# Re:sou 第三話「魔術師」
まぁいずれ主人公は強くなる予定で話は進むはずですので、宜しければ気長にお付き合いいただければ幸いです。
目が覚めても、天井は屋根裏のままだった。
「……続いてる」
寝落ちで強制ログアウト、は無いらしい。
むしろ、夢ひとつ見ないくらい熟睡した。
ゲームの中で快眠って何だよ。
小窓から差す光は、まだ青い。
日の出前に起きろ、と言われたのを、体の方が覚えていたらしい。
梁に手が届きそうな低い天井。
昨日はあれだけ不安だったのに、朝になってみれば、腹が減っているだけだった。
人間、単純だ。
木箱の上の制服には、手を触れなかった。
麻の上下に袖を通す。
ごわつくけれど、動きやすい。
袖を通した瞬間に、なんとなく、今日から従業員なんだなと思った。
*
朝は水汲みから始まった。
井戸は宿の裏手にある。
滑車の縄は、昨日と手触りが違った。
結び目が、変わっている。
昨日の夜、ヤンさんが黙って直していったやつだ。
試しに引いてみる。
——軽い。
嘘だろ。同じ井戸で、同じ桶なのに。
縄が、手の中で滑らない。
汲み上げた桶は、一滴もこぼれなかった。
「多いな」
背後からヤンさんの声がした。
「桶は八分目でいい」
「え。こぼさないように、なるべく——」
「溢れさせるのは、運ぶ力より、置く力が下手なだけだ」
「……はい」
妙に含蓄のあることを言う。
宿屋の水汲みに人生訓を混ぜないでほしい。
いや、たぶん本当に水汲みの話なんだろうけど。
*
それから床拭き、皿洗い、薪割り。
ヤンさんの指示は的確で、容赦がなかった。
無駄な怒鳴り声はない。
ただ「そこは違う」「もう一度」「力を入れる場所が逆だ」と、短い言葉が飛んでくる。
床拭きは、雑巾を絞るところからやり直しになった。
「絞りが甘い。木が水を吸う」
「はい」
「板は縦に拭け。目に沿って」
「はい」
板の目に沿って拭くと、確かに、雑巾の進みが違った。
昨日ここへ入った時、床が道場みたいに光っていた理由が分かった。
毎日、この手順を踏んだ人間が、何年か分いるだけの話だ。
楽ではない。
だが、不思議と理不尽ではなかった。
昨日の爺さんの言葉を思い出した。
——優しいが、甘かねぇ。
……なるほど。
三日で逃げ出す奴がいるのも、分かる気がする。
もっとも、逃げ出す先が無い。
途中で一度、こっそり「メニュー」と呟いてみた。
白い枠は、律儀に開いた。
名前、レベル、種族。
昨日と、一文字も変わっていない。
労働はレベルに反映されないらしい。
世知辛い。
*
朝飯どきの食堂は、夜とは別の生き物だった。
客は無言で、速い。
パンを二つに割って汁に浸し、立ったまま食っていく者もいる。
荷を担いだ男が、扉のところで一言だけ言った。
「行ってくる」
「気をつけろ」
それだけの会話が、五組続いた。
全部、同じ形をしていた。
誰も「いってらっしゃい」とは言わない。
この宿は、たぶん、そういう宿なんだろう。
配膳も手伝った。
皿を三枚重ねて運ぼうとして、途中で一枚が滑った。
落ちる前に、横から手が出て、受け止められた。
ヤンさんだった。
「二枚だ」
「……はい」
「三枚持てるようになってから、三枚持て」
順番が逆だと思ったが、逆じゃないんだろう。
*
薪割りは、裏庭でやった。
昨日、物干し場だと言われた場所だ。
物干し縄は、確かに張ってあった。
ただ、洗濯物は一枚も干していなかった。
最初の一振り。
狙った位置から、指一本ぶんずれた。
二振り目も、また少しずれる。
剣道であれだけ「面!」の一点を打ち込んできたのに、刃先が思った所に落ちない。
腕力の問題じゃない。
もっと細かい、狙いの精度みたいなものが、この体だと妙に鈍い。
(アバターの感度が、俺の感覚と合ってないのかな)
振りかぶった時、ふと、顧問の声が浮かんだ。
——お前は打つのが速い。だが、止めるのが下手だ。
三年が引退した、あの日の道場。
汗が目に入って、意味もよく分からないまま「はい」と返事をした。
……あれ、こういう意味だったのか?
