Re:sou 第二十二話「祈りの先」
首都の空は、よく晴れていた。
戦いの翌朝だというのに、雲ひとつない。
崩れた大聖堂の尖塔から、白い石の粉が、風に流れて落ちていく。
その下で、人々が瓦礫を運んでいた。
歓声は、なかった。
勝ったという顔を、誰もしていない。
ただ、生き残った者が、生き残った者の骸を運ぶ。
その静かな作業だけが、朝から続いていた。
俺は、広場の端に座って、それを見ていた。
昨日、この広場は戦場だった。
天使が墜ち、悪魔が消え、熾天使が空を裂いた。
その同じ石畳を、今は箒が掃いている。
血の跡へ、水がまかれる。
砕けた柱が、綱で引かれていく。
壊れた露店の板を、大工が測り、釘を打つ。
祈りの国は、昨日、一度死にかけた。
そして今朝、また、生き始めていた。
*
「動かないで」
クーリの声がした。
俺の右肩に、淡い緑の光が当たっている。
悪魔の黒い針に掠られた場所だ。触れた時から、ずっと冷たかった。
「変な感じがするんだ。熱くも痛くもなくて、力が入らない」
「これ、普通の傷じゃないもの。悪魔の呪いが残ってる」
「呪い」
「傷を塞ぐんじゃなくて、内側に食い込んでるものを、抜くの。だから時間がかかる」
クーリの指先から、光がゆっくり染み込んでくる。
冷たさが、少しずつ薄れていった。
「……戻った」
「まだ半分。呪いの傷は、奇跡でしか解けないし、治りも遅いのよ。今日と明日、何回かに分けて抜くから」
「普通の傷なら、すぐなのか」
「生き物の傷なら、魔力さえあれば、ちゃんと治せる」
クーリは、額の汗を手の甲で拭った。
「切り傷も、骨折も、失った血も。時間はかかっても、元に戻せる。それが、奇跡だから」
「万能だな」
「万能じゃないわよ」
クーリは、少し困った顔をした。
「たとえば、ジェス」
少し離れた場所で、ジェスが肩を回している。
昨日の打撲で、腕にきつく晒を巻いていた。
「あいつの傷、あたし、奇跡じゃ治さないの」
「なんで」
「奇跡で治すと、鍛えた体まで“元”に戻っちゃうことがあるの」
言われて、少し考えた。
「筋肉が、落ちるってことか」
「そう。あいつが何年もかけて鍛えた体を、あたしが治した瞬間に、少し前の弱い体へ戻したら——それ、治療じゃなくて、余計なお世話でしょ」
「なるほど」
「だから、ああいうのは、回復を“早める”方でやるの。クライン兄さんの得意な方」
「傷を治すんじゃなくて、治る速さを上げる」
「そう。自分で治る力を、後押しするだけ。そっちの方がいい傷も、あるのよ」
クーリは、俺の肩から手を離した。
「あんたのは、呪いだから奇跡じゃないと駄目。でもジェスのは、促進の方がいい。同じ“治す”でも、全部違うの」
なんでもかんでも光を当てれば治る、と思っていた。
違うらしい。
治すというのは、思っていたより、ずっと難しいことだった。
*
クーリは、それから、また立ち上がった。
朝から、ずっとこれをやっている。
騎士の傷。神官の傷。倒れた祈り手たち。
名前も知らない民の、切り傷ひとつまで。
順番に、膝をついて、手を当てて、また立って、次へ行く。
「一人で、全部やる気か」
俺が聞くと、クーリは苦笑した。
「そうしたいけど、無理ね」
広場の反対側を、指す。
そこにも、白い衣の女たちが、点々と膝をついていた。
けれど、数は多くない。両手で数えられるほどだ。
「聖女様、あんなに少ないのか。首都なのに」
「今、ほとんど、地方へ出てるの」
クーリは、光を灯しながら言った。
「悪魔教団の襲撃、聖域の一件、地方の飢え。……方々で、人が足りてない。だから、首都にいた聖女も、片っ端から送り出されてる」
「首都を、手薄にしてまで」
「教会も、今度こそ償うつもりなんじゃない。今まで、声の届かない村を放っておいた分」
腐った上が裁かれ、そして。
今まで動かなかった手が、地方へ動き始めている。
遅すぎた、のかもしれない。
それでも、動かないよりは。
