Re:sou 第二十一話「祈り」
光が、首都を呑み込んだ。
熱では、なかった。
眩しさだけが、皮膚の内側まで焼いた。
目を開けていられず、腕で顔を庇う。
耳の奥で、鐘とも悲鳴ともつかない音が重なっていた。
足元の石畳が震え、建物の窓が一斉に鳴る。
その中心から、翼が降りてきた。
一枚ではない。幾重にも折り重なった光の翼が、大聖堂の上空を覆っている。
羽ばたくたびに雲が裂け、金色の輪が空へ広がった。
顔は、見えなかった。
人の形に近い。けれど、頭部を囲む輪と光が強すぎて、輪郭そのものが曖昧だった。
両手には剣も盾もない。ただ、そこにいるだけで、広場の全員が膝をつきそうになる。
『……あれが』
隣で、ナナの声が掠れた。
『信号強度、規格外。——伝承にある、熾天使かと』
悲哀の悪魔だけが、立っていた。
灰色の髪を光に揺らし、空を見上げている。
「……あなたも、呼ばれてしまったのですね」
熾天使は、答えなかった。
幾重もの翼が、ゆっくりと開く。
次の瞬間、光が落ちた。
柱でも、刃でもなかった。
空そのものが一瞬だけ白くなり、その内側にいた悪魔の姿が消える。
遅れて、轟音が来た。
大聖堂の尖塔が揺れ、広場の石畳が波打つ。
俺は立っていられず、片膝をついた。
ヤンさんがハルバードを地面へ突き立て、俺の肩を掴む。
「立て」
「見えません!」
「見えなくても、来る」
白い光の中から、黒い線が走った。
悲哀の悪魔だった。
焼けた黒衣を引きずり、熾天使の懐へ飛び込む。
片手を伸ばしただけで、光の翼が三枚まとめてひしゃげた。
空が、悲鳴を上げる。
熾天使の腕が動く。
遅いように見えた。
だが、次に見えた時には、悪魔の体が大聖堂の壁へ叩きつけられていた。
白い石が崩れ、灰色の髪が瓦礫へ沈む。
それでも、悪魔は立った。
「正しさは、強い」
口元に、血が滲んでいた。
「いつも。真っ直ぐで」
また、笑う。
「だから、止まれない」
熾天使の翼が閉じる。
広場の空気が、一瞬で薄くなった。
ナナが、俺の前へ出た。
『防御します』
白い衣が広がり、透明な壁が俺たちを包む。
直後、光の圧力が街を押し潰した。
客殿の屋根が剥がれ、露店の布が空へ舞う。
周囲の騎士たちが地面へ伏せ、祈り手たちの祝詞が途切れた。
ナナの髪が、強く光る。
「ナナ!」
『許容範囲内です』
返事は、早い。
けれど、足が半歩下がっていた。
クーリが、すぐにナナの背へ手を当てる。
「勝手に削れないで!」
淡い緑の光が、ナナの白い輪郭へ重なる。
「カイ! 行くなら早くして!」
「まだ近づけない!」
光が、晴れる。
悲哀の悪魔は、熾天使の片翼を掴んでいた。
黒い亀裂が、光へ広がる。
熾天使の翼が砕け、金色の粒となって降り注いだ。
同時に、熾天使の掌が悪魔の胸へ触れる。
何も起きなかったように見えた。
次の瞬間、悪魔の背から光が突き抜けた。
胸に、大きな穴が開く。
それでも、悪魔は離さなかった。
「あなたも」
掠れた声が、空へ届く。
「苦しいのですね」
初めて、熾天使の顔が、わずかに下を向いた。
声は、なかった。
けれど、何かを聞いた気がした。
祈りではない。命令でもない。
ただ、遠いところで、誰かが泣いているような。
悲哀の悪魔の指が、閉じる。
掴まれた翼だけではない。
熾天使を囲む金色の輪が、一つ、二つと割れていく。
教王庁の神官たちが、倒れた。
祝詞を強いられていた者たちだった。
口から血を流し、意識を失っていく。
金色の鍵を持った幹部が、叫ぶ。
「止めるな! 命を燃やせ! セラフを維持しろ!」
「もう、無理です!」
「祈れ! 装置を動かせ!」
騎士が、神官の背へ剣を押し当てる。
その剣先が、震えていた。
「やめろ」
教王の声が、響いた。
大きくは、なかった。
それでも、剣を持つ騎士の手が止まる。
教王は片膝をついたまま、金色の鍵を持つ男を見ていた。
「エンゲルスルーフを、止めよ」
「猊下は悪魔に惑わされている!」
「止めよ」
「今止めれば、首都が滅びます!」
「その祈りで守られる国など、ない」
教王が、立とうとする。