いや、こじつけだろ。剣道と薪は違う。
三振り目で、ようやく薪が割れた。
乾いた音がして、二つに裂けた薪が左右に転がる。
俺はそれ以上、深く考えなかった。
動く。割れる。じゃあ問題なし。
テスターとしては及第点だ。
細かい狂いは、慣れの範囲。
そう処理して、次の薪を立てた。
三十本を過ぎたあたりで、手のひらの皮が、じんわり熱くなった。
見ると、親指の付け根が赤い。
竹刀だこの位置と、微妙にずれていた。
道具が違えば、潰れる場所も違うらしい。
*
昼飯——昨日の煮込みの残り。やっぱりうまい——を終えた頃、ジェスが来た。
「クラインとこ、行くぞー」
「近いですよね」
「近ぇよ」
ジェスは午前中、街道の護衛の下働きをしてきたらしい。
「一日歩いて、大銅貨三枚だ。悪かねぇ」
「魔物は」
「出ねぇよ。出たら、もっともらってる」
依頼というのは、そういう値段の付き方をするものらしい。
*
昼の長屋は、夜と顔が違った。
戸という戸が開け放たれて、風が通り抜けている。
どこかの軒先で、猫が伸びていた。
路地を出て、十歩。
二軒先の戸の前で、ジェスが足を止めた。
昨日、匂いだけ嗅いだ戸だ。
立てかけられた板には、やっぱり読めない字が書いてある。
ジェスは、断りもなく開けた。
鈴が鳴って、古い紙の匂いが、どっと押し寄せた。
天井まで、本、本、本。
棚に収まりきらない本が床に塔を築いている。
窓辺には、読みかけらしい一冊が伏せて置かれていた。
埃と、乾いた革と、インクの匂い。
光は薄く、舞う塵が金色に光っている。
図書館というより、本の地層だった。
背表紙を、目で追ってみる。
やっぱり一冊も読めない。
一冊だけ、表紙に星の並びの絵が描いてあった。
星図らしい。それだけは、何の本か分かった。
「これ、全部読めるんですか」
「読める」
「全部?」
「この店にあるものはな」
なら、読めない字もあるってことか。
昨日の帳面と、竈の灰を思い出して、俺は口を閉じた。
書くな、と言われている。
壁に、細い杖が一本立てかけてある。
その隣に、細身の剣。
どちらも、本の陰で薄く埃をかぶっていた。
「いらっしゃい。……なんだ、ジェスか」
本の塔の陰から、涼しい声がした。
「珍しいな。お前が表から入ってくるなんて。字、読めるようになったのか」
「開口一番がそれかよ」
*
声の主が姿を見せた。
俺は数秒、固まった。
銀色がかった、水色の長い髪。
朝の霧に光を混ぜたような色だった。
肩を越えて流れる髪は細く、けれど、どこか冷たい光沢がある。
澄んだ青い目。
そして、耳が——長い。
ただし、昨日見たエルフたちほどではない。
控えめに尖った、けれど人間のものではない耳。
(ハーフエルフだ……!)
ファンタジーの華である。
いや、本人の前で華とか思うな俺。
昨日、通りで見た二人のエルフを思い出す。
豪快に笑って値切っていた片方と、絵画のように静止していた片方。
目の前の彼は、そのどちらとも違った。
ちょうど、あの二人の間くらいの温度だ。
整ってはいる。とんでもなく整ってはいる。
だが、そこにちゃんと体温がある。
静かで、柔らかくて、それでいて油断すると内側まで見透かしてきそうな目だった。
俺の視線に気づいたのか、彼は薄く笑った。
「ハーフエルフは初めてか」
「あ、はい。すみません」
「素直だな。……ふぅん」
彼は俺を上から下まで眺めた。
嫌な感じはしない。
ただ、値札のない古書を鑑定するような目だった。
*
「あの。昨日、通りでエルフを二人、見たんですけど」
「ああ」
「二人、なんか……全然、違って見えて」
クラインは、本を棚へ戻す手を止めもしなかった。
「感情の無いのがハイエルフ。大袈裟なのがエルフ」
「……それだけですか」
「それだけだ。分かりやすいだろう」
あんまり分かりやすくて、逆に不安になった。
「じゃあ、ハーフは」
「もう片っ方の血による」
そこで初めて、クラインはこっちを見た。
見て、笑った。
その笑い方が、何かをきっちり閉じる形をしていたので、俺はそれ以上聞かなかった。
*
「君が、噂の『拾いもの』」
「カイです。よろしくお願いします」
「クライン。しがない古本屋で、一応、魔術師だ」
「『一応』じゃねぇよ。こいつ、こう見えて腕は立つんだぜ」
