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Re:sou〜超現実拡張妄想変換装置(仮)改〜  作者: 西ノ圭吾
第一章 世界
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# Re:sou 第四話「測定不能」

 夜明け前の井戸水は、手が切れるほど冷たかった。


 滑車を回す。縄は、もう手の中で滑らない。


 汲み上げて、八分目で止める。


 これを覚えてから、廊下に水をこぼさなくなった。


 こぼさなくなったら、往復の数が増えた。


 世の中はうまくできている。


 桶を三往復。竈に火を入れて、床板を、目に沿って拭き上げる。


 その頃、ようやく窓の外が白んでくる。


 三日目にして、俺の朝はすっかりこの宿の朝になっていた。


 厨房からは骨を煮る匂い。今日の煮込みの仕込みだ。


 この匂いで腹が鳴るようになったら、もう立派な従業員だと思う。


 今日は試験だ、と思うと、少しだけ手が速くなった。


 速くなった分、雑巾の絞りが甘くなって、やり直しになった。


 「落ち着け」

 「はい」


 厨房から、顔も出さずに飛んでくる。


 どうして分かるんだろう、この人は。


 着ていくものは、迷う余地がなかった。


 麻の上下、一着きり。


 一張羅というより、全財産である。


   *


 昼までに仕事を片付けると、ヤンさんが銅貨を数枚、カウンターに置いた。


 磨き上げた木の天板の上で、硬貨は鈍く光った。


 「登録料だ。給金から引いておく」

 「……ありがとうございます」


 差し引かれるのか、と一瞬思ったが、口には出さなかった。


 むしろ、そこを曖昧にしない人でよかった気がする。


 「試験は北の洞窟だろう」


 ヤンさんはグラスを拭く手を止めずに言った。


 この人は、大事な話ほど手を動かしながらする。


 「あそこは枯れた遺跡だ」


 「何十年も試験に使われてると聞いてる。この辺りで一番安全な穴だ」


 「魔物もほぼ出ん。——だが」


 布が、きゅ、と鳴って、止まった。


 「妙だと思ったら、すぐ戻れ。銅板より命だ」


 枯れた遺跡。


 聞き慣れない言い回しだったが、俺は頷いた。


 「行ったこと、あるんですか」

 「昔、通りかかっただけだ」


 通りかかる、で片づく距離ではないと思うのだが。


 この人の忠告は、聞くものだ。


 理屈より先に、そう思わせる声だった。


 「あの」

 「なんだ」

 「ヤンさんは、冒険者だったんですか」


 布が、ひと拍だけ遅れて動いた。


 「登録はしていない」

 「え、でも」

 「歩いていただけだ。真似事をな」


 真似事、で片づく歩き方ではない気がしたが。


 この人は、必要しか答えない。


 俺は銅貨を握って、頭を下げた。


   *


 昼を過ぎた頃、ジェスが戸を開けて顔を出した。


 「おう、準備できたか」

 「持っていくものが無いので、できてます」

 「潔いな」


 ヤンさんが厨房から出てきて、布に包んだものを押しつけてきた。


 中身は、パンと干し肉だった。


 「腹が減ると、判断が鈍る」


 試験の心得というより、生き方の話に聞こえた。


   *


 昼下がりの大通りは、人と荷車と呼び込みの声で満ちていた。


 焼き菓子の屋台の甘い匂いに、革と鉄の匂いが混じる。


 髭のドワーフが樽を転がし、犬耳の子供がその横を駆け抜けていく。


 三日で、この光景に驚かなくなった。


 人間の慣れる速度は、たぶん、世界の作り込みより速い。


 ジェスは当然のようについてきた。


 驚いたのは、クラインまで並んでいたことだ。


 「仕入れのついでだ」

 「店、開いてました?」

 「閉めた」

 「昨日、店が開けられんって言ってましたよね」

 「だから閉めたと言っている」


 理屈が通っているようで、まったく通っていない。


 仕入れの荷物も、どこにも無い。


 絶対、数字が見たいだけだろ。


   *


 冒険者ギルドは、大通りに面した石造りの三階建てだった。


 両開きの扉は開け放たれ、中から喧騒がこぼれてくる。


 一歩入って、俺は思わず立ち止まった。


 酒場と役所を足して二で割った空間。


 左手には長机が並び、昼から麦酒を呷る革鎧の男たち。


 右手の壁は一面の掲示板で、依頼書が鱗みたいに重なって貼られている。


 貼られ方に、はっきりと段があった。


 下の段の紙はどれも小さくて、字が少ない。


 上へ行くほど紙が大きくなり、赤い印の押されたものが交ざる。


 いちばん上の段は、二枚しか貼られていなかった。


 奥には受付カウンターが三つ。


 天井は吹き抜けで、二階の手すりから誰かが下の騒ぎを眺めている。


 剣の鞘が椅子にぶつかる音。笑い声。羊皮紙をめくる音。


 (ギルドだ……本物の、テンプレのギルドだ……)