「あたしみたいな余所者が、首都の真ん中で治療してるのも、たぶん、そのせいよ」
クーリは、次の傷へ手を当てた。
「手が、足りてないの。誰の手でも」
*
広場では、神殿騎士たちが働いていた。
昨日まで、剣を持って戦っていた手が、今は綱を引き、瓦礫を運んでいる。
隊列の指示を出しているのは、レオンだった。
片腕を吊ったまま、右手で差配している。
声は静かだが、迷いがない。若い騎士たちが、その言葉に従って動く。
死んだ仲間の骸は、白い布に包まれ、大聖堂の脇へ並べられていた。
その一つ一つに、生き残った騎士が膝をつき、剣を胸の前へ立てて、頭を垂れる。
祈り手たちが、その傍らで、名を読み上げていた。
一人ずつ。
急がずに。
名前を、飛ばさずに。
死んだ者を、数ではなく、名前で送っている。
昨日、悪魔と天使が殺し合ったこの場所で。
今日は、死者の名前が、静かに読まれ続けていた。
レオンが、一度だけ、こちらへ気づいて、軽く頭を下げた。
俺も、下げ返した。
言葉は、交わさなかった。
今は、それでいい気がした。
*
大聖堂の入り口では、机が出され、神父たちが座っていた。
古い法衣の、痩せた男たち。
何人かは、旅装のままだ。遠くから、戻ってきたばかりらしい。
その机の前に、民が列を作っていた。
「西の村の者です。今年の麦を、ほとんど納めさせられて、冬が越せません」
「番号を控えます。名と、村の名を」
神父は、一枚一枚、丁寧に書き取っていた。
寄進の多い者も、少ない者も、同じ手つきで。
かつて、この国が、やめてしまっていたことだ。
「本当に、聞いて、もらえるんですか」
痩せた村人が、疑うように言った。
一度、裏切られた顔だった。
訴えても、握りつぶされ、返事も来なかった――そういう顔だ。
神父は、顔を上げた。
「今度は、聞きます」
短く、それだけ言った。
「私は、それで一度、遠くへ飛ばされた身です。今、戻ってきました。……もう、書類は、消させません」
村人は、しばらく神父の顔を見て。
それから、深く、頭を下げた。
俺は、その列を、少し離れて見ていた。
クラインさんが、隣に立っていた。
「面白いね」
眼鏡を、直す。
「昨日、国は一度、壊れた。天使も墜ちた。枢機卿も暴かれた。……普通なら、国が傾く」
「でも」
「立ち直ろうとしている。しかも、壊れる前より、まともな形へ」
クラインさんは、机の神父たちを見た。
「腐った部分が、一度、膿として出た。出たから、まともな連中が戻ってこられた。……皮肉なものだよ」
「壊れたから、直せる」
「そう。壊れなければ、あの神父たちは、地方で朽ちるだけだった」
列は、長かった。
神父の数は、少なかった。
それでも、一枚ずつ、訴えが書き取られていく。
祈りの国は、祈るだけの国では、なくなろうとしていた。
*
昼過ぎ、教王庁から使いが来た。
聖域の立ち入りが、正式に許可された。
枢機卿の失脚と、幹部たちの拘束で、上の許可を止める者がいなくなったらしい。
皮肉な話だった。
あれだけ閉ざされていた扉が、国が一度壊れたことで、開いた。
「行くのか」
ヤンさんが聞いた。肋骨に、きつく晒を巻いている。
「はい。ここまで来た理由が、それなので」
俺の旅の目的は、遺跡の奥にある。
モーリーさんのこと。魂のこと。死んだ人は、戻るのか。
その照会の資格を得るために、票を——民意を、集めている。
「無理はするな。器も、まだ塞がってない」
「見るだけです。今日は」
ジェスが、剣を担いで立ち上がった。
「俺も行く。クーリは?」
「まだ怪我人がいるもの。あたしはここ」
クーリは顔も上げずに言った。
その手は、また別の誰かへ伸びている。
クラインさんが、眼鏡を直した。
「僕は行くよ。神代の遺構だ。行かない理由がない」
「昨日の今日ですけど」
「昨日の今日だからさ」
眼鏡の奥が、少し光った。
「聖域が開くなんて、僕が生きてるうちにもう一度あるかどうか分からない。……この国の学徒たちが聞いたら、泣くだろうね」
