Re:sou 第二十九話「鳴った」
ダガーを鞘へ叩き込む音がした。
乱暴な音だった。
クーリだった。床へ座り込んだまま、自分のダガーを、何度も鞘へ入れ直している。
「クーリ?」
「……何でもない」
「何でもなくないでしょ」
ツムグが言った。
クーリは、しばらく黙っていた。
そして、ぼそりと言った。
「二だったのよ」
*
「……あー」
「二! 五百のうちの、二!」
「二百五十回か」
「言うな!!」
彼女は、膝を抱えた。
「あたし、届かないんだ」
「え?」
「近づいたら、死ぬ。あんな腕で殴られたら、一発でしょ。……でも、離れたら、何にもできない」
「回復してたじゃん」
「してたけど」
彼女は、顔を伏せた。
「今日、あいつ、壁まで飛んだのよ」
「うん」
「あたし、止められなかった」
*
ツムグは、答えなかった。
代わりに、じっと、クーリを見ていた。
上から下まで。
肩。腕。指。
——初めて会った日、俺の剣を見た、あの目だった。
「ねえ」
「何」
「あんた、腕、細いね」
「うるさい!!」
「褒めてる」
ツムグは、しゃがみ込んだ。
「肘、伸びる?」
「え?」
「伸ばして」
言われるままに、クーリが腕を伸ばした。
ツムグは、その肘へ指を当てて、少しだけ押した。
「……真っ直ぐだ」
「何なのよ」
「あと、指」
彼女は、クーリの手を取った。
「胼胝、無いね」
「あるわよ! ダガーの!」
「握る胼胝でしょ。……引く胼胝が、無い」
彼女は、その手を離した。
そして、立ち上がった。
「引ける、たぶん」
「だから、何が」
ツムグは、ナナがしまい残した最後の一本を、拾い上げた。
「弓」
*
クーリが、ぽかんとした。
「……あたしが?」
「うん」
「弓なんて、触ったこともないわよ」
「知ってる。だから、胼胝が無いんでしょ」
ツムグは、その棒を、指で弾いた。
澄んだ音がした。
「ミスリルってさ。魔力、めちゃくちゃ通すんだよ」
「え?」
「刃には向かない。柔らかいから。……でも、弓に仕込んだら、たぶん、矢に属性が乗る」
クーリが、顔を上げた。
「……乗るの?」
「知らない」
ツムグは、笑った。
「やったことないから」
「やったことないんじゃん!!」
「あるわけないでしょ! 誰がミスリルで弓作んのよ! 国が傾くわ!」
*
その時、誰も、何も言わなかった。
俺は、床を見た。
金の箱が、開いたまま、そこにあった。
中に、羽根が詰まっている。
矢の尻に付ける、矢羽根が。
*
「…………」
「…………」
クーリが、ゆっくりと、その箱を指した。
「ねえ」
「言うな」
ツムグが言った。
「あれ、さっき」
「言うなって」
「弓、無いのに」
「言うなあああ!!」
ツムグが叫んだ。
「あたし、今、思いついたの!! 今!! さっきじゃない!!」
「箱の方が先だったわよ!!」
「うるさい!!」
*
クラインさんが、箱の縁に手をかけた。
そして、静かに、蓋を閉じた。
「お兄ちゃん?」
「……うん」
「何してんの」
「見なかったことにしている」
「学者!!」
「学者にも、限度というものがある」
彼は、その箱を、そっと押しやった。
「まあ、いいか」
「今日、それ何回目!?」
「五回だ」
「数えてんじゃないわよ!!」
*
「ただ」
ツムグが、指を立てた。
「言っとくけど、本番の弓じゃないからね」
「え?」
「試作」
彼女は、あっさり言った。
「あんたが、そもそも引けるかどうか、まだ分かんないでしょ。引けない奴のために、四十二本ぶんの弓なんか作らないよ」
「言い方!!」
「事実でしょ」
ツムグは、インゴットを担ぎ直した。
「まず、試す。……うちに、古い弓がある。それに、ミスリルの芯を一本だけ入れる」
「古い弓?」
「壊れても惜しくないやつ」
*
俺は、その言い方が、少しだけ、引っかかった。
「壊れても、いいんですか」
「よくないけど」
ツムグは、そっぽを向いた。
「……どうせ、途中だし」
*
「残りは、鏃」
彼女は、話を変えるように、続けた。
「鏃?」
「先っぽ。矢の。……あれだけミスリルなら、たぶん、属性が乗る。弓が魔力を通して、鏃が受ける」
