Re:sou 第二十三話「継ぐ」
首都ミルウーダの北門は、まだ半分が崩れたままだった。
石工たちが足場を組み、朝の光の中で槌を振っている。
削られた白い粉が、風に流れて、荷馬車の轍へ静かに積もっていった。
その下を、俺たちの馬車は、ゆっくりと抜けていく。
門を出ても、見送りは終わらなかった。
街道の両脇に、人が立っていた。
麦を納めきれなかった村の男。炊き出しの列にいつも並んでいた婆さん。パン屋の女。晒を巻いた腕を吊ったままの、若い衛兵。
昨日まで瓦礫を運んでいた手が、今朝は、ただ下ろされている。
道の真ん中だけが、空いていた。
半径三歩の円。
それが、道の形になって、北へ延びていた。
*
馬車が止まったのは、痩せた老人が、道の脇から一歩出てきたからだった。
あの日、最初に手を組んだ老人だった。
広場の端で、教王へ「聞いてくださるんですか」と叫んだ、あの人。
老人は、三歩の外で立ち止まった。
そこから先へは、来なかった。
来られない、と分かっている顔だった。
「英雄様」
「英雄じゃないです」
「では、なんとお呼びすれば」
「……カイです。それだけで」
老人は、しわだらけの顔を、少しだけほころばせた。
「カイ様。……正直に申します。わしは、あんたが怖い」
まっすぐな言葉だった。
誤魔化しも、詫びも、飾りもない。
「はい」
「近くへ行くと、胸が重うなる。年寄りの気のせいかと思いましたが、若い衆も同じことを言う」
「たぶん、気のせいじゃないです」
「そうですか」
老人は頷いて、それから、両手を胸の前で組んだ。
「ですが、祈るのは、遠くからでもできますでな」
低い声が、朝の街道へ落ちた。
「どうか、無事で」
その言葉に、後ろの誰かが続いた。
また誰かが続いて、道の両脇が、少しずつ、同じ形になっていく。
触れられないぶんを、この国の人たちは、そうやって渡してくるらしい。
胸のあたりが、変な具合に詰まった。
俺は、荷台の縁から降りて、頭を下げた。
円の中で、一人で。
*
門の脇に、黒い衣が立っていた。
アナスタシアさんだった。
胸元には、返上を許されなかった聖女の証が、朝日を弾いている。
目の下には、隠しきれない隈があった。
裁きを待つ身のまま、彼女は今朝も施療院に立ち、そのまま門へ来たのだろう。
「教王猊下より、言伝を預かっております」
「猊下は」
「まだ、起き上がれません。……ですが、口だけは、驚くほどよく回られます」
微笑みが、少しだけ人間くさかった。
街を案内してくれた時の、隙のない笑い方とは違う。
彼女は、背筋を伸ばして、言葉を運んだ。
「『礼は言わぬ。礼で済ませられる数ではない』」
「……厳しいですね」
「続きがございます。『我が国は、そなたらに返せるものを持たぬ。持たぬ国が返すと言えば、それは嘘になる』」
アナスタシアさんは、そこで一度、息を継いだ。
「『ゆえに、覚えておく。覚えることには、金も鉄も要らぬゆえ』」
俺は、崩れかけた尖塔を見上げた。
あの病んだ人は、たぶん、あと何年もない。
それでも、覚えておく、と言った。
「……ありがとうございます、と伝えてください」
「必ず」
彼女は、懐から一枚の書付を出した。
「北の国境まで、巡礼宿を使えるようにしてあります。宿代は取られません」
「助かります」
「ただ——」
金色の目が、北を見た。
「ドワーフ国では、この紙は効きません」
「効かないんですか」
「あの国は、紙で人を測りませんから。鉄で測ります」
冗談なのか本気なのか、区別のつかない言い方だった。
その両方だったのかもしれない。
*
レオンは、少し離れた場所に立っていた。
吊った左腕。磨き上げた甲冑。
昨日まで瓦礫を運んでいたはずなのに、胸当てには曇り一つない。
彼は右手だけで剣を抜き、切っ先を空へ向け、胸の前へ立てた。
神殿騎士の礼だった。
「……世話に、なりました」
それだけしか、言えないらしい。
唇が、その先を何度か作りかけて、そのたびに諦めた。
ジェスが、荷台から身を乗り出した。