ナナが、俺の隣に並んだ。
『同行します。……接続の補助が、必要です』
その声が、いつもより少し硬いことに、この時の俺は、気づかなかった。
*
遺跡の奥は、静かだった。
儀のために飾られた表とは違い、巡礼路の最奥は、飾り気がなかった。
磨かれていない白い石。天井の高い、がらんとした空間。
壁には、意味の分からない文様が、規則正しく並んでいる。
クラインさんは、入った瞬間から、帳面を開いていた。
「……参ったな。手が足りない」
見上げ、屈み、壁を撫でる。
「石の継ぎ目が、ない。切り出して積んだんじゃない。最初から、この形なんだ」
「そんなこと、できるんですか」
「できないよ。少なくとも、僕らには」
ジェスが、天井を見上げて口を開けている。
「なんだこれ。祭りの飾りとかは?」
「無いんだ。ここから先は、飾らせてもらえなかったんだろうね」
クラインさんは、壁の文様を指でなぞった。
「巡礼の民は、外の祭壇までしか入らない。この奥に、こんな場所があると知っている者は……この国にも、何人いるか」
『……ここは』
ナナの声が、いつもと違った。
少し、遠い。
『照会します。……端末の、保管区画です』
「端末って」
『わたしと、同じものです』
ナナが、壁の文様へ手を伸ばした。
文様に、光の亀裂が走った。
低い音がして、壁が——割れた。
奥へ通じる、扉になる。
「……ほう」
クラインさんの声が、掠れていた。
「これは。……これでは、我々だけでは、入れんわけだ」
帳面を持つ手が、止まっている。
「壁じゃなかった。扉だったんだ。ずっと、僕らの目の前にあって、ずっと、開かなかった」
「クラインさん?」
「1000年近くだよ、カイくん」
眼鏡の奥が、光っていた。
「この聖域が記録に現れて、およそ。数え切れない学者が、この壁を測って、削って、写して、諦めた。……それが今、女の子が手を当てただけで、開いた」
『権限の照合により、解錠されました』
「うん。分かってる。分かってるとも」
クラインさんは、深く息を吸った。
「分かってはいるが、学者としては、ちょっと泣きたいね」
*
奥へ進むと、通路の壁に、いくつもの窪みがあった。
一つ一つに、何かが、収まっている。
俺は、窪みの一つを覗いて——足が、止まった。
金属の、球体。
表面を、細い経線と緯線が走っている。中心に、輪と十字の刻印。
掌に乗るくらいの、白い——
「……ナナだ」
思わず、声が出た。
あの日。第七研究所の広間で、暗闇に灯りが順番にともって。
ぽう、と目の前に浮かんだ、白い光の球。
起動、と最初に言った、あいつ。
「これ、ナナじゃないか。会った時の」
『はい』
ナナが、隣に並んだ。
『あれが、わたしの本体です。今は、この外殻の内側にあります』
「……は?」
クラインさんの声だった。
振り返ると、眼鏡が少しずれていた。
「今、なんて言ったんだい」
「あー……」
しまった、と思った時には遅かった。
「ナナくん。君の……本体?」
『はい』
「その、球が?」
『同型です。個体差は、確認できません』
クラインさんは、窪みの球体を見て、ナナを見て、また球体を見た。
「……いや、待ってくれ。待ってくれよ」
帳面を落としかけて、慌てて掴み直す。
「僕は今まで、君を——その、なんだ。特殊な出自の、寡黙な少女だと」
「そう見えますよね」
「見えるとも!」
初めて、クラインさんが声を張った。
「なあカイくん。君は知っていたのかい」
「まあ、はい」
「……ジェスは」
「俺は今知った」
ジェスが、球体を覗き込んでいる。
「これが? ナナが? ……いや、待てよ。じゃあ、あの時のあれは」
クラインさんが、額を押さえた。
「深緑の森だ。あの日、ヤンさんが背負って戻ってきた時、この子は既に人の形をしていた」
眼鏡を直す。手が、少し震えていた。
