# Re:sou 第二十四話「山の骨」
ドワーフ国の関所は、門ではなく岩だった。
山と山の間を塞ぐように、切り出した巨石が積み上げられている。
継ぎ目に漆喰はない。石と石が、そのまま噛み合って立っていた。
朝の光が、壁の表面をなめらかに滑っていく。
千年前から一度も直していないと言われれば、信じただろう。
昨日積み終えたばかりだと言われても、たぶん信じた。
「……門番、いないんですか」
「そこにいる」
ヤンさんに言われて、俺はもう一度、石壁を見た。
いた。
壁と同じ色の胸当てを着ているせいで、岩の一部にしか見えなかった。
背は、俺より拳一つぶん低い程度。
けれど、そこから先がおかしい。
肩幅は俺の一・五倍。首は髭と筋肉に埋まり、腕は丸太みたいに太い。手の甲には、岩の割れ目みたいな筋が浮いていた。
編み込まれた髭が胸まで垂れ、革の胸当てには鎚の意匠が一つ。
小さい、とは思わなかった。
詰まっている。
そう思った。
門番が、俺の顎の辺りから言った。
「用向き」
「通行を。北の都まで」
「人族が四、半端が二か」
半端。
たぶん、ハーフエルフのことだ。
「何が半端よ!」
クーリが噛みついた。
門番は、ちらりと見ただけだった。
「半分ずつだろうが」
「言い方ってものがあるでしょ!」
「中身が変わるのか」
「変わらないけど腹が立つのよ!」
「ふん」
門番は、それ以上取り合わなかった。
*
クラインさんが、アナスタシアさんの書付を差し出した。
門番は、受け取りもしなかった。
「読めん」
「読めない?」
「読む気がない」
はっきりしていた。
「ミルウーダの紙は、ミルウーダで使え。ここは石の国だ」
聞いていた通りだった。
紙は、効かない。
門番の目が、俺たちを順番に撫でていく。
値踏みというより、重さを量る目だった。
ジェスの剣。
クラインさんの杖。
クーリの腰のダガー。
俺の剣を見た時だけ、片眉が上がった。
それから、その目が止まった。
御者台に座るヤンさん。
その背に負われた、斧槍で。
*
門番は、しばらく黙っていた。
朝の風が、山の狭間を抜けていく。
どこか下の方から、鎚を打つ音が響いていた。
「……おい」
「なんだ」
「その得物」
門番が、初めて顔を上げた。
編み髭の奥で、目が細くなる。
「どこで打った」
「昔だ」
「そういうことを聞いてるんじゃねぇ」
石が割れるような声だった。
「相当な年月、使い込んでる。だが鉄が生きてる。焼きも死んでねぇ。柄も石突も、使い手に合わせて減ってやがる」
門番は一歩、荷車へ近づいた。
「この国でも、こんな仕事のできる奴は片手で足りる。誰の手だ」
「知らん」
「……嘘だな」
即答だった。
「持ち主が、打ち手を知らんわけがねぇ。そんな得物、この世に一本もねぇ」
ヤンさんは、手綱を握ったままだった。
前を向き、一度も門番を見ない。
「知らんと、言った」
それきりだった。
門番は、その背中を長く見ていた。
何かを言おうとして、口を開く。
けれど、結局、何も言わなかった。
やがて脇へ退いた。
「……通れ」
「通行料は」
「要らん」
門番は、もう俺たちを見ていなかった。
石壁の陰へ戻りながら、誰にともなく呟いた。
「あんな仕事を背負って歩いてる奴から、銭は取れねぇよ」
*
関所を抜けてから、俺は荷台の縁に顎を乗せ、ずっと考えていた。
「ヤンさん」
「なんだ」
「あの門番、斧槍を打った人を知ってるんじゃないですか」
手綱が、小さく鳴った。
「さあな」
「……そうですか」
それきりだった。
隣で、クラインさんが眼鏡を押し上げた。
「カイくん。この国ではね」
「はい」
「作った物には、名前が残るんだ。銘のことじゃないよ。打ち方が残る」
学者の声が、少しだけ楽しそうだった。
「鎚の入れ方。焼きの温度。刃筋の起こし方。癖は全部、鉄に焼き付く。読める者には、署名がなくても分かるらしい。僕には読めないがね。石の声は聞こえない」
「じゃあ、あの人は」
「読んだんだろう」
クラインさんは、御者台の背中を一瞥した。
「そして――読めてしまったから、黙った」
