# Re:sou 第二話「ヤン」
門番は、俺を一度だけ見た。
ジェスが「連れだ」と言うと、それで終わった。
身元の照会も、荷物の検分もない。
(治安、大丈夫かこの町)
いや、ゆるいんじゃない。
ジェスが顔なだけだ。
*
門をくぐった瞬間、俺は足を止めた。
音が、押し寄せてきた。
外から聞いていた時は、ただの「ざわめき」だった。
それが門の内側では、ぜんぶ、ばらばらに分かれて聞こえた。
石畳を鳴らす荷車の車輪。呼び込みの声。値切る声。笑い声。
どこかで鶏が鳴き、鍛冶の槌がひとつ、遠くで律儀に拍子を刻んでいる。
夕暮れの大通りは、ちょうど店じまいの時刻だった。
商人たちが露店の布を畳みながら、最後のひと稼ぎを叫んでいる。
匂いも、渋滞していた。
焼き菓子の甘い匂い。革と鉄。家畜。香辛料の、鼻の奥を突く刺激。
それが夕餉の煙とまざって、通りの上に「町の匂い」を一枚作っている。
「……導入の町として、満点すぎる」
「ん? なんか言ったか」
「いえ。いい町だなって」
交易都市ハジ。
森で聞いた通りの、街道の結び目。
人と物が、余るほど流れてくる町。
そして、人だけじゃなかった。
*
まず目に入ったのは、樽を山積みにした荷車を押す集団だった。
俺の肩くらいの背丈。全員が見事な髭で、全員が岩みたいな腕をしている。
街道ですれ違った、あの連中だ。
あの時は夕闇で、髭しか見えなかった。
今は、篝火の下で、全部見える。
ドワーフだ。
実在した。
すれ違いざま、一人がジェスに片手を挙げ、ジェスも慣れた調子で挙げ返した。
その向こうの魚屋では、店主が——蛙だった。
いや、蛙っぽい何かだった。
つるりとした皮膚に大きな口で、濡れた手で器用に魚を捌いている。
犬の耳と尻尾を持つ配達人らしき少年が、荷を抱えて人混みを縫っていく。
鱗に覆われた腕の男が、屋台で串焼きを買っていた。
角の生えた女が、子供を叱っている。
叱られている子供の頭にも、小さい角が二本。
背丈が俺の倍ほどある男が、身をかがめて屋台を覗き込んでいた。
肩に鳥を乗せた老人が、その大男に道を譲らせている。
誰も、誰のことも、珍しがっていない。
珍しがっているのは、この通りで俺一人だった。
(種族図鑑が、歩いてる……)
きょろきょろしすぎたらしい。
「田舎から出てきたやつの顔だぞ」
ジェスに笑われた。
すみません、実際もっと遠くから来てるんです。
もっとも、二度見されたのは俺の方も同じだった。
すれ違った女の人が、俺の髪を見て、それからもう一度見た。
黒い髪は、この辺じゃ珍しいらしい。
顔じゃなくて髪を見られるのは、初めての経験だった。
*
歩きながら、看板を目で追った。
読めない。
一枚も読めなかった。
どれも、筆記体を崩したような字だ。
なんとなくローマ字っぽい音に見えるのに、単語として繋がらない。
絵だけは分かる。パンの絵。靴の絵。魚の絵。
絵が描いてある店だけ、何を売っているのか分かった。
「あんた、字は読めるか」
「……読めないです」
「そうか。まあ、読めねぇ奴の方が多い」
ジェスは、なんでもないことのように言った。
字が読めないのは、この町では恥ずかしいことじゃないらしい。
助かった。
*
そんな雑踏の中で、一箇所だけ、目が引っかかった。
布地屋の前だった。
長い耳の男が二人、立っている。
感動の初エルフだ。男だったけど。
片方は日に灼けた顔で豪快に笑いながら、店主相手に値切り倒していた。
生地を摘まんで、大袈裟に顔をしかめて、また笑う。
隣の客まで巻き込んで、もう商談なのか大道芸なのか分からない。
その隣に、もう一人が立っていた。
同じ長い耳。同じように整った顔。