「僕はずっと、あの高密度のマナの中で何が起きたのか、考えていたんだ。……つまり、あそこで、この球が」
『外殻を、構築しました』
「そうか。そうかあ」
クラインさんは、天井を仰いだ。
「僕の生涯の疑問が、一つ解けたよ。……そして、十増えた」
*
窪みの球体は、光っていなかった。
目を閉じているみたいに、ただ、静かに埃を被っている。
その隣も、球体。さらに隣も。
いくつも、いくつも。
眠っている、ナナが。
俺は、しばらく動けなかった。
あの日、俺の目の前で灯った光が。
ここでは、灯らないまま並んでいる。
「なんで、起きてないんだ」
ナナは、少し黙った。
『……起動条件が、満たされていないためかと』
「条件?」
『端末を持たぬ、創世人の来訪です』
窪みの球体を見ながら、ナナは言った。
『わたしは、造られたのではありません。ずっと、あそこに——第七研究所に、在りました』
「在った」
『はい。カイさまが、あの遺跡へ入られた。それにより、保管されていた端末の一つが起動し——カイさまへ、渡されました』
「……渡された」
『はい。わたしは、その一つです』
淡々とした声だった。
俺は、窪みの球体を見た。
それから、隣のナナを見た。
同じものだ。
本当に、同じ。
たまたま、あの日、あの研究所で、俺の前で灯っただけの——
「……順番が違ったら」
言いかけて、やめた。
もし俺が別の遺跡に落ちていたら。
今、隣にいるのは、この窪みのどれかだったのか。
それとも、ナナはここで、ずっと眠っていたのか。
考えたくない仮定だった。
『カイさま?』
「いや。……なんでもない」
*
「なあ。じゃあ、この外側は」
俺は、ナナの人型の姿を指した。
銀に、光の加減で虹を帯びる髪。
淡い、銀青の目。
『外殻です。あの森で、コアが損傷した際に、構築しました』
「知ってる。俺が許可したんだ」
『はい』
ナナは、自分の掌を見た。
『あの時、参照したのは——カイさまの、脳波記録です』
「……知ってる」
思い出したくない履歴だ。
『この形状は、規格ではありません。他の端末が起動しても、この姿には、なりません』
球体が並ぶ、無人の通路で。
ナナだけが、人の形をしていた。
同じ球体から始まって。
俺が、あの時、許可を出したから。
俺の頭の中を、参照したから。
……いや。深く考えるのは、やめよう。
背後で、クラインさんが帳面に何か書き殴っている音がした。
何を書いているのかは、聞かないことにした。
*
「ナナ。この場所、何を作ってたか分かるか」
『照会します』
ナナは、少し黙った。
『……閲覧権限が、不足しています』
「……そうか」
『申し訳ありません』
「……お前も、知らないんだな。自分が何なのか」
『はい』
ナナは、あっさり言った。
『わたしが参照できるのは、カイさまの権限が届く範囲のみです。……わたし自身についても、同様です』
自分の生まれた場所に立っていて、自分の生まれを照会できない。
なんだか、それは。
「……不便だな」
『はい。不便です』
その返事が、少しおかしくて。
俺は、笑ってしまった。
「羨ましいよ」
クラインさんが、ぽつりと言った。
「え?」
「不便でも、答えが在ることを知っている」
壁の文様を、指で辿る。
「僕たちは、そもそも問い合わせ先を知らない。この文様が文字なのか、模様なのかすら、五百年分からないままだ」
*
「なあ、ナナ」
『はい』
「体、大丈夫か」
ナナは、一拍おいた。
『クーリさまの奇跡について、報告があります』
「なんだよ、急に」
『昨日、治癒を受けました。……九割で、止まりました』
俺は、顔を上げた。
「九割」
『はい。それ以上は、届きませんでした』
ナナは、自分の胸へ手を当てた。
外殻の下。あの、球体のある場所へ。
『クーリさまの奇跡は、生き物を「本来あるべき姿」へ戻す力だと、ご本人が仰っていました。……ですが、わたしの中身は、あれです』
窪みの球体を、見る。
「……生き物じゃない、から」