「軸は?」
「木でいい。使い捨てなんだから」
彼女は、顔を上げた。
「鏃なんて、爪くらいの大きさだよ」
*
クラインさんが、しゃがみ込んだ。
「……インゴット一本で、何本作れる?」
「数えたことないけど」
ツムグは、少し考えた。
「たぶん、百は」
「百」
「うん」
クラインさんが、俺たちを見た。
そして、床のインゴットを見た。
「四十二本ある」
「うん」
「……四千二百本だ」
*
沈黙。
「一生、撃てるじゃん!!」
ジェスが叫んだ。
「撃たないわよ!!」
クーリが叫び返した。
「なんでよ! 撃てよ!」
「四千二百回も何を撃つのよ!!」
「魔物!」
「そんなにいないわよ!!」
『——この穴なら、いるかと』
ナナが言った。
クーリが、固まった。
「…………」
「クーリ?」
「……いるわね」
彼女は、天井を仰いだ。
「五十歩に三回、出るもんね」
*
「よし」
ジェスが、輪を指した。
「帰るか!」
「帰る」
ツムグが、インゴットを担いだ。
「先に上、戻っていい? 弓、作りたい」
「今!?」
「今!!」
「まだ十階だぞ! 下、あんだろ!」
「穴は逃げん」
ツムグが言った。
*
ヤンさんの足が、止まった。
ツムグが、振り返る。
「何」
「……いや」
彼は、少しだけ、口を閉じた。
そして、歩き出した。
「行くぞ」
*
ポータルを抜けた感覚は、一歩、段差を踏み外したのに、床があった、という感じだった。
気がつくと、坑道の入口に立っていた。
九階ぶんが、消えていた。
「……うわ」
クーリが、自分の足元を見ている。
「歩いてない」
「歩いてないですね」
「歩いてないのに、いる」
「いますね」
「なんか、ずるくない?」
「ずるいです」
「認めた!!」
*
坑口を出た。
日の光が、目に刺さった。
そして——静かになった。
*
穴の中では、ずっと誰かが喋っていた。ジェスが叫んで、ツムグが怒鳴って、クーリが笑って、クラインさんが何か言い続けていた。
外へ出た途端。
誰も、何も、言わなかった。
風が、吹いていた。
草の匂いがした。遠くで、鳥が鳴いていた。
*
「……なあ」
ジェスが、言った。
「俺たち、何やってた?」
「宝箱、十二個開けたわ」
クーリが答えた。
「魔石、五十」
「ゴーレム、四体」
「守護者、一体」
「金の宝箱」
「ミスリル、四十二本」
*
沈黙。
「……二日で?」
「二日で」
*
「……おかしくない?」
クーリが言った。
声が、少し、裏返っていた。
「おかしいわよね!? 今、あたし、おかしいって思ってる!」
「おかしいですよ」
俺が言うと、全員が振り返った。
「今、おかしいって言った!?」
「言いました」
「なんで中で言わなかったのよ!!」
「……なんででしょう」
俺は、答えられなかった。
本当に、答えられなかった。
*
「ダンジョン酔い、かもしれない」
クラインさんが言った。
眼鏡を外して、袖で拭いている。
「え?」
「ダンジョンに長くいると、判断が緩む、という説がある。恐怖の閾値が上がって、疑うことをしなくなる、と」
「じゃあ、それでしょ」
「分からない」
彼は、眼鏡をかけ直した。
「あるいは、単に、僕ら全員が興奮していただけかもしれない。……そっちの方が、有り得る気もする」
「どっちなのよ」
「分からないよ」
クラインさんは、そう言った。
「学者が言えるのは、ここまでだ。……理由は分からない。ただ、判断が緩んでいたのは、事実だ」
「お兄ちゃん」
「うん」
「四回言ったわよ、『まあいいか』って」
「……四回だと思っていた」
「五回よ」
クラインさんは、しばらく黙った。
そして、両手で顔を覆った。
「五回」
*
ヤンさんは斧槍を担いだまま、坑口を見ていた。
*
家へ着いたのは、昼過ぎだった。
鍛冶場の炉には、火が入っていた。
バクが、背を向けて座っている。何か細かい物を打っていた。
ツムグが、戸を開けた。
「ただいま」
「早いな」
バクは、振り返らなかった。
「早かった」
「何日潜った」
「2日」
バクの鎚が、止まった。
「……二日」