病んだ足が、動かない。
それでも壁へ手をつき、体を起こした。
「鍵を、返せ」
「近寄るな!」
金色の鍵を高く掲げ、幹部が後ずさる。
地下から、また光が噴き上がった。
熾天使の体が、大きく震える。
翼が強引に開かれ、砕けた輪が、歪んだまま繋ぎ直された。
悲哀の悪魔が、目を細める。
「……悲しい」
悪魔の手が、熾天使の胸へ沈む。
光が、黒く濁った。
同時に、熾天使の腕が悪魔の首を掴む。
二つの存在が、空中で静止した。
押しているのがどちらなのか、分からない。
ただ、街のあちこちで建物が軋み、石畳へ亀裂が走っていく。
「ヤンさん」
「ああ」
ヤンさんは、もう走り出していた。
大聖堂の外壁を蹴り、突き出した石柱へ足を掛ける。
人間の動きには、見えなかった。
ハルバードを背へ回し、崩れ落ちる瓦礫を踏み台にして上へ跳ぶ。
「ジェス!」
「分かってる!」
ジェスが、俺の前へ出た。
盾を拾い、落ちてくる光の破片を受ける。
「カイ、行け!」
クラインさんの杖が、光る。
風が俺の足元へ集まり、体が軽くなる。
クーリは広場に残り、倒れた祈り手たちの間を走っていた。
「ナナ!」
『座標を、固定します』
剣を抜く。
刀身が、意識の中で一本の線になる。
真空だけ。虚空には繋がない。
少なくとも、今は。
俺は、大聖堂へ向けて走った。
*
ヤンさんのハルバードが、悲哀の悪魔の脇腹へ入る。
刃は、届いた。
だが、浅い。
悪魔が首だけを動かし、ヤンさんを見る。
「あなたは」
悲しげな目が、細められる。
「一度、届かなかったのですね」
ヤンさんの顔から、表情が消えた。
悪魔の腕が動く。
見えなかった。
ヤンさんの体が空中で折れ、回廊へ叩きつけられる。
「ヤンさん!」
ハルバードだけは、手放していない。
床へ転がりながら柄を突き、体を起こす。
「前を見ろ!」
怒鳴られた。
悲哀の悪魔が、こちらを見ていた。
熾天使の腕を片手で押さえたまま、もう片方の手を俺へ向ける。
黒い針が、生まれる。
「カイ!」
ジェスが、盾を投げた。
俺の前へ滑り込んだ盾へ、黒い雨が突き刺さる。
木と鉄が、一瞬で腐る。
それでも、半歩分の時間ができた。
横へ跳ぶ。
黒い針が、肩を掠めた。
熱くはない。
冷たかった。
触れた場所から、力が抜けていく。
『右肩の機能低下を確認』
「動く!」
剣を左へ寄せ、両手で握り直す。
悪魔が指を上げる。二撃目。
クラインさんの結界が、その間へ割り込んだ。
透明な壁が黒く染まり、次々と砕ける。
「長くは持たないよ!」
「十分です!」
階段を駆け上がる。
崩れた窓。折れた柱。
視界の端で、熾天使の輪がまた一つ消えた。
無理な召喚。
祈りではなく、命を燃やして引きずり出された。
このままでは、先に消える。
「ナナ、あとどれくらいです」
『不明です。ただし、熾天使の構造崩壊が進行しています』
「悪魔は」
『損耗しています。ですが——』
言葉が、切れた。
悲哀の悪魔が、熾天使の胸から腕を引き抜いた。
金色の光が、噴き出す。
熾天使の体が揺らぎ、翼が一枚ずつ、透明になっていく。
悪魔も、無傷ではない。
胸の穴は塞がらず、右腕は肩から下が崩れかけていた。
黒衣も焼け、片方の角が根元から折れている。
それでも、立っている。
熾天使が、最後に腕を上げた。
光の剣が生まれる。
悲哀の悪魔も、残った左手を差し出した。
黒い刃が、伸びる。
二つが、触れた。
音は、なかった。
白と黒が、一つの線になった。
それから、熾天使の剣が、砕けた。
金色の体が、ゆっくりと透けていく。
広場から、悲鳴が上がる。
「天使さまが!」
「消える!」
「祈れ!」
誰かが叫んだ。
けれど、強制された神官たちは倒れている。
騎士たちも、祈りを使い果たしていた。
熾天使は、空を見上げた。
初めて、その顔が少しだけ見えた。
目も鼻もない。ただ、口元だけがあった。
唇が、動く。
『——還る』
声は、低くも高くもなかった。
街全体の中へ、直接響いた。
悲哀の悪魔が、目を伏せる。
「はい」
熾天使の翼が、光へ変わる。
「どうか、安らかに」