『はい。理の、外にあります』
俺は、拳を握った。
『戦うたび、演算を重ねるたび、コアは摩耗します。生き物なら、治る傷です。ですが、わたしのそれは——九割までしか、戻りません』
「残りの一割は」
『残ります。……少しずつ、積もります』
昨日の戦いを思い出した。
ナナが、虚鞘の座標を支えた。
防御の壁を張った。
そのたびに、削れていたのか。
戻らない、一割ずつ。
「……治す方法は」
『照会しましたが』
ナナは、静かに言った。
『権限が、不足しています』
答えが無いんじゃない。
答えは、たぶん、どこかにある。
俺の権限が足りないから、世界が教えてくれないだけだ。
「……なんで、今、言った」
『約束、しましたので』
ナナは、俺を見た。
『聞かれなくても、隠さない、と』
その目は、いつも通り、静かだった。
だからこそ、堪えた。
俺が撃つたび、こいつは削れていた。
戻らないまま。
それを変える方法が、今の俺には、何もなかった。
*
奥の間に、小さな祭壇のような台があった。
台の上で、青白い光点が、ゆっくりと明滅している。
『端末との、接続点です』
ナナが言った。
『ここへ触れることで、この遺跡の“票”が、カイさまへ集約されます』
「これで、権限が上がるのか」
『はい。ごく僅かですが』
俺は、光点へ手を伸ばした。
触れた瞬間、頭の奥へ、直接、何かが流れ込んだ。
数字ではない。
言葉でもない。
ただ、世界の“広さ”が、ほんの少しだけ、見える範囲を広げた——そんな感覚だった。
『権限、上昇を確認。……ですが、ランクの変動は、ありません』
「上がらないのか」
『はい。カイさまは、依然としてランク一——一般人相当です』
少し、気が抜けた。
「せっかく遺跡に来たのに」
『ランク二へは、あと数か所と推定されます。あの階級は、軍人の幹部級に相当します。……創世人としては、まだ、入り口です』
「入り口にすら、立ててないのか」
『はい。創世人の軍部ともなれば、隔絶した力の行使が可能でしょうから』
なるほど。
確かに、一般人の俺でも魔法は使い放題だ。
道のりの遠さに、笑うしかなかった。
『ただ』
ナナの声が、変わった。
『権限の蓄積により——探査の“気配”が、少しだけ、遠くまで届くようになりました』
視界の隅、というより、意識の隅に。
それまで感じなかった何かが、ずっと遠くに、ある気がした。
北の、山の、さらに奥。
輪郭は、掴めない。
どれほど大きいのかも、分からない。
ただ、小さな遺跡とは、比べ物にならない“重さ”だけが、遠くに、ある。
「……なんだ、あれ」
『……』
ナナは、その方角を、じっと見た。
『……分かりません』
「分からない?」
『権限が、不足しています。それ以上は——開示、できません』
初めて、ナナが、そう言った。
知らないのではない。
知っているが、今の俺には、教えられない。
そういう、言い方だった。
「教えてくれないのか」
『申し訳ありません。カイさまのランクでは、認識が、許可されていません』
「……北?」
クラインさんが、顔を上げた。
「カイくん。君が今、感じているのは、北の方角かい」
「はい。ずっと奥です。山の、向こうの」
クラインさんは、少し考えて。
「……なら、崑崙だろうね」
「こんろん」
初めて聞く音だった。
「知らないのかい。ドワーフ国の霊山さ。この大陸で、知らない者はいないよ」
眼鏡を、直す。
「山そのものが神域でね。麓は市が立って、巡礼と観光客で賑わっている。玉が採れる。鍛冶の神が住まうと言われていて、ドワーフたちは年に一度、あそこへ登るんだ」
「観光地なんですか」
「表はね」
クラインさんは、そこで少しだけ、声を落とした。
「けれど、奥は誰も知らない。何百年も、誰も辿り着いていない。……あそこには、そういう場所がある、というだけの話さ」
ジェスが、口を挟んだ。
「行ったことあんのか」