「うん」
*
「ナナ」
ツムグが言った。
「出して」
『はい』
*
土間へ、銀が降った。
一本。二本。三本。
積み上がっていく。
角が立って、面が平らで、日の入らない土間の中で、それだけが光っていた。
十本を過ぎた頃、バクが振り返った。
*
そして、動かなくなった。
*
長かった。
鎚を握ったまま。中腰のまま。
積み上がるそれを、ただ、見ていた。
誰も、何も言わなかった。
さっきまで、ジェスは何か言おうとしていた。たぶん、自慢しようとしていた。
言わなかった。
*
四十二本目が、置かれた。
バクは、鎚を、金床へ置いた。
そして、言った。
「……何をした」
*
低い声だった。
怒っているのではない。
驚いているのでも、ない。
——分からない、という声だった。
*
「ミスリルゴーレムを、倒しました」
俺が言うと、バクは俺を見た。
「十階の、守護者です」
「二日でか」
「二日で」
「……坑道の底まで、二日か」
「はい」
バクは、また、その山を見た。
しばらく、見ていた。
そして、ツムグを見た。
「怪我は」
「無い」
「そうか」
それだけ、聞いた。
*
「一つ、聞く」
バクが言った。
クラインさんへ、向いていた。
「はい」
「全部で、いくらだ」
クラインさんは、答えなかった。
すぐには。
やがて、静かに言った。
「……王都の大工房が、数年かけても、集められない量です」
*
土間が、静まった。
「え」
クーリが、変な声を出した。
「……あたし、六本も持ってるんだけど」
「持っているね」
「返した方がよくない!?」
「誰にだい」
「え」
クーリは、口を開けたまま、固まった。
「……誰に?」
*
「そこだ」
バクが言った。
「売れる先が、無い」
「え?」
「買える奴が、いねぇ。町で一つ売っても、一本が精々だ」
彼は、その山を、顎で示した。
「これは、宝じゃねぇ」
「じゃあ、何ですか」
「爆弾だ」
*
「表へ出すな」
バクは、そう言った。
「全部だ。一本もだ」
「え、でも」
ジェスが言いかけた。
「売れば、一生——」
「市場へ一本出してみろ」
バクは、彼を見た。
「その日のうちに、国中の商人が集まる。次の日には、どこの誰が持ってるか、山向こうまで知れ渡る。……坊主、お前、鍛冶屋の隣で、寝られなくなるぞ」
ジェスの口が、閉じた。
*
「ナナ」
バクが言った。
『はい』
「そいつは、しまえるか」
『はい』
「どこへ」
『説明が困難です』
「熱いのか」
『熱い、という状態がありません』
「盗れるか」
『——』
ナナは、少し、間を置いた。
『わたしを、盗まない限りは』
*
バクは、しばらくナナを見た。
そして、頷いた。
「しまっとけ」
『はい』
銀が、消えた。
一本ずつ。
土間が、また、ただの土間へ戻った。
*
「王には」
クラインさんが聞いた。
「まだ言うな」
「まだ、ですか」
「まだだ」
バクは、炉へ向き直った。
「そいつがどこから出たか、何に使えるか、こっちが分かってねぇ。分かってねぇ物を、王の前へ出すな」
「分かったら?」
「その時に、言う」
彼は、火を掻いた。
「隠し通す気はねぇ。あいつは、そういうのを一番嫌う男だ。……ただ、順番がある」
「順番」
「先に、こっちが分かる。それから、言う」
*
「あの人、買おうとしますかね」
俺が聞くと、バクは少しだけ、鼻を鳴らした。
「する」
「即答ですね」
「あいつは、良い物を見たら、金を払おうとする。それしか知らん男だ」
彼は、鎚を握り直した。
「値をつけさせる前に、こっちが値を知っとかにゃならん。……でなきゃ、あいつが払いすぎる」
*
その夜、誰も、あまり喋らなかった。
飯は、ツムグが作った。格納したのではなく、その場で。
「……あれ、美味しかったのに」
クーリが言った。
「熱いままのやつ」
「あれは、穴の中の飯だから」
ツムグは、鍋を掻き回しながら言った。
「家じゃ、作りたてを食えばいいでしょ」
*
翌朝。
ツムグが、鍛冶場の壁の前に立っていた。
見上げている。
*
そこに、それは掛かっていた。
長かった。
天井まで、届いていた。
