# Re:sou 第四話「測定不能」
夜明け前の井戸水は、手が切れるほど冷たかった。
滑車を回す。縄は、もう手の中で滑らない。
汲み上げて、八分目で止める。
これを覚えてから、廊下に水をこぼさなくなった。
こぼさなくなったら、往復の数が増えた。
世の中はうまくできている。
桶を三往復。竈に火を入れて、床板を、目に沿って拭き上げる。
その頃、ようやく窓の外が白んでくる。
三日目にして、俺の朝はすっかりこの宿の朝になっていた。
厨房からは骨を煮る匂い。今日の煮込みの仕込みだ。
この匂いで腹が鳴るようになったら、もう立派な従業員だと思う。
今日は試験だ、と思うと、少しだけ手が速くなった。
速くなった分、雑巾の絞りが甘くなって、やり直しになった。
「落ち着け」
「はい」
厨房から、顔も出さずに飛んでくる。
どうして分かるんだろう、この人は。
着ていくものは、迷う余地がなかった。
麻の上下、一着きり。
一張羅というより、全財産である。
*
昼までに仕事を片付けると、ヤンさんが銅貨を数枚、カウンターに置いた。
磨き上げた木の天板の上で、硬貨は鈍く光った。
「登録料だ。給金から引いておく」
「……ありがとうございます」
差し引かれるのか、と一瞬思ったが、口には出さなかった。
むしろ、そこを曖昧にしない人でよかった気がする。
「試験は北の洞窟だろう」
ヤンさんはグラスを拭く手を止めずに言った。
この人は、大事な話ほど手を動かしながらする。
「あそこは枯れた遺跡だ」
「何十年も試験に使われてると聞いてる。この辺りで一番安全な穴だ」
「魔物もほぼ出ん。——だが」
布が、きゅ、と鳴って、止まった。
「妙だと思ったら、すぐ戻れ。銅板より命だ」
枯れた遺跡。
聞き慣れない言い回しだったが、俺は頷いた。
「行ったこと、あるんですか」
「昔、通りかかっただけだ」
通りかかる、で片づく距離ではないと思うのだが。
この人の忠告は、聞くものだ。
理屈より先に、そう思わせる声だった。
「あの」
「なんだ」
「ヤンさんは、冒険者だったんですか」
布が、ひと拍だけ遅れて動いた。
「登録はしていない」
「え、でも」
「歩いていただけだ。真似事をな」
真似事、で片づく歩き方ではない気がしたが。
この人は、必要しか答えない。
俺は銅貨を握って、頭を下げた。
*
昼を過ぎた頃、ジェスが戸を開けて顔を出した。
「おう、準備できたか」
「持っていくものが無いので、できてます」
「潔いな」
ヤンさんが厨房から出てきて、布に包んだものを押しつけてきた。
中身は、パンと干し肉だった。
「腹が減ると、判断が鈍る」
試験の心得というより、生き方の話に聞こえた。
*
昼下がりの大通りは、人と荷車と呼び込みの声で満ちていた。
焼き菓子の屋台の甘い匂いに、革と鉄の匂いが混じる。
髭のドワーフが樽を転がし、犬耳の子供がその横を駆け抜けていく。
三日で、この光景に驚かなくなった。
人間の慣れる速度は、たぶん、世界の作り込みより速い。
ジェスは当然のようについてきた。
驚いたのは、クラインまで並んでいたことだ。
「仕入れのついでだ」
「店、開いてました?」
「閉めた」
「昨日、店が開けられんって言ってましたよね」
「だから閉めたと言っている」
理屈が通っているようで、まったく通っていない。
仕入れの荷物も、どこにも無い。
絶対、数字が見たいだけだろ。
*
冒険者ギルドは、大通りに面した石造りの三階建てだった。
両開きの扉は開け放たれ、中から喧騒がこぼれてくる。
一歩入って、俺は思わず立ち止まった。
酒場と役所を足して二で割った空間。
左手には長机が並び、昼から麦酒を呷る革鎧の男たち。
右手の壁は一面の掲示板で、依頼書が鱗みたいに重なって貼られている。
貼られ方に、はっきりと段があった。
下の段の紙はどれも小さくて、字が少ない。
上へ行くほど紙が大きくなり、赤い印の押されたものが交ざる。
いちばん上の段は、二枚しか貼られていなかった。
奥には受付カウンターが三つ。
天井は吹き抜けで、二階の手すりから誰かが下の騒ぎを眺めている。
剣の鞘が椅子にぶつかる音。笑い声。羊皮紙をめくる音。
(ギルドだ……本物の、テンプレのギルドだ……)
