第三十一話「鏃」
朝飯のあと、ジェスが、懐へ手を突っ込んだまま、間の抜けた声を出した。
「そういや、これ」
出てきたのは、手のひらに乗るくらいの、木の箱だった。角が丸くて、蓋のところに、見たことのない文様が彫ってある。
「あんた、まだ持ってたの?」
ツムグが、鎚を置いた。
「昨日、開けるって言って、開けなかったやつ」
「糸の方が忙しかったんだよ」
「開けなさいよ、じゃあ」
そう言いながらも、ツムグの目は、箱から離れなかった。
ジェスが、蓋に指をかけた。軽い音がして、蓋が上がる。中には、艶のない、丸い、灰色の石が一つ。何の変哲もない。
そして——箱が、消えた。蓋も、底も、文様ごと、空気に溶けるみたいに、手のひらから無くなって、石だけが、残った。
「え」
「消えたぞ!?」
「消えましたね」
俺が言うと、ジェスは手のひらに残った石を、指でつまんで持ち上げた。
「石は、残ってる」
『鑑定します』ナナが言った。『——帰還石。ダンジョン限定。と、表示されます』
「そんだけ?」
『以上です。用途の記載が、ありません』
クラインさんは帳面を開きかけて、少し、手を止めた。
「……帰還石」
「知ってるんですか」
「名前だけはね」
彼は、その石を遠くから覗き込んだ。触れはしなかった。
「本で読んだことがある。ただ、現物は初めてだ。……市場に出た、という話を、僕は聞いたことがない。帰還、どこに帰るのか。ダンジョン限定、か」
そのまま思考へ沈みかけたクラインさんへ、クーリが目を輝かせて詰め寄った。
「高いの?」
「……値がつかない、とだけ本にはあった」
「じゃあ、すごいやつじゃん!」
「値がつかない、というのは」
クラインさんは、眼鏡を押し上げた。
「売る奴が、いないということだよ。……何に使うのか、どこに帰るのかも分からないが、しまっておきなさい」
俺は、その石を見ていた。輪と、同じ匂いがした。
——ここから、どこへでも、戻れる。
そう思った。思ってしまってから、少しだけ、変な気分になった。
「たぶん」
俺は、口にした。
「帰る、石ですよね。……ダンジョンの中なら、どこからでも、出口に戻れるやつです。あの輪の、どこでも版、みたいな」
全員が、俺を見た。
「なんで、分かるの」
「なんとなく、です」
本当は、なんとなくじゃなかった。
だが、言葉にすると、うまく言い表せない。
この世界で、俺だけが持っている「当たり前」が、また一つ、増えていた。
「使い切りなのか、何度も使えるのかは、分からないですけど」
「……なるほど、誰も売らないわけだ。まさに生命線か。ジェス、しまっとけ」
クラインさんが、帳面に何か書き足す。ジェスは、あっさり石を懐へ戻した。
「ミスリルもそうだったな。……なんか、しまうもんばっか増えるな、この穴」
「それより、弦」
ツムグが、話を戻した。作業台の上には、白い塊が置いてある。あの蜘蛛の腹から、ナナが切り取ってきたやつだ。
切っても切っても出てきた、あの糸。今は、洗って、束ねてある。
「編むの、初めてなんだよ」
彼女は、その束を指で梳いた。
「刀は、打つ。鎚で、叩いて、伸ばして、折り返して。……こんな、指で撚る仕事なんて、したことない」
「できそう?」
「知らない」
彼女は、糸を一本、指に絡めた。
「やってみるしか、ないでしょ」
半日、彼女は、それにかかりきりだった。時々、バクが助言を飛ばしていたが、聞こえていないみたいに没頭していた。
俺たちは邪魔をしないように、庭で木を切っていた。ヤンさんが細い木を選んで、まっすぐなところだけを鉈で落としていく。矢柄になる木だ。
ジェスが担いで、クラインさんが選り分けて、ナナが一本ずつ、覚えていく。
鍛冶場からは、時々、舌打ちが聞こえた。
「……ちがう」
「……ほどける」
「……なんで、締まらないの。こういう細かい細工は、亜人が得意なんだよなぁ」