黒い漆が塗ってあって、ところどころ、剥げている。竹だった。何枚も貼り合わせてある。真ん中に木を挟んで、外と内を竹で挟んで、それを籐で巻いて、また漆で固めて。
弦は、張っていなかった。
*
「……でかいな」
ジェスが言った。
「でしょ」
「これ、弓なのか?」
「らしいよ」
ツムグは、それを見上げたまま言った。
「あたし、ずっと飾りだと思ってた」
*
「母さんが、作ったんですか」
俺が聞くと、彼女は、少し、口ごもった。
「……作った、っていうか」
「え?」
「作ろうとしてた、やつ」
*
彼女は、その弓へ手を伸ばした。
籐の巻いてあるところを、指で撫でる。
「ここ、三回巻き直してる」
「分かるんですか」
「分かるよ。下に、古いのが残ってる。……解いて、巻いて、また解いて」
彼女は、手を離した。
「たぶん、納得してないんだ。ずっと」
*
「刀と、同じ?」
俺が言うと、ツムグは、こっちを見た。
そして、少しだけ笑った。
「そう」
「同じですか」
「同じ。……あれも、途中なんだ」
*
彼女は、また、弓を見上げた。
「母さん、弓師じゃないんだよ。刀鍛冶だもん。竹の仕事なんて、知るわけない」
「じゃあ、なんで」
「知らない」
ツムグは、肩をすくめた。
「聞かなかった。……あたし、あれ、飾りだと思ってたから」
*
俺は、それを、見ていた。
——見たことがある。
高校の、隣の道場で。
弓道部が、朝、そこで引いていた。俺たちが竹刀を振っている、その隣で。
音が、しなかった。
剣道場は、うるさい。踏み込む音。声。竹刀の当たる音。ずっと何かが鳴っている。
弓道場は、静かだった。
たまに、ぱん、と乾いた音が一つして、それきり、また静かになる。
俺は、その音を、覚えている。
*
「握るところが、真ん中じゃないんですね」
俺が言うと。
ツムグの手が、止まった。
*
「……何て?」
「え」
「今、何て言った」
「握りが、下から三分の一のところにあるなと」
*
ツムグが、こっちを向いた。
「なんで知ってるの」
「え」
「あんた、なんで知ってるの」
*
「……見たことがあるので」
「どこで」
「学校で」
「学校?」
「隣で、やってたんです。毎朝」
*
ツムグは、しばらく、俺を見ていた。
そして、言った。
声が、少しだけ、変わっていた。
「じゃあ」
「はい」
「引き方も、知ってる?」
*
俺は、答えるのに、少しかかった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「形だけです」
俺は、正直に言った。
「見てただけなので。教わったことは、ありません」
「いい」
ツムグは、そう言った。
「見せて」
*
弦は、家にあった。
木箱の底に、油紙に包まれて、一本だけ。
「これ、最後の一本」
ツムグが、それを解きながら言った。
「三本、あったんだ」
「三本」
「うん。……使ったのが、二本」
彼女は、その糸を、指で挟んだ。
「母さん、一人で試してた。誰にも見せないで」
「見せない?」
「うん」
彼女は、少し、笑った。
「……たぶん、恥ずかしかったんじゃない? 出来が悪くて」
*
「あんた、母さんが引いてるとこ、見たことある?」
彼女は、そう聞いてから、自分で首を振った。
「あたしも、無い」
「一度も?」
「一度も」
彼女は、その弦を、光にかざした。
「音、聞いたことないんだよね。あの弓の」
*
張るのに、四人がかりだった。
ヤンさんが弓を押さえて、ジェスが下を踏んで、ツムグとクラインさんで、弦を掛けた。
「硬っ!!」
「これ、弓か!? 丸太じゃねぇのか!?」
「弓だよ!! たぶん!!」
*
弦が、掛かった。
弓が、しなった。
——形が、変わった。
さっきまで、ただの長い棒だった。
弦が入った途端、それは、弓になった。
反っている。上と下で、反り方が違う。握りのところで、ねじれるように。
「……綺麗」
クーリが、小さく言った。
*
「まず、あたし」
ツムグが、手を伸ばした。
「あんた、引けないでしょ」
クーリが言う。
「うるさい! あたしの母さんの弓だよ!」
