傘があった辺りから、白い粉がぶわっと広がった。


 クラインさんの顔色が、変わる。


 「息を止めろ!」


 全員が止めた。ジェスが、すぐ俺を見る。俺も、分かった。


 風。今度は吸わない。向こうへ押す。粉の塊を、通路の奥へ送った。


 しばらく待つ。クラインさんが、慎重に息をした。


 「……大丈夫そうだ」

 「兄貴、先に言ってよ!」

 「言おうとしたよ!」

 「動くって言っただけじゃない!」

 「動いた後の情報は、今得たんだ!」

 「学者、役に立たない!」

 「ひどいな!?」


 珍しく、クラインさんの声が大きくなった。


   *


 茸の粉は、結局なんだったのか分からなかった。


 「毒じゃないんですか」

 「今のところ、症状はない。眠くもない。痺れもしない」

 「じゃあ何」


 クラインさんは、真顔で答えた。


 「胞子」

 「それは見れば分かる!」


   *


 石を齧る虫は、群れで来た。


 壁を擦る音が、先に聞こえた。ざり。ざり。ざりざりざりざり。


 「多いな」


 ジェスの声から、笑いが消えた。


 前の通路が、灰色に埋まる。小さい。それでも、一匹が猫くらいある。


 殻が重なって、床が見えない。


 「後ろ、下がれ」


 クーリとクラインさんが下がる。俺は前へ。ナナも、横へ出た。


 「ナナ、数は」

 『算定困難です』

 「多いってことだな」

 『はい』


 俺は、床へ手をついた。


 通路は塞がない。半分だけ。膝より少し高い石の段を、斜めにせり上げる。


 虫の群れが乗り上げて、詰まった。後ろから来るものが押す。前へ。上へ。


 ひとかたまりに、なる。


 「クーリ」

 「待ってました!」


 弦が鳴った。低い。重い。矢が、群れの真ん中へ入る。


 魔石が、ぱらぱらと床へ落ちた。一射。二射。三射。


 通路の灰色が、目に見えて減っていく。


 「すげぇな、その弓」

 「今さら?」

 「狭いとこだと、もっとすげぇ」


 クーリが、少し得意そうに鼻を鳴らした。


 「並んでくれるからね」


 クラインさんが、後ろから言った。


 「弓というのは、本来は開けた場所で——」

 「兄貴、今はいい」

 「そうかい」


   *


 抜けてきた虫を、ジェスが拾う。一匹。二匹。今度は、斬り方を変えていた。


 殻の継ぎ目。脚の付け根。頭と胴の間。硬いところへは、刃を当てない。


 「上手いな」

 「何が」

 「一回見ただけなのに」

 「一回見りゃ、だいたい分かるだろ」

 「俺は分からない」

 「カイは考えすぎなんだよ」


 最後の一匹が消える。ジェスは、剣を払った。血は、ついていない。


 つくものが、残らないからだ。


 「斬れねぇとこがあるなら、斬れるとこ探しゃいいんだ」


 簡単に言った。多分この人には、本当に簡単なのだ。


   *


 魔石を拾うのに、一番時間がかかった。


 クーリが数えている途中で、ジェスが一個拾って渡した。


 「増やすな!」

 「落ちてたんだよ!」

 「今、数えてる途中なの!」


 クラインさんは、少し離れた所で黙って地図を読んでいた。賢いと思った。


   *


 四階の隅で、昼を食べた。壁際に座って、ナナの光を少し高く上げてもらう。


 持ってきたのは、干し肉と硬いパンと水。それだけだった。


 ジェスが、干し肉を噛んでいる。噛んで、噛んで、首を傾げた。


 「……なあ」

 「何」

 「これ、味しなくねぇか」

 「元から、そんな味でしょ」

 「朝は、もうちょいしたぞ」


 クーリも齧る。止まる。もう一度。


 「……薄いかも」


 俺も食べた。確かに、外で食べるより味が遠い気がする。


 「暗いからでしょうか」

 「目から入る情報が減ると、食べ物の感じ方が変わるという話はある」

 「話はある」


 ジェスが、繰り返した。


 「つまり、分かんねぇんだな」

 「そうとも言う」

 「学者って便利だな」

 「便利だろう?」


   *


 ジェスがパンを割ろうとした。割れなかった。両手に力を入れる。まだ割れない。


 「……硬ぇ」


 クーリが、自分のパンを差し出した。


 「貸して」