掲示板の前まで行って、依頼書を一枚、覗き込んでみた。
読めない。
絵も描いていない。
依頼書というのは、そもそも読める人間に向けて貼られている。
当たり前のことに、当たり前に負けた。
感動していると、ジェスに背中を押された。
*
受付のお姉さんは親切だった。
ただし、登録用紙を前に、俺の手は止まった。
読めない字は、当然、書けない。
「あ、読み書きは大丈夫ですよ。代筆しますね。多いんです、そういう方」
すみません、と頭を下げながら思う。
俺、この世界で一番古い字なら読み書きできるんだけどな。
世界最古の文盲って何だよ。
名前、歳、出身——質問に答えるたび、羽根ペンがさらさらと走る。
出身の欄で答えに詰まったら、「不明でも登録できます」とあっさり言われた。
そういう人が、そこそこ来るらしい。
「身元の保証人は、いらっしゃいますか」
「あー……宿で働いてます。ヤンさんの」
「ヤン、さん」
羽根ペンが、少し止まった。
「北通りの、あの宿の」
「はい」
「……ああ。はい。それでしたら、結構です」
なぜか、書類の一枚が、静かに脇へ寄せられた。
「今のは」
「保証人の照会状です。出さなくていい方は、出さないんです」
あの人、宿屋の親父じゃなかったのか。
いや、宿屋の親父ではあるんだろうけど。
得物の欄で「剣……たぶん」と答えたら、横でジェスが吹き出した。
「たぶんってなんだよ」
「持ってないので」
「持ってねぇのかよ」
「枝なら」
「枝は得物じゃねぇ」
受付さんが、笑いをこらえながら「未定」と書いた。
*
「では最後に、適合率の測定です。こちらの水晶に手を」
カウンターの端に、台座に据えられた水晶球があった。
人の頭ほどの大きさで、中に薄い雲がかかったような、乳白の球体。
台座の縁は、長年の手垢で黒く艶が出ている。
「マナの通りがいい方ほど、強く光ります」
「皆さんだいたい、ぼんやり灯るくらい——数字にして二割前後ですね」
「三割も出れば宮仕えできますよ」
「あの、これって、力を込めるんですか」
「いえ、置くだけです」
受付さんは、なんでもないことのように言った。
「これは、通した時の抵抗を測るものですから」
「押しても引いても、数字は変わりません。手加減も、頑張りも、関係ないんです」
なるほど。
体重計に強く乗っても軽くはならない、みたいな話か。
「ほれ、見本」
ジェスが横から手を伸ばして、乗せた。
水晶の中心に、暖色の光が、ぼう、と灯る。
ランプを布越しに見るような、柔らかい光だった。
「二割二分。ま、こんなもんよ」
「聞いてないのに測らないでください」
「……ついでだ」
クラインが指を一本だけ、球に触れた。
光が、さっきより白っぽく、そして深く灯った。
「三割一分」
「うわ、久しぶりに見た。相変わらず腹立つ数字だな」
「日頃の行いだ」
「宮仕えできるんじゃないですか」
「できる。やらんだけだ」
あっさり言って、クラインは指を引っ込めた。
「本が読めん」
理由が本だった。
受付さんが苦笑して、水晶を布でひと拭きした。
「はい、ではカイさん、どうぞ」
*
俺は手を乗せた。
ひやりとした、硝子の感触。
一拍。
水晶が——白く、爆ぜた。
灯る、なんてものじゃなかった。
真昼のギルドの中で、そこだけ雷が落ちたみたいに、視界が白に塗り潰された。
悲鳴。椅子の倒れる音。
壁の依頼書の一枚一枚まで、影が濃く焼きついて——
きぃん、と細い音が鳴って。
ぷつん。
消えた。
水晶は、墨を流し込んだように黒ずんで、二度と光らなかった。
焦げたような匂いが、微かに鼻をつく。
ギルド中が、静まり返っていた。
二階の手すりから覗いていた誰かが、身を乗り出して、すぐに引っ込んだ。
長机の男たちが、麦酒を持ったまま固まっている。
その静けさの中で、一人だけ、堂々と胸を張っている男がいた。
ジェスだった。
まだ何も分かっていないのに、なぜか誇らしげだった。
*
その沈黙の中で。
黒く濁った水晶の芯に、一瞬だけ、白い澱のようなものが浮かんだ。
細かい、几帳面な、光の文字列。
【エラー 測定上限ヲ超過】
読めてしまった。
次の瞬きの間に、それは溶けて消えた。
「……い、今の」
受付さんの声が裏返る。
