Re:sou 間話「少女」
元気な少女がいた。
小さな村に生まれ、神様より先に、木へ登ることを覚えた子だ。
朝の鐘が鳴っても手を組まず、雨が降れば空を睨み、転べば地面のせいにした。
体は同じ年頃の子らより小さかったが、走れば誰より速く、川を渡れば誰より先に向こう岸へ着いた。
祈れば雨が降ると言われても、雨は祈らない日にも降った。
神が見守っていると言われても、木から落ちれば膝は痛んだ。
少女にとって、世界はもっと直接的だった。
空腹にはパンが要り、遠い枝の林檎には、自分の手を伸ばすしかなかった。
少女には、弟がいた。
姉よりさらに小さく、細く、すぐに息を切らす子だった。
けれど、誰よりもよく祈った。
朝は鐘とともに手を組み、夜は窓辺で星へ願い、白い外套が丘の向こうに見える日は、誰より早く道端へ出た。
弟は、神殿騎士になりたがっていた。
細い腕で木剣を振り、十回で倒れ、翌日は十一回を数えた。
その木剣の柄には、母の形見だという赤い布紐に名前が書かれ、固く巻かれていた。
守るのだと、弟は素振りのたびに言った。村を。家族を。姉を。
自分の方が強いのに、と少女は笑った。
それでも弟は、いつか必ず、と信じて疑わなかった。
少女は神を信じなかったが、そんな弟が大好きだった。
それで、十分だった。
*
巡回の騎士たちは、いつも村を守った。
魔物を追い、壊れた柵を確かめ、病人がいれば聖女に頼んで見てもらっていた。
弟はその列のいちばん前にいて、いつか自分もあの白い外套を着るのだと、信じきっていた。
けれど、ある頃から、騎士は来なくなった。
月に一度が、季節に一度になり、やがて季節をまたいでも来なかった。
遠い国境の争い。金で他国へ貸し出される騎士団。
優先して来てもらうには寄進が要ると、村長は町で告げられた。
村には、余分な金がなかった。
それでも皆で集めた。穀物を売り、家畜を減らし、冬支度を遅らせて。
ようやく来た騎士は疲れ、馬は痩せ、森の奥までは見ずに、次の村へと急ぎ去った。
弟は、その背をいつまでも見ていた。
忙しいのだと、自分へ言い聞かせるように呟いた。
その夜、弟は手の皮が剥けるまで木剣を振った。
誰かが来ないなら、自分が行くのだと。
赤い紐が、滲んだ血で少し黒くなり、文字が滲んでいた。
少女は初めて、弟の願いを怖いと思った。
*
夏の終わり、遠くの町で警鐘が鳴った。
魔物が溢れた。
騎士団は大きな群れを抑えるために発ち、村へ来た伝令は、戸を閉じ、火を消し、外へ出るなとだけ告げて去った。
大きな群れは、村を外れた。
けれど、群から零れた獣たちは、願いとは別に、来た。
村にいた少数の冒険者と大人たちで、数日は凌いだ。
それでも、柵は保たなかった。
少女は、弟の手を握っていた。
人生の中で、一番祈った。
白い外套は、現れなかった。
願わなかった雨も降り、少女も外へ出た。水を運び、傷へ布を巻き、折れた木剣で獣を殴った。
足は震え、膝は泥に沈み、昔と同じように転んだ。
けれど、もう、地面のせいにはできなかった。
弟は、地下を出ていた。
少女が見つけた時、弟はもっと小さな子を背へ庇い、折れかけた木剣を構えていた。
その背へ、爪が落ちた。
少女は走ったが、届かなかった。
誰かが獣を槍で仕留めたあとも、足も腕も止まらなかった。
弟には、まだ息があった。
赤い紐の巻かれた手で、少女の指を握った。
守れた、と弟は言った。
背後で、助けられた子が泣いていた。
少女は、何度も頷いた。
守れたから。騎士になれるから。もう来るから。全部、大丈夫だから。
弟は、安心したように目を閉じた。
その目は、もう開かなかった。
*
疲弊した騎士団が村へ着いたのは、翌日の昼だった。
責める力すら、残っていなかった。
白い布を掛けられた弟の前で、騎士が膝をついた。
その祈りを聞いた時、少女の中で、何かが切れた。
騎士は来ずとも、弟が信じた神は、どこにいたのか。
誰も、答えられなかった。
雨は、もう止んでいた。
けれど、少女の中には、降り続いていた。
*
それから、少女は登らず、走らず、破らず、木剣も握らなくなった。
朝の鐘が鳴ると、誰より早く礼拝堂へ入り、胸の前で手を組んだ。
問うためだった。
なぜ、あの子だったのか。
なぜ、信じた者が死んだのか。
なぜ、祈りは、届かなかったのか。
なぜ、神は。
答えは、なかった。
村の者は、あの子は変わったと言った。
礼儀正しく、よく働き、よく学ぶ娘になったと感心した。