「『こう見えて』は余計だ、脳筋」
軽口の応酬に、幼馴染の年季を感じる。
「で? 冷やかしじゃないんだろう」
クラインはジェスではなく、俺を見た。
「こいつが魔法を知りたいんだと。基礎から頼むわ」
「俺が教えると全部身体強化になっちまう」
「お前のは教えるんじゃない。ただの筋トレだ」
「身体に覚えさせるって意味では合ってんだろ」
「それは学問に対する侮辱だ」
クラインは本の塔をふたつ動かして、埋もれていた椅子を発掘した。
本屋で椅子が発掘されるという表現を使う日が来るとは思わなかった。
俺を座らせると、クラインは細い指で机の上を軽く払った。
埃が舞う。
その所作ひとつで、雰囲気が変わった。
さっきまでの、幼馴染に毒を吐く顔ではない。
教師の顔だ。
心なしか、楽しそうでもある。
ああ、この人、講義が好きなタイプだな。
*
「まず。この世界には〈マナ〉が満ちている」
クラインは静かに言った。
「目に見えない霧のようなものだ。どこから来るのか、なぜ在るのか——それは誰も知らない」
「教会では『神々の恵み』と説く。『世界の息』と呼ぶ学者もいる」
「言い方は違うが、結局のところ同じだ」
彼は机の上に、指先で小さな円を描いた。
「人は、マナなしには魔法を使えない」
「魔法とは、このマナに『式』を刻み、望む事象を起こす技術だ」
(マナ=魔力資源ね。はいはい、基本仕様)
「事象には、系統がある」
クラインは指を折りながら並べた。
「日、月、火、水、木、金、土。それに、無」
「八つだ。土地によって出やすいもの、出にくいものがある」
曜日か。
いや、七曜だから、まあ、そうか。
運営、そこは日本語のまま持ってきたんだな。
「式の刻み方は、大きく三つに分けられる。起点。座標。事象」
クラインは指を三本、立てた。
「自分を起点にする。どこで起こすかを定める。そこで何を起こすかを組む」
「火なら火の理、水なら水の理」
「ただし、これを毎回頭の中で一から組むのは大仕事だ。だから——」
二本を折り、一本だけ残す。
「短縮がある。詠唱だ」
背後で、ジェスが小さく欠伸をした。
「おい脳筋。寝るなら外で寝ろ」
「聞いてるって」
「今、何の話をしていた」
「……マナが、こう、ぶわっと」
「出ていけ」
それから、思い出したように、小指をもう一本立てた。
「そして、結句」
「結句?」
「式に封をする名だ。これを置くと、組んだ式が固まって、暴れなくなる」
「初級なら、無くても点く。だが作法としては、四つで一つだ」
*
クラインはすっと息を吸った。
そして、歌うように唱えた。
「——万象の源たるマナよ、我が指先に小さき火を灯せ」
最後に、短く。
「灯火〈イグニッション〉」
指先に、蝋燭ほどの火が、ぽ、と点った。
「おお……」
声が出た。
初めて見る魔法だ。
CGでもエフェクトでもない。少なくとも、俺の目にはそう見えない。
熱がある。揺らぎがある。
指先に生まれた小さな火が、クラインの青い瞳に反射している。
素直に感動した。
感動したのだが——それとは別のところで、俺は固まっていた。
(今の詠唱……全部、意味わかるんだけど)
というか、普通に日本語じゃん。
しかも、やたら分かりやすい日本語だ。
誰が読んでも間違えないように書いた、注意書きみたいな文章だった。
*
「詠唱は古の言葉だ」
クラインは火を消しながら続けた。
「意味は誰も知らない」
「『こう唱えればこうなる』——そういうものとして、丸暗記で受け継がれている」
「ただ、発音がとにかく難しい。半分も正しく発音できれば、一人前だ」
「上級の神官や魔術師は、この発音を保つためだけに何年も費やす」
「……こう、ですか」
俺はさっき聞いた言葉を、そのまま口にした。
「——万象の源たるマナよ、我が指先に小さき火を灯せ。灯火〈イグニッション〉」
言い慣れた言葉で、普通に、言った。
火は、点かなかった。
当たり前だ。真似しただけだし。
だが、クラインの笑みの方が、止まっていた。
「…………今、一度聞いただけだな?」
「え? はい」
「完璧だ」
声が、少し低くなる。
「発音が。……長老級の神官より綺麗だ」
「はあ。……どうも?」
え、何。
褒められてる……のか?