金色の輪が、消えた。
最後に残った光が、風へ溶ける。
大聖堂の上空から、熾天使はいなくなった。
沈黙。
鐘さえ、止まっていた。
悲哀の悪魔が、地上を見下ろす。
「終わりました」
声は、穏やかだった。
「残りを、履行しましょう」
*
教王庁の奥で、幹部たちが逃げ出した。
金色の鍵を持つ男も、顔を引きつらせて走る。
悲哀の悪魔が、一歩踏み出す。
「待て」
教王が言った。
悪魔の足が、止まる。
教王は、崩れた回廊の中央へ進んでいた。
一歩ごとに、呼吸が乱れている。
白い法衣の胸元には、赤い染みが広がっていた。
「まだ、終わっていない」
「熾天使は、還りました」
「ならば、もう一度呼ぶ」
広場が、ざわめく。
幹部たちも、足を止めた。
「猊下、何を」
教王は、答えない。
金色の鍵を持つ男へ、手を伸ばした。
「返せ」
「これは、教王庁のものだ!」
「国のものだ」
「私たちが、守ってきた!」
「民から隠して、か」
男の顔が、歪む。
「近寄るな!」
鍵を構える。
教王は、止まらない。
男が、鍵を振り下ろそうとした。
その手首へ、一本の剣が添えられた。
レオンだった。
片腕を吊ったまま、右手だけで剣を抜いている。
「お渡しください」
「騎士風情が」
「お渡しください」
声は、震えていなかった。
男が叫び、鍵を振り回す。
レオンの剣が、一度だけ動いた。
金色の鍵が、宙へ跳ぶ。
教王が、両手で受け止めた。
その重さに耐えられず、膝をつく。
それでも、離さなかった。
「猊下」
アナスタシアさんが、駆け寄る。
「お体では」
「分かっている」
教王は鍵を胸へ抱き、崩れた大聖堂の中央へ向き直った。
光を失った空。何もいない場所。
そこへ、手を組む。
「エンゲルスルーフよ」
地下で、何かが低く鳴った。
「聞け」
金色の鍵が、弱く光る。
「命ずるのではない」
教王の声が、掠れる。
「願う」
一度、咳き込んだ。
掌へ、血が落ちた。
「この国を、守ってくれ」
地下の光は、戻らない。
教王の肩が、震える。
それでも、祈りを続ける。
「私が、知らなかった者たちを」
息が、途切れる。
「私を、信じた者たちを」
膝が、崩れる。
アナスタシアさんが支えようとする。
教王は、首を振った。
「まだだ」
「猊下」
「まだ、終われぬ」
鍵の光が、また弱く瞬く。
けれど、それだけだった。
悲哀の悪魔が、見下ろしている。
「あなたの命では、足りません」
教王が、顔を上げる。
「そうだろうな」
苦しそうに、笑った。
「私は、遠すぎた」
*
広場の端で、誰かが手を組んだ。
痩せた老人だった。
炊き出しの列に、いつも並んでいるような。
「教王さま」
声が、広場へ落ちた。
「聞いて、くださるんですか」
教王が、そちらを見る。
「今度は」
老人の目から、涙が流れていた。
「わしらの声を」
教王は、答えようとした。
声が、出なかった。
ただ、頭を下げた。
深く。
王が民へするには、あまりにも深く。
老人は、目を閉じた。
「なら」
手を、組む。
「まだ、信じます」
その隣で、パン屋の女が祈った。
窓辺の老人が祈った。
泣いていた子供の母親が、子を抱いたまま膝をついた。
騎士が兜を脱ぎ、剣を地面へ置く。
「教王猊下を、お守りください」
別の声。
「この国を」
「今度こそ」
「私たちの祈りを」
声は、揃っていなかった。
祝詞でもない。
正しい言葉を知っている者ばかりでは、なかった。
ただ、それぞれが、それぞれの言葉で願った。
市場から。裏通りから。城壁の上から。鐘楼から。
首都中へ、祈りが広がっていく。
大聖堂の鐘が、一度だけ鳴った。
誰も、撞いていない。
二度目。三度目。
地下の奥で、エンゲルスルーフが目を覚ます。
今度の光は、静かだった。
強制された時のような、濁りがない。
金色の粒が、街のあちこちから空へ昇る。
一つ一つは、小さい。
けれど、数え切れなかった。
教王の手の中で、鍵が開く。
形が崩れ、光の輪へ変わる。
「……これが」
教王が、呟く。
「民の、声か」
アナスタシアさんが、隣で手を組んだ。