*
坂を下りきったところで、世界が石になった。
木がない。
いや、あるにはある。
けれど、家には使われていなかった。
道の両脇に並ぶ家は、どれも石造りだった。
角は定規で引いたように立ち、屋根まで石で葺かれている。
そして、どれも、ずんぐりしていた。
背が低いんじゃない。
厚いのだ。
壁も、柱も、戸も。
祈りの国の尖塔とは、目指している方向がまるで違う。
あの国は、天へ伸びたがっていた。
この国は、地面へ食い込みたがっている。
そして、音がした。
鎚の音だ。
祈りの国では、鐘が時を刻んでいた。
ここでは、鎚が刻んでいる。
朝から。
昼から。
たぶん、夜も。
道端では、髭を編んだドワーフが四人、車座になって何かを囲んでいた。
鍋ではなかった。
斧の刃だった。
四人が四人とも、しかめ面で刃を睨み、腕を組んでいる。
誰も口をきかない。
「……あれ、何の集まりですか」
「たぶん、批評だね」
クラインさんが、事もなげに言った。
「誰かの打った物を、寄ってたかって貶すんだ。それがこの国の挨拶らしい」
「嫌な挨拶ですね」
「褒められたら、よほどのことだよ」
*
その日の夕方、俺は決めなければならなかった。
『前方、北北西。反応は継続しています』
宿の部屋で、ナナが窓の外を見ていた。
『街道から二日。廃鉱の跡地です』
俺は、地図を広げるクラインさんの背中を見た。
その向こうでは、ジェスとクーリが夕飯の順番で揉めている。
二日。
往復で四日。
この距離から、かなり正確な場所まで分かるようになっている。
「上がってるのか。……権限」
『ランクに変動はありません。依然として、一です』
ナナは、ほんの少し首を傾げた。
『ですが――目盛りの内側で、少しずつ動いています』
首都の聖域で、俺は票を一つ拾った。
ランクは変わらなかった。
けれど、ナナの目は少しだけ遠くへ届くようになった。
探せば探すほど、次を探しやすくなる。
そういう仕組みらしい。
よくできている。
よくできすぎている。
*
ヤンさんに話したのは、その夜だった。
「二日、街道を外れたいんです」
御者台の脇で馬の脚を診ていた背中が、止まった。
「遺跡か」
「たぶん」
「往復で四日だな」
「……はい」
四日。
この人は、北へ向かっている。
迎えに行かなければならない誰かがいる。
俺の寄り道は、その人を四日、余計に待たせる。
「あの、無理なら」
「行け」
即答だった。
顔も上げず、馬の脚を撫でたまま。
「え」
「行けと言った」
「でも、ヤンさん。北に――」
「急ぐ用じゃない」
短かった。
短すぎて、一瞬、聞き逃しかけた。
「……そうなんですか」
「そうだ」
ヤンさんは馬の脚を離し、立ち上がった。
晒の巻かれた脇腹を、庇う様子もない。
「早く寝ろ。山道だ」
それだけ言い、宿の中へ入っていった。
俺は、その背中を見ていた。
急ぐ用じゃない。
――本当に、そうなんだろうか。
*
二日の山道は、静かだった。
道が細くなり、途中で馬車を置いた。
荷は、ナナの格納領域へ放り込む。
麻袋。
水樽。
天幕。
鍋。
ナナの掌が触れると、全部、跡形もなく消えた。
以前より、入る量も増えているらしい。
「なあ、それ」
ジェスが歩きながら、顎でナナを示した。
「そん中、どうなってんだ?」
『……説明が困難です』
「暗いのか? 寒いのか? 鍋、錆びねぇのか?」
『どれも、当てはまりません』
ナナは少し困った顔をした。
『あそこには、暗いも、寒いも、時間もありません』
「なんだそりゃ」
『……ありません、としか』
ジェスは腕を組み、しばらく唸った。
それから、あっさり諦めた。
「まあいいや。便利だし」
その隣で、クラインさんが空を仰いだ。
「……今、この男は、僕が何年考えても分からないものを『便利だし』で終わらせたね」
「学者は大変だな」
「大変だとも」
*
標高が上がるにつれ、木が減った。
灌木が地面を這うようになり、それも消え、剥き出しの岩だけが続く。
風が頬を削った。
祈りの国の乾いた風とは違う。
