# Re:sou 第四話「測定不能」
夜明け前の井戸水は、手が切れるほど冷たかった。
桶を三往復。竈に火を入れて、床板を拭き上げる頃、ようやく窓の外が白んでくる。三日目にして、俺の朝はすっかりこの宿の朝になっていた。厨房からは骨を煮る匂い。今日の煮込みの仕込みだ。この匂いで腹が鳴るようになったら、もう立派な従業員だと思う。
昼までに仕事を片付けると、ヤンさんが銅貨を数枚、カウンターに置いた。磨き上げた木の天板の上で、硬貨は鈍く光った。
「登録料だ。給金から引いておく」
「……ありがとうございます」
「試験は北の洞窟だろう」
ヤンさんはグラスを拭く手を止めずに言った。この人は、大事な話ほど手を動かしながらする。
「あそこは枯れた遺跡だ。何十年も試験に使われてると聞いてる、この辺りで一番安全な穴だ。魔物もほぼ出ん。——だが」
布が、きゅ、と鳴って、止まった。
「妙だと思ったら、すぐ戻れ。銅板より命だ」
枯れた遺跡。聞き慣れない言い回しだったが、俺は頷いた。この人の忠告は、聞くものだと思う。理屈より先に、そう思わせる声だった。
*
昼下がりの大通りは、人と荷車と呼び込みの声で満ちていた。焼き菓子の屋台の甘い匂いに、革と鉄の匂いが混じる。ジェスは当然のようについてきて、クラインまで「仕入れのついでだ」と涼しい顔で並んでいた。仕入れの荷物、どこにもないんだよなあ。絶対、数字が見たいだけだろ。
冒険者ギルドは、大通りに面した石造りの三階建てだった。両開きの扉は開け放たれ、中から喧騒がこぼれてくる。
一歩入って、俺は思わず立ち止まった。
酒場と役所を足して二で割った空間。左手には長机が並び、昼から麦酒を呷る革鎧の男たち。右手の壁は一面の掲示板で、依頼書が鱗みたいに重なって貼られている。奥には受付カウンターが三つ。天井は吹き抜けで、二階の手すりから誰かが下の騒ぎを眺めていた。剣の鞘が椅子にぶつかる音。笑い声。羊皮紙をめくる音。
(ギルドだ……本物の、テンプレのギルドだ……)
感動していると、ジェスに背中を押された。
受付のお姉さんは親切だった。ただし、登録用紙を前に、俺の手は止まった。読めない字は、当然、書けない。
「あ、読み書きは大丈夫ですよ。代筆しますね。多いんです、そういう方」
すみません、と頭を下げながら思う。俺、この世界で一番古い字なら読み書きできるんだけどな。世界最古の文盲って何だよ。
名前、歳、得物——質問に答えるたび、羽根ペンがさらさらと走る。得物の欄で「剣……たぶん」と答えたら、横でジェスが吹き出した。
「では最後に、適合率の測定です。こちらの水晶に手を」
カウンターの端に、台座に据えられた水晶球があった。人の頭ほどの大きさで、中に薄い雲がかかったような、乳白の球体。台座の縁は、長年の手垢で黒く艶が出ている。
「マナの通りがいい方ほど、強く光ります。皆さんだいたい、ぼんやり灯るくらい——数字にして二割前後ですね。三割も出れば宮仕えできますよ」
「ほれ、見本」
ジェスが横から手を伸ばして、乗せた。水晶の中心に、暖色の光が、ぼう、と灯る。ランプを布越しに見るような、柔らかい光だった。
「二割二分。ま、こんなもんよ」
「聞いてないのに測らないでください」
受付さんが苦笑して、水晶を布でひと拭きした。
「はい、ではカイさん、どうぞ」
俺は手を乗せた。
ひやりとした、硝子の感触。
一拍。
水晶が——白く、爆ぜた。
灯る、なんてものじゃなかった。真昼のギルドの中で、そこだけ雷が落ちたみたいに、視界が白に塗り潰された。悲鳴。椅子の倒れる音。壁の依頼書の一枚一枚まで、影が濃く焼きついて——
きぃん、と細い音が鳴って。