 掲示板の前まで行って、依頼書を一枚、覗き込んでみた。


 読めない。


 絵も描いていない。


 依頼書というのは、そもそも読める人間に向けて貼られている。


 当たり前のことに、当たり前に負けた。


 感動していると、ジェスに背中を押された。


   *


 受付のお姉さんは親切だった。


 ただし、登録用紙を前に、俺の手は止まった。


 読めない字は、当然、書けない。


 「あ、読み書きは大丈夫ですよ。代筆しますね。多いんです、そういう方」


 すみません、と頭を下げながら思う。


 俺、この世界で一番古い字なら読み書きできるんだけどな。


 世界最古の文盲って何だよ。


 名前、歳、出身——質問に答えるたび、羽根ペンがさらさらと走る。


 出身の欄で答えに詰まったら、「不明でも登録できます」とあっさり言われた。


 そういう人が、そこそこ来るらしい。


 「身元の保証人は、いらっしゃいますか」

 「あー……宿で働いてます。ヤンさんの」

 「ヤン、さん」


 羽根ペンが、少し止まった。


 「北通りの、あの宿の」

 「はい」

 「……ああ。はい。それでしたら、結構です」


 なぜか、書類の一枚が、静かに脇へ寄せられた。


 「今のは」

 「保証人の照会状です。出さなくていい方は、出さないんです」


 あの人、宿屋の親父じゃなかったのか。


 いや、宿屋の親父ではあるんだろうけど。


 得物の欄で「剣……たぶん」と答えたら、横でジェスが吹き出した。


 「たぶんってなんだよ」

 「持ってないので」

 「持ってねぇのかよ」

 「枝なら」

 「枝は得物じゃねぇ」


 受付さんが、笑いをこらえながら「未定」と書いた。


   *


 「では最後に、適合率の測定です。こちらの水晶に手を」


 カウンターの端に、台座に据えられた水晶球があった。


 人の頭ほどの大きさで、中に薄い雲がかかったような、乳白の球体。


 台座の縁は、長年の手垢で黒く艶が出ている。


 「マナの通りがいい方ほど、強く光ります」


 「皆さんだいたい、ぼんやり灯るくらい——数字にして二割前後ですね」


 「三割も出れば宮仕えできますよ」


 「あの、これって、力を込めるんですか」

 「いえ、置くだけです」


 受付さんは、なんでもないことのように言った。


 「これは、通した時の抵抗を測るものですから」


 「押しても引いても、数字は変わりません。手加減も、頑張りも、関係ないんです」


 なるほど。


 体重計に強く乗っても軽くはならない、みたいな話か。


 「ほれ、見本」


 ジェスが横から手を伸ばして、乗せた。


 水晶の中心に、暖色の光が、ぼう、と灯る。


 ランプを布越しに見るような、柔らかい光だった。


 「二割二分。ま、こんなもんよ」

 「聞いてないのに測らないでください」


 「……ついでだ」


 クラインが指を一本だけ、球に触れた。


 光が、さっきより白っぽく、そして深く灯った。


 「三割一分」

 「うわ、久しぶりに見た。相変わらず腹立つ数字だな」

 「日頃の行いだ」


 「宮仕えできるんじゃないですか」

 「できる。やらんだけだ」


 あっさり言って、クラインは指を引っ込めた。


 「本が読めん」


 理由が本だった。


 受付さんが苦笑して、水晶を布でひと拭きした。


 「はい、ではカイさん、どうぞ」


   *


 俺は手を乗せた。


 ひやりとした、硝子の感触。


 一拍。


 水晶が——白く、爆ぜた。


 灯る、なんてものじゃなかった。


 真昼のギルドの中で、そこだけ雷が落ちたみたいに、視界が白に塗り潰された。


 悲鳴。椅子の倒れる音。


 壁の依頼書の一枚一枚まで、影が濃く焼きついて——


 きぃん、と細い音が鳴って。


 ぷつん。


 消えた。


 水晶は、墨を流し込んだように黒ずんで、二度と光らなかった。


 焦げたような匂いが、微かに鼻をつく。


 ギルド中が、静まり返っていた。


 二階の手すりから覗いていた誰かが、身を乗り出して、すぐに引っ込んだ。


 長机の男たちが、麦酒を持ったまま固まっている。


 その静けさの中で、一人だけ、堂々と胸を張っている男がいた。