刃物みたいに冷たい風だった。
クーリが両手をこすり合わせる。
「さっむ……なんで、こんな所に穴を掘るのよ」
「石があるからだろうね」
クラインさんが答えた。
「鉄じゃなくて?」
「鉄が欲しいだけなら、鉄の出る場所へ行けばいい。けれど、彼らはそうしない」
クラインさんは白い息を吐いた。
「石を掘る。割ってみるまで、中に何が入っているか分からないからだ。鉄かもしれない。銅かもしれない。何十年に一度、とんでもない物が出る」
「博打じゃないですか」
「博打だとも。連中は博打が好きなのさ」
眼鏡の縁に、薄く霜が張っていた。
「だから鉄が尽きても掘る。鉱石が尽きるまでね」
*
二日目の午後。
それは、尾根を回り込んだ先に、唐突に現れた。
山肌が四角く抉られている。
坑口だった。
石を組んだ入口が、山へ食い込むように口を開けていた。
周囲には石造りの小屋の残骸が散らばっている。
屋根は落ち、壁だけが立っていた。
錆びた鉄板が、風に鳴る。
坑口の脇には、石碑が一つ。
クラインさんが屈み込み、刻まれた文字を指でなぞった。
「……ドワーフ文字だ」
少し黙ってから、読んだ。
「〈チェット・ダー〉。――死んだ石」
坑口から、風が吹き出した。
生ぬるかった。
外の風は刃物みたいに冷たいのに、穴の中から吐き出される息だけが、生温い。
「石碑には、何て?」
「三行ある」
クラインさんの指が、文字を追った。
「一行目。〈ここに石あり〉」
「二行目は」
「〈ここに石尽きたり〉」
そして、三行目で指が止まった。
「……〈ここに、山の骨あり〉」
*
坑道は、驚くほど真っ直ぐだった。
素人の掘った穴ではない。
天井には等間隔のアーチが刻まれ、壁は削ったまま磨かれている。
足元には、水を逃がす溝が、きちんと傾斜をつけて掘られていた。
長い間、放棄されていたはずなのに、どこも崩れていない。
「うっそ」
クーリが天井を見上げ、呆れた声を出した。
「これ、穴でしょ? なんで穴が、廊下みたいなの」
「彼らにとっては、家だからだよ」
クラインさんの声が、石壁に反響する。
「地上の家は仮住まいだ、と言うドワーフもいる。本当の家は、山の中にある、とね」
*
三百歩ほど進んだところで、ジェスが手を挙げた。
無言だった。
全員が止まる。
『十二時方向。壁面内部。三体』
ナナの声が、頭の中で鳴った。
「壁の中?」
答えより先に、壁が膨らんだ。
岩が水面みたいに盛り上がり、そこから灰色の頭が突き出す。
節のある太い胴。頭には穴が二つ。
目ではない。
呼吸孔だ。
岩喰い虫。
胴回りが、人の腰ほどある。
「うっわ、気持ち悪っ!」
クーリが叫んだ。
「ジェス!」
「おう」
返事をした時には、ジェスはもう遠かった。
一歩で、間合いが消える。
抜き打ちが、虫の首の節へ入った。
斬るというより、節と節の隙間へ刃を差し込み、体重を乗せて捻じ切る。
灰色の胴が、二つに分かれて落ちた。
二体目が、ジェスの背後の壁から飛び出す。
出た時には、もうジェスが振り向いていた。
「――遅ぇよ」
軽い声だった。
返す刀で、胴を真っ二つにする。
三体目は、天井から落ちてきた。
俺の頭上へ。
*
『カイさま』
ナナの声より先に、体が動いた。
抜く。
上へ向ける。
そこへ置く。
刀身に、薄い真空の層を張る。
起点は掌。
軸は刀身。
終点は切っ先。
落ちてきた岩喰い虫が、自分の重さで二つになった。
俺は一歩も動いていない。
剣も、ほとんど振っていない。
ただ、そこに置いただけだった。
「……相変わらず、気味悪ぃな。それ」
ジェスが笑った。
「斬った感じがしねぇんだよ、お前の剣。割れたって感じだ」
「そうかもしれません」
実際、斬ってはいない。
俺の剣は、ただの鉄の棒だ。
斬っているのは、いつも別のものだった。
*
「ジェスさん」
「あ?」
「速くなってませんか。さっきの」
ジェスは剣についた灰を払いながら、きょとんとした。
「そうか?」
「二体目。出る前に、もう振り向いてました」
「そりゃ、気配で――」
言いかけて、自分の手を見る。