「おい、その腕、いつ治る」
「ひと月ほどだと」
「じゃあ、次に会う時までには治ってんな。一本やろうぜ」
「……勝てません」
「そりゃそうだ。俺だってヤンさんには勝てねぇよ」
ジェスは、あっけらかんと笑った。
「勝てねぇ相手に振るのを、稽古って言うんだ」
レオンの顔が、一瞬、崩れた。
泣くのかと思ったら、笑った。
騎士の礼のまま、少年みたいに。
*
最後に、アナスタシアさんは、ナナを見た。
「ナナ様」
『はい』
「あなたには、最初から——路地で会ったあの日から、視えていたのですね」
ナナは、目を逸らさなかった。
『はい』
短い返事だった。
嘘をつくという選択肢が、そもそも搭載されていない声だった。
俺は、口を挟んだ。
「あの、俺が言ったんです。記録だけしておけって。だから」
「いいえ」
はっきりと、遮られた。
「隠し通したのは、私です」
金色の目が、俺を見ていた。
微笑みの、内側の顔だった。
「カイ様が見逃したのではありません。私が、見せなかったのです。……それを、あなたの罪にはさせません」
言い返せなかった。
この人は、たぶん、これから何度も裁かれる。
そのたびに、自分の罪を誰にも一枚も分けないつもりなのだ。
「あの」
「はい」
「教王猊下と、一緒に贖うんですよね」
「……はい」
「なら、猊下より長生きしてください」
アナスタシアさんは、目を丸くした。
それから、はじめて、聖女の顔じゃない笑い方をした。
「善処いたします」
*
鐘が鳴った。
朝の鐘だった。
一度、二度。あの日、誰も撞かなかった鐘が、今日は人の手で鳴っている。
馬車が、動き出す。
道の両脇の人たちが、いっせいに頭を下げた。
誰も、円の中には入ってこない。
「行ってらっしゃいませ」
アナスタシアさんの声が、追いかけてきた。
「どうか——還ってこられますように」
さようなら、じゃなかった。
祈りの国の別れは、そういう言葉をしているらしい。
尖塔が、丘の向こうへ沈んでいく。
白い街が、朝靄の中で、だんだん小さくなった。
「なあ、ナナ」
『はい』
「あの熾天使、最後に『継げ』って言っただろ」
荷台の隅で、ナナが顔を上げた。
「あれ、誰に言ったんだ」
『不明です』
「解析できないのか」
『あの声は、音声ではありません。街全体の祈りの密度が、意味の形に揃っただけです。……宛先は、記録されていません』
つまり、聞いた全員が、自分に言われたと思っていい声だった。
継げ。
何を、と聞き返す前に、あれは還ってしまった。
*
北へ、三日。
祈りの国の痩せた丘が終わり、川に出た。
橋の番人が、アナスタシアさんの書付を見て、あっさり通した。
渡りきると、土の色が変わった。
黒く、湿った土だった。
麦畑が広がり、水車が回り、道の脇に赤い実の生る木が並ぶ。
牛が鳴き、子供が石を投げて叱られている。
石畳も、香の匂いも、鐘の音も、そこにはなかった。
「……緑だ」
ジェスが、荷台の縁から身を乗り出して、間の抜けた声を出した。
「久しぶりに、緑を見た気がする」
「祈りの国も、緑はあったでしょ」
「あれは草だ。緑ってのは、こう、もっと肥えてんだよ」
クーリが呆れた顔をした。
三日目の昼、その荷台の上で、俺の右肩は、ようやく元に戻った。
クーリの指先の光が、最後の冷たさを引き抜いていく。
腕を回すと、力が、ちゃんと指先まで届いた。
「終わり。もう掠り傷もないわ」
「助かりました」
「あんた、悪魔に掠られて十日で治ってんのよ。普通、半年は寝てるから」
「そうなんですか」
「そうなの。……ちょっとは、ありがたがりなさいよ」
クーリは、そう言って、疲れた顔で笑った。
*
御者台では、ヤンさんが手綱を握っていた。
肋骨は、まだ晒を巻いたままだ。
二本折れている人間の座り方じゃないが、この人にそれを言っても無駄なことは、もう学んだ。
「ヤンさん。この道、ずっと北へ行くと、どこに出るんですか」
「ドワーフの国だ。抜ければ、その先が帝国。さらに北が、魔族の領だ」
淡々とした声だった。
北。