 ジェスだった。


 まだ何も分かっていないのに、なぜか誇らしげだった。


   *


 その沈黙の中で。


 黒く濁った水晶の芯に、一瞬だけ、白い澱のようなものが浮かんだ。


 細かい、几帳面な、光の文字列。


 【エラー 測定上限ヲ超過】


 読めてしまった。


 次の瞬きの間に、それは溶けて消えた。


 「……い、今の」


 受付さんの声が裏返る。


 「え、なに、今の。こんなの、出たことありません……!」


 「五十年ものの水晶ですよ!?」


 「弁償っ!?」


 素っ頓狂な声は、俺の喉から出た。


 財布の中身、ゼロなんですけど。


 初日から借金背負う新人って、チュートリアルとして間違ってないか。


   *


 「今の何!? 光った!? 爆発!?」


 掲示板の前から、女の子がすっ飛んできた。


 俺の胸くらいの背丈で、黒い髪を左右で結わえている。


 青いリボンが、走るたびに跳ねていた。


 腰の後ろに、短剣が二本。


 青い目に、見覚えのある形の——少しだけ尖った耳。


 「うそ、水晶死んでる! 水晶壊した人、初めて見た!」

 「クーリ。騒ぐな」

 「だって兄さ——兄さん!? なんでギルドに? あとジェスまで!」

 「よお、チビ助」

 「チビ助って言うな!」


 なるほど、この子がクーリか。クラインの妹。


 全然似てない、と思ったが、耳と目の形だけは同じだった。


 髪の色は、まるで違う。


 クラインの銀水色に対して、こっちは真っ黒だ。


   *


 「はいはい、注もーく!」


 クーリは腰に手を当てて、胸を張った。


 「ハジ一の魔双剣士見習い、クーリちゃんとはあたしのことよ!」


 「で? そこの水晶キラーは誰?」

 「カイです……あの、それより弁償が」


 そこでクーリが、俺の顔を覗き込んだ。


 正確には、髪を。


 「……あ。あんたも黒いんだ」

 「え」

 「珍しいのよ、これ。この辺、茶色か金ばっかだから」


 言われて、初めて周りを見回した。


 確かに、茶色。茶色。金。薄い茶色。また茶色。


 黒いのは、この広い部屋で、俺とこの子だけだった。


 「兄さんは母さん似で、あたしは父さん似」


 クーリはあっさり言って、自分の髪を一房つまんで見せた。


 昨日、クラインが言ったことを思い出す。


 ——ハーフは、もう片っ方の血による。


 なるほど、そういうことか。


 クラインは何も言わずに、妹の後ろで棚の本の背を見ていた。


   *


 受付さんは慌ただしく規定集をめくった。


 やがて、ほっとしたような困ったような顔で言った。


 「……職員立ち合いの測定中の破損は、ギルド負担です。規定にもあります」


 「——この規定が実際に使われたの、私、初めて見ましたけど」


 助かった。膝から力が抜けた。


 「い、一応、予備で測り直しましょう。こちらの携帯用で」


 受付さんが奥から持ってきたのは、拳ほどの小さな水晶だった。


 俺は恐る恐る、今度は指一本で触れた。


 ぴかっ。ぷつん。


 「ひっ」

 「二個目ぇ!?」


 周りの冒険者たちが、すす、と半歩下がった。


 誰かが小声で「見たか」と言い、誰かが「見てない」と答えた。


 見てただろ。


 やめて。俺が一番怖いんだよ。


 「あの、もっと軽く触ったら」

 「……抵抗を測るものだと、さっき申し上げました」

 「はい」


 受付さんは震える手で、書類にこう書いた——【測定不能】。


 「て、適合率が測れなくても、冒険者にはなれますから! だ、大丈夫です!」


 「測定不能って何?」


 クーリが書類を覗き込む。


 「ゼロってこと? 最強ってこと? どっちよ」

 「知らねぇよ。……なあ、クライン?」

 「——さあ、な」


   *


 騒ぎの間、クラインだけが、黒ずんだ水晶を黙って見ていた。


 それから、誰にともなく、低く呟いた。


 「水晶は、通ったマナの量に応じて光る」


 「……灯心と同じだ。灯心が焼き切れるのは、炎が弱いからじゃない」

 「え?」

 「——独り言だ」


 (電球のフィラメントが飛んだ、あの感じだったな)


 (仕様バグかな。報告案件だぞ、柾兄)