ほんの一瞬だった。
すぐに笑い、剣を鞘へ戻す。
「まあ、俺も成長期ってことだろ。まだ十九だぜ?」
二十歳前の男が言う台詞ではない気がした。
けれど、俺は何も言わなかった。
*
坑道は、そこで終わっていた。
正確には、終わらされていた。
真っ直ぐ続いてきた廊下が、唐突に途切れている。
その先には、壁があった。
石ではなかった。
灰色でも、茶色でもない。
なめらかだった。
千年、誰も磨いていないはずなのに、松明の光をそのまま返している。
継ぎ目がない。
石垣でも、岩盤でもない。
一枚の、何か。
手前の床には、鶴嘴が何本も転がっていた。
どれも、先が潰れている。
「……これ」
クーリが、恐る恐る手を伸ばした。
指が触れる寸前で止まる。
「なんか、嫌。これ」
*
クラインさんが、松明を近づけた。
「見なさい、カイくん」
壁の一角に、傷があった。
鶴嘴の跡だ。
何百。
何千。
打ち込まれた痕が、一つの区画に集中している。
そして、その全てが、表面を滑って止まっていた。
一ミリも入っていない。
「彼らは、掘ろうとしたんだ」
クラインさんの声が、わずかに震えていた。
「作る者が偉い、という国の連中がだよ。何十年か。あるいは何百年か。鉄が尽きても、掘り続けた。これが何なのか、知りたくて」
そして。
「……諦めた」
松明を下ろす。
「掘れなかったから、名前をつけた。〈山の骨〉と。骨なら、掘れなくても仕方がない。山にだって、骨くらいある」
石碑の三行目の意味が、ようやく分かった。
〈ここに、山の骨あり〉
負けました。
そう、石に刻んであったのだ。
腕が全てを語る国の者たちが。
自分たちの敗北を認め、穴を捨てた。
「……鉄が尽きても掘る、って言いましたよね」
「言ったね」
「じゃあ、この人たちは」
クラインさんが頷いた。
「石が尽きたんじゃない。石が、割れなくなったんだ」
*
「カイさま」
ナナが俺の隣に立った。
『反応は、この向こうです』
「……だろうな」
俺は壁を見上げた。
なめらかで。
継ぎ目がなくて。
松明の光を返す壁。
たぶん、俺が手を当てれば開く。
千年、ドワーフが鶴嘴を折り続けた壁が。
腕を認められた者だけが偉いという国で、誰も一度も勝てなかった壁が。
俺が触るだけで、開く。
胃の底が、少し冷えた。
「……ずるいな」
『はい?』
「いや」
俺は、手を当てた。
壁が、ほどけた。
音はしなかった。
なめらかな面が、内側から光の粒へ解けていく。
崩れるでもなく、砕けるでもなく。
ただ、そこから無くなった。
クラインさんの手から、松明が落ちた。
「あ」
拾わなかった。
口を半分開け、壁の向こうを見ている。
眼鏡がずり落ちかけていることにも気づいていない。
そこには、廊下があった。
石ではない。
土でもない。
白い、継ぎ目のない廊下が、真っ直ぐ奥へ延びている。
天井の帯が、俺たちの歩みに合わせ、手前から順に灯った。
誰も、口をきかなかった。
ジェスが剣の柄へ手をかけ、それから外した。
クーリが俺の袖を掴んだ。
掴んだことに、たぶん本人は気づいていない。
ヤンさんだけが、いつも通りだった。
「先に立て、カイ」
「はい」
*
中は、小さかった。
祈りの国の聖域みたいな広間はない。
部屋が三つ。
それだけだった。
一つ目は、空。
二つ目には、棚と白い破片。
三つ目に、それがあった。
床から生えた、腰ほどの高さの台。
俺が近づくと、上面が淡く光った。
『端末を確認しました』
ナナが、台の前に立った。
『第五研究所の観測中継施設です』
「研究所そのものじゃないのか」
『はい。地質、気候、そのほか各種変動の観測記録を、中継していた施設です』
何を観測し、どこへ送っていたのかは、聞かなかった。
聞いても、どうせ権限が足りない。
*
『接続します』
ナナが、台へ手を置いた。
指先が触れた瞬間、胸のコアが淡く光る。
そして。
音がした。
軋み。
金属が、ほんのわずかに撓む音。
聞き逃してしまいそうな、小さな音だった。
「ナナ」
『続行します』
「おい」