覗くと、ツムグの手元には、撚りかけの糸が何本も、絡まって落ちていた。強く撚れば切れ、緩く撚れば解ける。
強さと、伸びと、締まりが、どれも噛み合わない。
鍛冶も魔法も、結局は、頭の中の形を現実へ移す作業なのかもしれない。思いどおりに調整できない苛立ちは、俺にも少し分かった。
ただ、叩いて、伸ばして、武器を作ってきたツムグさんにとって、指先だけで締まりを探る作業は、あまりにも勝手が違う。
「武器と、逆なんだ」
彼女は、一度だけ、そう零した。
「鉄は、叩くほど、締まる。……これは、叩いたら、死ぬ」
日が傾く頃、彼女は、一本の弦を光にかざしていた。細くて、白くて、少し、艶があった。
「これで、いい……のかな」
自信の無い声だった。
「分かんない。母さんの弦、もう無いから、比べられない。……手触りで、覚えてるだけ」
「触ってたんですか」
「子供の頃。……あれ、綺麗だったから。触ると、怒られた」
彼女は、その弦を指で弾いた。かすかに、鳴った。
「……まあ、いいや」
弦を張るのに、また、四人がかりだった。二日前と同じだ。ヤンさんが弓を押さえ、ジェスが下を踏み、ツムグとクラインさんで、弦を掛ける。
「硬っ!!」
「二日前と、同じこと言ってるぞ」
「二日前と、同じ硬さだからでしょ!!」
弓が、しなる。ぎち、と、竹の鳴る音がした。上の輪が、掛かる。下の輪が、掛かる。そして——ツムグの手が、離れた。
切れなかった。二日前は、ここで切れた。長いあいだ、張られたままだった、最後の一本が。喉のところで鳴って、そして、ぶつっと。
だが今度は、鳴らなかった。弦は、掛かったまま、静かに、弓の反りを受けていた。
「……張った」
ツムグが、言った。
「張ったよ」
誰も、何も言わなかった。彼女は、その弦を指で、そっと弾いた。低い音が、一つ、鍛冶場の天井の高いところまで、昇っていった。
「切れない」
「切れないですね」
「切れない弦だ」
彼女は、もう一度、弾いた。
「母さん、これが、欲しかったんだ」
俺は、その弓を見上げた。長くて、黒くて、綺麗な、飾りだった弓。
誰にも引けなくて、母親が一人で、三本の弦を二本使い切って、それでも納得しなかった弓。
その弦が、戻ってきた。刀鍛冶の娘が、刃物でない母の未完へ、初めて、自分の手を足して。
「形見、揃ったね」
クーリが、小さく言った。ツムグは、答えなかった。ただ、弦を、もう一度だけ、弾いた。
「で。撃つには、鏃だよね」
クーリが、指を折った。
「弦、張った。矢柄は、そこの庭。羽根は、箱に、山ほど。……あと、先っぽ」
「鏃」
「鏃」
「爪くらいの、やつ」
ツムグが、腕を組んだ。
「あれ、ミスリルで打つんだよね。……四千二百本」
「言わないで」
クーリが、天井を仰いだ。
「聞くと、気が遠くなる」
『——鏃なら、あります』
ナナが言った。全員が、こっちを見る。
「あるって?」
『鏃が、あります』彼女は、少し、間を置いた。『バクさまが、わたしに、格納なさいました。……無地の、ミスリルの鏃です』
「え」
『四千二百本、です』
土間が、静まった。ツムグが、炉の方を見る。バクは、背を向けて座っていた。何か細かい物を打っている。振り返らない。
「父さん」
「なんだ」
「鏃、打ったの」
鎚の音が、止まった。
「……打った」
「四千二百」
「数えてねぇ」
彼は、まだ、振り返らなかった。
「いつ」
「留守の間だ」
「一人で?」
「金と、土だ。鍛冶にも、魔法はある」
彼は、短く言った。
「魔法で、粉から起こして、型に流して、締める。手で叩くより、速い。……正確だ」
「それでも」
ツムグの声が、少し、掠れた。
「四千二百は、速くないでしょ」
バクは、答えなかった。
俺は、その背中を見ていた。ミスリルは爆弾だ、と言った人だ。表に出すな、一本もだ、と。
