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Re:sou〜超現実拡張妄想変換装置(仮)改〜  作者: 西ノ圭吾
第五章 半端もん
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Re:sou 第三十五話「火」



ダンジョンを出るのに、一日かかった。


帰還石は使わなかった。


ジェスが「ここぞって時に取っとこうぜ」と言い、誰も反対しなかった。


俺だけは、あれはこのダンジョンでしか使えないと思っていたが。


荷は大概ナナの格納領域に入れたのに、ツムグだけは、ヒヒイロカネのインゴットを一本、抱えたままだった。


ずっと恍惚としていた。


ジェスは、これを見たくて歩いたのかもしれない。


   *


崑崙の麓の町へ帰り着いたのは、二日目の昼だった。


鍛冶場の前で、バクが薪を割っていた。俺たちを見ても、斧を止めなかった。


「早かったな」

「父さん」


ツムグが、無言で延べ棒を差し出した。


斧が、止まった。


バクは、赤金の棒を受け取った。両手で。持ち上げて、日に透かした。指の腹で、なぞった。


それから、目を閉じた。


長かった。


誰も、声をかけなかった。ジェスですら、黙っていた。


「……工房へ入れ」


それだけ言って、バクは背を向けた。


耳が、真っ赤だった。


「父さん、感動すると耳から出るんだよ」


ツムグが、こそっと言った。


「顔は絶対変えないくせにさ」

「遺伝だな、それ」

「は?」


ジェスが言った瞬間、ツムグの耳も赤くなった。


そして二人は、同時に、あさっての方を向いた。


二日前から、ずっとこれである。


「……なあクーリ。あれ、いつまで続くんだ」

「知らない。あたしに聞かないで」

「僕は賭けてもいいよ。あと半月は保つ」

「クラインさん、それ長すぎませんか」


工房に入るなり、ツムグが振り返った。


「ナナ。腕、出しな」

『はい』


ナナが、素直に片腕を出す。ツムグが縄尺を当てた。


『上腕、二十——』

「言わなくていいから」

『失礼しました』

「自己申告する素材、初めて見た」


ツムグは笑って、ナナの肩から手首までを測り、次に背丈を測り、最後に、折れた剣の柄をナナに握らせた。


握りの深さを、じっと見ている。


「うん。……あんたのは、思ったより短くていい」

『わたしの剣は、後で構いません』

「順番はあたしが決める」


それだけ言って、ツムグは折れた剣を作業台の端に置いた。


丁寧に、寝かせて。


「先に、刀だ」


   *


その日のうちに、火が入った。


炉の前に、赤金の延べ棒がひとつ。バクが火床へ据え、ツムグが送風の柄を握る。


俺たちは邪魔にならない位置で、見ていた。


炭が唸り、火の色が変わっていく。橙から、白へ。工房の空気が、頬を焼くくらいまで上がった。


赤金の棒は、なんの変化もなかった。


「……」

「何これ、変わらない……」


ツムグが送風を強める。バクが炭を足す。火は、もう見ていられないほど白い。


延べ棒は、ただ、そこにあった。


形が、一分も変わらない。


「熱、足りてないの?」

「足りてる。この炉で溶けん鉄は、この国にない」


バクが、初めて言葉を濁した。


「……はずだ」


クラインさんが眼鏡を押し上げた。


「物には、それぞれ溶ける熱がある。要は、まだそこへ届いていない」

「じゃあ、もっと熱くすりゃいいんだな!」


ジェスが即座に言う。


「その通りだ。実に前向きだが、どうやって」

「気合いで」

「帰れ」


   *


翌日から、他所の炉を借りることになった。


