Re:sou 第三十五話「火」
ダンジョンを出るのに、一日かかった。
帰還石は使わなかった。
ジェスが「ここぞって時に取っとこうぜ」と言い、誰も反対しなかった。
俺だけは、あれはこのダンジョンでしか使えないと思っていたが。
荷は大概ナナの格納領域に入れたのに、ツムグだけは、ヒヒイロカネのインゴットを一本、抱えたままだった。
ずっと恍惚としていた。
ジェスは、これを見たくて歩いたのかもしれない。
*
崑崙の麓の町へ帰り着いたのは、二日目の昼だった。
鍛冶場の前で、バクが薪を割っていた。俺たちを見ても、斧を止めなかった。
「早かったな」
「父さん」
ツムグが、無言で延べ棒を差し出した。
斧が、止まった。
バクは、赤金の棒を受け取った。両手で。持ち上げて、日に透かした。指の腹で、なぞった。
それから、目を閉じた。
長かった。
誰も、声をかけなかった。ジェスですら、黙っていた。
「……工房へ入れ」
それだけ言って、バクは背を向けた。
耳が、真っ赤だった。
「父さん、感動すると耳から出るんだよ」
ツムグが、こそっと言った。
「顔は絶対変えないくせにさ」
「遺伝だな、それ」
「は?」
ジェスが言った瞬間、ツムグの耳も赤くなった。
そして二人は、同時に、あさっての方を向いた。
二日前から、ずっとこれである。
「……なあクーリ。あれ、いつまで続くんだ」
「知らない。あたしに聞かないで」
「僕は賭けてもいいよ。あと半月は保つ」
「クラインさん、それ長すぎませんか」
工房に入るなり、ツムグが振り返った。
「ナナ。腕、出しな」
『はい』
ナナが、素直に片腕を出す。ツムグが縄尺を当てた。
『上腕、二十——』
「言わなくていいから」
『失礼しました』
「自己申告する素材、初めて見た」
ツムグは笑って、ナナの肩から手首までを測り、次に背丈を測り、最後に、折れた剣の柄をナナに握らせた。
握りの深さを、じっと見ている。
「うん。……あんたのは、思ったより短くていい」
『わたしの剣は、後で構いません』
「順番はあたしが決める」
それだけ言って、ツムグは折れた剣を作業台の端に置いた。
丁寧に、寝かせて。
「先に、刀だ」
*
その日のうちに、火が入った。
炉の前に、赤金の延べ棒がひとつ。バクが火床へ据え、ツムグが送風の柄を握る。
俺たちは邪魔にならない位置で、見ていた。
炭が唸り、火の色が変わっていく。橙から、白へ。工房の空気が、頬を焼くくらいまで上がった。
赤金の棒は、なんの変化もなかった。
「……」
「何これ、変わらない……」
ツムグが送風を強める。バクが炭を足す。火は、もう見ていられないほど白い。
延べ棒は、ただ、そこにあった。
形が、一分も変わらない。
「熱、足りてないの?」
「足りてる。この炉で溶けん鉄は、この国にない」
バクが、初めて言葉を濁した。
「……はずだ」
クラインさんが眼鏡を押し上げた。
「物には、それぞれ溶ける熱がある。要は、まだそこへ届いていない」
「じゃあ、もっと熱くすりゃいいんだな!」
ジェスが即座に言う。
「その通りだ。実に前向きだが、どうやって」
「気合いで」
「帰れ」
*
翌日から、他所の炉を借りることになった。
これが、まあ、賑やかだった。
最初に名乗りを上げたのは、隣の区画の親方だった。うちの炉は町一番だ、と胸を張った。
半日で、諦めた。
次が、大通りの三兄弟。三人がかりでふいごを踏み、炭を山にした。
夕方には、三人とも壁にもたれて座り込んでいた。
「無理だ」
「無理だな」
「無理でした」
「あんたら仲いいね」
クーリが呆れた。
四日目には、見物人が出た。五日目には、賭けが始まった。六日目には、酒が出た。
七日目には、なぜか屋台が出ていた。
「なあ、これ何の集まりなんだ?」
「知らねぇ。だが火は見てて飽きん」
「あの赤いのは何だ」
「誰も知らん」
町中の鍛冶が、順番に挑んで、順番に負けていった。
負けても、誰も帰らなかった。次の奴の火を、見ていた。