——北に、迎えに行かなきゃならん奴がいる。
ハジを出る朝、この人はそう言った。
「……ヤンさんの用も、そっちなんですね」
手綱を握る手が、一度だけ、握り直された。
「まずは、鍛冶屋だ」
それだけだった。
この人の「昔」も「用」も、いつも一行で終わる。
*
「ドワーフ国というのはね」
荷台の中で、クラインさんが帳面を開いた。
始まった、とジェスが天を仰いだ。
「僕らの言う『国』とは、少し勝手が違う。あそこは、作る者が偉い」
「王様は、いないんですか」
「いるよ。鍛冶王だ」
聞き慣れない響きだった。
「かじおう」
「あの国の王は、血で継がない。腕で継ぐ。……国で一番いい物を打つ者が、王だ。それだけの話でね」
「それだけって。じゃあ、腕のいい鍛冶が現れたら、王様が替わるんですか」
「替わるとも。ちゃんと、手順まである」
クラインさんは、帳面の頁を、指の腹で撫でた。
「年に一度、崑崙の麓で武具大会が開かれる。誰でも出られる。ドワーフでなくてもだ。持ち込んだ一振り、一枚の鎧、それだけで裁かれる。血も、位も、金も、あそこでは一銭の値もつかない」
「へえ」
「そこで優勝を重ねてね。三度、五度と続けば——王へ挑む資格が下りる」
ジェスが、天井を仰ぐのをやめた。
「勝ったら?」
「その日から、そいつが王だ」
ジェスの目が、面白そうに光った。
「そりゃいいな。分かりやすくて」
「分かりやすいだろう? だから、あの国は誰も嘘をつかない。腕が全部、喋ってしまうからね」
クーリが、身を乗り出した。
「じゃあ、今の王様は」
「負けん」
御者台から、短い声が飛んだ。
ヤンさんだった。前を向いたまま、手綱も緩めない。
「そう」
クラインさんは、あっさり頷いた。
「もう長いこと、誰も勝てていない。挑んだ者は数え切れないが、王の鎚に届いた者は、一人もいない」
「そんなに、すごいんですか」
「すごい、で片づく話ではないんだよ、カイくん。……あの王は、覇王だ」
荷台の中の空気が、少しだけ変わった。
「覇王」
ギルドで聞いた魔王みたいなもんか?
「種族の総意が、一人へ傾いた時にね。世界が、その者をそう刻む。誰かが選ぶんじゃない。皆がそう思ってしまった結果、勝手にそうなるんだ」
クラインさんの声が、少しだけ低くなった。
「そして覇王には、種族ごとの色が出る。人族の覇王は、武だ。剣を握らせれば、現存する人類の頂点だよ。エルフの覇王は魔術。公国の海人なら、海そのものを動かす。……そういうものだ」
「ドワーフのは」
「作る力だ」
一拍、置いた。
「鍛冶王の打った物は、そうそう折れない。曲がらない。錆びない。……理屈ではなく、世界がそう保証する」
ジェスが、口笛を吹いた。
「じゃあカイの刀、その王様に頼めば一番じゃねぇか」
「王へ注文するのかい? 順番待ちが百年だよ」
笑い声が上がった。
ヤンさんは、笑わなかった。
手綱を握ったまま、北の稜線だけを見ている。
俺は、その背中を、少しの間、見ていた。
『ナナ』
『はい』
『覇王って、俺の権限と、関係あるのか』
念話に、間があった。
『直接の関係は、ありません。……ただし』
『ただし?』
『機構は、同一です。世界は、多数の意思が一点へ揃った時にのみ、書き換わります。創世人の票も、種族の総意も、その一形態に過ぎません』
俺は、揺れる荷台の天井を見上げた。
つまり、あの国の王様は。
鎚で、票を集めたわけだ。
「まあ、そういう国だから」
クラインさんが、話を戻した。
「気位が高くて、口が悪い。よそ者にはまず作らない。……ただし、一度気に入られると、代金より先に鉄を渡してくる」
「めんどくせぇ連中だな」
「君と気が合うよ、ジェス」
「それ、褒めてねぇだろ」
クーリが吹き出した。
「で、その真ん中に、崑崙がある」
クラインさんの声が、少しだけ変わった。
「山が、そのまま神域でね。麓には市が立って、玉を売る店が軒を並べている。……そして、大会が終わると、その足で山へ登るんだ」
「登る。誰が」
「大会に出た全員でだよ。一時的に町から人がいなくなる」