これが、まあ、賑やかだった。


最初に名乗りを上げたのは、隣の区画の親方だった。うちの炉は町一番だ、と胸を張った。


半日で、諦めた。


次が、大通りの三兄弟。三人がかりでふいごを踏み、炭を山にした。


夕方には、三人とも壁にもたれて座り込んでいた。


「無理だ」

「無理だな」

「無理でした」

「あんたら仲いいね」


クーリが呆れた。


四日目には、見物人が出た。五日目には、賭けが始まった。六日目には、酒が出た。


七日目には、なぜか屋台が出ていた。


「なあ、これ何の集まりなんだ?」

「知らねぇ。だが火は見てて飽きん」

「あの赤いのは何だ」

「誰も知らん」


町中の鍛冶が、順番に挑んで、順番に負けていった。


負けても、誰も帰らなかった。次の奴の火を、見ていた。


「見ろよカイ、全員楽しそうだぞ」


ジェスが笑った。


確かに、そうだった。


自分の炉が届かなかったと分かった瞬間、悔しがって、それから、必ず笑うのだ。


「……この国の人、負けるの好きですね」

「腕でしか通らん国だ」


ヤンさんが、杯を傾けた。


「届かんと分かるのは、届くとこまで来た奴だけだ」


   *


八日目に、バクが炉を壊し始めた。


「え、ちょっと父さん!?」

「積み直す」


止める者はいなかった。むしろ、負けた鍛冶が全員、石を運びに来た。


風道を増やし、壁を厚くし、送風を二段にする。三兄弟が金物を切り、隣の親方が炭を焼き直した。


誰も報酬の話をしなかった。


そのかわり、全員が、口を出した。


「そこはもう一段高くしろ」

「馬鹿、高くすると抜ける」

「抜けねぇように吸わせるんだ」

「やってみせろ」

「やってやるよ!」


工房の外まで人が溢れて、噂は、その日のうちに国中へ回ったらしい。


誰も見たことのない鉱石で、刀を打つ工房がある。


刀。


この国で武具として数えられていない、あの細長いやつを。


「……見に来る奴が多すぎませんか」

「珍しいんだよ」


ツムグが、鼻を鳴らした。


「笑いに来てんの。母さんの時も、そうだった」


その言い方が、あまりに慣れていたので、俺は何も言えなかった。


新しい炉に火が入ったのは、十日目の朝だった。


町中の期待を背負って、その火は、これまでの中で一番白かった。


赤金の延べ棒は、変わらなかった。


角のひとつも、落ちなかった。


   *


その夜、工房には俺たちだけが残った。


バクは作業台に肘をつき、動かなかった。ツムグは炉の中を睨んでいた。


こういう時、この親子は本当によく似ている。


「……あの」


俺は、言った。


「俺が、やります」


全員が、こっちを見た。


「炉じゃなくて、俺が火になります。魔法で、あの中に直接、突っ込む」


言いながら、自分でも無茶を言っている自覚はあった。


火球を撃つのとは、話が違う。炉の中に、俺の魔力をずっと注ぎ続けるということだ。


制御が要る。俺一人では、たぶん、足りない。


『演算補助を行います』


隣から、当たり前みたいな声がした。


「……ナナ」

『火力の均一化と、温度の維持。カイさまお一人では、精度が出ません』


言葉には、迷いも、気負いも、なかった。


そういう機能があるから、そうする。それだけの声だった。


俺は、知っている。


こいつのコアには、罅が入っている。演算を回すたび、少しずつ、削れている。


昔の俺は、それを知らずに、こいつを使っていた。


今は、知っている。


知っていて、それでも、俺は。


「……頼む」

『はい』


即答だった。


嫌そうな顔も、誇らしそうな顔も、しなかった。


ヤンさんが、こちらを見ていた。


何か言われると思った。何を言われても、返す言葉は用意していなかった。