 「割れんの?」


 クーリは、弓を見た。


 「これで」

 「やめろ」


 全員で止めた。


 ナナが、水筒を差し出す。


 『水分の摂取を推奨します』

 「腹は減るんだけどな。味だけ、どっか行く」


 ナナが、少し考えた。


 『記録します』

 「それ、役立つ?」

 『現在は、不明です』

 「正直だなぁ」


   *


 休憩を終えて歩き出す。四階の最後に、鎧を着た骨が出た。盾まで持っている。


 ジェスが剣を抜いた。骨も、盾を上げる。


 「カイ。見てろ」


 骨が来る。ジェスは、剣を振らなかった。前へ出て、盾の縁へ肩を当てる。


 押す。骨がよろめく。そのまま足を払って、倒す。


 盾を踏む。骨の腕が固定される。柄頭を、頭へ。一発。魔石になった。


 「な」

 「何が」

 「斬らなくていい。剣士だからって、全部斬る必要ねぇんだよ」


 言って、少しだけ笑う。


 「俺も今、覚えた」


 なるほど。この人はこうやって強くなるのだと思った。


   *


 五階へ着いた時、クラインさんが砂筒を見た。


 「ここまでだ」

 「まだ余裕あるぞ」

 「あるね」

 「じゃあ」

 「五階までと言った」

 「出た」

 「二回目だよ」

 「分かってる」


 ジェスは笑っただけで、先へ行こうとは、しなかった。


   *


 問題は、帰る前に地図の確認だけしようとした時だった。


 五階の西端。地図では、行き止まりになっている場所。


 そこへ行くと、風が吹いていた。


 冷たい風。


 俺は、足を止めた。入口と、同じだ。


 奥から。ずっと奥から。何かが息を吐いているような風。


 「クラインさん」

 「うん」


 クラインさんも、気づいていた。


 地図を見る。壁を見る。もう一度、地図。


 「ここで終わってる」

 「でも」

 「風がある」


   *


 行き止まりの壁は、半分が岩だった。


 その岩が崩れたのか、あるいは後から押し退けられたのか。


 人一人が通れる隙間が、開いていた。


 その向こうに、白い通路が続いていた。


 岩ではない。床も、壁も、天井も、全部あの滑らかな材質だった。


 ナナの光を入れる。真っ直ぐ。途中で、暗闇へ消える。


 地図には、ない。


   *


 ジェスが、一歩近づいた。


 「ジェス」


 クラインさんが呼ぶ。ジェスが、止まった。


 「見るだけだ」

 「君は昔も、そう言った」

 「言ったっけ」

 「言った」

 「クライン、よく覚えてんな」

 「君がそのあと、勝手に三階まで降りたからね」


 ジェスが、通路を見る。風が、髪を揺らした。


 昔なら、多分、入ったのだと思う。


 少なくともクラインさんは、そう思っている顔だった。


 ジェスは、少しだけ笑った。


 「じゃあ、今日はやめとく」

 「助かるよ」


 あっさり、戻った。


   *


 クラインさんが、地図を床へ広げた。炭筆を出す。


 地図の端。本来なら線のないところへ、一本、細い線を引いた。


 「何してるんですか」

 「足すんだよ」

 「地図に?」

 「地図だからね」


 線の先は、途中で止まった。先を、知らないからだ。


 クラインさんは、その横へ小さく印を書いた。


 自分の字は、細くて、真っ直ぐで、几帳面だった。


 「この地図に、自分で線を足すのは初めてだ」


 ジェスが、覗いた。


 「昔は、増やす側じゃなかったもんな」

 「迷う側だったからね」

 「俺のせいみたいに言うなよ」

 「君のせいだよ」


 クラインさんは、地図を畳んだ。丁寧に、折り目の通りに。


   *


 「ナナ。下の反応って、こっちか」


 ナナが、白い通路へ顔を向ける。数秒。


 『判定できません』

 「近くはなったか」

 『反応そのものに、大きな変化はありません』

 「そっか」

 『ただし』


 ナナが、床を見た。


 『下方です』


 やっぱり。ずっと下。まだ、その程度しか分からない。


 「今日は戻ろう」

 『はい』


   *


 外へ出た時には、日がかなり傾いていた。


 穴の中から見る夕方は、驚くほど明るかった。