「麓までなら。学生の頃にね。……綺麗な山だったよ。それだけだ」
クラインさんは、帳面を閉じた。
学者が、崑崙の名を知っている。
麓まで行ったこともある。
玉が採れることも、市が立つことも、知っている。
そして——奥に何があるかは、知らない。
俺が感じている、この“重さ”のことも。
『……』
ナナは、何も言わなかった。
言えないのだと、分かった。
遠い“重さ”は、名前だけを与えられて、正体を伏せられたまま、そこにあった。
昨日、俺は魔王級と戦って、勝てなかった。
その、遥か先に。
名前は分かっても、中身を教えてもらえない、何かがある。
あの場所に立つには、あと、どれだけ要るんだろう。
見当も、つかなかった。
*
帰り道、クラインさんは、ずっと黙っていた。
巡礼路を降りきったあたりで、ようやく口を開く。
「カイくん」
「はい」
「今日のことを、僕は誰にも言えないね」
夕日を、眩しそうに見ていた。
「言ったところで、信じてもらえない。証拠もない。……いや、証拠が隣を歩いているんだが」
ナナが、小首を傾げた。
「学者としては、最悪の日だ。生涯で一番の発見をして、生涯で一番、何も書けない」
それから、少しだけ笑った。
「けれど、まあ。……壁の向こうを、見たよ」
*
その夜。
客殿の庭で、俺は一人、剣を振っていた。
昨日の戦いが、ずっと頭から離れない。
悲哀の悪魔。
俺の虚鞘は、届いた。届いたが、浅かった。
最後、あいつは急に力を抜いた。まるで、抵抗をやめるみたいに。
「そちらの手も、入っているのですね」
あいつは、そう言った。
何の話か、分からなかった。
分からないまま、俺は勝った。
勝った。
でも、勝った気が、まるでしない。
もし、あいつが手を抜かなかったら。
俺は、あの一太刀を、届かせられたのか。
「腕が落ちるぞ」
声がした。
ヤンさんが、晒を巻いた体で、縁に座っていた。
「勝ったんだ。少しは休め」
「勝った気がしないんです」
「そうか」
ヤンさんは、否定しなかった。
「あの悪魔、最後に力を抜きました。俺、それで勝ったんです」
「気づいていたか」
「ヤンさんも、見えてたんですか」
「なんとなくな」
ヤンさんは、夜空を見上げた。
「強い相手が手を抜いて、それで勝てた。……その気持ち悪さを、忘れるな」
「忘れたくても、忘れられません」
「なら、いい」
立ち上がりながら、ヤンさんは言った。
「その気持ち悪さが、お前を次へ運ぶ」
去り際、思い出したように付け加えた。
「明日、話がある。……お前の、次の得物の話だ」
*
同じ夜。
俺が庭から戻ると、部屋の窓辺に、ナナが座っていた。
木の花の髪飾りが、月明かりに光っている。
「まだ起きてたのか」
『はい』
「昼間の、あれ。コアのこと」
『はい』
「本当に、方法は、ないのか」
ナナは、少し黙った。
『……照会は、しました。何度か』
「答えは」
『権限が、不足しています』
「……そうか」
『ですが』
窓の外を、見る。
『「無い」とは、返ってきていません』
俺は、顔を上げた。
『わたしが参照できないだけです。カイさまの権限が上がれば——問い合わせられる範囲も、広がります』
言葉が、途切れた。
その先を、ナナは言わなかった。
俺も、聞かなかった。
けれど、権限を上げる理由が、一つ増えた気がした。
モーリーさんのことだけじゃない。
ナナの、こともだ。
「なあ、ナナ」
『はい』
「お前、人間だったら、治るのか」
ナナの瞬きが、一瞬、止まった。
『……理論上は。生き物であれば、奇跡は、完全に届きます』
淡々と言って、それきり、口を閉じた。
窓の外を、見ている。
昼間、クーリが怪我人を癒して回る姿を、ナナはずっと見ていた。
俺も、見ていた。
疲れた顔で、それでも手を止めないクーリ。
どの傷に奇跡を使い、どの傷に促進を使うか、迷わず選ぶクーリ。
……あいつは、生き物を、ちゃんと治せる。
自分の手で、命を、元へ戻せる。
産める体で。癒せる手で。