今度は、途中で止まらなかった。
「どうか」
涙が、頬を伝う。
「どうか、守ってください」
祈りの形に、ならなかった手が、初めて組まれた。
光が、空へ集まる。
輪が生まれる。翼が編まれる。
一枚、二枚と、先ほどよりゆっくりと。
けれど、確かに。
悲哀の悪魔が、空を見上げた。
「……そうですか」
その顔に、初めて穏やかなものが浮かんだ。
「祈りとは」
金色の輪の中心で、熾天使が目を開く。
今度は、引きずり出されたのではなかった。
降りてきた。
『——応えよう』
短い声だった。
教王が、笑った。
そのまま、倒れかける。
アナスタシアさんとレオンが、両側から支えた。
*
熾天使の翼が、開く。
悲哀の悪魔も、両腕を広げた。
片方は、もう半ば崩れている。
「では」
涙の跡を残したまま、笑う。
「続けましょう」
光と黒が、再び衝突した。
今度の熾天使は、先ほどとは違った。
力が増したわけではない。
動きに、迷いがなかった。
守るものが、地上にあった。
広場へ落ちる黒い針を、翼で受ける。
崩れる建物を、光の手で支える。
悪魔へ向ける刃は、一つ。
民へ向ける翼は、数え切れない。
悲哀の悪魔が、黒い雨を放つ。
熾天使は避けず、すべてを受けた。
翼が裂ける。
だが、その内側の民には、一本も届かない。
「正しい」
悪魔が、呟く。
「美しい」
熾天使の光の剣が、悪魔の肩を斬る。
黒い腕が、落ちる。
「だからこそ」
悪魔の左手が、熾天使の胸を貫く。
「悲しい」
金色の光が、噴き出す。
だが、今度は消えない。
首都の祈りが、形を繋ぎ止めている。
「今だ!」
ヤンさんが、走った。
負傷しているはずなのに、速度は落ちていない。
ハルバードを低く構え、悪魔の死角へ入る。
刃が、脇腹を深く裂いた。
悪魔が振り返る。
ヤンさんは、すでにそこにいない。
次の足場へ移り、柄の石突で膝を打つ。
悪魔の体勢が、初めて崩れた。
「ジェス!」
「任せろ!」
ジェスが、階段を駆け上がる。
剣へ赤い光を纏わせ、ヤンさんが作った傷へ叩き込む。
悪魔の黒衣が裂け、灰色の肌へ刃が届いた。
直後、ジェスの胸へ衝撃が入る。
体が、吹き飛ぶ。
俺は横から飛び込み、ジェスの腕を掴んだ。
二人まとめて、床へ転がる。
「助かった」
「次、お願いします」
「もう行くのかよ」
「止まったら、届かない!」
立ち上がる。
クラインさんの魔法が、悪魔の足元へ絡みつく。
青白い鎖。
一本ずつはすぐに砕かれる。
けれど、砕かれるたび、次が生まれた。
「三秒だ!」
十分だった。
ヤンさんが、正面。
ジェスが、右。
俺が、左。
熾天使が、上。
悲哀の悪魔は、残った腕を上げる。
黒い壁が、生まれた。
熾天使の剣が、それを割る。
ヤンさんのハルバードが、亀裂を広げる。
ジェスが、盾ごと体当たりする。
壁が、崩れた。
俺は、その隙間へ入った。
剣を振る。
〈虚鞘〉。
刀身へ、真空を重ねる。
悪魔の脇腹へ、届く。
だが、浅い。
黒い力が、剣を押し返す。
「軽い」
悪魔が言った。
「あなたの刃は、まだ」
指が、俺の額へ向く。
死ぬ。
そう思った瞬間、ナナの声が響いた。
『カイさま。接触点を、固定します』
視界の中で、刀身の先だけが白くなる。
「虚空は、使わないって」
『虚空では、ありません』
「じゃあ、何だ」
『境界です』
真空の、先。
何もない場所へ落とすのではない。
ここにあるものと、ないものの、間。
剣が、わずかに沈む。
黒い力が、裂けた。
悪魔の目が、大きく開く。
俺を見た。
いや——俺の、奥を見た。
「……そうか」
指が、止まる。
灰色の瞳に、遠い光が映った。
「そちらの手も、入っているのですね」
「何の話だ」
悪魔は、答えなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「良いでしょう」
黒い力が、消えていく。
ヤンさんが叫ぶ。
「止まるな!」
「でも」
「振れ!」
踏み込む。
気。剣。体。
全部を、一つにする。
刀身の周囲から、音が消える。
真空より深く。虚空より浅い。