*
彼女は、弓を、立てた。
背より、二尺は高かった。
握りを持って、矢を——番える場所が分からず、俺を見た。
「右です」
「右?」
「弓の、右側へ」
「左じゃないの?」
「左は、たぶん、別のやり方です」
「別の!?」
「……たぶん」
*
ツムグは、矢を右へ置いた。
そして、弦を引いた。
*
引けた。
——十寸ほど。
そこで、止まった。
「あれ」
もう一度。
肩が動いた。腰が入った。十九年、鎚を振ってきた背中の筋肉が、全部、そこへ集まった。
十二寸。
そこで、止まった。
*
「……あれ?」
彼女は、弦を戻した。
そして、もう一度、構えた。
「引けよ!!」
引けなかった。
「なんで!! 力なら、あたし、そこらの男より——」
*
「ツムグさん」
俺は、言った。
「はい?」
「もっと、後ろまで引くんです」
「後ろ?」
「たぶん、耳のところまで」
「耳!?」
「はい」
「そんなに!?」
「そんなにです」
*
ツムグは、弓を持ったまま、動かなくなった。
そして——手を、自分の耳へ当てた。
もう一方の手は、弦を持ったまま。
*
その、間を、見た。
*
「……足りない」
「はい」
「どのくらい」
彼女は、指を、その隙間へ入れた。
一本。二本。三本。
「……五寸」
*
そして、動かなくなった。
*
「ツムグさん?」
「……あのさ」
「はい」
「母さん、五尺五寸だった」
*
俺は、何も言えなかった。
「あたし、四尺半」
彼女は、その弓を見上げた。
「一尺、違う」
*
——ああ。
俺は、その時、ようやく分かった。
この人は、今、鍛冶をしている。
物を見て、寸法を測って、そこから、作った人間の身体を読んでいる。
二十五話で、俺の剣を見て、研いだ奴を当てた時と、同じことを。
自分の母親の、弓で。
*
「これ」
ツムグが、言った。
「母さんの、寸法だ」
*
誰も、何も言わなかった。
「そりゃ、引けないわ」
彼女は、弓を、少しだけ下ろした。
「そりゃ、引けないよ。……母さんの背丈で作ってあるんだもん」
*
「あたし」
小さな声だった。
「十九年」
「はい」
「ずっと、力が足りないんだと思ってた」
*
俺は、何も言えなかった。
「毎日、鉄を叩いて。父さんより速く振れるようになって。それでも、あの弓は、びくともしなくて」
彼女は、笑った。
「あたしが、弱いからだと思ってた」
*
「違います」
「うん」
「腕が、短いんです」
「殴るぞ!!」
*
「殴っていいですか」
クーリが手を上げた。
「あんたは駄目!!」
「なんでよ!!」
「あんたが殴ると、洒落にならない!!」
*
「じゃあ」
ツムグが、弓を突き出した。
「あんた、やって」
俺は、受け取った。
*
重かった。
見た目より、ずっと。
俺は、道場で見た形を、思い出そうとした。
まず——構える。足を、開く。
どのくらい開いていたか、覚えていない。
そして、弓を、頭の上へ。
そうだ。あの人たちは、一度、頭の上まで上げていた。あれが、一番、目立った。だから、覚えている。
上げて。
そして、引き下ろす。
*
引けた。
耳まで。
「うそ!!」
ツムグが叫んだ。
「引けんの!?」
「引けますね」
「なんでよ!!」
「腕が、長いので」
「殴るぞ!!」
*
俺は、そのまま、少し止めた。
——止めるんだ。
あの人たちは、ここで、しばらく止まっていた。
弦が、震えている。腕が、震えている。
的は、鍛冶場の向こうの、板を立てかけたところ。
十歩くらい。
*
放した。
*
ぱん、と音がして——
矢は、板の、四尺くらい上を飛んでいった。
そのまま、裏の垣根へ刺さった。
*
「…………」
「…………」
「へたくそ!!」
ツムグが叫んだ。
「すみません」
「十歩だよ!? 十歩で外す!?」
「外しました」
「なんで!?」
*
俺は、弓を見た。
「……見てただけなので」
*
そう言うと、彼女は、口を閉じた。
「見てただけの奴が、引けて。毎日鎚振ってる奴が、引けなくて。……それで、当たらない」
「はい」
「何なの、この弓」
「難しいんだと思います」