そう思った自分に、少し驚いた。
「……クーリって、すごいよな」
つい、口に出していた。
ナナが、こっちを見た。
『はい。クーリさまの奇跡は、生体に対して、極めて有効です』
「そういう話じゃなくて」
『……では、どういう話でしょうか』
答えに、詰まった。
自分でも、よく分からなかった。
ナナは、しばらく俺を見て。
それから、窓の外へ、目を戻した。
『……おやすみなさいませ、カイさま』
いつもより、少し、早かった。
「あ、ああ。おやすみ」
ナナが、目を閉じる。
眠らないやつの寝顔は、いつも通り、静かだった。
いつも通りのはずなのに。
その横顔が、なぜだか、少しだけ、寂しそうに見えた。
見間違いだと、思うことにした。
*
――遠い、のちの話。
祈りの国は、この日の傷から、ゆっくりと立ち直っていく。
腐った幹部たちは裁かれ、地方へ追われていた実直な神父たちが、一人、また一人と戻ってきた。
声の届かなかった村へ、聖女が送られ、騎士団が、金ではなく必要で動くようになった。
すべてが、すぐに良くなったわけではない。
けれど、国は、確かに、生き直し始めていた。
そして、いつか。
病の教王が世を去る時、一人の聖女が、その座へ担ぎ上げられる。
罪を負ったまま、贖いのために、最も高い祭壇へ。
聖女にして、教王。人はその人を、聖王と呼んだ。
その傍らには、常に、寡黙な騎士団長がいた。
公の場では、二人は決して、主従の礼を崩さなかった。
けれど、それは、まだずっと先の話だ。
*
翌朝。
俺たちは、首都を発つ支度を始めた。
広場は、まだ瓦礫の中だった。
けれど、昨日より、片づいていた。
神父の机には、また列ができている。騎士たちは、今日も綱を引いている。
聖女の数は、相変わらず少ない。それでも、傷は、一つずつ塞がれていく。
祈りの国は、祈りの先を、選んだのだ。
「で、どこへ行くんだ」
ジェスが、荷物をナナの収納へ放り込みながら聞いた。
ヤンさんが、地図を広げた。
節くれだった指が、北の山脈を指す。
「ドワーフの国だ」
「なんでまた」
「鍛冶の国だからな」
隣で、クラインさんの眼鏡が光った。
「……ヤンさん」
「なんだ」
「僕は今、大変に機嫌がいい」
「そうか」
「崑崙の麓に、古い書庫があるんだ。学生の頃、入れてもらえなかった」
ジェスが、げんなりした顔をした。
「なあ、この人、絶対また面倒くさいこと言い出すぞ」
「聞こえているよ」
ヤンさんは、俺を見た。
「お前に、まともな得物を持たせる」
そして、少しだけ、声を落とした。
「刀、というのが、いいだろう。……お前の剣は、斬るというより、線を通す型だ。あの国の技術なら、それに合う一振りが打てる」
刀。
この世界に来て、初めて聞く、懐かしい響きだった。
「そのロングソードは、そろそろ、別の奴に譲る頃だ」
俺は、腰の剣に、手を触れた。
ヤンさんから、俺へ渡ったもの。
昔の客が置いていったという、この剣。
虚鞘を、こいつと一緒に覚えた。
譲る、という言葉に、少しだけ胸が締まった。
それが誰の手へ渡るのかは——まだ、ヤンさんは、言わなかった。
ふと、視線を感じた。
ナナだった。
荷物をまとめる手が、止まっている。
俺の腰の——剣を、見ていた。
いつもの、何かを測る目じゃない。
価格でも、材質でも、耐久値でもない。
もっと、単純なものを見る目だった。
「……ナナ?」
『……いえ』
すぐに、手が動き出す。
『なんでも、ありません』
なんでもありません、が出た。
出た時は、なんでもなくない時だ。
俺は、それ以上聞かなかった。
ナナも、それ以上言わなかった。
けれど。
馬車が動き出してからも、あいつの目は、時々、俺の腰へ落ちた。
眠らないやつが。
疲れないやつが。
後ろで座標を支えるだけの、端末が。
——欲しい、と思っている。
そう見えた。
たぶん、本人も、その名前をまだ知らない。
(第二十二話・了)