 俺の脳内報告書の上に、クラインの横目がじっと刺さっていたことに、

 この時の俺は気づいていない。


   *


 「では、登録試験のご説明です!」


 気を取り直した受付さんいわく——


 町の北、徒歩数時間の試験洞窟。


 最奥の祠に置かれた刻印の銅板を、一枚持ち帰る。


 洞窟内は単独行動、付き添いは入り口まで。


 魔物はまず出ない。


 「銅板は、必ず一枚だけ。二枚持ってきた方は、失格です」

 「二枚持ってくる人がいるんですか」

 「欲張る方は、毎年いらっしゃいます」


 この世界の人間、信用されてないな。


 いや、信用の話じゃなくて、実績の話か。


 「転ばないことが、一番のコツです!」

 「その『まず』ってのが世界の罠なんだよなあ」とジェス。

 「試験より帰り道のほうが危ないくらいだ」とクライン。


 「あたしも行く! 水晶キラーの試験、見届けたい!」


 クーリが手を挙げた。


 「……ねえ、監督役って報酬出る?」

 「出ません」

 「出ないの!?」


 露骨に肩が落ちた。


 「……ま、まあ、今日は特別。無料タダで見届けてあげる」


 「恩は売っとくもんだからね。あとで利子つけて返してもらうから」


 「新人からむしり取る気満々じゃねぇか」

 「投資って言って」


 「利子っていくらですか」

 「んー……銅貨で、五枚?」

 「安っ」

 「じゃあ十枚」

 「上がった!?」

 「今、安いって言ったでしょ」


 ジェスが腹を抱えて笑っている。


 この子、たぶん、悪い子ではない。


 金にがめついだけだ。


   *


 北へ延びる街道は、丈の低い麦畑の間を縫っていた。


 風が渡るたび、緑の穂が波になって走る。


 遠くの丘の上には風車がひとつ。


 雲は高く、鳶がゆっくりと輪を描いていた。


 作り物だと分かっていても、綺麗なものは綺麗だった。


 道端に、丈の高い草が黄色い花をつけていた。


 名前は知らない。


 知らないまま「綺麗だ」と思えるのが、少し嬉しかった。


 うちの近所の川べりにも、こういうのが生えていた気がする。


 思い出そうとして、やめた。


 今日は試験だ。


 「ねえねえ水晶キラー。あんた、どこの出身?」

 「えっと、——ってところです」

 「……うっわ、ほんとに訛りキツ。今の、地名? 地名なの?」

 「らしいぜ。な、面白いだろこいつ」


 ジェスが笑い、クーリが「面白がるとこ?」と眉を寄せる。


 「まあ、いいわ。訛りなんてどうでも」


 クーリはあっさり切り上げて、両手を頭の後ろで組んだ。


 「そのかわり、うちの店で本買いなさいよ。兄さんの店」