『――完了しました』
台の光が消え、ナナが手を離した。
いつも通りの顔。
姿勢。
瞬き。
声の高さ。
全て、いつも通りだった。
「今の音」
『報告対象です』
ナナは、わずかに間を置いた。
『コア損耗、〇・三パーセント』
小さな数字だった。
小さすぎて、一瞬、聞き流しかけた。
「毎回か」
『はい』
「……全部の遺跡で?」
『はい』
俺は白い床を見た。
足元だけが、うっすら光っている。
「なんで、今まで言わなかったんだ」
『お聞きになりませんでしたので』
――ああ。
そうだった。
この子は、そういう子だった。
「……約束しただろ」
『はい。ですので』
ナナは、俺を見た。
『今回は、申し上げました』
*
一票。
その代金は、ナナのコアの〇・三パーセント。
戻らない。
積もる。
そして、もう一つ。
「ナナ」
『はい』
「今の票で、権限は」
『わずかに上昇しました。ランクの変動はありません』
「じゃあ――」
言いかけて、口が止まった。
言わなくても、分かっていた。
背後から声がした。
「なあ! これ、何の部屋だ?」
ジェスだった。
棚の下から白い破片を拾い上げ、灯りへ透かしている。
子供みたいな顔だった。
その隣では、クーリが白い壁を指でつついて「あったかい」と驚いている。
クラインさんは床へ膝をつき、継ぎ目のない面を撫でていた。
何かをぶつぶつ呟いている。
今、この瞬間。
あの三人の身体は、俺が何もしないまま、また少し広げられた。
誰の許可も取らずに。
「カイ?」
ジェスが、こちらを見た。
「どうした。顔、白いぞ」
*
言おうと思った。
本当に、思った。
「ジェスさん」
「おう」
「あの――」
口を開く。
その時、ジェスが笑った。
「なあ、聞けよ。俺、さっきの虫な。三体目が天井から来るの、分かってたんだぜ」
嬉しそうだった。
「昔だったら、絶対食らってた。それが今は分かるんだよ。上手くなったんだよなぁ、俺」
その顔を見た。
二十年近く、地面を転げ回ってきた男の顔だった。
両親を亡くし。
故郷を焼かれ。
それでも剣を握り続けた男の顔。
上手くなったんだよなぁ、俺。
俺は。
「……ですね」
そう言った。
「すごいですよ」
「だろ?」
ジェスは白い破片を放り上げ、片手で受け止めた。
笑っていた。
俺も、笑い返した。
*
遺跡を出る前に、ナナが足を止めた。
『カイさま』
「ん?」
『下方に反応があります』
俺は床を見た。
白い廊下の、その下。
『深部に、ダンジョンコア反応』
「マジか!」
ジェスが跳ね起きるように振り向いた。
「潜ろうぜ!」
「やめとけ」
ヤンさんだった。
即答だった。
「なんでだよ! ダンジョンだぞ。お宝――」
「お前、何を取りに行く」
「……何って」
「言ってみろ」
ジェスは口を開いたまま止まった。
しばらく考え、頭を掻く。
「……分かんねぇ」
「そうだ」
ヤンさんは、出口へ向かって歩き始めた。
「ダンジョンってのはな。要る物を取りに行く場所だ。見に行く場所じゃない」
「でもよ」
「欲しい物が決まってから、また来い」
暗い廊下を、背中が進んでいく。
「穴は、すぐには逃げん」
*
帰りの坑道で、足が重かった。
前を、四つの背中が歩いている。
白い破片を放り投げては受け止めるジェス。
壁の温度に感心し続けるクーリ。
まだ何かをぶつぶつ言っているクラインさん。
俺は、その全員を、勝手に変えた。
三度目だ。
たぶん、四度目も。
五度目もある。
『カイさま』
『……なんだ』
『心拍が』
『いいんだ』
念話を切った。
「カイ」
前を歩いていた背中が止まった。
ヤンさんだった。
*
三人は先へ行った。
坑道の曲がり角の向こうで、ジェスの笑い声が跳ね返っている。
ヤンさんは、松明を壁の窪みへ立てかけた。
「言え」
「……何をですか」
「顔だ。首都からずっと酷い。今日は輪をかけてる」
俺は黙った。
権限。
規格。
票。
そんなものを、この人にどう説明すればいい。
「……俺のせいなんです」
「何がだ」
「ジェスさんが速くなってるのも」
ヤンさんの眉が動いた。