その人が、四十二本の全部を、爪くらいの鏃に変えて、ナナの中へ隠した。隠したのは、鏃だけじゃない。
——娘がそれを撃てる日を、待っていたことも。
それを、一度も口にしなかった。速いだの、正確だのと言って。撃てる、とは言わなかった。撃てるといい、とも。
言えば、期待になる。期待して、引けなかったら。あの弓の下で長年、力が足りないと思い込んでいた娘に、また、届かないものを渡すことになる。
だから、黙って打った。届くか、分からないまま。
「……父さん」
「怪我は」
バクが、遮った。
「無い」
「そうか」
それだけ、聞いた。鎚の音が、また、始まった。ツムグは、しばらく、その背中を見ていた。そして、袖で、乱暴に顔を拭った。
「鉄粉、目に入った」
「入ってないでしょ」
「入ったの!!」
刻印は、クラインさんが一本目を彫った。無地の鏃に、細い針で、線を刻んでいく。渦のような、鏃の先へ toward 収束していく文様。
「これが、基本形だ。アロー系。……属性は、乗せない。矢に、魔力を通す道だけを、彫る」
「それで、飛ぶの?」
「飛ぶだけなら、これでいい。だが」
彼は、その一本をクーリへ渡した。
「クーのは、これに、聖を重ねる」
「あたし?」
「聖属性は、クーにしか、できない」
クーリは、針を持って、しばらく固まっていた。
「……あたし、彫り物なんて」
「線を、なぞるだけだ。僕が、下を引く。クーは、その上に、自分の相性を、乗せる」
「乗せるって、どうやって」
「知らない」
クラインさんは、あっさり言った。
「学者!!」
「やってみないと、分からない。……クーリの聖だ。僕の中には、無い」
クーリが、針を鏃に当てた。線を、なぞる。ひとなぞり。ふたなぞり。三本目で、彼女の指先が、淡く光った。刻んだ線の底が、うっすらと、白い。
「……乗った?」
「乗ったね」
クラインさんが、覗き込んだ。
「セイントアローだ」
「一本、彫れた」
クーリが、それを両手で持ち上げ、そして、残りの山を見た。四千百九十九本。
「……無理でしょ、これ」
夜になっても、二人は、彫っていた。クラインさんが下を引き、クーリが聖を重ね、それをナナが脇でじっと見ている。針の動き。線の深さ。
光の乗り方。一本ずつ、覚えていく。
「お兄ちゃん、指、痛い」
「僕もだ」
「学者のくせに」
「学者だからだよ。……鎚より、針の方が、慣れてない」
蝋燭が、短くなっていく。二人の影が、壁で揺れていた。彫って、光らせて、脇へ置く。彫って、光らせて、脇へ置く。
百本を過ぎた頃、クーリの手が、遅くなった。
「……眠い」
「休みなさい」
「お兄ちゃんは?」
「もう少し」
『——代わります』
ナナが言った。
「え?」
『百七本、拝見しました。線の深さ、渦の巻き、聖の乗せ方。……記録しました』
無地の鏃の山が、すっと、消えた。ナナが、格納の中へしまったのだ。そして、土間へ、銀が降り始めた。一本。十本。百本。
渦の彫られた、底の白い鏃が、積み上がっていく。クーリが、一本、爪の先を痛くしながら彫ったものと、見分けのつかないものが。
——見たことがある。これは、ゲームの、クラフトだ。素材を放り込む。少し、待つ。出てくる。彫る指も、削る腕も、映らない。
放り込んだものが、増えて、変わって、戻ってくる。この穴が、俺にはずっとゲームじみて見えていた。たぶん、こういうところだ。
ナナが指を立てれば、宙に、光の地図が浮く。誰も、紙になど描いていない。
クーリが、積み上がる山から一本、摘み上げた。
「これ、あたしが彫ったやつと、同じ?」
『——違います』
「同じじゃない。見分け、つかないもん」
『見た目は、同じ物です。……ただ、わたしは、彫っていません。写しました。作ったのは、クーリさまです』
それきり、鏃は、ただ、静かに積み上がり続けた。クラインさんが、針を置く。置いて、降り積もる銀を、しばらく見ていた。