「見ろよカイ、全員楽しそうだぞ」
ジェスが笑った。
確かに、そうだった。
自分の炉が届かなかったと分かった瞬間、悔しがって、それから、必ず笑うのだ。
「……この国の人、負けるの好きですね」
「腕でしか通らん国だ」
ヤンさんが、杯を傾けた。
「届かんと分かるのは、届くとこまで来た奴だけだ」
*
八日目に、バクが炉を壊し始めた。
「え、ちょっと父さん!?」
「積み直す」
止める者はいなかった。むしろ、負けた鍛冶が全員、石を運びに来た。
風道を増やし、壁を厚くし、送風を二段にする。三兄弟が金物を切り、隣の親方が炭を焼き直した。
誰も報酬の話をしなかった。
そのかわり、全員が、口を出した。
「そこはもう一段高くしろ」
「馬鹿、高くすると抜ける」
「抜けねぇように吸わせるんだ」
「やってみせろ」
「やってやるよ!」
工房の外まで人が溢れて、噂は、その日のうちに国中へ回ったらしい。
誰も見たことのない鉱石で、刀を打つ工房がある。
刀。
この国で武具として数えられていない、あの細長いやつを。
「……見に来る奴が多すぎませんか」
「珍しいんだよ」
ツムグが、鼻を鳴らした。
「笑いに来てんの。母さんの時も、そうだった」
その言い方が、あまりに慣れていたので、俺は何も言えなかった。
新しい炉に火が入ったのは、十日目の朝だった。
町中の期待を背負って、その火は、これまでの中で一番白かった。
赤金の延べ棒は、変わらなかった。
角のひとつも、落ちなかった。
*
その夜、工房には俺たちだけが残った。
バクは作業台に肘をつき、動かなかった。ツムグは炉の中を睨んでいた。
こういう時、この親子は本当によく似ている。
「……あの」
俺は、言った。
「俺が、やります」
全員が、こっちを見た。
「炉じゃなくて、俺が火になります。魔法で、あの中に直接、突っ込む」
言いながら、自分でも無茶を言っている自覚はあった。
火球を撃つのとは、話が違う。炉の中に、俺の魔力をずっと注ぎ続けるということだ。
制御が要る。俺一人では、たぶん、足りない。
『演算補助を行います』
隣から、当たり前みたいな声がした。
「……ナナ」
『火力の均一化と、温度の維持。カイさまお一人では、精度が出ません』
言葉には、迷いも、気負いも、なかった。
そういう機能があるから、そうする。それだけの声だった。
俺は、知っている。
こいつのコアには、罅が入っている。演算を回すたび、少しずつ、削れている。
昔の俺は、それを知らずに、こいつを使っていた。
今は、知っている。
知っていて、それでも、俺は。
「……頼む」
『はい』
即答だった。
嫌そうな顔も、誇らしそうな顔も、しなかった。
ヤンさんが、こちらを見ていた。
何か言われると思った。何を言われても、返す言葉は用意していなかった。
だがヤンさんは、一度だけ頷いて、それきりだった。
「バクさん、ツムグさん」
俺は、二人に向き直った。
「炉、壊れるかもしれません」
ツムグが、盛大に鼻で笑った。
「今日で三つ目だよ、それ」
*
翌朝。
工房の前は、見物人で埋まっていた。誰が広めたのか知らないが、屋台まで来ていた。
「入場料取ればよかったな」
「ジェス、後で」
「冗談だって」
「いや、後で取れってこと」
「……さすが」
俺は炉の前に立った。
隣にナナ。反対側にツムグ。バクは火床の脇。
息を吸う。
炎は、得意だ。ずっとそうだった。
だが今日はいい。撃たなくていい。
ただ、火であり続ければいい。
『座標、固定します。……どうぞ』
俺は、手を炉へ向けた。
最初は、いつも通りの熱だった。
炉の中の白が、少し濃くなる。それだけ。
構わず、注いだ。もっと。もっとだ。
プラズマ。
その言葉が、頭に浮かんだ。理科の教科書にあったやつだ。物が熱くなりすぎると、固体でも液体でも気体でもない、四番目のやつになる。
太陽の中と、同じ状態。
太陽で溶けないものなんて、たぶん、ない。