クラインさんは、指を一本立てた。
「先頭を歩くのは、その年の優勝者だ。自分の打った一振りを、担いでね」
「それを、どうするんですか」
「納める。鍛冶の神へ」
「……返ってこないんですか」
「返ってこないと聞いているね。その年の、いちばんいい鉄だよ。売れば家が建つ」
学者の目が、少しだけ遠くなる。
「一年かけて打った最高の一振りを、担いで山へ登って、置いてくる。……ドワーフというのは、そういう連中だ」
俺は、荷台の縁から北の空を見た。
一番いいものを、手元に残さない国。
それが千年続いたら、山の上には、何が積み上がっているんだろう。
「僕が入れてもらえなかった書庫も、その麓の市にある。神へ捧げた鉄の記録や国中の魔法書が、古来から一枚残らず残してあるそうだ」
「古来って、どのくらいですか」
「さあ。ドワーフが『古来から』と言った時は、数えない方がいい。数えられたら、それはもう古来ではないそうだ」
クラインさんは、肩をすくめた。
「一枚も見せてもらえなかったがね。学生の身分では、門の前で追い返された」
クラインさんは、帳面を閉じて、静かに笑った。
「今度は、Bランクの冒険者として行く。……肩書きというのは、こういう時に使うものだよ」
*
十日目の夕方、地平の向こうに、白い線が見えた。
雲じゃなかった。
山だった。
夕日を浴びて、稜線だけが、燃えるような色をしている。
その手前に、まだ何十里も、丘と森が畳まれている。
でかい、という言葉が、追いつかなかった。
日が落ちてから、街道脇の空き地に天幕を張った。
飯は、クーリだった。
「今日はね、いい薬草が採れたの」
嫌な予感がした。
鍋の中身は、たしかに粥の色をしていた。
だが、匂いが、粥の匂いじゃなかった。
一口食べたジェスが、動きを止めた。
「クーリ」
「なによ」
「これ、飯か? 薬か?」
「両方よ」
「両方は、ないんだよ」
ジェスが器を置き、クーリが眉を吊り上げる。
『成分を分析します』
ナナが、律儀に鍋を覗き込んだ。
『滋養、および血の巡りの改善に有効です。旅程における疲労の蓄積に対し、極めて合理的です』
「ほら見なさい!」
「味の話をしてんだよ、俺は!」
ヤンさんは、何も言わずに二杯目をよそっていた。
クラインさんは、一口ごとに水を飲んでいた。学者は正直だった。
俺は、三口目で悟った。
これは、飲み物だ。噛んではいけない。
「……うまいです」
「嘘つき」
クーリは、そう言って、少しだけ嬉しそうだった。
*
焚き火が落ち着いた頃、ヤンさんが枝を拾った。
そのまま、地面に一本、線を引く。
「剣は、当てて、潰す」
もう一本、その隣に、わずかに反った線を引いた。
「刀は、置いて、引く」
「同じ、斬るって動作ですよね」
「別物だ」
枝の先が、反った線をなぞる。
「まっすぐな刃で肉を断つには、体重ごと押し込むしかない。だから剣は、打った後に止まる。止まらねば体が流れて、次が遅れる」
反った線の端を、軽く撫でた。
「反りがあると、刃は自分から滑る。押さずとも、引けば裂ける。……お前の踏み込みは、当てた後に体が前へ抜けるだろう」
その通りだった。
剣道の面は、当てて終わりじゃない。抜けて、初めて一本になる。
だから俺は、いつも打った後に、勝手に前へ出てしまう。
「剣なら悪癖だ。刀なら、正しい」
俺は、地面の二本の線を見ていた。
「……ハジの裏庭で」
「なんだ」
「初めて型を見てもらった時、言いましたよね。型は悪くない、剣が違うだけだって」
「言ったな」
「あの時から、分かってたんですか」
ヤンさんは、枝をぽきりと折った。
「見れば分かる」
「じゃあ、なんで教えてくれなかったんです」
「無い物の話をして、何になる」
火が、ぱちりと鳴った。
「この大陸に、刀はほとんど無い。あるとしても、海の向こうの皇国から流れてきた、数振りだ。値がつかん。手に入らんものを教えるのは、指導ではなく、拷問だ」
「……それで、黙って握りだけ直したんですか」
「そうだ」