ぷつん。
消えた。
水晶は、墨を流し込んだように黒ずんで、二度と光らなかった。焦げたような匂いが、微かに鼻をつく。
ギルド中が、静まり返っていた。
その沈黙の中で。黒く濁った水晶の芯に、一瞬だけ、白い澱のようなものが浮かんだ。細かい、几帳面な、光の文字列。
【エラー 測定上限ヲ超過】
読めてしまった。次の瞬きの間に、それは溶けて消えた。
「……い、今の」受付さんの声が裏返る。
「え、なに、今の。こんなの、出たことありません……! 五十年ものの水晶ですよ!?」
「弁償っ!?」
素っ頓狂な声は、俺の喉から出た。財布の中身、ゼロなんですけど。
「今の何!? 光った!? 爆発!?」
掲示板の前から、黒髪の女の子がすっ飛んできた。腰の後ろに短剣が二本。青い目に、見覚えのある形の——少しだけ尖った耳。
「うそ、水晶死んでる! 水晶壊した人、初めて見た!」
「クーリ。騒ぐな」
「だって兄さ——兄さん!? なんでギルドに? あとジェスまで!」
「よお、チビ助」
「チビ助って言うな!」
なるほど、この子がクーリか。クラインの妹。全然似てない、と思ったが、耳と目の形だけは同じだった。
「はいはい、注もーく! ハジ一の魔双剣士見習い、クーリちゃんとはあたしのことよ! で? そこの水晶キラーは誰?」
「カイです……あの、それより弁償が」
受付さんは慌ただしく規定集をめくり、やがて、ほっとしたような困ったような顔で言った。
「……職員立ち合いの測定中の破損?は、ギルド負担です。規定にもあります。——この規定が実際に使われたの、私、初めて見ましたけど」
助かった。膝から力が抜けた。
「い、一応、予備で測り直しましょう。こちらの携帯用で」
受付さんが奥から持ってきたのは、拳ほどの小さな水晶だった。俺は恐る恐る、今度は指一本で触れた。
ぴかっ。ぷつん。
「ひっ」
「二個目ぇ!?」
周りの冒険者たちが、すす、と半歩下がった。やめて。俺が一番怖いんだよ。
受付さんは震える手で、書類にこう書いた——【測定不能】。
「て、適合率が測れなくても、冒険者にはなれますから! だ、大丈夫です!」
「測定不能って何?」クーリが書類を覗き込む。「ゼロってこと? 最強ってこと? どっちよ」
「知らねぇよ。……なあ、クライン?」
「——さあ、な」
騒ぎの間、クラインだけが、黒ずんだ水晶を黙って見ていた。それから、誰にともなく、低く呟いた。
「水晶は、通ったマナの量に応じて光る。……灯心と同じだ。灯心が焼き切れるのは、炎が弱いからじゃない」
「え?」
「——独り言だ」
(電球のフィラメントが飛んだ、あの感じだったな……仕様バグかな。報告案件だぞ、柾兄)
俺の脳内報告書の上に、クラインの横目がじっと刺さっていたことに、この時の俺は気づいていない。
*
「では、登録試験のご説明です!」
気を取り直した受付さんいわく——町の北、徒歩一時間の試験洞窟。最奥の祠に置かれた刻印の銅板を、一枚持ち帰る。洞窟内は単独行動、付き添いは入り口まで。魔物はまず出ない。
「転ばないことが、一番のコツです!」
「その『まず』ってのが世界の罠なんだよなあ」とジェス。
「試験より帰り道のほうが危ないくらいだ」とクライン。
「あたしも行く! 水晶キラーの試験、見届けたい! ……ねえ、監督役って報酬出る?」
「出ません」
「出ないの!? ……ま、まあ、今日は特別。無料で見届けてあげる。べ、別にジェスと一緒に行きたいわけじゃないから! 新人が心配なだけ!」
誰も聞いてないのに。
*
北へ延びる街道は、丈の低い麦畑の間を縫っていた。風が渡るたび、緑の穂が波になって走る。遠くの丘の上には風車がひとつ。雲は高く、鳶がゆっくりと輪を描いていた。