そう、思った。
『——出力、上限を超えます』
「もう少し」
『はい』
音が、消えた。
炉の中の白が、白でなくなった。色が、無い。
見ているのに、そこに何があるのか分からない。目が、拒否している。
熱くない。熱いを、通り越していた。
吹き飛びそうなくらい揺れる炉を、周りのドワーフ全員が魔法で支えた。
ドワーフの炉は壊させん。そういう、強い意志を感じた。
そして。
炉の底で、赤金が。
落ちた。
湯になって、垂れた。
「——落ちた!」
バクが吼えた。
「落ちたぞ、落ちてる、受けろ、ツムグ受けろ!」
「わかってる、わかってるってば!」
外で歓声が上がった。屋台の親父まで叫んでいた。
ジェスが両手を突き上げ、クーリが飛び跳ね、クラインさんが眼鏡を落とした。
俺は、笑ってしまった。
溶けた。
溶けるに、決まってる。太陽より熱いんだから。
そう、思っていた。
地面が、揺れたのは、その直後だった。
はじめは、炉のせいかと思った。
違った。
床が、うねった。棚の道具が鳴り、天井から埃が落ちた。長い、ゆっくりした揺れだった。
崩れるような激しさは、まるでない。
ただ——大きかった。
背中の下にある何かが、寝返りを打った。そういう揺れだった。
外の歓声が、止まった。
「……身じろぎなさった」
誰かが言った。
「山が、身じろぎなさったぞ!」
そこから先は、大騒ぎだった。
戸口の外の連中が、一斉に北を向いて、膝をついた。
ある者は酒を地面に撒き、ある者は泣き出し、ある者は「奉納だ! 奉納の支度だ!」と走り出した。
「なんだこれ!? 何が起きてんだ!?」
「知らないってば! ちょっと押さないでよ!」
工房の中では、ジェスとクーリが揉みくちゃになっていた。
俺は、戸口から北を見た。
崑崙。
雪をかぶった、途方もなく大きな山。
いつもと、何も変わらない。
(……イベント、か?)
正直、そう思った。
炉の温度が閾値を超えたら演出が入る。ボス部屋の扉が開く前の、あれだ。柾兄がよくやる、悪趣味なくらい派手なやつ。
そう、思ったのに。
背中の産毛が、全部、立っていた。
腹の底が、勝手に冷えていた。
あそこに、何かがいる。
大きい、なんて言葉では足りない。ダンジョンのボスでもない。あの旅人とも、違う。
もっと——古くて、静かで、こちらに何の関心もないもの。
噂の、黄龍か?
そいつが今、寝返りを打った。ついでに、こっちを、多分ちらっと見た。
それだけだ。
それだけで、これだ。
『……未知の反応を、検知しました』
ナナが、静かに言った。
『方位、北北西。距離、演算不能。……種別、演算不能です』
「ナナ」
『はい』
「あれ、たぶん、めちゃくちゃ強いやつだ」
『同意します』
隣で、ヤンさんが北を見ていた。
その目を見て、俺は少しだけ安心した。
この人でも、あの山は、分からないらしい。
*
翌日から、打ち始めた。
赤金の塊を火床へ入れ、俺が火を保ち、バクが受け、ツムグが鎚を落とす。
鎚が、鳴った。
ひとつ、ふたつ。ツムグの小鎚が位置を示し、バクの大鎚が続く。
高い音と、低い音。
高い音と、低い音。
初日は、途中でずれた。二日目もずれた。三日目に、揃った。
揃った瞬間、外で見ていた鍛冶たちが、どよめいた。
俺には、正直、違いが分からなかった。
でも、音が、変わったのは分かった。
同じ場所を、二つの鎚が、途切れずに叩き続ける。ひとつの音みたいに聞こえる。
その間ずっと、赤金は俺の火の中にある。
俺は熱を保つだけだ。打つのは、あの二人だ。
四日目に、鍛冶王が来た。
前触れも、供もなく、革の前掛け一枚で、見物人の後ろに立っていた。
気づいた連中が慌てて場所を空けようとして、王は手で制した。
「見に来ただけだ」
そう言って、それきり、何も言わなかった。
火の脇に立って、腕を組んで、ただ、見ていた。
ツムグは一度だけ王を見て、それから、二度と見なかった。
鎚を、落とし続けた。
刀を作る手順は、俺の知らないものだらけだった。