一年近く、この人は、それを黙って見ていたことになる。
「じゃあ、今は」
「ある場所へ、向かっている」
そういうことか。
「ヤンさん。……刀、見たことあるんですか」
一拍、間があった。
「一度だけな」
「どこで」
「昔だ」
ほら。また一行だ。
*
「なあ、ヤンさん」
ジェスが、火の向こうから聞いた。
「カイの剣、誰に譲るんだ。刀が打てたら、余るだろ」
ヤンさんは、すぐには答えなかった。
火が、二回、爆ぜた。
「決めていない」
「俺?」
「お前は、自分の剣を持っているだろう」
「そりゃそうだけどよ。良い剣なんだろ、あれ」
ジェスは、あっさり笑って引き下がった。
俺だけが、引っかかっていた。
ヤンさんは、「決めていない」と言った。
「お前じゃない」とは、言わなかった。
「ヤンさん」
「なんだ」
「あの剣、大事なものなんじゃないですか」
火明かりの中で、ヤンさんの目だけが動いた。
「なぜ、そう思う」
「これを貰った朝、クラインさんが呟いたんです。宿屋の親父してるんじゃなかったのか、って」
その台詞を言った本人が、火の向こうで、そっと視線を逸らした。
学者は、こういう時だけ耳が遠い。
「刃に、曇り一つないんですよ。鞘も柄も、あんなに使い込まれてるのに」
ヤンさんは、火を見ていた。
「……丈夫な剣だ」
それだけだった。
俺は、腰の剣に手を置いた。
装飾のない、短めのロングソード。
斬れ味が飛び抜けているわけでもない。取り柄は、頑丈さくらいだ。
そのはずなのに、この人は、ずっとこれを磨いてきたのだ。
*
二十日目。国境の宿場町、ガルドへ入った。
石造りの、低い町だった。
戸口が低い。看板も低い。カウンターも低い。
俺でもギリギリの宿の梁を、ジェスは頭をぶつけてから覚えた。
町中に、鉄と炭の匂いが染みついていた。
朝から金槌の音がして、昼も金槌の音がして、夜になっても、どこかで金槌が鳴っている。
祈りの国の鐘の代わりに、この町では、槌が時を刻んでいた。
樽を担いだドワーフの行商が、堂々と道の真ん中を歩いていく。
犬の耳をした運び屋が、荷を抱えて人混みを縫う。
長い耳の男が、鍛冶屋の親父と、一刻ほど値切り合っていた。
肌は白いが表情は豊かで、大声で笑って、最後には親父の肩を叩いている。
その斜め向かいに、同じ長い耳の女が立っていた。
こちらは、動かない。
肌が白磁みたいに白くて、瞬きが、驚くほど少ない。
瞳の中で、葉脈みたいな光が、ゆっくり流れている。
人の形をした絵が、そのまま道端に立てかけてあるようだった。
「同じ種族には、見えませんよね」
思わず、隣のクラインさんへ言った。
「見えないだろうね。実際、育ち方が違う」
クラインさんは、帳面から目を上げずに答えた。
「向こうの——値切っている方が、胎生まれだ。母親の腹から生まれて、飯を食い、日に灼けて、値切って、笑う。僕の母もそうだった」
「じゃあ、あっちは」
「樹生まれ。世界樹の枝から実って、生まれた時から完成しているやつらだよ」
眼鏡の位置を直す。
「ほとんど歳も取らなければ、慌てもしない。感情が薄いんじゃない。……たぶん、要らないんだ」
その言い方に、少しだけ棘があった。
「クラインさんは、どっち側なんですか」
「僕は、どっち側でもないよ」
学者は、あっさり笑った。
「だから、どっちも観察できる」
ここでは、誰も俺を英雄と呼ばない。
知らないからだ。
そして若干だが道を開ける。
なんとなく、嫌な感じがする、という顔で。
名前も知らずに避けられる方が、英雄様と呼ばれて避けられるより、正確だった。
*
宿の部屋で、クーリが俺の胸へ手を当てた。
肩の呪いは、もう抜けている。
それでも彼女は、毎晩これをやめない。
「……やっぱり、駄目ね」
淡い緑の光が、俺の胸の中心で、押し返されている。
器の罅。
そこから、マナが滲み続けている。
「治らないですよ、それ」
「知ってるわよ」
クーリは、手を下ろした。
「あたしの奇跡はね、生き物を『本来あるべき形』へ戻す力なんですって。師匠にそう教わったの」
