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Re:sou〜超現実拡張妄想変換装置(仮)改〜  作者: 西ノ圭吾
第五章 半端もん
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Re:sou 間話・三「始」

兄が来たのは、よく晴れた朝だった。


男は初めての長期休暇願を無理矢理通し、都の外れに、二人だけの小さな家を借りていた。嫡男争いからは降りたが後悔はなかった。


庭に畑があり、豆と、名も知らぬ花が植わっていた。姫は畑仕事が下手で、男はもっと下手だった。一年かけて、豆だけが、どうにか実るようになっていた。その朝も、女は水を汲みに出ていた。男は薪を割っていた。よくある朝だった。世に、よくある朝ほど、後から数えて長くなるものはない。


鳥が、止んだ。


一斉に、だった。男は斧を置いた。あの峠と同じ止み方だと、体の方が先に思い出していた。


道の先から、歩いてくるものがあった。


隠しても、装ってもいなかった。


耳も、尾も、そのままだった。いくら外れとはいえ、帝都の中である。それは笑い話のように無防備で、そして、誰にも見咎められていなかった。


見咎められる前に、見た者が全員、目を伏せていたからである。近くの家々の戸が、次々と、内側から静かに閉じていった。


目だけが、姫と同じだった。緑から金へ流れる、あの目である。


姫が、何か言いかけた。


その声が、届く前に止まった。兄の歩き方が、そういう歩き方だったからである。


男は、姫を背にした。


そして、斧槍の柄を握った。


   *


打ち合ったのは、四半刻ほどだったろうか。


兄は、素手だった。


男の斧槍が唸り、庭の畑が耕され直され、垣が消し飛び、屋根の瓦が滑り落ちた。踏み込みが土を割り、返しの一撃が空気を裂いて、遠くの窓という窓が鳴った。男は、生涯でいちばん振っていた。峠の朝から、二年と少し。振らなかった日は、数えられるほどしかなかった。


そして、届いていた。


峠のあれは、別の棚にあった。振っても、数えても、生まれ直しても届かぬところに、あれは立っていた。


だが、兄は違った。この相手は、避けている。受けている。位置を変えている。——同じ棚にあるものだけが、そういうことをする。


男の中で、何かが、静かに戻ってきた。


無駄では、なかったのだ。


やがて、切っ先が兄の頬をかすめ、薄く、一筋を引いた。


兄は、それを指で拭って、見た。


そして、初めて、腰のものに手をかけた。


そこからの空気が、変わった。男は、自分が数えられたのを知った。峠のあれは自分を石ころとして通り過ぎたが、これは、自分を見た。二年ぶりに、男は、自分がまだこの世に勘定されていることを知った。


同時に、もう一つ、知った。


こちらの手は、出尽くしていた。あちらのは、まだ、ほとんど何も出ていない。


負ける。


男は、それを口にしなかった。この日も。以後の二十年も、ただの一度も。


   *


兄の視線が、一度だけ、男の肩越しに外れた。


庭の隅。井戸のそば。妹の方へ。


そして、止まった。


長かった。打ち合いより、長かった。


兄は、妹の顔を、見ていなかった。


——何かが、落ちた。


殺気ではなかった。もっと下の、もっと古い層にあるものが、ずるりと剥がれ落ちる音がした。庭の温度が下がり、畑の土が白く粉を吹き、井戸の水が凍りかけて、また溶けた。


「……知らんのだろう」


兄は、初めて口を開いた。妹に向けて。


「己がなぜ戦わされてきたか。何のために我らが在るか。——知らずとも良いが仇となったか」


姫は、答えられなかった。


知らなかったからである。二年前、焚き火のそばで男に同じことを問われたとき、この女は正直に、知らない、と答えている。理由を知らされない戦で、傷病兵ばかり数えてきた女だった。


兄の目が、男へ戻った。


「よりにもよって、か……」


男には、意味が分からなかった。身分のことだと思った。種族のことだと思った。武と工の棟梁の家に生まれ、火を噴く筒を農夫の垣根へ、自走する鉄を山向こうの寒村へ——そういう夢を、誰にも言わずに持っていた男は、その夢の名を、この時ついに聞かなかった。


聞いていれば、二十年は、違う形をしていたかもしれない。


「それだけは許されんのだ」


兄が、手を上げた。


呪文はなかった。光もなかった。ただ、上がった手の先の空気が、一段、暗くなった。


男は、動かなかった。動く必要を認めなかったからである。庇う相手は背にいる。前に立っているのは自分である。それで、話は済んでいた。


済んでいなかったのは、背の方だった。


姫が、前に出た。


挿絵(By みてみん)


男は、追いつけなかった。稽古で、二年、ただの一度も負けたことのない相手に、その一歩だけ、追いつけなかった。


音は、しなかった。


傷も、つかなかった。


女はただ、そこに立って、それから、支えるみたいに男の腕へ手を置いた。倒れかけているのは自分の方なのに、そういう手の置き方をした。


   *


兄の顔から、すべてが落ちた。


長い、長い間があった。


「……ちっ」


舌打ちが、ひとつ。


「興醒めだ」


兄は背を向けた。


「続きは城だ。俺を倒しに来い。——古来、そういう儀礼だ」


言い置いて、歩き出した。


一度だけ、振り返った。


その一度が、妹を見たのか、妹の何かを見たのか、男には分からなかった。分からないまま、男はそれを、二十年、繰り返し思い出すことになる。


道の先の空気が、ゆっくりと元へ戻り、遠くで、鳥が一羽だけ、遠慮がちに鳴いた。


   *


帝都の医師は、七人まで数えて、やめた。


七人とも、同じことを言った。臓腑に異常はない。血に濁りもない。ただ、目が醒めない。このままでは長く持つまい。止める術を、我々は持たない。


男は、本を買った。買えるだけ買って、読めるだけ読んだ。学者を訪ね、錬金の徒を訪ね、山の庵を訪ね、神殿の階を上った。祭壇の前で、司祭の話を最後まで聞いて、礼を言って、帰った。得たものは、ひとつもなかった。