なのに——違った。
肌は白磁みたいに白く、旅装なのに埃のひとつも纏っていない。
値切るでも、笑うでもなく、ただ立って、通りの向こうを見ている。
瞬きが、異様に少ない。
夕陽が横から差して、その瞳の中に、葉脈みたいな細い光の筋が走っていた。
綺麗だ、というより——絵画だった。
人の雑踏の中に、一枚だけ絵が立っている。
そして、気づいた。
人波が、その人の周りだけ、半歩ずつ逸れていく。
誰も避けているつもりはない。
ただ、誰も、そこを通らない。
連れらしいのに、笑うエルフとその人の間だけ、空気の温度が違った。
「……?」
なんだろう、今の。
言葉にできないまま、人波が二人を隠した。
「おら、こっちだ。日ぃ暮れるぞ」
ジェスに袖を引かれて、俺は歩き出した。
「さっきの、エルフですよね」
「ああ」
「二人、なんか……違いませんでした?」
ジェスは少しだけ黙って、それから肩をすくめた。
「そういうのは、クラインに聞け」
答えになっていなかったが、答える気がないのだけは分かった。
*
大通りを外れて、細い道に入った。
両側に、低い屋根が続いている。
同じ形の戸が、いくつも並んでいた。
「長屋ですか」
「そう。ここが俺んち」
ジェスが顎で示したのは、真ん中あたりの一軒だった。
戸の前に、薪が几帳面に積んである。
「その先が本屋。うるさい方な」
二軒先の戸口には、板が立てかけてあった。
字が読めないので、何の店かは分からない。
ただ、その戸の隙間からだけ、本の匂いがした。
紙と、埃と、少しの黴。
どこの世界でも、本屋は同じ匂いがするらしい。
どこかの戸の奥から、鍋を掻き回す音がした。
物干しに、洗濯物が並んでいる。
子供が二人、狭い道を全速力で駆け抜けていった。
ファンタジーの町だと思っていたら、急に、団地の夕方になった。
「宿は」
「そこだ」
路地を曲がって、十歩もなかった。
「近っ」
「近ぇんだよ」
*
「あの……ジェスさん」
「あん?」
「なんで、助けてくれたんですか。俺のこと」
歩きながら、ふと聞いた。
装備なし、身元なし、言葉は訛りだらけの行き倒れだ。
普通、関わらないだろう。
ジェスは前を向いたまま、少しだけ間を置いた。
「……あの森で行き倒れてる奴なんてのは、放っとけねぇんだよ」
それから、思い出したみたいに付け足した。
「なんとなくな」
なんとなく。
にしては、その横顔の笑みの奥で、一瞬だけ、何かが揺れた気がした。
聞いちゃいけないやつだ、と直感が言ったので、俺は「そうですか」とだけ返した。
*
宿は、二階建てだった。
木の看板に、例の読めない筆記体。
一階の窓から灯りと湯気が漏れて、煮込みの匂いが道まで出張してきている。
扉を開けると、頭上で古い鈴が、からん、と鳴った。
中は、思ったよりも広かった。
よく磨かれた木のテーブルが六つ。長いカウンターに、樽がふたつ。
壁には干した香草の束と、色の褪せた古い地図。
文字は読めない。
だが、形は分かる。
海があって、その真ん中に、陸が一枚。
……一枚だけだ。
島がいくつか散っているほかは、大陸が、一個しかない。
柾兄の部屋で回っていた、あの球と同じ形だった。
「……ほんとに、あの世界か」
声に出してから、慌てて口を閉じた。
嬉しいような、変な感じがした。
少なくともここは、あの人が作った場所だ。
それだけは、確かめられた。
床板は歩くたび、みし、と鳴くけれど、埃はどこにもない。
掃除の行き届き方が、飲食店のそれじゃなかった。
道場だ。
毎朝、同じ人間が、同じ順番で、同じ場所を拭いている床の光り方だった。
隅の席では、白髭の爺さんが麦酒をちびちびやっていた。
こっちを、胡散臭そうに見ている。