「え、なに、今の。こんなの、出たことありません……!」
「五十年ものの水晶ですよ!?」
「弁償っ!?」
素っ頓狂な声は、俺の喉から出た。
財布の中身、ゼロなんですけど。
初日から借金背負う新人って、チュートリアルとして間違ってないか。
*
「今の何!? 光った!? 爆発!?」
掲示板の前から、女の子がすっ飛んできた。
俺の胸くらいの背丈で、黒い髪を左右で結わえている。
青いリボンが、走るたびに跳ねていた。
腰の後ろに、短剣が二本。
青い目に、見覚えのある形の——少しだけ尖った耳。
「うそ、水晶死んでる! 水晶壊した人、初めて見た!」
「クーリ。騒ぐな」
「だって兄さ——兄さん!? なんでギルドに? あとジェスまで!」
「よお、チビ助」
「チビ助って言うな!」
なるほど、この子がクーリか。クラインの妹。
全然似てない、と思ったが、耳と目の形だけは同じだった。
髪の色は、まるで違う。
クラインの銀水色に対して、こっちは真っ黒だ。
*
「はいはい、注もーく!」
クーリは腰に手を当てて、胸を張った。
「ハジ一の魔双剣士見習い、クーリちゃんとはあたしのことよ!」
「で? そこの水晶キラーは誰?」
「カイです……あの、それより弁償が」
そこでクーリが、俺の顔を覗き込んだ。
正確には、髪を。
「……あ。あんたも黒いんだ」
「え」
「珍しいのよ、これ。この辺、茶色か金ばっかだから」
言われて、初めて周りを見回した。
確かに、茶色。茶色。金。薄い茶色。また茶色。
黒いのは、この広い部屋で、俺とこの子だけだった。
「兄さんは母さん似で、あたしは父さん似」
クーリはあっさり言って、自分の髪を一房つまんで見せた。
昨日、クラインが言ったことを思い出す。
——ハーフは、もう片っ方の血による。
なるほど、そういうことか。
クラインは何も言わずに、妹の後ろで棚の本の背を見ていた。
*
受付さんは慌ただしく規定集をめくった。
やがて、ほっとしたような困ったような顔で言った。
「……職員立ち合いの測定中の破損は、ギルド負担です。規定にもあります」
「——この規定が実際に使われたの、私、初めて見ましたけど」
助かった。膝から力が抜けた。
「い、一応、予備で測り直しましょう。こちらの携帯用で」
受付さんが奥から持ってきたのは、拳ほどの小さな水晶だった。
俺は恐る恐る、今度は指一本で触れた。
ぴかっ。ぷつん。
「ひっ」
「二個目ぇ!?」
周りの冒険者たちが、すす、と半歩下がった。
誰かが小声で「見たか」と言い、誰かが「見てない」と答えた。
見てただろ。
やめて。俺が一番怖いんだよ。
「あの、もっと軽く触ったら」
「……抵抗を測るものだと、さっき申し上げました」
「はい」
受付さんは震える手で、書類にこう書いた——【測定不能】。
「て、適合率が測れなくても、冒険者にはなれますから! だ、大丈夫です!」
「測定不能って何?」
クーリが書類を覗き込む。
「ゼロってこと? 最強ってこと? どっちよ」
「知らねぇよ。……なあ、クライン?」
「——さあ、な」
*
騒ぎの間、クラインだけが、黒ずんだ水晶を黙って見ていた。
それから、誰にともなく、低く呟いた。
「水晶は、通ったマナの量に応じて光る」
「……灯心と同じだ。灯心が焼き切れるのは、炎が弱いからじゃない」
「え?」
「——独り言だ」
(電球のフィラメントが飛んだ、あの感じだったな)
(仕様バグかな。報告案件だぞ、柾兄)
俺の脳内報告書の上に、クラインの横目がじっと刺さっていたことに、
この時の俺は気づいていない。
*
「では、登録試験のご説明です!」
気を取り直した受付さんいわく——
町の北、徒歩数時間の試験洞窟。
最奥の祠に置かれた刻印の銅板を、一枚持ち帰る。
洞窟内は単独行動、付き添いは入り口まで。
魔物はまず出ない。
「銅板は、必ず一枚だけ。二枚持ってきた方は、失格です」
「二枚持ってくる人がいるんですか」
「欲張る方は、毎年いらっしゃいます」
この世界の人間、信用されてないな。
いや、信用の話じゃなくて、実績の話か。
「転ばないことが、一番のコツです!」
「その『まず』ってのが世界の罠なんだよなあ」とジェス。
「試験より帰り道のほうが危ないくらいだ」とクライン。