「クーリさんの魔力が減らなくなってるのも。全部、俺です。俺が勝手に――」
言った。
言ってしまってから、後悔した。
説明もできないのに、罪だけ置いていくのは卑怯だと思った。
「俺が、あの人たちを書き換えてるんです」
ヤンさんは、しばらく黙っていた。
*
そして。
「――お前は」
低い声だった。
「どこまで思い上がるつもりだ」
背筋が凍った。
「俺は」
「黙って聞け」
松明の火が揺れた。
「ジェスが今日、天井から来た虫へ振り向いた。あれを、お前は自分の手柄だと思ってるのか」
「そうじゃなくて」
「同じことだ」
ヤンさんが、一歩近づく。
「あいつが何本、木剣を折ったか知ってるか。何年、俺に転がされたか。冬の朝、井戸端で素振りしてるのを、俺は五年見てきた」
声が、坑道の壁を叩いた。
「両親を亡くして、故郷を焼かれて、それでも毎朝、剣を握った男だ」
その目が、俺を射抜いた。
「それを、お前が書き換えただと?」
言葉が出なかった。
「クーリが、あの日、モーリーの上でどれだけ絞り出したか見ただろう。あの娘が今、魔力を保たせられるようになったのは、あの日、空になるまで注いだからだ」
ヤンさんは、はっきり怒っていた。
「空にした奴だけが、次に多く注げる。そうやって、あいつらは積んできた」
「……でも」
まだ、言おうとした。
「事実として、俺が」
「事実がどうした」
即答だった。
「お前が何をした。器を広げたか。広げたとして、それがどうした」
火が爆ぜる。
「樽をでかくしたら、酒が湧いて出るのか」
「……いえ」
「そうだ。湧かん」
ヤンさんは松明を取り上げた。
「あいつらは注いだんだ。何年もかけて、こぼしながら、注ぎ続けた。樽の縁がどこにあったかなんぞ、注いだ量とは別の話だ」
歩き出す。
けれど、数歩で止まった。
「勝手にやったことを、気にするなとは言わん」
「……」
「話すべき時が来たら、話せ。許すかどうかを決めるのは、あいつらだ」
振り返らずに続ける。
「だが、それと、あいつらの積み重ねをお前の手柄にするのは別だ」
一拍。
「侮るな」
胸の奥に、重く落ちた。
「全部、自分で背負うな」
「……はい」
「それから、もう一つだ」
ヤンさんは歩き出した。
「信じてやれ」
その一言が、いちばん効いた。
「あいつが『上手くなった』と言ったなら、上手くなったんだ。お前が頷く必要すらない」
暗い坑道へ、声だけが残る。
「心の中で『違う、俺のせいだ』と思ってるお前は――」
一拍。
「あいつを、馬鹿にしてる」
*
坑口の光が見え始めた頃、ナナが隣へ並んだ。
『カイさま』
「……なんだ」
『補足を申し上げます』
いつも通りの声だった。
『先ほどのヤンさまのご指摘は、機構上も正確です』
「機構上?」
『はい』
ナナは、前を見たまま続けた。
『カイさまによる変動は、規格上限の再設定です。数値そのものを書き込んでいるわけではありません』
「同じことだろ」
『違います』
はっきりしていた。
『上限とは、入る量の話です。中身の話ではありません』
樽をでかくしたら、酒が湧いて出るのか。
湧かん。
『そして、決定的な差異が一点』
ナナが俺を見る。
『無理に引き上げられた出力は、必ず扱いきれません。加減ができず、器を壊します。――カイさまが、そうであるように』
胸の奥の罅が、ちくりと痛んだ。
『ジェスさまは、力を暴走させていません。クーリさまも同様です。お二人とも、増えた分を、きちんと扱えています』
淡々とした声だった。
『扱えているということは、その力が、すでに身についているということです』
俺は足を止めた。
『器が広がっても、注いでいなければ量は増えません。増えているということは、注がれていたということです』
ナナは言った。
『それは、皆さまの年月です』
それから、ほんの少し間を置く。
『カイさまが与えたのは、余白だけです』
「……同意を取ってないことは、変わらない」
『はい。変わりません』
その返事も、誤魔化さなかった。
「ナナ」
『はい』
「ありがとう」