「ヤンさん、ただいま! 客っつーか、拾いもんっつーか——連れてきた!」
「また拾いもんかい」
爺さんが茶々を入れる。
「先週は迷子の山羊だったな」
「うっせぇぞ爺さん。あれは山羊のほうから懐いてきたんだよ」
「山羊にも見る目があるってことかね」
「褒められてる気がしねぇ」
*
カウンターの奥から出てきたのは、背の高い男だった。
四十絡み。白髪の交じった銀髪を短く刈っている。
宿屋の親父にしては、立ち姿がやけに真っ直ぐだった。
道場で一番構えの綺麗な先生が、ちょうどこんなふうに立つ。
力が入っているわけじゃない。
肩は落ちていて、手は体の横に自然に垂れている。
ただ、どこにも隙がない。
いつでも動ける人の、立ち方だった。
気がつくと、俺は半歩、間合いを取っていた。
取ってから、自分でびっくりした。
「拾いもん、ね」
ヤンさんと呼ばれた男は、俺を上から下まで一度だけ見た。
値踏みというより、確認に近い視線だった。
「カイです。森で、ジェスさんに助けてもらいました」
「こいつ、セラの森でウルフ二頭相手に枝一本で粘ってたんだぜ」
「……ほう」
セラの森。
森でジェスが言っていた、別の呼び方。
これか。
その名を聞いた時、ヤンさんの目の奥が、ほんの少しだけ暗くなった気がした。
隅の席から、爺さんが杯を掲げた。
「坊主。名は」
「カイです」
「カイな。覚えとくよ」
それから、麦酒を一口やって、付け足した。
「……三日で逃げ出さなきゃ、な」
「三日?」
「ここの親父は、優しいが、甘かねぇ」
*
飯時前の空いた食堂で、俺は事情を話した。
といっても、話せることは少ない。
「俺は、——の——をしてて、気がついたら、あの森に倒れてました」
「な? ヤンさん、聞いたろ」
ジェスが顔をしかめる。
「ところどころ、こういう聞いたことねぇ言葉が混じるんだ。訛りってレベルじゃねぇ」
ヤンさんは、口を挟まなかった。
ただ、聞いていた。
俺が言葉に詰まるところも、詰まってから言い直すところも、全部。
「歳は」
「十七です」
「家の者は」
「……叔父が、一人」
「その叔父は、どこに」
答えようとして、口が止まった。
どこに、だ。
あの部屋にいるはずだった。俺のすぐ後ろに。
「……分かりません」
ヤンさんは、それ以上は聞かなかった。
「金は」
「持ってないです」
「身元を証すものは」
「……ないです」
「行く当ては」
「……ないです」
我ながらひどい。
三連続「ないです」。
詰み確定の初期ステータスにも程がある。
隅の爺さんが「豪気だねえ」と、他人事の感想を漏らした。
ヤンさんはしばらく黙っていた。
怒るでも、呆れるでもない。
ただ、こちらの言葉の重さを量っているような沈黙だった。
*
それから、思いがけないことを聞かれた。
「名は、カイだけか。家の名は」
家の名。
名字のことか。
「あります。……書いたほうが、早いかもしれません」
カウンターに帳面と炭筆があった。宿帳だろう。
俺は端の余白を借りて、書いた。
久遠寺 開
書き慣れた四文字だ。
自分の名前を書くのに、迷う人間はいない。
それを見たヤンさんの目が——初めて、動いた。
「ジェス。表の樽を中に入れておけ」
「え? 今?」
「雨が来る」
「爺さんも、そろそろ看板だ」
「わしゃまだ半分——へいへい、わかったよ」
ジェスが首を捻りながら出ていく。
爺さんが杯を干して、銅貨を二枚置いて出ていく。
扉が閉まる。
鈴の余韻が消えるまで、ヤンさんは待った。
それから、声を落とした。
「坊主。これがなんの文字か、分かって書いたか」
「なんのって……普通の、——語です」
また訛った、らしい。