何か言おうとして、言わなかった。眼鏡を外し、目頭を押さえて、それから、静かに立ち上がる。
「……寝るよ」
「お兄ちゃん」
「なんだい」
「ありがとう。下、引いてくれて」
クラインさんは、少し止まった。
「……ああ」
それだけ言って、彼は部屋を出た。
矢柄は、翌日だった。庭で木を切る。ヤンさんがまっすぐな枝を選び、鉈で落とす。ジェスが割り、俺が、道場で見た憶えを頼りに、長さを揃える。
「このくらい、ですかね」
「知らん。調整は、後だ」
ヤンさんが言った。数本、削った。表面を、小刀でなめらかにする。曲がっていると、飛ばない。ツムグが横で、一本ずつ見て、撥ねた。
「これ、駄目。節がある」
「これは?」
「いい」
『——記録しました』
ナナが、それを受け取った。いい、と言われた数本を覚えて、あとは、格納の中で複製していく。負担は、軽いらしい。鏃の刻印より、ずっと。
「同じこと、してるのに、こっちは軽いのか」
俺が聞くと、ナナは、少し考えた。
『木は、単純です。……聖は、複雑でした』
鏃。矢羽根。矢柄。三つが、揃った。ナナが、格納の中でそれを一本に組む。爪くらいの銀の先に、まっすぐな柄。尻に、金色の矢羽根が、三枚。
矢が、できた。
「……できたね」
ツムグが、その一本を指で摘んだ。
「父さんが打って」
彼女は、羽根の方へ指を滑らせる。
「あたしが、弦、張って」
そして、握りを見上げた。
「クーリが、撃つ」
「行こうよ」
クーリが、立ち上がった。さっきまで、四千二百本に気が遠くなっていた娘だ。今は、弓を担いでいた。母親の背丈で作られた、長くて黒い弓を。
自分の背より、二尺、高い弓を。
「試したい。この矢が、どこまで、届くか」
十階まで、輪を抜けた。もう、慣れた感覚だった。一歩、段差を踏み外して、床があった、という、あの感じ。九階ぶんが、消える。
そこから、下りた。
ナナが、先頭で、光球を浮かべて明かりにしていた。火ではない。揺れない、白い光が、通路の先を丸く照らしている。
松明は、いつからか、誰も持たなくなっていた。
十五階を過ぎた。十六、十七階でも、相変わらずのエンカウントを片づけ、宝箱はそこそこに、先を急いだ。
その白い光の届く範囲が、だんだん、狭くなっていく。空気が、重い。壁の岩に、白い、粉のようなものが、こびりついていた。
「ここから、雰囲気、変わったね」
「魔素が、濃い」
クラインさんが、壁の粉を指の背でなぞった。
「これだけ濃いと、瘴気が留まっている可能性が高い。……生きてる魔物じゃない」
「じゃあ、何」
「入ってから、話すよ」
その通路には、骨が、落ちていた。古い骨だ。誰の、とも分からない。鎧の切れ端。錆びた剣。壁に凭れた、崩れかけの、人の形。
「昔、ここに潜った奴だろうな」
ヤンさんが言った。
「帰れなかった、奴か」
「……成仏、してないの?」
クーリの声が、少し、低くなった。
「それは分からないが、ダンジョンに取り込まれてるだろうね」
クラインさんが、静かに言った。
「魔素が溜まって瘴気に変わる。瘴気の濃い場所では、死んだものが、時々、起き上がる」
「……本人は、もういないだろうね。器だけが、動かされてる。ダンジョンでは、その意識に操られてるようなものかな」
「可哀想だね……勝手に、戦わされるなんて」
「そうだね。……そして、厄介だ」
最初のそれは、骨だった。壁の人の形が、かたん、と動いた。崩れた鎧の中で、白いものが組み上がっていく。腕。肋。頭。錆びた剣を、拾い上げる。
「来た」
ヤンさんが前へ出て、斧槍を横に薙いだ。骨の胴が、真ん中で砕ける。——が、崩れた骨は、床でまた、集まり始めた。
「繋がる!?」
「核だ」
ヤンさんが言った。
「ダンジョンの魔物は、小さな核で、動いてる。骨を砕いても、核が無事なら、また集まる。……核を、潰せ」
「核って、どこ」
「スケルトンなら、胸か頭だ。戦場跡でも、よく見かけた」