 「読めないんですけど」

 「……あ」


 クーリは三秒くらい黙って、それから話題を変えた。


 「いい? 新人。洞窟ってのはね、行きより帰りで死ぬの」

 「はあ」

 「行きは元気だから覚えてる。帰りは疲れてるから間違える」


 妙に説得力があった。


 「クーリさんは、何回くらい潜ったんですか」

 「……そ、そういうのは、経験の年数じゃないの。質よ、質」

 「ゼロだぞ、こいつ」

 「ジェス!?」


 ジェスは笑っただけで、それ以上は言わなかった。


 クーリも、それ以上は怒らなかった。


 言い返す言葉を持っている顔ではあったのに、使わない。


 この二人、こういう間の取り方をするんだな、と思った。


   *


 その後ろでクラインが、半歩分だけ俺に寄って、声を落とした。


 「昨日の火のことは、誰にも見せるな」


 「……ギルドのあれで、もう十分すぎるほど目立った」

 「……はい」


 なんで隠すんだろう、とは思った。


 思ったが、レア属性の初期キャラが目をつけられるのは、ゲームでもお約束だ。


 素直に頷いておく。


   *


 試験洞窟は、丘の中腹にぽっかりと口を開けていた。


 入り口には古びた木の看板と、歴代の受験者が残したらしい落書き。


 中から流れてくる空気は、ひんやりと湿っていて、微かに土と苔の匂いがした。


 「じゃ、行ってきます」

 「おう。転ぶなよ!」

 「水晶キラー、がんばれー!」

 「……妙だと思ったら、戻れ」


 クラインの言葉が、今朝のヤンさんとまったく同じで、少しだけ引っかかった。


 同じ町に住んでいれば、言い回しも似るのかもしれない。


 そう思うことにした。


   *


 洞窟の中は、思ったより明るかった。


 壁のところどころに光る苔が張り付いて、青白い明かりを落としている。


 水滴の音が、遠くで規則正しく響いていた。


 入口の岩壁には、無数の落書きが彫られていた。


 どれも読めないが、たぶん名前だろう。


 同じ形の字が、何十も並んでいる。


 合格した人間が、自分の名を残していったんだと思う。


 俺は帰りに何を彫ればいいんだろう。


 久遠寺は、書くなと言われている。


 入口からいくつかの道は迷路めいていたが、奥へ進むほど、通路は「整って」いった。


 最初はごつごつした、ただの洞窟だったのが、だんだんと壁が滑らかになる。


 天井の高さが揃う。床が平らになる。


 足音まで変わった。


 湿って吸い込まれるような洞窟の反響が、いつの間にか、廊下の硬い音になっている。


 (手抜きモデリング……にしては、逆か。奥のほうが作り込んである)