ヤンさんの眉が、わずかに寄った。
「これは遺跡文字だ」
節くれだった指が、四文字の上に置かれた。
「神代の遺跡の壁に刻まれている文字だ。読める人間は、この国にはいない」
「俺も、形をいくつか知っているだけだ」
「……遺跡、文字」
頭が一瞬、処理に詰まった。
俺にとっては、小学校で習った、ただの漢字だ。
書き取りで、何十回も練習させられた。
それがここでは、誰も読めない神代の文字。
さっき、俺は町中の看板を一枚も読めなかった。
今度は、俺の書いた字を誰も読めない。
お互い様だ、と笑えれば良かったんだけど。
目の前の人の声が、そういう温度じゃなかった。
*
「もうひとつ」
ヤンさんは帳面の一点を、指で押さえた。
「この家名は、なんと読む」
「クオンジ、です」
指が、止まった。
「……人神クオンジー」
その名を口にした時だけ、ヤンさんの声が少しだけ変わった。
祈りではない。
恐れでもない。
ただ、長く遠いものの名を呼ぶ声だった。
「人族も亜人も、大抵のやつが祈る先の御名だ」
「ほとんど同じ音だぞ、坊主」
ヤンさんは帳面のその頁を破り、竈の火に落とした。
四文字が、黒く縮れて、灰になる。
俺は黙って見ていた。
自分の名前が燃えるところなんて、普通は一生見るものじゃない。
久遠寺、という字を、俺は嫌いじゃなかった。
画数が多くて、テストの解答用紙で毎回、名前だけで時間を食う。
それでも、父さんと母さんと、柾兄と、俺と。
同じ字を使う人間が、四人いた。
今は、四人ぶんの字が、灰になっている。
「……まあ、データだしな」
誰にも聞こえないように、そう言った。
「悪いことは言わん」
ヤンさんは火から目を離さずに言った。
「家名は捨てろ。名乗るな、書くな」
「今後、お前は『カイ』——それだけだ」
(名前入力で隠しフラグが立つタイプのゲーム……?)
(いや、それにしては)
それにしては、この人の目は、演技に見えなかった。
「はい」
俺は、素直に頷いていた。
*
ヤンさんは頷き返すと、何事もなかったように腕を組んだ。
「行く当てがないなら、ここで働け。条件を言う」
「屋根裏の部屋と、朝晩の飯。それで寝床代と飯代はちゃらだ」
「働きが良ければ、日に銅貨十枚まで小遣いを出す」
銅貨十枚。
さっき爺さんが麦酒二杯で銅貨を二枚置いていったから——
一枚がだいたい、百円玉の感覚か。
時給に直すと考えたくない数字だが、衣食住込みと考えれば。
いや、そもそも初期資金ゼロの身だ。選択肢なんてない。
むしろ経済チュートリアルとしては、手厚い方だぞ、これは。
「やります。お願いします」
「よし」
「……いいんですか、こんな簡単に」
「あの森で行き倒れてた奴を放り出したとあっちゃ、寝覚めが悪い」
その言い方に、聞き覚えがあった。
ついさっき、道で聞いたばかりだ。
似た者同士なのか、片方がもう片方の真似をしているのか。
「そうだ。おい、腕出せ」
ジェスがいきなり、俺の袖をまくった。
「森で言ったろ。ウルフの牙は汚ぇって」
「噛まれてないですって」
「噛まれてなくても、転んでんだろ」
肘に、擦り傷があった。
自分でも気づいていなかった。
ジェスは水で洗って、棚から取った軟膏を、遠慮なく塗りつけた。
沁みた。
「痛っ」
「我慢しろ」
「勝手に棚、開けていいんですか」
「いいんだよ。俺んちみてぇなもんだ」
カウンターの向こうで、ヤンさんは何も言わなかった。
それが、答えらしかった。
*
そこへジェスが樽を抱えて戻ってきた。
「雨なんか、降りそうもねぇけど?」
「気のせいだったな」
ヤンさんは何食わぬ顔で言った。
ジェスが「この人、たまにこうなんだよ」とでも言いたげに肩をすくめる。