 一歩出る。風が頬に当たる。土の匂い。麦の匂い。鳥の声。空が、広い。


 クーリが、両腕を上へ伸ばした。


 「外!」

 「外だな」


 ジェスも笑う。クラインさんは、すぐ地図を広げた。


 「風で飛ぶよ」


 クーリが言った。慌てて、畳んだ。


   *


 クーリが、矢筒を下ろした。地面へ並べる。一本ずつ。


 「二十本」


 顔を上げた。


 「全部あった」

 「そりゃよかった」

 「よかったの。これが一番よかったの」


   *


 村へ戻る前に、ジェスが一度だけ穴を振り返った。俺も、立ち止まる。


 「どうした」

 「いや」


 三階までしか行けなかった穴。今日は、五階まで行った。それだけだ。


 ジェスは、前を向いた。


 「昔より、近かったな」

 「何が」

 「階段」


 笑った。


 「俺が、でかくなったからかもな」


 それ以上は、言わなかった。


   *


 村へ入る道の途中で、ジェスがもう一度だけ足を止めた。


 今度は、穴ではない方だった。畑の向こう、低い丘が三つ並んでいる。


 その一番奥を、少しの間、見ていた。


 何も言わなかった。俺も、聞かなかった。


   *


 クーリは、帰るなりギルドの帳場へ行った。魔石を全部、机へ並べる。


 ハンナ婆さんが、木箱の上から見下ろした。


 「ずいぶん拾ったね」

 「五階までです」

 「五階で、これかい」


 婆さんの眉が、少し上がった。クーリは、気づかなかったふりをした。


 「買取、村相場より低いです」

 「誰から聞いた」

 「三軒」

 「この村に、三軒しかないよ」

 「だから全部回ったんです」


 婆さんが、笑い出した。


 「クーリ。あんた、ここに残らないかい」

 「給金次第」

 「即答だね」


   *


 交渉は、長かった。俺とジェスは、途中で椅子へ座った。


 最後、クーリが戻ってきた。


 「勝った」

 「どれくらい」

 「ちょっと」

 「ちょっとかよ」

 「ちょっとを笑う奴は、金持ちになれないの」


 ハンナ婆さんが、後ろから怒鳴った。


 「次は下げるからね!」

 「上げさせるから平気!」


 強かった。


   *


 帰り際、クラインさんが帳場へ寄って、地図を返そうとした。


 婆さんは、受け取らなかった。


 「持ってな」

 「まだ、借りていていいんですか」

 「いいも悪いもないよ」


 婆さんは、手元の紙を睨んだまま言った。


 「そりゃ、あんたらのだ」


 クラインさんは、少しの間、地図を持ったまま立っていた。


 「……お預かりします」

 「持ってなって言ってんだろ」


   *


 宿へ戻ると、クーリは今度は帳面を開いた。


 銀貨。魔石。宿代。食料。矢。油。


 そこで、ペンが止まった。


 「……油」

 「どうしたんだ」

 「使ってない」


 俺も、気づいた。松明を、一本も使っていない。


 灯りは、一日中ナナが出していた。


 クーリが、ゆっくりナナを見る。


 「ねえ」

 『はい』

 「あんた、一日中光ってたわよね」

 『はい』

 「油、一滴も減ってないんだけど」

 『はい』


 クーリは、計算し直した。もう一度。そして、ナナの両手を握った。


 「あんた、経費に優しい!」

 『節約に、貢献できています』

 「すごい!」

 『はい』


 ナナが、少しだけ胸を張ったように見えた。気のせいかもしれない。


 「ナナ」

 『はい』

 「今日は助かった。ありがとう」


 ナナが、俺を見る。


 『……はい』


   *


 鍛冶場は、まだ火が入っていた。日が落ちても、中だけは昼みたいに明るい。


 ツムグが、炉の前にいた。顔の半分が、煤で黒い。


 「戻ったよ」

 「見りゃ分かる」


 ツムグは、炉から目を離さない。


 「五階まで」

 「早かったね」

 「地図が良かった」

 「怪我は」

 「無し」


 そこで初めて、ツムグが振り返った。ジェスを見る。俺たちを見る。


 「そう」


 短く答えて、また炉へ向いた。


   *


 ジェスが、袋を一つ出した。


 「これ」

 「何」