だがヤンさんは、一度だけ頷いて、それきりだった。


「バクさん、ツムグさん」


俺は、二人に向き直った。


「炉、壊れるかもしれません」


ツムグが、盛大に鼻で笑った。


「今日で三つ目だよ、それ」


   *


翌朝。


工房の前は、見物人で埋まっていた。誰が広めたのか知らないが、屋台まで来ていた。


「入場料取ればよかったな」

「ジェス、後で」

「冗談だって」

「いや、後で取れってこと」

「……さすが」


俺は炉の前に立った。


隣にナナ。反対側にツムグ。バクは火床の脇。


息を吸う。


炎は、得意だ。ずっとそうだった。


だが今日はいい。撃たなくていい。


ただ、火であり続ければいい。


『座標、固定します。……どうぞ』


俺は、手を炉へ向けた。


最初は、いつも通りの熱だった。


炉の中の白が、少し濃くなる。それだけ。


構わず、注いだ。もっと。もっとだ。


プラズマ。


その言葉が、頭に浮かんだ。理科の教科書にあったやつだ。物が熱くなりすぎると、固体でも液体でも気体でもない、四番目のやつになる。


太陽の中と、同じ状態。


太陽で溶けないものなんて、たぶん、ない。


そう、思った。


『——出力、上限を超えます』

「もう少し」

『はい』


音が、消えた。


炉の中の白が、白でなくなった。色が、無い。


見ているのに、そこに何があるのか分からない。目が、拒否している。


熱くない。熱いを、通り越していた。


吹き飛びそうなくらい揺れる炉を、周りのドワーフ全員が魔法で支えた。


ドワーフの炉は壊させん。そういう、強い意志を感じた。


そして。


炉の底で、赤金が。


落ちた。


湯になって、垂れた。


「——落ちた!」


バクが吼えた。


「落ちたぞ、落ちてる、受けろ、ツムグ受けろ!」

「わかってる、わかってるってば!」


外で歓声が上がった。屋台の親父まで叫んでいた。


ジェスが両手を突き上げ、クーリが飛び跳ね、クラインさんが眼鏡を落とした。


俺は、笑ってしまった。


溶けた。


溶けるに、決まってる。太陽より熱いんだから。


そう、思っていた。


地面が、揺れたのは、その直後だった。


はじめは、炉のせいかと思った。


違った。


床が、うねった。棚の道具が鳴り、天井から埃が落ちた。長い、ゆっくりした揺れだった。


崩れるような激しさは、まるでない。


ただ——大きかった。


背中の下にある何かが、寝返りを打った。そういう揺れだった。


外の歓声が、止まった。


「……身じろぎなさった」


誰かが言った。


「山が、身じろぎなさったぞ!」


そこから先は、大騒ぎだった。


戸口の外の連中が、一斉に北を向いて、膝をついた。


ある者は酒を地面に撒き、ある者は泣き出し、ある者は「奉納だ! 奉納の支度だ!」と走り出した。


「なんだこれ!? 何が起きてんだ!?」

「知らないってば! ちょっと押さないでよ!」


工房の中では、ジェスとクーリが揉みくちゃになっていた。


俺は、戸口から北を見た。


崑崙。


雪をかぶった、途方もなく大きな山。


いつもと、何も変わらない。


(……イベント、か?)


正直、そう思った。


炉の温度が閾値を超えたら演出が入る。ボス部屋の扉が開く前の、あれだ。柾兄がよくやる、悪趣味なくらい派手なやつ。


そう、思ったのに。


背中の産毛が、全部、立っていた。


腹の底が、勝手に冷えていた。


あそこに、何かがいる。


大きい、なんて言葉では足りない。ダンジョンのボスでもない。あの旅人とも、違う。


もっと——古くて、静かで、こちらに何の関心もないもの。


噂の、黄龍か?