空気が変だ。
ジェスまで真顔になっている。
さっきまで本の塔にもたれて、堂々と船を漕いでいたのに。
*
「……次だ」
クラインは机に置いてあった薄い金属皿を、俺の前へ寄せた。
「目を閉じて、火を思い浮かべてみろ。マナを感じるんだ」
「——と言っても、普通は感じられるまで数週間は」
言われた通り、目を閉じた。
霧のようなもの。世界に満ちているもの。
……何も、感じない。
空気は空気で、皮膚は皮膚だった。
目を閉じても、暗いだけだ。
まあ、初日だしな。
仕方ないので、とりあえず火の方を思い浮かべた。
火。
ライターの火。
親指の先に、これくらいの。
ぽ。
俺の指先で、火が点いた。
「…………………」
「…………………」
沈黙。
クラインの手から、本が滑り落ちた。
床に落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
「え。あれ? すみません、勝手に。——のとおりに、やっただけで」
「……また訛った」
クラインは小さく呟き、それから首を振った。
「いや、それより。詠唱は? 式は?」
「え? ……要るんですか?」
「待て。マナは」
「マナ?」
「感じただろう。霧のような。肌に触る、あの」
俺は正直に答えた。
「……いえ。何も」
クラインの口が、半分開いたまま止まった。
クラインが、ゆっくりと額を押さえた。
「無詠唱。外部式なし。初見で」
「……ジェス」
「お、おう」
「お前、何を拾ってきた」
「知らねぇよ!? 俺が聞きてぇよ!」
*
それからクラインは、矢継ぎ早に注文を出した。
消せ。
点けろ。
大きく。
小さく。
色を変えろ。
右手から左手へ。
二つに増やせ。
片方だけ消せ。
皿の上に置け。
置いたまま、手を離せ。
全部、思った通りになった。
だってゲームだし。
むしろ、この程度で驚かれるほうが困る。序盤も序盤だぞ。
火を出すだけでここまで大騒ぎされたら、上級魔法のチュートリアルはどうなる。
ただ——ひとつだけ、妙なことがあった。
「炎を、蝋燭ほどの大きさで、一定に保て」
言われて、火を灯す。
灯るには、灯った。
だが、その炎が、ゆらゆらと揺れた。
大きくなったり、小さくなったり、俺の意図と無関係に、勝手に脈打つ。
「一定」が、できない。
点けるのも消すのも思いのままなのに、「同じ大きさで留める」という、
ただそれだけが、指の間からこぼれ落ちる。
「……あれ?」
「どうした」
「いや、大きさが、揃わなくて」
俺は炎を睨んで、意識を集中した。
それでも炎は、落ち着きのない子供みたいに、ちらちら揺れ続けた。
薪割りのときの、あの「指一本ぶんのずれ」と、同じ感触だった。
できる。
なのに、細かいところで、合わない。
——打つのが速い。だが、止めるのが下手だ。
今朝、裏庭で思い出した声が、もう一度、耳の奥で鳴った。
出力の調整が、苦手なんだ。
剣道でも。たぶん、こっちでも。
同じ苦手を、二つの世界にまたいで持ってきたらしい。
*
「……ふぅん」
クラインが、その揺れる炎をじっと見ていた。
何か言いかけて——やめた。
「まあ、些細なことだ」
小さく呟く。
だが、その目は「些細」なんて言葉を、少しも信じていなかった。
「疲労は? 頭痛は。目の奥が重いとか。吐き気は」
「特に、何も」
「……普通、初めてでそれだけ行使すれば、今ので鼻血が出る」
試しに、と言ってクラインが指を振ると、机の上に水の球がひとつ浮いた。
握りこぶしほどの大きさで、中で光が丸く歪んでいる。
「あれも、できますか」
「順番だ」
水球は、皿の上にぱしゃりと落ちて、ただの水になった。
「今日のところは、火だけにしておけ。……頼むから」
クラインは深く、長く、息を吐いた。
それから、目だけで笑った。
さっきまでの教師の目じゃない。
研究者の目だった。
*
「ギルドへ行け」
クラインは椅子の背に体重を預けた。
「測定水晶にかざせば、適合率——魔法の才が、数字で出る」
「……見てみたい。お前の数字を」
「お、それだ」
ジェスが膝を打った。
「カイ、冒険者になれよ。登録すりゃ身分証にもなるし、依頼で稼げる」
「お前なら余裕だって」
身分証。
そういえば俺、「ないです」三連発の男だった。
なるほど、冒険者登録で身元問題も解決、と。
導線が綺麗だなあ、このゲーム。
「じゃあ……明日、行ってみます」
「決まりだな! 登録試験くらい、今のお前なら楽勝——」