数年、と何人目かが言った。


男が奔走するあいだ、女は、奥の間の寝台で眠っていた。男は毎夜、その枕元で話しかけた。自分の不甲斐なさを。弱音を。それから、宿の話を。寡黙な男にしては一生分喋ったのではないかと思うほど、語りかけた。


戸は、緑がいいと言った。卓は四つでいい、と言った。多いと、飯が冷めるから。看板は男が彫れ、下手でも構わない、その方が客が笑う。婆さんの店より煮込みは薄味にする、あそこのは塩が強い——言うたびに、頬を何か伝い、店は、少しずつ形になっていった。


   *


峠へ登ったのは、秋の終わりだった。


部隊が終わった、あの道である。石は変わらず、草はよく茂り、あの朝ここで何があったのか、道の方は何ひとつ覚えていなかった。


男は、道の真ん中に膝をついた。


二度目だった。一度目は、誰にも斬られずに、勝手に折れて、ついた膝である。


祈る暇があれば振れ、と若い男は言った。恐れる暇があれば数えろ、振った数を、と。その男が、振れるだけ振って、数えられるだけ数えて、それでも足りずに、地面についた。


生涯で初めて、この男は、自分以外のものを頼った。


それが、人ですらなかった。


「……頼む」


それだけだった。


日が落ち、月が出て、また白んだ。男は、朝まで、そこにいた。


   *


家へ帰り着いたとき、上がり框に、先客が座っていた。


ボロの外套。破れ笠。枯れ枝の杖。


どこの街道にでもいる、行き倒れ寸前の風体だった。


笠の下から、退屈そうな半眼が、男を見た。


「魔族に惚れた人間、と聞いてな」


くく、と喉が鳴った。


「久しぶりに、面白い」


説明は、要らなかった。求められもしなかった。旅人は履物も脱がずに土間を抜け、奥の間へ入っていった。男が追い越すより、早かった。


女は、眠っていた。


あの朝から、一度も、目を開けていない。


男が何か言おうとした、その口が、間に合わなかった。


風が、止まった。


——次に男の目が見えるようになったとき、女は、寝台の上にいなかった。


床に、立っていた。


両手を胸の前で合わせ、目を閉じて。


祈るような形だった。


耳も、尾も、消したままだった。石になったのは、人間の女の姿である。


自分でそうしたのか、そうさせられたのか。男には、どうしても、分からなかった。分からないものを、男は磨き続けることになる。


「止めた」


旅人が、あくびまじりに言った。


「減らん。それだけだ。あとは楽しませろ。逃げるも、悩むも、戦うも、お前の好きにしろ」


そして、思い出したように顔を上げた。


「名は」


男は、答えた。父祖から継いだ、長い、長い名を。


「長い。面倒だ」


旅人は、途中で切った。


「これからはヤンと名乗れ」


男は、答えられなかった。


その音は、この家では、たった一人しか使わない音だった。人間の長い名を発音できなかった女が、二年、そう呼び続けた音だった。


旅人が、それを知っていたのか。ただの気まぐれの一致か。


男は、ついに、聞けなかった。


瞬きの間に、姫は消えていた。


「置いてきた」


外へ出ながら、旅人が言った。


「一番戦から遠い所へ。後にでも、迎えに行け。——楽しませてもらった褒美だ」


外套の裾が、光に解けた。


庭には、割りかけの薪と、倒れた水桶と、耕され直された畑だけが残った。


男は、触れることも、できなかった。


   *


その日、都の外れの一区画が、更地になっていた。


戒厳令が敷かれた。三日で解けた。記録は、残らなかった。何があったのか、都の誰も知らないままだった。知っている者は、家名も位も一切を置いて、その月のうちに都を出た。


出る前に、男は庭の土から、細身の長剣を一振り、拾い上げた。


飾りを外し、鞘を替え、以後、ずっと磨き続けた。曇り一つ、つかせずに。


   *


北の玉座で、兄は待った。


古来の儀礼どおりに、支度をして来る男を待った。城門は開けてあった。挑戦の作法も、立会人も、すべて整えてあった。


男は、来なかった。


一年待ち、二年待ち、それから追手を出した。手配書も回した。それでも、来なかった。


何年かして、兄は、追手を止めた。


玉座の肘掛けに頬杖をついて、長く生き過ぎた男は、追うのを辞めた。


   *


その頃、男は街道にいた。


宿の帳場で、関所の兵に、渡し場の船頭に、名を問われることがあった。


そのたび、男は答えた。


「ヤンだ」


以後、他の名を、二度と名乗らなかった。


全てを取り戻すまでは。


これが、始まりだった。


(間話・三「始」・了)

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