赤くした鉄を、叩いて、伸ばして、折り返して、また叩く。それを何度も繰り返す。
「なんで折り返すんですか」
「不純物が飛ぶ。あと、層になる」
「層」
「刃文の下地だよ。……母さんの帳面に書いてあった」
ツムグは、母親の帳面を、炉の脇に開きっぱなしにしていた。
紙は端が焦げていて、書き込みが二種類あった。
丁寧な字と、その上に殴り書きされた、雑な字。
「上の、汚いやつは?」
「あたし。……分かんない所に、文句書いてた」
十日ばかり、それが続いた。
見物人は、減らなかった。
むしろ、増えた。
はじめは笑いに来ていたはずの連中が、途中から、静かになった。
折り返し。土置き。この国の鍛冶が誰もやらない手順を、小さな娘が、ひとつずつ帳面通りにやっていく。
その手が、綺麗だった。
俺は鍛冶を知らない。それでも、綺麗だと思った。
同じことを、周りの全員が思ったらしい。
誰かが、ぽつりと言った。
「……あれが、刀か」
ドワーフの誰も、否定しなかった。
*
途中から、妙なことが始まった。
ある日、ツムグが俺を呼んだ。
「振ってみな」
まだ刃も付いていない、ただの細長い赤金の板を渡された。
俺は工房の外に出て、それを構えた。
上段。振り下ろす。
「……ん」
「どう」
「重心が、ちょっと先です。あと、握りが太い」
言ってから、自分でも驚いた。
そんなの、分かるものなのか。
分かってしまった。
道場で竹刀を握っていた頃の何かが、勝手に答えを出していた。
ツムグは頷いて、工房へ戻り、次の日には直っていた。
それから、毎日それをやった。
俺が振る。違和感を言う。ツムグが直す。
三日目には、俺の言い方が具体的になった。
五日目には、ツムグが「言われる前に分かるようになってきた」と言った。
七日目に、彼女は手を止めて、俺を見上げた。
「あんた、これ、使ったことあるでしょ」
「……道場に、ありました」
嘘は言っていない。
刃を落とした、稽古用の刀だ。振らせてもらったことがある。
握りの太さも、振り下ろした時に手のひらに残る感じも、全部、あれと同じにしていた。
「へえ。じゃあ、あんたの国のを作ればいいんだ」
ツムグは笑って、また鎚を持った。
その日から、迷いが消えたらしかった。
寸法が、決まっていった。俺の背丈と、俺の腕と、俺の知っている長さに。
バクが一度だけ、それを見て言った。
「打つ側と、振る側が、同じ物を見てる。……ツナデには、それがなかった」
ツムグの鎚が、一拍だけ、止まった。
それから、前より強く、落ちた。
*
焼き入れは、夜だった。
土を置いた刀身が、火床に入る。
「カイ。ここが山だ」
「はい」
熱を、均す。端から端まで、同じに。
ツムグが刀身を睨んでいる。目だけで、色を測っている。
「……もうちょい」
「はい」
「もうちょい……止めて!」
俺は火を切った。
ツムグが刀身を掴み、水槽へ——落とした。
音がした。
短い、悲鳴みたいな音。
湯気が上がった。工房が真っ白になった。
誰も、動かなかった。
湯気が抜けて、水面が静まって、その中に。
反りの立った、細い赤金が、沈んでいた。
ツムグが両手で、それを引き上げた。
刃の縁に、白い線が浮いていた。
雲みたいな、波みたいな。ゆらゆらと、まっすぐでない線。
刃文だ。
見たことがある。道場の床の間に飾ってあったやつと、同じだった。
「……綺麗だな」
ジェスが言った。
赤金の地に、白い波。
俺が知っているのは、銀色の刀身だ。こんな色じゃない。
なのに、笑ってしまうくらい、綺麗だった。
異変に気づいたのは、ツムグだった。
刀身を拭い、柄の入る部分——茎、と言うらしい——を確かめていた手が、止まった。
「……え」
顔を近づける。
もう一度、拭く。
指で、なぞる。
「……なにこれ」
そこに、文字が入っていた。
彫ったのではない。焼き入れの瞬間に、刃文と一緒に、出てきた線だった。
二文字。