彼女は、自分の手を見た。
「なら、あんたのこれは何? あんたの『本来あるべき形』が、これだって言うの?」
答えられなかった。
たぶん、そうなのだ。
罅の入った器が、今の俺の、正しい形なのだ。
「……ナナのも、完治目前で止まった」
クーリが、ぽつりと言った。
俺は、顔を上げた。
「知ってたんですか」
「手を当ててりゃ分かるわよ。途中で、押し返されるの。あそこから先は、あたしの領分じゃないって、はっきり」
膝を抱えて、彼女は壁に背を預けた。
「本人からも、聞きました」
「……あの子、言ったんだ」
意外そうな顔だった。
「約束したんです。聞かれなくても、隠さないって」
「ふうん」
クーリは、しばらく黙っていた。
「あたしね」
小さな声だった。
「治せないものが、増えていくのが、怖いのよ」
めずらしく、素直だった。
「治せるって、思われてるから。膝をついたら、みんな、ほっとした顔をするの。……それが、たまに、重い」
俺は、何も言えなかった。
言えることが、一つもなかった。
「あ、それと」
クーリが、思い出したように顔を上げた。
「最近、変なの」
「変?」
「魔力の減りが、遅い。首都で、あんなに使ったのに。……あたし、こんなに保つ人間じゃなかった」
「いいことじゃないですか」
「いいことよ。いいことなんだけど」
クーリは、自分の掌を、しげしげと眺めた。
「なんか、あたしの手じゃないみたいなのよ。嫌じゃないけど」
背中が、冷たくなった。
「……疲れてるのね。忘れて」
彼女は笑って、部屋を出ていった。
*
その夜、宿の裏庭で、ヤンさんはいつも通り木剣を投げてきた。
先にジェスが立った。
低く構えて、踏み込む。
その一歩が——速かった。
ヤンさんの木剣が、間に合わない。
いや、間に合ってはいた。ただ、いつものように余裕をもって「添える」のではなく、確かに「受けた」。
打ち合う音が、夜の庭へ響いた。
「ジェスさん、速くないですか」
「だろ!」
ジェスは、汗まみれで笑っていた。
「最近、調子いいんだよ。体が軽くてよ。俺、才能あったのかもな」
嬉しそうだった。
心の底から、嬉しそうだった。
ヤンさんは、笑っていなかった。
「ジェス」
「ん?」
「今の踏み込みで、何本目だ」
「えーと、五本? 六本?」
「息が、乱れていない」
ジェスは、きょとんとした顔をした。
それから、自分の胸に手を当てて。
「……あれ?」
自分の心臓の音を、初めて知らない人のように、探していた。
*
部屋に戻ると、ナナが窓際の椅子に座っていた。
北向きの窓だった。
月明かりの下で、木の花の髪飾りが、鈍く光っている。
『カイさま』
「ん?」
『報告が、あります』
背筋が、伸びた。
『ジェスさまの身体規格に、変動を確認しました』
心臓が、一度、重く鳴った。
「……病気か」
『いいえ。上限の、再設定です』
「上限」
『この世界の生体には、種ごとに、越えられない規格が設定されています。筋力、反応速度、魔力容量。……創世人が、そう定めました』
ナナは、淡々と続けた。
『ジェスさまの規格が、書き換えられています。クーリさまの魔力容量にも、同様の変化があります』
クーリの、自分の手を見る目が、頭に浮かんだ。
「誰が、書き換えたんだ」
『カイさまです』
一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。
「……俺、何もしてない」
『はい。していません』
「じゃあ、なんでだよ」
『権限とは、そういうものです』
ナナは、俺を見ていた。
責める目でも、慰める目でもなかった。
『カイさまが遺跡へ触れ、票が集まり、権限が上がりました。その結果として——お側にいる方々の規格が、再認可されています。カイさまの意思とは、無関係に』
「戻せるのか」
『照会します』
一拍。
『権限が、不足しています』
「止めるのは」
『同上です』
俺は、自分の掌を見た。
クーリと、同じことをしていた。
「……あいつら、喜んでるんだぞ」