 「分かんねぇから持ってきた」


 黒っぽい鉱石だった。四階の壁際。岩の割れ目から出ていたものだ。


 魔物の魔石とは、違う。


 ツムグが受け取る。重さを見る。爪で擦る。金床の角へ軽く当てて、音を聞く。


 「鉄じゃない」

 「駄目?」

 「駄目とは言ってない」


 もう一度、音を聞く。


 「分からない、って言ってる」

 「じゃあ」

 「明日、割る」


 作業台の端へ置く。


 「次、見つけたら場所も覚えてきな」

 「ああ」

 「壁のどっち側だったかも」

 「ああ」

 「色も」

 「分かった」

 「周りの石も持ってきて」


 ジェスが笑った。


 「注文増えてるぞ」


 ツムグも、少し笑った。


 「持って帰ってくるって言ったの、アンタだろ」

 「ああ。任せろ」


   *


 ツムグが、ジェスの手を取った。


 自然すぎて、一瞬、何をしたのか分からなかった。


 掌を上へ向ける。指の付け根を見る。


 「あ」


 ジェスが言った。豆が、潰れていた。


 骨相手に、大剣の柄で殴り続けた方の手だ。


 「何したの」

 「骨を殴った」

 「剣で?」

 「剣で」


 ツムグが、目を細めた。


 「馬鹿」

 「ああ」


 反論しなかった。


 棚から小さな壺を取る。蓋を開ける。匂いがした。ジェスの顔が歪んだ。


 「臭ぇ」

 「効く」

 「それとこれとは別だろ」

 「手ぇ出しな」

 「出してる」

 「黙ってな」

 「ああ」


 大人しく、塗られていた。


   *


 クーリが、俺の袖を引いた。外を指す。俺も頷いた。


 二人で鍛冶場を出た。ナナも、ついてきた。


 クラインさんは、最初から外にいた。


 「兄貴、早い」

 「賢いだろう?」

 「そういう賢さ要らない」


   *


 しばらくして、中からジェスの声がした。


 「あ。そうだ」


 嫌な予感がして、全員で中を覗いた。


 ジェスが、腰の袋をひっくり返していた。


 魔石。銀貨。紐。そして、靴。片方。


 作業台へ、落ちた。


 ツムグが、見た。


 「何、それ」

 「宝箱」

 「靴が?」

 「宝箱から出た」


 ツムグは、しばらく靴を見ていた。


 手に取る。裏返す。中を見る。指を入れる。


 「……これ」


 声が、少し変わった。


 「どうした」

 「繕ってある」


 踵の内側。細い糸が走っていた。古い革と同じ色で、ぱっと見では分からない。


 「靴なんだから、直すだろ」

 「二回」


 ツムグが、指先でなぞる。


 「ここ。一回裂けて、縫った」


 少し横。


 「そのあと、また裂けてる」


 「同じ人か」


 俺が聞いた。


 「たぶん」

 「分かるのか」

 「糸の締め方が、同じ」


 ツムグは、糸の走りを指の腹でたどった。


 「……自分で直してる。しかも、道具が足りてない手だ」


 「分かるのか、そんなの」

 「穴が、揃ってない。錐で開けてない」


 彼女は、少しだけ眉を寄せた。


 「よく縫えたもんだよ、これ」


 ツムグは、靴をひっくり返した。底を見る。踵。爪先。しばらく、黙る。


 「ちゃんと履いてた靴だね」

 「うん」

 「なのに」


 親指で、糸を押した。


 「糸が、死んでない」

 「死ぬんですか。糸」

 「古くなればね」


 ツムグが、俺を見た。


 「革だって、もっと固くなる」


 もう一度、靴を見る。


 「古そうなのに、古くない」


 意味は、分からなかった。でも、言っていることは分かった。


 使った跡だけが、古い。


   *


 「もう片方は?」


 ツムグが聞いた。


 「無かった」

 「捨てなかったんだ」

 「揃うかもしれねぇから」

 「そう」


 ツムグは、それ以上聞かなかった。


 靴を、作業台の端へ置く。無造作では、なかった。


 置いてから、少しだけ、向きを直した。


 左の爪先が、戸口へ向いた。


   *


 その晩の飯は、ツムグが作った。宿の厨房を借りたらしい。


 鍋から、濃い匂いがした。いつもの煮込みより、色も濃い。


 塩。干し肉。豆。何かの葉。