ナナは、少し黙った。
『事実を報告したのみです』
けれど、胸の重さは、少しだけ軽くなっていた。
*
外へ出ると、空が広かった。
権限がわずかに上がったせいなのか。
遠く、山々のさらに向こうにある崑崙の位置が、以前よりはっきり分かる。
マナの圧ではない。
地図の上から、巨大な何かに指を置かれているような感覚だった。
そこにいる。
そう、世界そのものに教えられている。
その存在の大きさが、鳩尾の辺りへ、ゆっくり沈んだ。
「カイ」
ジェスが隣へ並んだ。
「なあ、俺さ」
「はい」
「なんか今日、調子いいんだよ」
笑っている。
「遺跡の部屋に入ってからかな。体が軽ぃんだ。お前もそう思わねぇ?」
俺は。
「ジェスさんが、振ってきたからでしょう」
そう言った。
自分でも驚くくらい、するりと出た。
ジェスは、きょとんとする。
それから、へらっと笑った。
「なんだよ、急に。気持ち悪ぃな」
「事実です」
「……まあな」
照れていた。
「まあ、そうだよな。俺、頑張ってきたもんな」
うん、と俺は思った。
そうだ。
頑張ってきたんだ、この人は。
*
『カイさま』
念話が頭の中で鳴った。
『ご報告が一つ』
『ん』
『先ほどの一票により、ランク二までに必要な遺跡は――おそらく、あと
2つです』
2つ。
思っていたより、近い。
けれど。
ナナを治せないまま、あと四回。
この子を削らなければならない。
『ランク二になれば、探査範囲も広がるんだよな』
『はい』
それから。
ナナは、少しだけ黙った。
『――それと』
『ん?』
『……いえ』
俺は足を止めた。
「どうした?」
『なんでもありません』
「ナナ」
『機能に支障はありません』
「そういう話じゃない」
『……申し訳ありません』
それきり、何も言わなかった。
ナナも、半歩遅れて止まる。
振り向くと、目が真っ直ぐ合った。
見上げるでもなく。
見下ろすでもない。
――そういえば、いつからか、そうだった。
言いかけて、やめる。
答えを持っているのに、言わない。
約束したはずだった。
それでも言わないのなら。
それは、この子にとって「報告」ではないのだ。
もっと別の。
自分自身に関わる、何かなのだ。
*
坑道を引き返し、ほどけた〈山の骨〉の跡まで戻った時。
そこに、一人のドワーフが立っていた。
*
小柄な男だった。
編み髭には白いものが混じり、背には鶴嘴を負っている。
分厚い革の前掛けは擦り切れ、元の色を失っていた。
男は、こちらを見ていなかった。
開いた壁を見ていた。
千年、誰にも割れなかった場所。
白い廊下へ続く、空白を。
「……骨が」
呟きが、坑道の奥へ消えた。
男は一歩、前へ出る。
「開いて、いる」
もう一度、言った。
それから、ようやく俺の顔を見た。
俺の後ろ。
白い廊下。
消えた壁。
順番に見た。
背中の鶴嘴を、両手で握り直す。
その手が震えていた。
「おい」
声が掠れている。
「……あんたら、あそこで、何を」
*
答える前に。
男の目が、俺の後ろへ滑った。
遺跡の白い廊下から、最後の一人が出てくる。
いつもと変わらない、ゆっくりした足取り。
背中には、斧槍。
ドワーフの動きが止まった。
完全に。
編み髭の奥で、目が見開かれていく。
斧槍の刃を見た。
柄を見た。
石突を見た。
まるで、鉄に残った二十年を、一つずつ読み直すように。
そして最後に。
ヤンさんの顔へ、目が上がった。
*
がらん、と音がした。
鶴嘴が落ちた音だった。
男は拾わなかった。
拾おうともしなかった。
ヤンさんも、止まっていた。
誰も、何も言わない。
坑道の奥で、水が一滴落ちた。
ジェスが俺を見た。
誰だ、という顔だった。
俺にも分からない。
けれど、一つだけ分かった。
この二人は、知り合いだ。
*
長い、長い時間のあと。
ドワーフが、ようやく口を開いた。
言葉は、一つだけだった。
「……二十年だぞ」
それが、何を数えた二十年なのか。
この山の骨を殴り続けた年月なのか。
それとも――
俺には、分からなかった。
(第二十四話「山の骨」・了)