 壁に手を這わせてみる。


 石だ。石なのに、継ぎ目がない。


 どこまでも一枚の、冷たい石。


 光る苔も、いつの間にか無くなっていた。


 なのに、暗くならない。


 天井の縁が、ぼんやりと一定の明るさで光っている。


 その明るさが、どこまで行っても同じだった。


 空気の温度も、変わらなくなっていた。


 洞窟なら、奥へ行くほど冷える。


 なのに、汗が引かない。


 冷たくもなく、暑くもない。


 人が長く居るために、誰かが決めた温度だった。


 水滴の音も、いつの間にか止んでいる。


 自分の足音だけが、前と後ろから、二重に返ってきた。


   *


 角をひとつ曲がったところで、足が止まった。


 壁に、板が嵌まっていた。


 金属らしい。表面に、文字が彫ってある。


 【関係者以外立入禁止】


 「…………」


 読めた。


 この世界に来てから、看板というものを一枚も読めていない。

 宿の看板も、古書屋の板も、ギルドの掲示板も。


 なのに、洞窟の奥のこれだけが、読める。


 「……つまり俺、関係者以外なんですけど」


 誰もいない通路に、声が吸い込まれた。


 少し先の壁には、矢印と一緒に、もう一枚。


 【管理区画 →】


 筆跡というか、字の彫り方が、事務的だった。


 工事現場の張り紙みたいだ。


 神秘の遺跡に、労働の匂いがした。


 もう少し行くと、床に埋まった小さな板があった。


 【B2】


 その先の分岐には、こう出ていた。


 【動力区画 立入厳禁】


 禁止の種類が、さっきより上がっている。


 一度だけ、厳禁の方の通路を覗いてみた。


 同じ石。同じ明るさ。


 違うのは、奥から低い音がしていることだった。


 地鳴りではない。もっと均一な、機械の唸りに近い音。


 止まっているものの音ではなかった。


 俺は素直に、矢印の方へ曲がった。


 こういうのは、素直に従った奴だけが生き残る。


 ゲームでも、たぶん、それ以外でも。


 (作り込みが変な方向に細かいんだよなあ、あの人)


 そう思うことにして、俺は先へ進んだ。


   *


 やがて、突き当たりに出た。


 小部屋ほどの空間。


 中央に、木の祠がぽつんと置かれている。


 硬質な石壁に対して、その祠だけが明らかに「後から持ち込まれた」風情で、

 少し傾いでいた。


 祠の中には、掌ほどの銅板が積まれている。


 表面には、統一言語の刻印。


 こっちは、当然のように読めない。


 壁の字は読めて、祠の字は読めない。


 この部屋、字が二種類ある。


 ……まあ、いいか。


 銅板は、思ったより軽かった。


 角が丸くなっている。


 何十年も、誰かの掌を通ってきた丸さだった。


 これを持ち帰れば、俺も晴れて冒険者だ。


 一枚、手に取った。


   *


 その瞬間。


 足元から、細い光の線が、すぅ、と走った。


 線は床を伝い、壁を這い上がり、天井へ。


 血管のように、回路図のように枝分かれして、部屋中に淡い光の脈が浮かび上がる。


 低い音がした。


 地鳴りでも、羽音でもない。


 強いて言えば——起動音だ。


 そして、行き止まりのはずの正面の壁一面に、光の文字が浮かんだ。


 読めない筆記体じゃ、ない。


 読める。俺には、読めてしまう。


 【生体反応ヲ検知 —— 照合中】


 「……なんて?」


 【照合完了】


   *


 壁が、音もなく割れた。


 いや——開いた。


 石が石のまま、襖みたいに滑って、左右へ。


 その向こうを、興味本位で覗いてみた。


 暗闇じゃなかった。


 淡く発光する壁面が、遥か下まで続く——深い、深い、竪穴。


 「え、ちょっと待っ——」


 途端に、直前まで立っていた床が、消えた。


 正確には、足元の床が光の粒に解けて、俺の体は支えを失った。


 落ちる。


 銅板を握りしめたまま、光る竪穴を、落ちていく。


 頬を打つ風。浮き上がる内臓。回る視界。


 落ちながら、上を見た。


 開いた壁の隙間が、みるみる小さくなっていく。


 四角い光が、切手くらいになって、それから、点になった。


 (隠しダンジョン!? 初回登録特典……にしては、演出が、ガチすぎる——!)


 悲鳴の代わりに、頭の中で言い訳めいたツッコミが回る。


 回り続ける。


 だって、そうでも思っていないと。


 ヤンさんの声が、頭のどこかで鳴った。


 ——妙だと思ったら、すぐ戻れ。


 戻れる床が、もう無いんですけど。


 流れ落ちていく壁面に、光の文字が次々と浮かんでは、消えた。


 【第七研究所 管理区画】

 【権限——確認】


 そして最後に流れたひと文字列を、俺は、確かに読んだ。


 【おかえりなさい】


挿絵(By みてみん)


 (第四話・了)

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