Re:sou 間話・三「始」
兄が来たのは、よく晴れた朝だった。
男は初めての長期休暇願を無理矢理通し、都の外れに、二人だけの小さな家を借りていた。嫡男争いからは降りたが後悔はなかった。
庭に畑があり、豆と、名も知らぬ花が植わっていた。姫は畑仕事が下手で、男はもっと下手だった。一年かけて、豆だけが、どうにか実るようになっていた。その朝も、女は水を汲みに出ていた。男は薪を割っていた。よくある朝だった。世に、よくある朝ほど、後から数えて長くなるものはない。
鳥が、止んだ。
一斉に、だった。男は斧を置いた。あの峠と同じ止み方だと、体の方が先に思い出していた。
道の先から、歩いてくるものがあった。
隠しても、装ってもいなかった。
耳も、尾も、そのままだった。いくら外れとはいえ、帝都の中である。それは笑い話のように無防備で、そして、誰にも見咎められていなかった。
見咎められる前に、見た者が全員、目を伏せていたからである。近くの家々の戸が、次々と、内側から静かに閉じていった。
目だけが、姫と同じだった。緑から金へ流れる、あの目である。
姫が、何か言いかけた。
その声が、届く前に止まった。兄の歩き方が、そういう歩き方だったからである。
男は、姫を背にした。
そして、斧槍の柄を握った。
*
打ち合ったのは、四半刻ほどだったろうか。
兄は、素手だった。
男の斧槍が唸り、庭の畑が耕され直され、垣が消し飛び、屋根の瓦が滑り落ちた。踏み込みが土を割り、返しの一撃が空気を裂いて、遠くの窓という窓が鳴った。男は、生涯でいちばん振っていた。峠の朝から、二年と少し。振らなかった日は、数えられるほどしかなかった。
そして、届いていた。
峠のあれは、別の棚にあった。振っても、数えても、生まれ直しても届かぬところに、あれは立っていた。
だが、兄は違った。この相手は、避けている。受けている。位置を変えている。——同じ棚にあるものだけが、そういうことをする。
男の中で、何かが、静かに戻ってきた。
無駄では、なかったのだ。
やがて、切っ先が兄の頬をかすめ、薄く、一筋を引いた。
兄は、それを指で拭って、見た。
そして、初めて、腰のものに手をかけた。
そこからの空気が、変わった。男は、自分が数えられたのを知った。峠のあれは自分を石ころとして通り過ぎたが、これは、自分を見た。二年ぶりに、男は、自分がまだこの世に勘定されていることを知った。
同時に、もう一つ、知った。
こちらの手は、出尽くしていた。あちらのは、まだ、ほとんど何も出ていない。
負ける。
男は、それを口にしなかった。この日も。以後の二十年も、ただの一度も。
*
兄の視線が、一度だけ、男の肩越しに外れた。
庭の隅。井戸のそば。妹の方へ。
そして、止まった。
長かった。打ち合いより、長かった。
兄は、妹の顔を、見ていなかった。
——何かが、落ちた。
殺気ではなかった。もっと下の、もっと古い層にあるものが、ずるりと剥がれ落ちる音がした。庭の温度が下がり、畑の土が白く粉を吹き、井戸の水が凍りかけて、また溶けた。
「……知らんのだろう」
兄は、初めて口を開いた。妹に向けて。
「己がなぜ戦わされてきたか。何のために我らが在るか。——知らずとも良いが仇となったか」
姫は、答えられなかった。
知らなかったからである。二年前、焚き火のそばで男に同じことを問われたとき、この女は正直に、知らない、と答えている。理由を知らされない戦で、傷病兵ばかり数えてきた女だった。
兄の目が、男へ戻った。
「よりにもよって、か……」
男には、意味が分からなかった。身分のことだと思った。種族のことだと思った。武と工の棟梁の家に生まれ、火を噴く筒を農夫の垣根へ、自走する鉄を山向こうの寒村へ——そういう夢を、誰にも言わずに持っていた男は、その夢の名を、この時ついに聞かなかった。
聞いていれば、二十年は、違う形をしていたかもしれない。
「それだけは許されんのだ」
兄が、手を上げた。
呪文はなかった。光もなかった。ただ、上がった手の先の空気が、一段、暗くなった。
男は、動かなかった。動く必要を認めなかったからである。庇う相手は背にいる。前に立っているのは自分である。それで、話は済んでいた。
済んでいなかったのは、背の方だった。
姫が、前に出た。
男は、追いつけなかった。稽古で、二年、ただの一度も負けたことのない相手に、その一歩だけ、追いつけなかった。
音は、しなかった。
傷も、つかなかった。
女はただ、そこに立って、それから、支えるみたいに男の腕へ手を置いた。倒れかけているのは自分の方なのに、そういう手の置き方をした。
*
兄の顔から、すべてが落ちた。
長い、長い間があった。
「……ちっ」
舌打ちが、ひとつ。
「興醒めだ」
兄は背を向けた。
「続きは城だ。俺を倒しに来い。——古来、そういう儀礼だ」
言い置いて、歩き出した。
一度だけ、振り返った。
その一度が、妹を見たのか、妹の何かを見たのか、男には分からなかった。分からないまま、男はそれを、二十年、繰り返し思い出すことになる。