そいつが今、寝返りを打った。ついでに、こっちを、多分ちらっと見た。


それだけだ。


それだけで、これだ。


『……未知の反応を、検知しました』


ナナが、静かに言った。


『方位、北北西。距離、演算不能。……種別、演算不能です』

「ナナ」

『はい』

「あれ、たぶん、めちゃくちゃ強いやつだ」

『同意します』


隣で、ヤンさんが北を見ていた。


その目を見て、俺は少しだけ安心した。


この人でも、あの山は、分からないらしい。


   *


翌日から、打ち始めた。


赤金の塊を火床へ入れ、俺が火を保ち、バクが受け、ツムグが鎚を落とす。


鎚が、鳴った。


ひとつ、ふたつ。ツムグの小鎚が位置を示し、バクの大鎚が続く。


高い音と、低い音。


高い音と、低い音。


初日は、途中でずれた。二日目もずれた。三日目に、揃った。


揃った瞬間、外で見ていた鍛冶たちが、どよめいた。


俺には、正直、違いが分からなかった。


でも、音が、変わったのは分かった。


同じ場所を、二つの鎚が、途切れずに叩き続ける。ひとつの音みたいに聞こえる。


その間ずっと、赤金は俺の火の中にある。


俺は熱を保つだけだ。打つのは、あの二人だ。


四日目に、鍛冶王が来た。


前触れも、供もなく、革の前掛け一枚で、見物人の後ろに立っていた。


気づいた連中が慌てて場所を空けようとして、王は手で制した。


「見に来ただけだ」


そう言って、それきり、何も言わなかった。


火の脇に立って、腕を組んで、ただ、見ていた。


ツムグは一度だけ王を見て、それから、二度と見なかった。


鎚を、落とし続けた。


刀を作る手順は、俺の知らないものだらけだった。


赤くした鉄を、叩いて、伸ばして、折り返して、また叩く。それを何度も繰り返す。


「なんで折り返すんですか」

「不純物が飛ぶ。あと、層になる」

「層」

「刃文の下地だよ。……母さんの帳面に書いてあった」


ツムグは、母親の帳面を、炉の脇に開きっぱなしにしていた。


紙は端が焦げていて、書き込みが二種類あった。


丁寧な字と、その上に殴り書きされた、雑な字。


「上の、汚いやつは?」

「あたし。……分かんない所に、文句書いてた」


十日ばかり、それが続いた。


見物人は、減らなかった。


むしろ、増えた。


はじめは笑いに来ていたはずの連中が、途中から、静かになった。


折り返し。土置き。この国の鍛冶が誰もやらない手順を、小さな娘が、ひとつずつ帳面通りにやっていく。


その手が、綺麗だった。


俺は鍛冶を知らない。それでも、綺麗だと思った。


同じことを、周りの全員が思ったらしい。


誰かが、ぽつりと言った。


「……あれが、刀か」


ドワーフの誰も、否定しなかった。


   *


途中から、妙なことが始まった。


ある日、ツムグが俺を呼んだ。


「振ってみな」


まだ刃も付いていない、ただの細長い赤金の板を渡された。


俺は工房の外に出て、それを構えた。


上段。振り下ろす。


「……ん」

「どう」

「重心が、ちょっと先です。あと、握りが太い」


言ってから、自分でも驚いた。


そんなの、分かるものなのか。


分かってしまった。


道場で竹刀を握っていた頃の何かが、勝手に答えを出していた。


ツムグは頷いて、工房へ戻り、次の日には直っていた。


それから、毎日それをやった。


俺が振る。違和感を言う。ツムグが直す。


三日目には、俺の言い方が具体的になった。


五日目には、ツムグが「言われる前に分かるようになってきた」と言った。


七日目に、彼女は手を止めて、俺を見上げた。


「あんた、これ、使ったことあるでしょ」

「……道場に、ありました」


嘘は言っていない。


刃を落とした、稽古用の刀だ。振らせてもらったことがある。


握りの太さも、振り下ろした時に手のひらに残る感じも、全部、あれと同じにしていた。


「へえ。じゃあ、あんたの国のを作ればいいんだ」


ツムグは笑って、また鎚を持った。


その日から、迷いが消えたらしかった。


寸法が、決まっていった。俺の背丈と、俺の腕と、俺の知っている長さに。


バクが一度だけ、それを見て言った。


「打つ側と、振る側が、同じ物を見てる。……ツナデには、それがなかった」


ツムグの鎚が、一拍だけ、止まった。


それから、前より強く、落ちた。


   *


焼き入れは、夜だった。


土を置いた刀身が、火床に入る。


「カイ。ここが山だ」

「はい」


熱を、均す。端から端まで、同じに。


ツムグが刀身を睨んでいる。目だけで、色を測っている。


「……もうちょい」

「はい」

「もうちょい……止めて!」


俺は火を切った。


ツムグが刀身を掴み、水槽へ——落とした。


音がした。


短い、悲鳴みたいな音。