声が、少し掠れた。
「ジェスさん、才能あったのかもな、って言ってた。何年も、地面転がって稽古してきた人が」
『はい』
「俺が、勝手に書き換えただけなのに」
『はい』
ナナは、否定しなかった。
嘘でも「そんなことはありません」と言ってくれれば、少しは楽だったと思う。
そうしないところが、こいつの誠実さだった。
「……言った方が、いいのかな」
『判断は、カイさまの権限です』
「それ、たまにずるいと思う」
『……申し訳ありません』
窓の外で、まだ金槌が鳴っていた。
誰かが、夜通し、鉄を叩いている。
「なあ、ナナ」
『はい』
「お前は」
言いかけて、少し迷った。
「お前の上限も、変わってるのか」
ナナは、少し黙った。
『いいえ』
「なんで」
『わたしは、生き物ではありません。種の規格に、含まれていません。……理の、外です』
窓の月が、白かった。
つまり、そういうことだ。
俺の力は、隣にいる人間を勝手に強くして、この子だけを、削り続けている。
一割ずつ、戻らないまま。
*
ナナの目が、動いた。
椅子の脇に立てかけた、俺の剣へ。
一昨日も、昨日も、今夜も。
「ナナ」
『はい』
「お前、それ、ずっと見てるだろ」
ナナの指が、膝の上で、わずかに動いた。
『……申し訳ありません』
「怒ってない。聞いてるだけだ」
長い間があった。
窓の外で、金槌が三度鳴って、止まった。
『一つ、照会しても、よろしいですか』
「照会って。……お前、それ俺に使う言葉じゃないだろ。いいよ、なんでも」
ナナは、剣を見たまま言った。
『役目を終えた道具は、どうなるのですか』
心臓が、一度、大きく鳴った。
俺は、剣の柄に手を置いた。
ヤンさんから渡された剣。
虚鞘を、こいつと一緒に覚えた。あの丘でも、首都でも、ずっと手の中にあった。
刀が打てたら、こいつは、俺の手を離れる。
「……捨てるわけじゃない」
『はい』
「次の手に、渡すんだよ。譲るって、そういうことだ。まだ使えるから、譲るんだ。使えないものは、誰も譲らない」
言いながら、自分でも、少し胸が痛んだ。
ナナは、頷いた。
それから、髪飾りへ触れた。
一度。
もう一度。
『では』
声が、いつもより、少しだけ小さかった。
『使えなくなった道具は、どうなるのですか』
答えが、出なかった。
窓の外を見ているナナの横顔は、いつも通りだった。
瞬きも、姿勢も、声の高さも、全部いつも通りだった。
だから、余計に、まずいと思った。
「ナナ」
『はい』
「お前は道具なんかじゃないだろ」
『わたしは、第七研究所管理支援端末です』
「知ってる」
俺は、言った。
「知ってるけど。道具は、髪飾りに触ったりしない」
ナナの瞬きが、止まった。
淡い銀青の目が、俺を見ている。
何かを測る目じゃなかった。測ろうとして、目盛りが足りていない目だった。
『……記録します』
「今の、記録するようなことか?」
『はい』
ナナは、窓の外へ目を戻した。
『重要な、記録です』
*
しばらく、どちらも黙っていた。
北向きの窓の外で、山の稜線が、月に白く光っている。
その、さらに向こう。
名前だけを教えられて、中身を伏せられた"重さ"が、今夜も、そこにあった。
『——カイさま』
「ん?」
『前方、北北西。端末反応を確認しました』
俺は、顔を上げた。
「遺跡か」
『はい。規模は小。……ただし、街道から、二日ほど外れます』
「山の中か」
『地形図と照合しました。廃鉱の跡地です。ドワーフ国の領内ですが、放棄されて久しいと推定されます』
二日。往復で四日。
道の途中に、一票が落ちている。
「行けるか」
『判断は——』
「俺の権限だろ。分かってる」
ナナは、頷かなかった。
代わりに、こう言った。
『わたしは、票を運ぶために作られました』
窓の月を見ながら、静かに。
『ですので、行きたい、とは申しません。……ただ、反応は、消えるまで記録し続けます』
それは、たぶん、行きたいという意味だった。
たぶん、本人も、その名前をまだ知らない。
(第二十三話・了)