「あたしも行く! 水晶キラーの試験、見届けたい!」
クーリが手を挙げた。
「……ねえ、監督役って報酬出る?」
「出ません」
「出ないの!?」
露骨に肩が落ちた。
「……ま、まあ、今日は特別。無料で見届けてあげる」
「恩は売っとくもんだからね。あとで利子つけて返してもらうから」
「新人からむしり取る気満々じゃねぇか」
「投資って言って」
「利子っていくらですか」
「んー……銅貨で、五枚?」
「安っ」
「じゃあ十枚」
「上がった!?」
「今、安いって言ったでしょ」
ジェスが腹を抱えて笑っている。
この子、たぶん、悪い子ではない。
金にがめついだけだ。
*
北へ延びる街道は、丈の低い麦畑の間を縫っていた。
風が渡るたび、緑の穂が波になって走る。
遠くの丘の上には風車がひとつ。
雲は高く、鳶がゆっくりと輪を描いていた。
作り物だと分かっていても、綺麗なものは綺麗だった。
道端に、丈の高い草が黄色い花をつけていた。
名前は知らない。
知らないまま「綺麗だ」と思えるのが、少し嬉しかった。
うちの近所の川べりにも、こういうのが生えていた気がする。
思い出そうとして、やめた。
今日は試験だ。
「ねえねえ水晶キラー。あんた、どこの出身?」
「えっと、——ってところです」
「……うっわ、ほんとに訛りキツ。今の、地名? 地名なの?」
「らしいぜ。な、面白いだろこいつ」
ジェスが笑い、クーリが「面白がるとこ?」と眉を寄せる。
「まあ、いいわ。訛りなんてどうでも」
クーリはあっさり切り上げて、両手を頭の後ろで組んだ。
「そのかわり、うちの店で本買いなさいよ。兄さんの店」
「読めないんですけど」
「……あ」
クーリは三秒くらい黙って、それから話題を変えた。
「いい? 新人。洞窟ってのはね、行きより帰りで死ぬの」
「はあ」
「行きは元気だから覚えてる。帰りは疲れてるから間違える」
妙に説得力があった。
「クーリさんは、何回くらい潜ったんですか」
「……そ、そういうのは、経験の年数じゃないの。質よ、質」
「ゼロだぞ、こいつ」
「ジェス!?」
ジェスは笑っただけで、それ以上は言わなかった。
クーリも、それ以上は怒らなかった。
言い返す言葉を持っている顔ではあったのに、使わない。
この二人、こういう間の取り方をするんだな、と思った。
*
その後ろでクラインが、半歩分だけ俺に寄って、声を落とした。
「昨日の火のことは、誰にも見せるな」
「……ギルドのあれで、もう十分すぎるほど目立った」
「……はい」
なんで隠すんだろう、とは思った。
思ったが、レア属性の初期キャラが目をつけられるのは、ゲームでもお約束だ。
素直に頷いておく。
*
試験洞窟は、丘の中腹にぽっかりと口を開けていた。
入り口には古びた木の看板と、歴代の受験者が残したらしい落書き。
中から流れてくる空気は、ひんやりと湿っていて、微かに土と苔の匂いがした。
「じゃ、行ってきます」
「おう。転ぶなよ!」
「水晶キラー、がんばれー!」
「……妙だと思ったら、戻れ」
クラインの言葉が、今朝のヤンさんとまったく同じで、少しだけ引っかかった。
同じ町に住んでいれば、言い回しも似るのかもしれない。
そう思うことにした。
*
洞窟の中は、思ったより明るかった。
壁のところどころに光る苔が張り付いて、青白い明かりを落としている。
水滴の音が、遠くで規則正しく響いていた。
入口の岩壁には、無数の落書きが彫られていた。
どれも読めないが、たぶん名前だろう。
同じ形の字が、何十も並んでいる。
合格した人間が、自分の名を残していったんだと思う。
俺は帰りに何を彫ればいいんだろう。
久遠寺は、書くなと言われている。
入口からいくつかの道は迷路めいていたが、奥へ進むほど、通路は「整って」いった。
最初はごつごつした、ただの洞窟だったのが、だんだんと壁が滑らかになる。
天井の高さが揃う。床が平らになる。
足音まで変わった。
湿って吸い込まれるような洞窟の反響が、いつの間にか、廊下の硬い音になっている。
(手抜きモデリング……にしては、逆か。奥のほうが作り込んである)
壁に手を這わせてみる。
石だ。石なのに、継ぎ目がない。
どこまでも一枚の、冷たい石。