「難しすぎるでしょ!!」
*
「あたし、やる」
*
クーリが、手を出した。
「あんた、弓、初めてでしょ」
「あんたもでしょ」
「あたしは母さんの——」
「引けなかったじゃない」
「うるさい!!」
*
彼女は、弓を受け取った。
そして、立てた。
*
構えた瞬間、俺は、少し、変な気がした。
うまく言えない。
——形が、違った。
俺のは、思い出しながら作った形だった。頭の中の絵に、体を合わせにいく形。
彼女のは、そうじゃなかった。
弓を持ったら、体が、勝手にそういう風になった、という形だった。
「矢は、右です」
「うん」
「頭の上まで、上げてから——」
「うん」
*
上げた。
引き下ろした。
*
——止まった。
半分のところで。
「あ」
クーリの肩が、震えた。
「重っ……!」
「そりゃそうだ!」
ツムグが叫んだ。
「四人がかりで張ったんだよ!!」
*
彼女は、引かなかった。
戻しもしなかった。
そのまま、止まっていた。
腕が、震えている。肩も。指も。弦を持った手の、指の先が、白くなっていた。
歯を、食いしばっていた。
*
「クーリ」
ジェスが言った。
「無理すんな」
「うるさい」
*
弦が、動いた。
——ほんの少し。
指一本ぶん。
*
止まった。
*
また、動いた。
*
「…………」
誰も、何も言わなかった。
*
顎の下を、通った。
*
喉のところで、また止まった。
長かった。
彼女の背中が、震えていた。
「……くっ」
*
そして。
*
——耳の横まで、来た。
*
ツムグが、動かなくなった。
*
「……届いてる」
*
クーリの腕は、細かった。
細くて、長かった。
肘から先が、俺より、たぶん、指三本ぶんくらい長い。
「あんた」
ツムグが、言った。
声が、変だった。
「腕、長いね」
「うる、さい……!!」
「褒めてる」
*
——半端。
俺は、その言葉を、思い出していた。
この国へ来た日、この娘が、俺たちを見て言った言葉だ。
**人族が四。半端が二。**
クーリが噛みついて、ツムグが「文句なら国に言って」と言った。
その、半端の腕が。
今、届いていた。
十九年、誰も届かなかったところへ。
*
「クーリ」
ツムグが、言った。
「離して」
「まだ、狙って——」
「離して!!」
*
放した。
*
ぱん。
*
乾いた音が、一つした。
*
俺の、知っている音だった。
朝の、静かな道場から、一つだけ聞こえてくる、あの音だった。
*
矢は、板に刺さっていた。
真ん中ではない。端の方だ。
それでも、刺さっていた。
*
「……当たった」
クーリが、呆けた顔をした。
腕が、まだ震えている。
「当たったわよ!! ねえ、当たった!!」
「うるさい!!」
「褒めなさいよ!!」
*
ツムグは、答えなかった。
板を見ていなかった。
弓を、見ていた。
クーリの手の中の、それを。
*
「……鳴った」
*
小さな声だった。
「え?」
「あの弓」
彼女は、そこから、目を離さなかった。
「鳴るんだ」
*
俺は、その時、ようやく分かった。
——この娘は、あの音を、聞いたことがなかったのだ。
生まれてから、十九年。
壁に掛かっていた。長くて、黒くて、綺麗で、誰にも引けなかった。
母親が使っているところを、見たことがない。
三本のうち、二本の弦を使い切るまで、あの人は、一人で試して——
たぶん、最後まで、納得しなかった。
だから、誰にも見せなかった。
だから、あれは、飾りだった。
*
「母さん」
ツムグが、言いかけた。
そして、口を閉じた。
続きは、言わなかった。
*
——ぶつっ。
*
嫌な音がした。
*
弦が、切れていた。
*
「あ」
クーリが、固まった。
「あ、あの、ごめん、あたし——」
「いい」
*
ツムグは、切れた弦を、拾い上げた。
指で、断面を撫でる。
「二年、置きっぱなしだったから」
「でも」
「一本しか無かったんだよ。……最初から、一回ぶんだった」
彼女は、それを、丁寧に丸めた。
そして、木箱へ戻した。
*
蓋を、閉じる。
*
「一回、鳴った」
「うん」
「十分じゃん」
(第二十九話「鳴った」・了)