道の先の空気が、ゆっくりと元へ戻り、遠くで、鳥が一羽だけ、遠慮がちに鳴いた。
*
帝都の医師は、七人まで数えて、やめた。
七人とも、同じことを言った。臓腑に異常はない。血に濁りもない。ただ、目が醒めない。このままでは長く持つまい。止める術を、我々は持たない。
男は、本を買った。買えるだけ買って、読めるだけ読んだ。学者を訪ね、錬金の徒を訪ね、山の庵を訪ね、神殿の階を上った。祭壇の前で、司祭の話を最後まで聞いて、礼を言って、帰った。得たものは、ひとつもなかった。
数年、と何人目かが言った。
男が奔走するあいだ、女は、奥の間の寝台で眠っていた。男は毎夜、その枕元で話しかけた。自分の不甲斐なさを。弱音を。それから、宿の話を。寡黙な男にしては一生分喋ったのではないかと思うほど、語りかけた。
戸は、緑がいいと言った。卓は四つでいい、と言った。多いと、飯が冷めるから。看板は男が彫れ、下手でも構わない、その方が客が笑う。婆さんの店より煮込みは薄味にする、あそこのは塩が強い——言うたびに、頬を何か伝い、店は、少しずつ形になっていった。
*
峠へ登ったのは、秋の終わりだった。
部隊が終わった、あの道である。石は変わらず、草はよく茂り、あの朝ここで何があったのか、道の方は何ひとつ覚えていなかった。
男は、道の真ん中に膝をついた。
二度目だった。一度目は、誰にも斬られずに、勝手に折れて、ついた膝である。
祈る暇があれば振れ、と若い男は言った。恐れる暇があれば数えろ、振った数を、と。その男が、振れるだけ振って、数えられるだけ数えて、それでも足りずに、地面についた。
生涯で初めて、この男は、自分以外のものを頼った。
それが、人ですらなかった。
「……頼む」
それだけだった。
日が落ち、月が出て、また白んだ。男は、朝まで、そこにいた。
*
家へ帰り着いたとき、上がり框に、先客が座っていた。
ボロの外套。破れ笠。枯れ枝の杖。
どこの街道にでもいる、行き倒れ寸前の風体だった。
笠の下から、退屈そうな半眼が、男を見た。
「魔族に惚れた人間、と聞いてな」
くく、と喉が鳴った。
「久しぶりに、面白い」
説明は、要らなかった。求められもしなかった。旅人は履物も脱がずに土間を抜け、奥の間へ入っていった。男が追い越すより、早かった。
女は、眠っていた。
あの朝から、一度も、目を開けていない。
男が何か言おうとした、その口が、間に合わなかった。
風が、止まった。
——次に男の目が見えるようになったとき、女は、寝台の上にいなかった。
床に、立っていた。
両手を胸の前で合わせ、目を閉じて。
祈るような形だった。
耳も、尾も、消したままだった。石になったのは、人間の女の姿である。
自分でそうしたのか、そうさせられたのか。男には、どうしても、分からなかった。分からないものを、男は磨き続けることになる。
「止めた」
旅人が、あくびまじりに言った。
「減らん。それだけだ。あとは楽しませろ。逃げるも、悩むも、戦うも、お前の好きにしろ」
そして、思い出したように顔を上げた。
「名は」
男は、答えた。父祖から継いだ、長い、長い名を。
「長い。面倒だ」
旅人は、途中で切った。
「これからはヤンと名乗れ」
男は、答えられなかった。
その音は、この家では、たった一人しか使わない音だった。人間の長い名を発音できなかった女が、二年、そう呼び続けた音だった。
旅人が、それを知っていたのか。ただの気まぐれの一致か。
男は、ついに、聞けなかった。
瞬きの間に、姫は消えていた。
「置いてきた」
外へ出ながら、旅人が言った。
「一番戦から遠い所へ。後にでも、迎えに行け。——楽しませてもらった褒美だ」
外套の裾が、光に解けた。
庭には、割りかけの薪と、倒れた水桶と、耕され直された畑だけが残った。
男は、触れることも、できなかった。
*
その日、都の外れの一区画が、更地になっていた。
戒厳令が敷かれた。三日で解けた。記録は、残らなかった。何があったのか、都の誰も知らないままだった。知っている者は、家名も位も一切を置いて、その月のうちに都を出た。
出る前に、男は庭の土から、細身の長剣を一振り、拾い上げた。
飾りを外し、鞘を替え、以後、ずっと磨き続けた。曇り一つ、つかせずに。
*
北の玉座で、兄は待った。
古来の儀礼どおりに、支度をして来る男を待った。城門は開けてあった。挑戦の作法も、立会人も、すべて整えてあった。
男は、来なかった。
一年待ち、二年待ち、それから追手を出した。手配書も回した。それでも、来なかった。
何年かして、兄は、追手を止めた。
玉座の肘掛けに頬杖をついて、長く生き過ぎた男は、追うのを辞めた。
*
その頃、男は街道にいた。
宿の帳場で、関所の兵に、渡し場の船頭に、名を問われることがあった。
そのたび、男は答えた。
「ヤンだ」
以後、他の名を、二度と名乗らなかった。
全てを取り戻すまでは。
これが、始まりだった。
(間話・三「始」・了)