ジェスが、大槌を振り下ろした。組み上がりかけた肋の真ん中で、小さな赤い光が砕ける。今度は、集まらなかった。
白い破片が、床に散って、動かなくなる。
「なるほど。核か」
「単純なのは、そうだ」
クラインさんが、杖の先を通路の奥へ向けた。
「問題は、単純じゃないやつだよ」
奥から、それは、来た。音が、しなかった。骨でも、肉でもない。ナナの光が、そこだけ届かない。人の形をした、薄い、影のようなもの。
ゆらり、と床から少し浮いて、こちらへ流れてくる。
『鑑定します』ナナが言った。『——レイス。物理攻撃、大幅減。……ただし、実体は、あります。核を突けば、通る、とのことです。聖属性は、特効です』
「核を、突けば」
ヤンさんが斧槍を構え、そして、薙いだ。刃は、その影の中を通った。手応えは、羽根を撫でたほども無い。——だが、無くはなかった。
どこか一点、ほんの一点だけ、確かに、当たった感触があった。
「なるほど、手応えがねぇな」
ヤンさんが、斧槍を戻す。
「……しかし、無敵じゃねぇ。どっかに、核がある。スケルトンと、同じだ。当てりゃ、落ちる」
だが、見えはしなかった。流れる影の、どこにその一点があるのか。
突こうとすれば影は形を変え、掴もうとすればするりと逃げる。当てられる。当てられるが——難しい。
ヤンさんの足が、沈んだ。斧槍の柄を、握り直す。肩が、落ちる。
何かが、その背に集まりかけて——俺は一瞬、見たことのない気配を、そこに感じた。掴めない核の一点を、力ずくで抉じ開ける、そういう気配を。
そして、彼は、それを止めた。柄から、力を抜く。ゆっくりと、斧槍を下ろした。
「ヤンさん?」
彼は、答えなかった。ただ、後ろのクーリを見た。
「……こいつは、俺の得物じゃない」
ジェスが、代わりに大槌を叩き込んだ。床が、鳴る。運悪く、核を外した。槌の頭は、影の中を素通りして、床を打っただけだった。
「うおっ、外した!? どこだよ核!」
「見えないよ」
クラインさんが、杖を上げかけた。
「僕の氷なら、どこに当てても、通りはするだろう。……ただ、二割か、三割は、削がれる。あの影を追い回して、削り切るのは、効率が悪い」
上げかけた杖を、彼は下ろした。
「……もっと、いい鍵が、ある」
彼も、後ろを見た。
俺も、剣を握り直して、その手を止めた。核を突けば、斬れる。ヤンさんも、俺も、たぶん、いつかは当てられる。
だが、この流れる影の、どこに核があるのか、目では追えない。追い回している間に、絡め取られる。
聖属性は、特効。しかも——どこに当ててもいい。核を、探さなくていい。
ヤンさんは、下ろした。抉じ開ければ、届いた。届く顔をしていた。それでも、下ろして、後ろを見た。
近づけるのに、届かない。いちばん厄介なやつを前にして、俺たちは、揃って、後ろを振り返っていた。
「私の出番、ということね」
声がした。クーリだった。後ろに、下がっていた。影の届かない、ナナの光の中に。弓を立てていた。ツムグ母親の和弓を。
自分の背より二尺高い、長くて黒いそれを。
矢を、右へ番える。番えた矢の、爪くらいの鏃の底が、白く光っていた。
「セイントアロー。——不死には、特効だ」
クーリに場所を譲りながら、クラインさんが言った。
弓を、頭の上へ。上げて、引き下ろす。身体強化を乗せれば、弦の張力そのものには、耐えられる。
ツムグが、そこらの男より力があって、なお引けなかった弓だ。——力の、話じゃない。
問題は、腕の長さだった。クーリの腕が、いっぱいに伸びていく。ツナデの寸法に合わせて作られた、自分の背より二尺高い弓。
その引き尺の、ぎりぎりまで、指が届く。
腕が、震える。肩が。歯を、食いしばっている。それは、重さにじゃない。伸びきった、その先で、耐えている震えだった。
耳まで、引いた。そこで、止めた。狙っている。ゆらゆらと流れる、影の、真ん中を。