 それとは別に、硬いパン、炒った麦、干した茸、蜂蜜、油、塩の塊。


 机の上へ、並んでいた。


 「多くない?」

 「明日、詰める」

 「何日分」

 「泊まるんだろ」

 「そうだけど」


 ツムグは、鍋を混ぜながら言った。


 「地下は、思ったより食うよ」


 ジェスが、顔を上げた。


 「やっぱり?」

 「何が」

 「今日、飯の味が薄かった」

 「ああ」


 ツムグは、当然みたいに頷いた。


 「あるよ」


 クラインさんの眼鏡が、光った。


 「知っているのかい」

 「親父たちが坑道へ入る時、飯作ってたから」


 鍋へ、塩を少し足す。


 「下は暗いし、水ばっかり飲むし、疲れてくると味が分かんなくなる」

 「原因は?」

 「知らない」

 「そうか」


 クラインさんが、少し残念そうだった。


 「兄貴、原因はいいから食べようよ」


   *


 ツムグが、鍋を指した。


 「外で食べたら、ちょっと濃いくらい」


 ジェスが一口食べて、止まった。もう一口。


 「うまい」

 「そりゃどうも」

 「今日これ持ってきてほしかった」

 「行く前に言いな」

 「知らなかったんだよ」

 「じゃあ次から」

 「頼む」

 「ああ」


 それだけだった。


   *


 クーリが、並んだ食料を数える。


 「こんなに持つの?」

 「持つ」

 「重いよ」

 『格納します』


 ナナが言った。クーリが、振り返る。


 「あ」

 『収納可能です』

 「……ずるい」

 「何が」

 「冒険者の苦労が、一個消えてる」

 『問題でしょうか』

 「最高」


 ナナが、小さく頷いた。


   *


 「何日ぶん?」


 クーリが、もう一度聞いた。ツムグは、しばらく考えた。


 「予定の倍」

 「そんなに?」

 「下で予定どおりに戻れると思わない方がいい」


 ツムグは、蜂蜜の瓶を一番上へ置いた。


 「腹減ってから食うんじゃ、遅いよ」

 「なんで」

 「足が止まるから」

 「飯で?」

 「飯を食わなくなった奴から、動かなくなる」


 鍋を混ぜる。


 「地面の下じゃ、動けない奴から帰れなくなる」


 言い方は、軽かった。多分、何度も聞いた言葉なのだと思った。


   *


 ジェスが、懐から石を出した。灰色の、艶のない石だ。


 「これ、ここでも使えんのか」

 「たぶん」


 俺は、答えた。


 「ダンジョンなら、どこでも」

 「一度きりかもしれない、というのは変わらないね」


 クラインさんが言った。


 「じゃあ、持ってく」


 ジェスは、石を懐へ戻した。


 「使わねぇけどな」


   *


 戸が開いた。全員が、そっちを見た。


 ヤンさんだった。


 朝から、いなかった。


 斧槍は布に包まれている。外套の肩に、乾いた土がついていた。


 手の甲に、浅い傷が一本あった。新しい。


 それ以外は、何も変わっていなかった。


 「おかえり」

 「ああ」

 「用、済んだ?」

 「ああ」


 それだけだった。


   *


 ヤンさんは、斧槍を土間の隅へ立てた。椅子へ座る。


 ツムグが、皿を置いた。何も聞かない。ヤンさんも、何も言わない。


 食べ始める。速い。いつもの食べ方だった。


 「今日、五階まで行きました」

 「ああ」

 「三階までは、ジェスとクラインさんが昔行った道でした」


 ヤンさんが、ジェスを見る。


 「そうか」

 「四階からは、初めて」


 ジェスが言った。


 「ああ」

 「五階に、地図にない道があった」


 ヤンさんの匙が、少しだけ止まった。


 「入ったか」

 「入ってない」


 ジェスが答えた。


 「今日は五階までって、決めてたから」


 ヤンさんは、一度だけ頷いた。


 「そうか」


   *


 俺は、少し嬉しくなった。なぜかは、分からない。


 「角も、一人で曲がりませんでした」


 ヤンさんが、俺を見る。


 「ああ」


 それだけだった。でも、多分、それでよかった。


   *


 ヤンさんは、皿を空にした。匙を置く。立つ。


 その時、一度だけ、ツムグを見た。


 「うまい」