光る苔も、いつの間にか無くなっていた。
なのに、暗くならない。
天井の縁が、ぼんやりと一定の明るさで光っている。
その明るさが、どこまで行っても同じだった。
空気の温度も、変わらなくなっていた。
洞窟なら、奥へ行くほど冷える。
なのに、汗が引かない。
冷たくもなく、暑くもない。
人が長く居るために、誰かが決めた温度だった。
水滴の音も、いつの間にか止んでいる。
自分の足音だけが、前と後ろから、二重に返ってきた。
*
角をひとつ曲がったところで、足が止まった。
壁に、板が嵌まっていた。
金属らしい。表面に、文字が彫ってある。
【関係者以外立入禁止】
「…………」
読めた。
この世界に来てから、看板というものを一枚も読めていない。
れ
宿の看板も、古書屋の板も、ギルドの掲示板も。
なのに、洞窟の奥のこれだけが、読める。
「……つまり俺、関係者以外なんですけど」
誰もいない通路に、声が吸い込まれた。
少し先の壁には、矢印と一緒に、もう一枚。
【管理区画 →】
筆跡というか、字の彫り方が、事務的だった。
工事現場の張り紙みたいだ。
神秘の遺跡に、労働の匂いがした。
もう少し行くと、床に埋まった小さな板があった。
【B2】
その先の分岐には、こう出ていた。
【動力区画 立入厳禁】
禁止の種類が、さっきより上がっている。
一度だけ、厳禁の方の通路を覗いてみた。
同じ石。同じ明るさ。
違うのは、奥から低い音がしていることだった。
地鳴りではない。もっと均一な、機械の唸りに近い音。
止まっているものの音ではなかった。
俺は素直に、矢印の方へ曲がった。
こういうのは、素直に従った奴だけが生き残る。
ゲームでも、たぶん、それ以外でも。
(作り込みが変な方向に細かいんだよなあ、あの人)
そう思うことにして、俺は先へ進んだ。
*
やがて、突き当たりに出た。
小部屋ほどの空間。
中央に、木の祠がぽつんと置かれている。
硬質な石壁に対して、その祠だけが明らかに「後から持ち込まれた」風情で、
少し傾いでいた。
祠の中には、掌ほどの銅板が積まれている。
表面には、統一言語の刻印。
こっちは、当然のように読めない。
壁の字は読めて、祠の字は読めない。
この部屋、字が二種類ある。
……まあ、いいか。
銅板は、思ったより軽かった。
角が丸くなっている。
何十年も、誰かの掌を通ってきた丸さだった。
これを持ち帰れば、俺も晴れて冒険者だ。
一枚、手に取った。
*
その瞬間。
足元から、細い光の線が、すぅ、と走った。
線は床を伝い、壁を這い上がり、天井へ。
血管のように、回路図のように枝分かれして、部屋中に淡い光の脈が浮かび上がる。
低い音がした。
地鳴りでも、羽音でもない。
強いて言えば——起動音だ。
そして、行き止まりのはずの正面の壁一面に、光の文字が浮かんだ。
読めない筆記体じゃ、ない。
読める。俺には、読めてしまう。
【生体反応ヲ検知 —— 照合中】
「……なんて?」
【照合完了】
*
壁が、音もなく割れた。
いや——開いた。
石が石のまま、襖みたいに滑って、左右へ。
その向こうを、興味本位で覗いてみた。
暗闇じゃなかった。
淡く発光する壁面が、遥か下まで続く——深い、深い、竪穴。
「え、ちょっと待っ——」
途端に、直前まで立っていた床が、消えた。
正確には、足元の床が光の粒に解けて、俺の体は支えを失った。
落ちる。
銅板を握りしめたまま、光る竪穴を、落ちていく。
頬を打つ風。浮き上がる内臓。回る視界。
落ちながら、上を見た。
開いた壁の隙間が、みるみる小さくなっていく。
四角い光が、切手くらいになって、それから、点になった。
(隠しダンジョン!? 初回登録特典……にしては、演出が、ガチすぎる——!)
悲鳴の代わりに、頭の中で言い訳めいたツッコミが回る。
回り続ける。
だって、そうでも思っていないと。
ヤンさんの声が、頭のどこかで鳴った。
——妙だと思ったら、すぐ戻れ。
戻れる床が、もう無いんですけど。
流れ落ちていく壁面に、光の文字が次々と浮かんでは、消えた。
【第七研究所 管理区画】
【権限——確認】
そして最後に流れたひと文字列を、俺は、確かに読んだ。
【おかえりなさい】
(第四話・了)