「クーリ」
ダガーでは、届かなかった。だから、手を変えた。
「頑張れ」という言葉は、飲み込んだ。そんな声を掛けなくても、クーリがずっと頑張ってきたことを、俺は見ていたから。
放した。ぱん、と、乾いた音が一つ。朝の、静かな道場から聞こえてくる、あの音だった。
矢は、影の真ん中へ深く突き入り、そのまま、中心で止まった。鏃の底の白い光が、影の中で弾ける。
影が、内側から白く灼け、ゆらりと揺れて、ほどけて、ナナの光に溶けていった。
床に、矢が一本、落ちていた。鏃の底の白は、もう、消えている。
『——討伐を、確認』
ナナが言った。しばらく、誰も動かなかった。クーリが、弓を下ろす。腕が、まだ震えている。息が、上がっている。
身の丈を越える弓を、いっぱいに引き絞って、たった一射。緊張もあったのだろう。それだけで、汗だくだった。
「……届いた?」
「届きました」
俺が言うと、彼女は、弓を抱えたまま、へたり込んだ。
「腕、いっぱいまで伸ばさないと、引けないんだもん……! これ、何回もは、きついかも……!」
「無理してました?」
「してたわよ!!」
「クーリ」
ツムグが、しゃがみ込んだ。
「弓、貸して」
「なんで」
「あんたの寸法で、組む。あんたの背丈に、合わせて。……母さんのは、母さんのだ。あんたのを、別に作る」
「え」
「この寸法で、撃ち続けたら、あんた、肩、壊れる」
彼女は、弓の握りを指で撫でた。
「ちゃんとした弓、作るよ。あんた用の。……母さんの弓の音は、ちゃんと聞けたよ」
俺は、その弓を見ていた。長年、壁に掛かっていた弓。誰にも引けなくて、母親が納得しなかった、途中の弓。それが、二日前、初めて鳴って。
今日、初めて、届いた。
魔法では届かなかった手が、弓で、厄介な相手に届いた。近くにしか届かなかったクーリの手が、いちばん遠いところへ、届いた。
「弓って」
クーリが、荒い息の中で言った。
「ちゃんと、すごい武器なんだね」
「武器ですね」
彼女は、床の、白く灼けた跡を見ていた。
「あたし、届くんだ」
ダガーが悪いわけじゃない。ただ、このダンジョンには硬い敵が多く、相性が悪かった。
武器を変えることには、抵抗もあったはずだ。それでもクーリは、届くための手を、自分で選び直した。
やっぱり、すごいと思った。
ヤンさんが、斧槍を担ぎ直し、通路のさらに奥を見た。そこだけ、空気が違った。ナナの光が、ずっと先で消えている。届いていないのではない。
届けても、そこで飲まれている。
「……もう少し、先を、見ておく。何が待ってるか、知らねぇまま、次は来れねぇ」
クーリの息が戻るまで、そこで休んだ。クラインさんが、その肩に手を当て、促進の魔力をそっと流す。
異常がないのを確かめてから、俺たちは先へ進んだ。
クーリを真ん中に庇いながら、さらに下りる。十八階。骨は群れていたが、皆で危なげなく片づけた。
十九階。守護者階層の前には、いつものように、魔物の気配が途絶えた安置部屋があった。
まるで、この先は雑魚の領分じゃない、とでもいうように、通路が静まっていく。
そして、守護者階層——二十階。階段を降りた先に、大きな扉があった。石の、大きな扉。半分、開いている。開いた隙間の向こうが——広い。
ナナの光でも、端まで届かないくらいに。
隙間から、覗いた。奥に、二つ、立っていた。
一体は、黒かった。人の背の三倍はある。黒く、鈍く、光を吸う、岩の巨人。腕を垂らして、動かない。
もう一体は、白かった。白く、金に近い。磨いた白金みたいに、ナナの光を跳ね返している。同じ背丈の巨人が、もう一つ。
二体とも、静かに止まっているようだった。
「……動かないのかな? これ」
クーリが、声を潜めた。
「普通は動かねぇな」
ジェスが、あっさり言った。
「階層ボスは、こっちが手ぇ出すか、一定の距離まで近づくまで、動かねぇ。常識だろ?」