湯気が上がった。工房が真っ白になった。


誰も、動かなかった。


湯気が抜けて、水面が静まって、その中に。


反りの立った、細い赤金が、沈んでいた。


ツムグが両手で、それを引き上げた。


刃の縁に、白い線が浮いていた。


雲みたいな、波みたいな。ゆらゆらと、まっすぐでない線。


刃文だ。


見たことがある。道場の床の間に飾ってあったやつと、同じだった。


「……綺麗だな」


ジェスが言った。


赤金の地に、白い波。


俺が知っているのは、銀色の刀身だ。こんな色じゃない。


なのに、笑ってしまうくらい、綺麗だった。


異変に気づいたのは、ツムグだった。


刀身を拭い、柄の入る部分——茎、と言うらしい——を確かめていた手が、止まった。


「……え」


顔を近づける。


もう一度、拭く。


指で、なぞる。


「……なにこれ」


そこに、文字が入っていた。


彫ったのではない。焼き入れの瞬間に、刃文と一緒に、出てきた線だった。


二文字。


「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」


ツムグの声が、裏返った。


「あたし、彫ってない」


バクが、無言で刀身を受け取った。


灯りにかざす。角度を変える。裏を見る。


そして、娘を見た。


「彫ってないな、これは」

「だから言ってるでしょ!?」


ツムグの顔から、血の気が引いていた。


怒っていない。


怖がっていた。


自分の手から出たものに、自分の知らないものが混ざっている。職人にとって、それがどれだけ恐ろしいことなのか、俺にも、少しだけ分かった。


クラインさんが、身を乗り出していた。


眼鏡の奥が、震えている。


「……読める。いや、読めない。だが——読めそうだ」


彼は、自分の言っていることの意味が分かっていない顔をしていた。


「なんだこれは。僕は、これを、知らないはずだ」


俺は、刀身を覗き込んだ。


読めた。


ごく普通に、日本語として。


久遠。


俺の苗字の、上二文字だった。


「…………は?」


思わず、声が出た。


そして、笑ってしまった。


我慢できなかった。


「なんだよそれ」


柾兄だ。


間違いない。あの人だ。


一年近く音沙汰なしで、何の説明もなく、こんな所に俺を放り込んでおいて。


助けにも来ないで。説明もしないで。


刀にだけ、名前を入れていった。


誕生日に来ないくせに、色紙にサインだけ書いて寄越す親戚か。


「カイ、どうした」

「……いえ」


笑いながら、腹が立ってきた。


見てるなら。


見てるなら、なんか言えよ。


「なんて書いてあるの!?」


クーリが飛びついてきた。


「……名前です。刀の」

「かっこいい!? かっこいいやつ!?」

「たぶん」

「読み方は!?」


俺は、少し迷ってから、言った。


「久遠」


ヤンさんが、一度だけ、俺を見た。


名を隠せと言った人の目だった。


何も、言わなかった。


   *


翌日、研ぎに入った。


そこで、止まった。


砥石に当てても、刃が立たない。


角度を変える。石を変える。粗いのから細かいのまで、順に。


刀身は、鏡みたいに滑らかになっていく。


だが、縁が、鋭くならない。


ツムグは朝から晩まで研いだ。次の日も研いだ。その次の日も研いだ。


三日目の夕方、砥石の方が、へこんでいた。


刀身には、傷ひとつ付いていなかった。


「……なんで」


ツムグの手が、震えていた。


「なんで、立たないの」


見物に来ていた鍛冶たちも、黙り込んでいた。


そこへ、鍛冶王が進み出た。


「借りるぞ」


返事も待たず、王は刀身を作業台に置いた。


そして、腰の鎚を取った。


「陛下!」

「待って——」


止める間もなく、王は鎚を振り上げた。


叩いた。


工房が、鳴った。


腹の底まで来る音だった。誰かが尻餅をついた。


刀身は。


作業台の上で、跳ねもしなかった。


曲がっても、欠けてもいない。


王は、それを見た。


そして、もう一度、鎚を振り上げた。


——止まった。


腕が、上がったまま、動かない。


王は、自分の鎚を見ていた。


俺たちも、見た。


鎚の面が。


凹んでいた。


きれいな、丸い凹みが、ひとつ。


工房の中の、全員の息が止まった。


王は、ゆっくりと腕を下ろした。


鎚を作業台に置いた。


それきり、二度と、手を伸ばさなかった。


「……ツナデの刀は」


低い声だった。


「四つ目で、折れた」


ツムグが、顔を上げた。


「これは、折れんな」


王は刀身を指で弾いた。澄んだ音が、長く鳴った。


「……だが、斬れん」


そこで、王は言葉を切った。


「大会には出せん。斬れぬ物は、この国では武具ではない」