「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」
ツムグの声が、裏返った。
「あたし、彫ってない」
バクが、無言で刀身を受け取った。
灯りにかざす。角度を変える。裏を見る。
そして、娘を見た。
「彫ってないな、これは」
「だから言ってるでしょ!?」
ツムグの顔から、血の気が引いていた。
怒っていない。
怖がっていた。
自分の手から出たものに、自分の知らないものが混ざっている。職人にとって、それがどれだけ恐ろしいことなのか、俺にも、少しだけ分かった。
クラインさんが、身を乗り出していた。
眼鏡の奥が、震えている。
「……読める。いや、読めない。だが——読めそうだ」
彼は、自分の言っていることの意味が分かっていない顔をしていた。
「なんだこれは。僕は、これを、知らないはずだ」
俺は、刀身を覗き込んだ。
読めた。
ごく普通に、日本語として。
久遠。
俺の苗字の、上二文字だった。
「…………は?」
思わず、声が出た。
そして、笑ってしまった。
我慢できなかった。
「なんだよそれ」
柾兄だ。
間違いない。あの人だ。
一年近く音沙汰なしで、何の説明もなく、こんな所に俺を放り込んでおいて。
助けにも来ないで。説明もしないで。
刀にだけ、名前を入れていった。
誕生日に来ないくせに、色紙にサインだけ書いて寄越す親戚か。
「カイ、どうした」
「……いえ」
笑いながら、腹が立ってきた。
見てるなら。
見てるなら、なんか言えよ。
「なんて書いてあるの!?」
クーリが飛びついてきた。
「……名前です。刀の」
「かっこいい!? かっこいいやつ!?」
「たぶん」
「読み方は!?」
俺は、少し迷ってから、言った。
「久遠」
ヤンさんが、一度だけ、俺を見た。
名を隠せと言った人の目だった。
何も、言わなかった。
*
翌日、研ぎに入った。
そこで、止まった。
砥石に当てても、刃が立たない。
角度を変える。石を変える。粗いのから細かいのまで、順に。
刀身は、鏡みたいに滑らかになっていく。
だが、縁が、鋭くならない。
ツムグは朝から晩まで研いだ。次の日も研いだ。その次の日も研いだ。
三日目の夕方、砥石の方が、へこんでいた。
刀身には、傷ひとつ付いていなかった。
「……なんで」
ツムグの手が、震えていた。
「なんで、立たないの」
見物に来ていた鍛冶たちも、黙り込んでいた。
そこへ、鍛冶王が進み出た。
「借りるぞ」
返事も待たず、王は刀身を作業台に置いた。
そして、腰の鎚を取った。
「陛下!」
「待って——」
止める間もなく、王は鎚を振り上げた。
叩いた。
工房が、鳴った。
腹の底まで来る音だった。誰かが尻餅をついた。
刀身は。
作業台の上で、跳ねもしなかった。
曲がっても、欠けてもいない。
王は、それを見た。
そして、もう一度、鎚を振り上げた。
——止まった。
腕が、上がったまま、動かない。
王は、自分の鎚を見ていた。
俺たちも、見た。
鎚の面が。
凹んでいた。
きれいな、丸い凹みが、ひとつ。
工房の中の、全員の息が止まった。
王は、ゆっくりと腕を下ろした。
鎚を作業台に置いた。
それきり、二度と、手を伸ばさなかった。
「……ツナデの刀は」
低い声だった。
「四つ目で、折れた」
ツムグが、顔を上げた。
「これは、折れんな」
王は刀身を指で弾いた。澄んだ音が、長く鳴った。
「……だが、斬れん」
そこで、王は言葉を切った。
「大会には出せん。斬れぬ物は、この国では武具ではない」
「出さないよ」
ツムグが言った。
全員が、彼女を見た。
「これはヒヒイロカネの力だ。あたしの力じゃない」
はっきりした声だった。
「石が凹んだのも、鎚が凹んだのも、この鉄が硬いからだ。あたしが打ったからじゃない。……そんなの、打った奴が一番よく分かる」
ツムグは、王を見上げた。
「だから、これでは出ない。大会には、自分の鉄で出る」
鍛冶王は、しばらく、その小さな鍛冶を見下ろしていた。