「常識、ですか」
「常識だろ。なあ?」
——常識、か。近づかなければ、動かない。手を出さなければ、起きない。まるで、こっちが「始める」まで、律儀に待っていてくれるみたいに。
……ゲームだ。やっぱり、これは。誰かが、そういうふうにこしらえた盤の上に、立っている。そんな気がした。
ダンジョンに入って、特に感じる。まるで、誰かが「ゲームを楽しめ」と言っているみたいに。
『鑑定します』ナナの声が、少し、低くなった。『——アダマンタイトゴーレム。レベル、五十。物理攻撃、無効』
「五十」
『オリハルコンゴーレム。レベル、五十。魔法攻撃、無効』
沈黙が、落ちた。
「……おかしい」
先に口を開いたのは、クラインさんだった。帳面の上で、彼の指が止まっている。
「二十階で、これは。おかしい。書物で読んだ、五十階層級の守護者。……それと、同じくらいの強さに思える。まだ、二十階だぞ。二段も、三段も、格が飛んでる」
俺も、同じことを思っていた。片方には、物理しか通らない。もう片方には、魔法しか通らない。
アダマンタイトを削れるのは、俺とクラインさんの魔法だけ。オリハルコンを砕けるのは、ヤンさんとジェスの腕だけ。
両方に効く弓のクーリは、連射がまだきつい。
——つまり、二手に割れ、ということだ。五十階層級を、二体。戦力を半分に割って、同時に相手取る。今の俺たちでは……無理だ。
それに、あの材質。アダマンタイト。オリハルコン。名前だけは、知っていた。ゲームで、ありふれた神話の金属だ。
柾兄のこしらえた世界だから、あるのは道理でも——なぜ、それが、二十階なんかで、五十階層級で、二つ、律儀に揃って並んでいるのか。
何か、ある。この階だけ、何かが底上げされている。やはり、このダンジョンは、何かがおかしい。
……その「何か」は、俺なのか。俺が、ここにいるから、このダンジョンは——。
「カイ」
思考を断ち切るように、ヤンさんが、静かに言った。
「どうする。……一度、引くのも手だぞ」
俺は、二体の巨人をもう一度、見た。今なら、引き返せる。
「引きましょう。傾向と対策は、ダンジョン攻略の基本ですから。……物理無効と、魔法無効。両方に効く手を、クーリの弓や、あるなら他も、揃えてから出直します」
「帰還石、使うか?」
ジェスが、懐に手を当てた。
「せっかく、あるんだろ。どこからでも、帰れるって」
「使い切りタイプも、多いですから」
俺は、首を振った。
「一回きりなら、ここでは勿体ない。……本当に、逃げ場が無くなった時まで、取っておきます。今日は、十階まで戻って、ポータルから帰りましょう」
扉から、そっと離れた。二体の巨人は、最後まで、動かなかった。
帰り道、クーリは、弓を大事そうに抱えていた。長くて、自分には大きすぎる弓を。引くたびに、腕をいっぱいに伸ばさなきゃいけない弓を。
それでも、自分に届かせてくれた弓を、離さなかった。
ツムグが、その隣を歩いていた。時々、弓の握りを横目で測っている。たぶん、次の弓の寸法を考えている。
あんたの背丈で、あんたの腕で、あんたが、何回でも撃てる弓を。
クラインさんは、一番前を静かに歩いていた。帳面を、開いていない。時々、自分の指を、握ったり、開いたりしながら。
俺は、一番後ろを歩いていた。今日のことを、考えていた。弦が、切れなかったこと。バクが、黙って打った、四千二百本。
クーリの矢が、初めて、いちばん遠いところへ届いたこと。
いい日だった。——ただ、あの、二十階の二体だけは。片方には物理が効かず、片方には魔法が効かない。
こっちの手を全部読んで、置かれたみたいな、あの二体だけは。まだ、届く気がしなかった。
そして、なぜ、ダンジョンは、二十階なんかに、あんなものを配置したのか。その答えのないまま、俺たちは、地上へ帰り着いた。
(第三十一話「鏃」・了)