「出さないよ」


ツムグが言った。


全員が、彼女を見た。


「これはヒヒイロカネの力だ。あたしの力じゃない」


はっきりした声だった。


「石が凹んだのも、鎚が凹んだのも、この鉄が硬いからだ。あたしが打ったからじゃない。……そんなの、打った奴が一番よく分かる」


ツムグは、王を見上げた。


「だから、これでは出ない。大会には、自分の鉄で出る」


鍛冶王は、しばらく、その小さな鍛冶を見下ろしていた。


それから、笑った。


はじめて、笑った。


「そうか」


それだけだった。


便宜も、褒め言葉も、招きの一つもなかった。


王は前掛けの埃を払って、来た時と同じように、供も連れずに出ていった。


戸口の外の連中が、一斉に道を空けた。


そして——誰も、帰らなかった。


ドワーフたちは、まだ工房を覗き込んでいた。


さっきまで笑いに来ていた顔が、ひとつもなかった。


   *


人がはけた後、ツムグは、まだ研いでいた。


ずっと研いでいた。


夜になって、手が止まった。


「……無理だ」


砥石の上に、両手をついた。


「あたしの力じゃ、この刀を、斬れるようには研げない」


肩が、震えていた。


「あたしが、未熟だから」


誰も、動かなかった。


ジェスが一歩出かけて、止まった。


こういう時、あいつは何か言えるやつだが、今日は、言わなかった。


だから、俺が言った。


「いや」


ツムグが、顔を上げた。


「これでいい」


「……は?」


「俺は、刃で斬らないんです」


俺は、刀身を手に取った。


軽い。


驚くほど軽い。この長さの鉄が、こんな重さのはずがない。


木刀を持っているのと、ほとんど変わらなかった。


慣れた重さだった。


「斬るのは、真空と虚空です。刀身は、その道を決めるためのものなんです」


だから、要るのは三つだけだ。


丈夫なこと。振りやすいこと。斬るための形をしていること。


「鋭さは、要らないんですよ」


「……そんな刀、あるわけ」

「ここに、あります」


ツムグは、俺の手の中を見た。


「切れないものを斬るために、これが欲しかったんです」


俺は、少しだけ笑った。


「前の剣、ヤンさんにもらったやつ、覚えてます?」


「あの、頑丈なだけの」

「そう。あれより刃がないですよ、これ」


ツムグが、ぽかんとした。


「……最悪じゃん」

「最高です」


言い切った。


俺は嘘をついていない。刃を潰した刀を、俺は道場で振っていた。


手が知っているのは、こっちの方だ。


ツムグの目から、涙が落ちた。


拭いもしなかった。


「……なんで、そんな顔で言うのさ」


彼女は、俺の手から刀を取り返した。


そして、袖でぐいぐい拭いて、灯りにかざして、しばらく刃文を見ていた。


「……いつか」


鼻を、すすった。


「いつか、斬れるやつを打つ」


「はい」

「あんたが、要らないって言っても打つから」

「はい」

「その時は、これ捨てなよ」

「捨てませんよ」

「捨てなって!」


ジェスが、我慢できずに吹き出した。


「なんで泣きながら喧嘩してんだよ」

「うるさい!」

「はいはい」


ジェスは笑って、それから、ツムグの頭にぽんと手を置いた。そのまま、撫でた。


ツムグは真っ赤になって鎚を掴んだが、そのまま、いいようにされていた。


周りも、何も言わなかった。


   *


その夜、鍔を作った。


「模様、何か入れる?」

「いえ」


俺は、首を振った。


「無地でいいです」


ツムグは、ちょっと不満そうだったが、頷いた。


厚めの、飾りのない鍔。それだけが付いた。


柄を巻いて、鞘に納める。


軽い刀だった。


赤金で、刃文が綺麗で、名前が勝手に入っていて、そして、何も斬れない。


腰に差してみる。


竹刀を担いで学校の廊下を歩いていた時の、あの感じに、少しだけ似ていた。


「似合ってるじゃん」


ジェスが言った。


「ねぇ、次あたしの弓だよね!? 弓だよね!?」

「順番はあたしが決める」

「そう言って刀からやったじゃん!」

『わたしの剣も、まだです』

「ナナまで!?」


工房が、うるさかった。


バクは炉の火を落としながら、聞こえないふりをしていた。


耳が、赤かった。


俺は戸口から、北を見た。


崑崙。


雪の山は、静かだった。


あれからは、一度も揺れていない。


寝返りを打っただけだ。


こっちを、ちらっと見ただけだ。


——それでも。


俺は、腰の刀に、手を置いた。


「ナナ」

『はい』

「あの山、行ってみたいな」


ナナは、少しだけ黙った。


『……お供します』


(第三十五話「火」・了)


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