けれど、少女の中の雨音は、誰にも聞こえていなかった。
十五の春。
いつものように祈っていると、金白の奇跡が、胸の奥へ降りてきた。
——守れ、と告げられた気がした。
少女は、泣いた。
遅い、と最初に思い、しかし次に、今度こそ、と思った。
神託を受けた少女は、聖女見習いとして、首都へ送られた。
*
聖女見習いの通う官舎には、騎士見習いも暮らしており、幾人かは顔見知りになった。
その中に、よく目につく青年がいた。
剣は上手いのに、要領が悪い。
困っている者がいれば自分の仕事を後回しにし、食事を抜いた者へ黙ってパンを置いた。
少女が無理をしていると、余計なことを言わずに、水を差し出した。
その青年の剣の柄には、古びた赤い布紐が巻かれていた。
一度だけ、少女は目を止めた。
——赤い布には、名前があった。
弟と、一字違いの。
青年はやがて騎士となり、少女は聖女となった。
別々の任地へ送られ、顔を合わせることは、なくなった。
それでも、別れの日に見た赤い布紐だけは、長く記憶に残った。
*
教王庁で、少女は一人の神父の下についた。
痩せた男で、法衣は古く、靴も擦り減っていたが、民から届く訴えを一枚も粗末にしなかった。
貴賤はない——その男に信念を見て、少女は信じた。
今度こそ、届くと思った。
けれど、村々から届く紙には、弟が死んだ頃と同じ言葉が並んでいた。
神父は、書類を持って直訴し、弁舌を振るった。
だが、ある朝、書類が消えていた。
ほどなく、彼は遠い町へ移された。
表向きは、栄転だった。誰も、そうは思わなかった。
教王は、少女が見習いの頃より前から病に伏せており、たまにしか姿を見なかった。
教王庁は、別の者たちの声で動いていた。
騎士団は金と共に動き、巡回の順は寄進の順、税は重くなった。
教王庁が、悪魔の居に思えてきた。
そこにいながら、何も変えられない自分も。
少女は神父を追いかけたが、神父は、そこからも姿を消していた。
*
二十の冬の、黄昏時。
信じる者すら消えた礼拝堂の裏口に、一人の男が立っていた。
顔を見るまで、分からなかった。
痩せ、老け、法衣を失っていたが、目だけは変わっていなかった。
信じた者は、外れた者になっていた。
祈りでは届かぬ場所もあると、彼は言った。
代わりに、契約するのだ、と。
神は、正しさを見る。
悪魔は、対価を見る。
それでも、この道は罪だと知っている顔を、していた。
思わず、同道を申し出た。
少女も、このままでは祈り疲れそうだったから。
男は頷かず、そこでいい、とだけ言った。
*
男は、たまに顔を出した。少女は、世間話をした。
役人が通る日。倉庫が空になる夜。
男は、黙って聞くだけだった。
しばらく、誰も死ななかった。
奪われた穀物が貧民街へ戻り、隠された帳簿が広場に貼られ、不正を重ねた役人が姿を消しただけで。
少女は、少しでも人を救えた気がした。
次に渡した紙は、少し重かった。
警備の薄い日。裏口の位置。高位の者の、移動の刻。
胸の内側へ、黒い染みが増えた。
それでも、飢えた子が減り、無実の家族の家に、灯が灯った。
だから、やめられなかった。
やめれば、また、届かない声へ戻る気がした。
ある日、男は一枚の紙を見せた。
契約の、雛型。
そこには、誓約が書かれていた。
その夜、弟の夢を見た。
十歳のまま、木剣を持っている。
けれど振り返った先には、騎士の鎧の青年が立ち、剣の柄に、赤い布紐を結んでいた。
顔は、見えなかった。
*
少女は、ずっと問い続けていた。
自分へ。騎士へ。国へ。そして、神へ。
なぜ、と。
誰も答えないから、答えを、選ぼうとした。
それが正しいかどうか、分からないまま。
情報を渡し、罪を重ねた。
心の雨は、止まらぬまま。
ただ、昔より、慣れただけだった。
やがて祈りの国へ、一人の少年が来た。
黒い髪。何も知らない顔で、人を救おうとする少年。
その隣には、すべてを視ている、白い娘がいた。
少女は、恐れた。
知られることを。止められることを。
それ以上に——止めてほしいと思っている、自分を。
路地で声をかけられた時、心臓が強く鳴った。
まだ、引き返せると言われた気がした。
その幼い顔立ちが、弟に、少しだけ重なった。
その夜も、祈ることができなかった。
祈れば、何かを選び、捨てなければならない気がした。
どれも、捨てられなかった。
雨は、降り続いていた。
けれど、遠くで、一度だけ、鐘が鳴った。
(間話「少女」・了)