「試験の中身も知らない脳筋の太鼓判ほど、あてにならないものはない」
「うっせぇな!」
戸を出るとき、クラインが背中に声を投げてきた。
「カイ」
「はい」
「明日、水晶の数字が出たら、帰りに寄れ」
「いいんですか」
「いいも悪いもない。……気になって、店が開けられん」
困った顔をしていたが、口の端だけは上がっていた。
*
帰り際、クラインが思い出したように付け加えた。
「ああ、ジェス」
「なんだよ」
「クーリが今日もお前のことを聞いていた」
「おう。また今度、稽古つけてやるって言っといてくれ」
「そう言うと思ったから、もう言っておいた」
「先に言うなよ」
「お前はどうせ同じことしか言わない」
クーリ。
ああ、昨日ジェスが言っていた妹か。
「そっちの方がもっとうるせぇ」と評されていた方だ。
この兄にして、と考えて、やめた。
会う前から失礼だ。
*
帰り道は、夕方の通りだった。
朝と同じ道なのに、店の並びがまるで違って見える。
昼にいた露店が消えて、代わりに串焼きの屋台が煙を上げていた。
「すげぇなお前」
ジェスが、いきなり言った。
「え」
「いや、すげぇよ。クラインがあんな顔すんの、久しぶりに見た」
その言い方に、悔しさが一滴も入っていなかった。
自分が何年もかけて身体強化しか身につかなかった話をした直後なのに。
「……嫌じゃないんですか」
「あん?」
「その、俺が、いきなりできたの」
「なんで嫌なんだよ」
本当に分からない、という顔をされた。
「仲間が強ぇのは、いいことだろ」
仲間、と言われた。
昨日会ったばかりなんだけど。
訂正する気にはならなかった。
*
宿に戻ると、ヤンさんはもう厨房にいた。
「行ってきました」
「そうか」
それだけだった。
魔法がどうだったとも、何ができたとも、聞かれない。
ただ、その晩の俺の皿だけ、肉が一切れ多かった。
薪割りの分か、それとも別の何かか。
聞かないでおいた。
*
屋根裏に上がって、布団に座った。
暗がりで、指先に火を点けてみる。
ぽ。
低い天井の梁が、まだらに照らされた。
揺れる。やっぱり、揺れる。
大きくしたり、小さくしたりは、思い通りなのに。
同じ大きさで置いておくことだけが、できない。
「……柾兄」
火に向かって、言ってみた。
「これ、バグじゃないの」
返事は、当然なかった。
火を消すと、部屋は元の暗さに戻った。
消すのだけは、一瞬でできる。
*
その夜。
客の絶えた古書屋で、クラインはひとり、店のいちばん奥の棚の前に立っていた。
灯りは、小さなランプがひとつ。
昼間は雑然として見えた本の塔も、夜になると別の顔をする。
影が棚と棚の隙間に溜まり、古い革表紙の背だけが、光を吸って鈍く光っていた。
クラインは一冊の写本を取り出した。
革の綻びた、古い本だった。
神代の伝承を集めたものだ。
頁をめくる。
紙は乾き、指先だけで崩れそうなほど古い。
——曰く、神代の民は、詠唱を持たず、式を持たず。
——ただ思うことのみによって、マナはその意に従った。
頁をなぞる指が、止まる。
同じ一節を、もう一度読んだ。
それから、三度目を読んだ。
三度読んでも、書いてあることは変わらなかった。
*
昼間の、あの少年の火を思い出す。
何もかもを一瞬でこなし、鼻血ひとつ出さず。
それでいて、炎ひとつを「一定に保つ」ことが、できなかった。
「……力が、器を追い越している」
万能に見えて、細部が追いつかない。
まるで、あまりに大きな力を、あまりに新しい器に、注ぎたてたような。
「まさか、な」
クラインは薄く笑った。
笑って、本を閉じる。
だがその笑みは、すぐに消えた。
閉じた表紙には、彼には読めない文字で、題が刻まれている。
カイならば、こう読めただろう。
——『創世記』と。
ランプの火が、小さく揺れた。
窓の外で、夜風が古書屋の看板をかすかに鳴らす。
クラインは閉じた本に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
まるで、自分が笑い飛ばしたはずの可能性が、まだそこに残っているかを確かめるように。
やがてクラインは、本を元の棚へ戻した。
いちばん奥の、いちばん高い段。
手を伸ばさなければ届かない場所へ、わざわざ戻した。
ランプを吹き消す。
店の奥で、紙の匂いだけが残った。
(第三話・了)
感想評価等お待ちしております。
頑張ります。