それから、笑った。
はじめて、笑った。
「そうか」
それだけだった。
便宜も、褒め言葉も、招きの一つもなかった。
王は前掛けの埃を払って、来た時と同じように、供も連れずに出ていった。
戸口の外の連中が、一斉に道を空けた。
そして——誰も、帰らなかった。
ドワーフたちは、まだ工房を覗き込んでいた。
さっきまで笑いに来ていた顔が、ひとつもなかった。
*
人がはけた後、ツムグは、まだ研いでいた。
ずっと研いでいた。
夜になって、手が止まった。
「……無理だ」
砥石の上に、両手をついた。
「あたしの力じゃ、この刀を、斬れるようには研げない」
肩が、震えていた。
「あたしが、未熟だから」
誰も、動かなかった。
ジェスが一歩出かけて、止まった。
こういう時、あいつは何か言えるやつだが、今日は、言わなかった。
だから、俺が言った。
「いや」
ツムグが、顔を上げた。
「これでいい」
「……は?」
「俺は、刃で斬らないんです」
俺は、刀身を手に取った。
軽い。
驚くほど軽い。この長さの鉄が、こんな重さのはずがない。
木刀を持っているのと、ほとんど変わらなかった。
慣れた重さだった。
「斬るのは、真空と虚空です。刀身は、その道を決めるためのものなんです」
だから、要るのは三つだけだ。
丈夫なこと。振りやすいこと。斬るための形をしていること。
「鋭さは、要らないんですよ」
「……そんな刀、あるわけ」
「ここに、あります」
ツムグは、俺の手の中を見た。
「切れないものを斬るために、これが欲しかったんです」
俺は、少しだけ笑った。
「前の剣、ヤンさんにもらったやつ、覚えてます?」
「あの、頑丈なだけの」
「そう。あれより刃がないですよ、これ」
ツムグが、ぽかんとした。
「……最悪じゃん」
「最高です」
言い切った。
俺は嘘をついていない。刃を潰した刀を、俺は道場で振っていた。
手が知っているのは、こっちの方だ。
ツムグの目から、涙が落ちた。
拭いもしなかった。
「……なんで、そんな顔で言うのさ」
彼女は、俺の手から刀を取り返した。
そして、袖でぐいぐい拭いて、灯りにかざして、しばらく刃文を見ていた。
「……いつか」
鼻を、すすった。
「いつか、斬れるやつを打つ」
「はい」
「あんたが、要らないって言っても打つから」
「はい」
「その時は、これ捨てなよ」
「捨てませんよ」
「捨てなって!」
ジェスが、我慢できずに吹き出した。
「なんで泣きながら喧嘩してんだよ」
「うるさい!」
「はいはい」
ジェスは笑って、それから、ツムグの頭にぽんと手を置いた。そのまま、撫でた。
ツムグは真っ赤になって鎚を掴んだが、そのまま、いいようにされていた。
周りも、何も言わなかった。
*
その夜、鍔を作った。
「模様、何か入れる?」
「いえ」
俺は、首を振った。
「無地でいいです」
ツムグは、ちょっと不満そうだったが、頷いた。
厚めの、飾りのない鍔。それだけが付いた。
柄を巻いて、鞘に納める。
軽い刀だった。
赤金で、刃文が綺麗で、名前が勝手に入っていて、そして、何も斬れない。
腰に差してみる。
竹刀を担いで学校の廊下を歩いていた時の、あの感じに、少しだけ似ていた。
「似合ってるじゃん」
ジェスが言った。
「ねぇ、次あたしの弓だよね!? 弓だよね!?」
「順番はあたしが決める」
「そう言って刀からやったじゃん!」
『わたしの剣も、まだです』
「ナナまで!?」
工房が、うるさかった。
バクは炉の火を落としながら、聞こえないふりをしていた。
耳が、赤かった。
俺は戸口から、北を見た。
崑崙。
雪の山は、静かだった。
あれからは、一度も揺れていない。
寝返りを打っただけだ。
こっちを、ちらっと見ただけだ。
——それでも。
俺は、腰の刀に、手を置いた。
「ナナ」
『はい』
「あの山、行ってみたいな」
ナナは、少しだけ黙った。
『……お供します』
(第三十五話「火」・了)