俺は笑いかけて——その前に、竈の中の灰をもう一度だけ見ていた。
*
飯の前に、宿の中を一通り見せられた。
井戸は裏。薪は勝手口の脇。物置の鍵は、いつも同じ釘に掛かっている。
裏庭は、思ったより広かった。
地面が固く踏み固められていて、真ん中だけ、草が生えていない。
「ここ、なんですか」
「物干し場だ」
物干し場にしては、足の跡が多すぎる気がした。
井戸の水汲みも、その場でやらされた。
桶を落とした。二回。
二回目でヤンさんが出てきて、何も言わずに縄の結び方を直していった。
結び目ひとつで、あんなに変わるのか。
「これに着替えろ」
ヤンさんが放って寄越したのは、麻の上下だった。
洗いざらしで、少しごわつく。
「その黒いのは目立つ。洗って、しまっとけ」
「……ありがとうございます」
「働かせるんだ。服くらい出す」
*
その夜の飯は、角兎の煮込みだった。
ホーンラビット。ジェスの今日の獲物だ。
「……うまっ」
嘘だろ。味まで完璧かよ。
柔らかい肉に、根菜と香草。
角の生えた兎というビジュアルとの落差がすごい。
夜の食堂には客が数組戻ってきていた。
荷運びらしい男が三人と、老夫婦がひと組。
誰も、注文をしていない。
出てきたものを、当たり前みたいに食べている。
「今日は何、って聞かないんですか」
「聞いても、今日のやつしか出てこねぇ」
ジェスが、根菜を突き刺しながら言った。
「文句言うやつは、来なくなる。来なくなったやつは、大体戻ってくる」
皿とジョッキの音、笑い声、厨房の火の音。
それが混ざって、ひとつの温度になっている。
「だろ? ヤンさんの煮込みは町一番なんだ」
ジェスが自分の料理みたいに胸を張る。
「作ったのヤンさんですよね」
「獲ってきたのは俺だ」
「半分だけ胸張る権利ですね」
「半分もありゃ十分だろ」
そう言って、ジェスは笑った。
その笑い方が、森で俺を助けた時と同じだったので、少しだけ安心した。
*
食いながら、厨房を見ていた。
ヤンさんの動きには、無駄がなかった。
鍋の前から三歩で、棚と、竈と、俺の背中まで届く。
その三歩の間に匙を持ち替え、皿を二枚出し、火加減を直していた。
うちの台所は、母さんが立つといつも戦場になる。
年に数回しか見られない戦場だけど。
この人の台所は、静かだった。
*
飯を食い終えたところで、いきなり皿洗いをやらされた。
「今日から従業員だ」
「早くないですか」
「飯を食ったからな」
理屈は、通っていた。
水は冷たく、皿は重く、そして数が多い。
数十枚を過ぎたあたりで、腕が笑いはじめた。
剣道二段の握力が、皿に負けている。
「そこ、裏を触れ」
カウンターの向こうから声が飛んできた。
見てもいないのに、なぜ分かるんだろう。
言われた通りに指を滑らせると、確かに、脂が残っていた。
「洗い桶の水を替えろ。二十枚で一度だ」
「……はい」
「数えなくていい。濁ったら替えろ」
数えるな、濁ったら替えろ。
なんとなく、これは皿以外にも使える言葉な気がした。
*
「あの——魔法って、どうやったら使えるんですか」
ジェスの匙が止まった。
「あー……才能によるな」
その顔は、少しだけ渋かった。
「俺は身体強化しか使えねぇ」
あ。
森の、丸太。
「あれ、そうだったんですか」
「あんなもん誰でもやる。つっても、大体のやつはそんなもんだ」
「どうやるんですか」
「あー……こう、ぐっと」
「ぐっと」
「ぐっとだ」
「……はい」
この人に習うのは、やめておこうと思った。
「ちゃんと知りてぇなら、クラインのとこだな」
「クライン?」
「俺の幼馴染。古書屋やってる魔術師だ」
森で言っていた、うるさい方の片割れか。