 そして、斧槍を持ち、外へ出た。


 戸が、閉まった。


 俺は、空いた椅子を見ていた。座っていた時間より、空いている時間の方が長い椅子だ。


 飯を作る人が、飯を食う側に一度だけ座って、また出ていった。


   *


 誰も、喋らなかった。


 ツムグが、鍋を持ったまま固まっている。


 クーリが口を開いて、閉じた。


 ジェスが、最初に言った。


 「聞いた?」

 「聞いた」


 ツムグの返事が、早かった。


 「今、言ったよね」

 「言った」

 「うまいって」

 「ああ」

 「もう一回言わせて」

 「もういねぇよ」

 「なんで止めないんだよ!」

 「止められるか!」


 クーリが、吹き出した。


   *


 クラインさんが、帳面を開いた。さらさらと何かを書く。


 クーリが、覗く。


 「何書いてるの」

 「記録」

 「何の」

 「ヤンさんが、ツムグの料理を『うまい』と評した」


 ツムグが、振り返った。


 「消しな!」

 「なぜだい。貴重な一次資料だよ」

 「どこの学問だよ!」

 「民俗学かな」

 「知らないよ!」


 ジェスが、机へ突っ伏して笑っていた。


   *


 少しして、ツムグはまた鍋を混ぜ始めた。耳が、まだ赤かった。


 味見する。首を傾げる。塩を少し足した。


 ジェスが、見ていた。


 「今、変えた?」

 「変えてない」

 「塩入れたろ」

 「入れてない」

 「見てたぞ」

 「うるさい」


 多分、明日の鍋は、少し濃くなる。


   *


 夜。土間に、荷が積んであった。明日は一日、泊まりの支度に使う。


 食料。水。縄。予備の弦。矢。薬。布。鍋。


 それと、クラインさんの本。クーリに二冊までと言われて、三冊に減らした本。


 「減ってないじゃない」

 「二冊も減った」


 そんなやり取りの後、皆、寝た。


   *


 俺は、まだ起きていた。


 荷の横にしゃがんで、硬いパンを一枚齧っていた。


 外で食べると、ちゃんと味がした。


 「……本当だ」


 ナナが、隣に立っていた。


 「ナナ」

 『はい』

 「座れば?」


 少し考えて、それから、俺の隣へ座った。同じ目線に、なった。


   *


 ナナは、荷物を数え始めた。一つ。二つ。声には出さない。目だけが動く。


 「忘れ物、あるか」

 『現時点では、確認されません』

 「そっか」


 荷の一番上に、靴があった。左足。片方だけ。


 ジェスが、紐で荷へ括りつけていた。捨てていない。持っていくつもりらしい。


 「もう片方、見つかるかな」

 『不明です』

 「だよね」

 『ですが』


 ナナが、靴を見る。


 『ジェスさまは、探されるのだと思います』


 「うん」


 それは、俺にも分かった。


   *


 卓の端に、たたんだ地図が置いてあった。


 クラインさんが、寝る前にそこへ置いたのだと思う。


 俺は、少しだけ広げてみた。


 細くて、真っ直ぐで、几帳面な字が、真ん中の方に並んでいる。


 その端に、同じ形の字が、一つだけ新しく足されていた。


 どちらが古いのか、俺には分からなかった。


 畳んで、元の場所へ戻した。


   *


 しばらく、外の水路の音を聞いた。


 昼間とは違う。人の声が消えると、水だけが村を通っていく。


 遠くで、犬が鳴いた。


 ナナが言った。


 『……次は、長くなります』


 俺は、齧るのをやめた。


 同じ形の言葉を、前に一度、聞いたことがある。別の人の口から、別の夜に。


 ——寝ろ。明日からは、長い。


 ナナは、荷を数え続けている。俺が何を思い出したかは、知らないままだった。


 「ナナ」

 『はい』

 「……ああ。長くなるな」

 『はい』


 俺は、パンをもう一口齧った。硬かった。


 「寝ようか」

 『はい』


 立ち上がる。ナナも立った。腰の細い剣が、小さく鳴った。


 荷の上では、片方だけの靴が、戸口の方を向いていた。


 (第四十話「片方」・了)


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