作り物だと分かっていても、綺麗なものは綺麗だった。
「ねえねえ水晶キラー。あんた、どこの出身?」
「えっと、——ってところです」
「……うっわ、ほんとに訛りキツ。今の、地名? 地名なの?」
「らしいぜ。な、面白いだろこいつ」
ジェスが笑い、クーリが「面白がるとこ?」と眉を寄せる。その後ろでクラインが、半歩分だけ俺に寄って、声を落とした。
「昨日の火のことは、誰にも見せるな。……ギルドのあれで、もう十分すぎるほど目立った」
「……はい」
なんで隠すんだろう、とは思った。思ったが、レア属性の初期キャラが目をつけられるのは、ゲームでもお約束だ。素直に頷いておく。
*
試験洞窟は、丘の中腹にぽっかりと口を開けていた。入り口には古びた木の看板と、歴代の受験者が残したらしい落書き。中から流れてくる空気は、ひんやりと湿っていて、微かに土と苔の匂いがした。
「じゃ、行ってきます」
「おう。転ぶなよ!」
「水晶キラー、がんばれー!」
「……妙だと思ったら、戻れ」
クラインの言葉が、今朝のヤンさんとまったく同じで、少しだけ引っかかった。
洞窟の中は、思ったより明るかった。壁のところどころに光る苔が張り付いて、青白い明かりを落としている。水滴の音が、遠くで規則正しく響いていた。
入口からいくかの道は迷路めいていたが、奥へ進むほど、通路は「整って」いった。
最初はごつごつした、ただの洞窟だったのが、だんだんと壁が滑らかになる。天井の高さが揃う。床が平らになる。足音まで変わった——湿って吸い込まれるような洞窟の反響が、いつの間にか、廊下を歩くときの硬い音になっている。
(手抜きモデリング……にしては、逆か。奥のほうが作り込んである)
壁に手を這わせてみる。石だ。石なのに、継ぎ目がない。どこまでも一枚の、冷たい石。
やがて、突き当たりに出た。
小部屋ほどの空間。中央に、木の祠がぽつんと置かれている。硬質な石壁に対して、その祠だけが明らかに「後から持ち込まれた」風情で、少し傾いでいた。祠の中には、掌ほどの銅板が積まれている。表面には統一言語の刻印。
これを持ち帰れば、俺も晴れて冒険者だ。
一枚、手に取った。
その瞬間。
足元から、細い光の線が、すぅ、と走った。
線は床を伝い、壁を這い上がり、天井へ。血管のように、回路図のように枝分かれして、部屋中に淡い光の脈が浮かび上がる。低い音がした。地鳴りでも、羽音でもない。強いて言えば——起動音だ。
そして、行き止まりのはずの正面の壁一面に、光の文字が浮かんだ。
読めない筆記体じゃ、ない。
読める。俺には、読めてしまう。
【生体反応ヲ検知 —— 照合中】
「……なんて?」
【照合完了】
壁が、音もなく割れた。いや——開いた。石が石のまま、襖みたいに滑って、左右へ。その向こうを興味本位で覗いてみた。
暗闇じゃなかった。淡く発光する壁面が、遥か下まで続く——深い、深い、竪穴。
「え、ちょっと待っ——」
途端に直前まで立っていた床が、消えた。
正確には、足元の床が光の粒に解けて、俺の体は支えを失った。落ちる。銅板を握りしめたまま、光る竪穴を、落ちていく。頬を打つ風。浮き上がる内臓。回る視界。
(隠しダンジョン!? 初回登録特典……にしては、演出が、ガチすぎる——!)
悲鳴の代わりに、頭の中で言い訳めいたツッコミが回る。回り続ける。だって、そうでも思っていないと。
流れ落ちていく壁面に、光の文字が次々と浮かんでは、消えた。
【第七研究所 管理区画】
【権限——確認】
そして最後に流れたひと文字列を、俺は、確かに読んだ。
【おかえりなさい】
(第四話・了)