「腕は……まあ、認めたかねぇけど、いい」
認めたかねぇ、の部分だけ妙に力が入っていた。
「妹もいる。そっちの方が、もっとうるせぇ」
「兄妹なんですね」
「まあな」
少しだけ、答えが短くなった。
「明日、連れてってやるよ」
魔法。
チュートリアルの続きは、そこか。
*
「じゃあな。明日、朝一で来るわ」
ジェスは、そう言って戸を開けた。
鈴が、からん、と鳴る。
二軒隣まで帰るのに、やたらと元気な挨拶だった。
*
階段を上がる前に、ヤンさんが言った。
「明日は日の出前に起きろ」
「早くないですか」
「宿屋だ」
それだけだった。
*
寝床は屋根裏の小部屋だった。
梁が低くて、真ん中以外は立てない。
隅に、木箱がひとつ。誰かが使っていた形の凹みが、藁に残っていた。
藁の詰まった布団は、思ったより悪くない。
天井は低いが、小窓がひとつあって、星が見えた。
知らない星座だった。
しばらく、探していた。
夏の大三角も、北斗七星も、どこにもなかった。
探すのをやめるのに、少し時間がかかった。
畳んだ制服を、木箱の上に置いた。
背中の土は、はたいても少しだけ残っていた。
この世界の土だ。
畳み直して、もう一度、置いた。
布団に入っても、目が冴えて眠れなかった。
ログアウトなしで迎える、最初の夜だ。
「メニュー」
小さく呟くと、暗がりに白い枠が浮かんだ。
名前、レベル、種族。
昼と、一文字も変わっていない。
枠を閉じた。
それから、天井に向かって、小さく言ってみた。
「柾兄」
返事は、なかった。
「……上カルビ、二人前な」
やっぱり、なかった。
*
このまま寝たら、どうなるんだろうな。
……そもそも、このテスト、いつまでなんだろう。
考え始めると、止まらなくなった。
セーブポイントの説明もない。中断の方法もない。
柾兄からの連絡も、運営からのアナウンスも、何もない。
デバッグでこんなに放置されたことは、今まで一度もない。
あの人は口は悪いが、テスト中は必ずログを見ている。
そして必ず——
必ず、声をかけてくる人だ。
「…………」
布団の中で、俺は寝返りを打った。
やめだ、やめ。
考えても仕方ない。長期テストってだけだ。じっくり遊べってことだ。
明日は魔法だぞ。魔法。ファンタジーの花形。
楽しみが先だ。
*
そう自分に言い聞かせて——喉が渇いていることに気づいた。
水でも飲むかと階段を下りかけて、足が止まった。
食堂に、まだ灯りがある。
低い声がふたつ。
「——で、セラの森の、どの辺りだ」
「像の、すぐ近く。……やっぱ気になるか? ヤンさん」
「装備なし、路銀なし、身元なし。それで、遺跡文字を書く」
「……字ぃ? あいつ、いつの間に字なんて」
「……いや。なんでもない」
しばらくの沈黙のあと、ヤンさんの声がした。
ひどく、静かな声だった。
「あの森で『拾われる』人間なんてのはな。——普通はいまい」
俺はそっと階段を戻った。
喉の渇きは、どこかへ消えていた。
(NPC同士が自律会話するのか。すごい技術だな……)
すごい技術だ。
そう思うことにして、布団に潜り込む。
心臓が少しうるさかったのは、きっと、慣れない藁の匂いのせいだ。
下の通りで、酔っ払いが一人、歌いながら通り過ぎていった。
節は分からないのに、上機嫌なのだけは、はっきり分かった。
窓の外で、知らない星がひとつ、瞬いた。
俺の知っている空には、そんな場所に星はなかった。
それでも俺は、目を閉じた。
まだ、ゲームだと思いたかった。
(第二話・了)
感想評価等お待ちしております。
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