境界だけを、薄く纏わせる。
悪魔は、避けなかった。
「契約を履行できぬことは、悲しい」
穏やかな声だった。
「ですが」
剣が、胸へ入る。
抵抗は、なかった。
「これもまた、定めなのでしょう」
振り抜く。
悲哀の悪魔の体へ、細い線が走る。
黒い衣。灰色の肌。折れた角。
すべてが、その線を境に、静かにずれた。
遅れて、悪魔の体が、光の粒へ変わり始める。
赤でも、黒でもない。
夜明け前の霧のような、淡い灰色だった。
「待って」
アナスタシアさんが、叫んだ。
悪魔が、彼女を見る。
「彼らは」
声が、震えている。
「契約した人たちは、救われますか」
悲哀の悪魔は、少し考えた。
「救いを、求めてはいませんでした」
アナスタシアさんの顔が、歪む。
「ただ」
悪魔は、南を見た。
「忘れないでほしいと、願っていました」
体が、さらに透ける。
「それは、あなたが決めることです」
アナスタシアさんは、泣いた。
声を上げず、ただ、何度も頷いた。
悲哀の悪魔は、最後に熾天使を見上げた。
「あなたは」
熾天使が、静かに翼を閉じる。
『還れ』
「はい」
悪魔は、微笑んだ。
「今度こそ」
灰色の粒が、風へ散った。
空が、静かになる。
熾天使の輪も、ゆっくりと薄れていく。
首都の祈りが止んだのではない。
役目を終えたのだと、なぜか分かった。
熾天使は、地上へ顔を向けた。
教王へ。民へ。
そして、一瞬だけ、俺へ。
『——継げ』
その声が誰に向けられたものか、分からなかった。
光の翼が、閉じる。
金色の粒が降り、首都の傷ついた屋根や石畳へ溶けていった。
熾天使は、消えた。
今度は、誰も悲鳴を上げなかった。
鐘が鳴った。
ゆっくりと。一度。二度。三度。
祈りの国に、朝が戻ってきたような音だった。
*
戦いが終わったあと、広場へ残ったのは、歓声ではなかった。
泣く声。名前を呼ぶ声。倒れた者を運ぶ足音。
クーリは神官や騎士の間を走り回り、ジェスも片腕を押さえながら担架を運んでいた。
クラインさんは崩れた建物へ結界を張り、ヤンさんは何事もなかったような顔で指示を出している。
「ヤンさん、肋骨折れてません?」
「二本だ」
「休んでくださいよ」
「お前が言うな」
何も、言い返せなかった。
ナナが、俺の肩へ触れる。
『右肩の機能低下。器表層に、新たな損傷を確認』
「ナナは?」
『コア負荷、軽度。クーリさまの補助により、安定しています』
「本当に?」
『約束に基づき、虚偽なく報告しています』
「なら、よかった」
足から、力が抜けた。
その場へ座り込みそうになり、ナナが腕を支える。
『休息を、推奨します』
「あとで」
『非推奨です』
「アナスタシアさんが」
広場の中央に、彼女は立っていた。
教王の、前で。
レオンが、少し離れた場所にいる。
剣は、鞘へ戻っていた。
*
アナスタシアさんは、自分の首から聖女の証を外した。
金色の輪と翼を模した、小さなペンダント。
両手で持ち、教王の前へ差し出す。
「教王猊下」
声は、震えていなかった。
「私には、申し上げなければならないことがあります」
教王は、担架へ寝かされるのを拒み、椅子へ座っていた。
顔色は、悪い。呼吸も、浅い。
それでも、アナスタシアさんを真っ直ぐ見た。
「聞こう」
「聖域の襲撃に際し、私は教団へ、騎士団の配置と、警備の薄い時刻を伝えました」
周囲の音が、止まった。
近くにいた騎士たちが、振り返る。
神官たちも。民も。
アナスタシアさんは、続けた。
「今回の契約についても、概要を知っていました。止められる可能性がありながら、私は告発しませんでした」
ペンダントを持つ手が、震える。
「死んだ騎士たちの責は、私にも、あります」
レオンが、目を閉じた。
アナスタシアさんは、彼を見なかった。
「聖女の位を返上し、いかなる裁きも、受けます」
教王は、すぐには答えなかった。
長い沈黙のあと。
「なぜ、教団へ加担した」
「……民を、救いたかったのです」
声が、一度だけ掠れた。
「それが、どれほど傲慢な言葉かは、分かっております。救おうとして、私は人を死なせました」
「詳しくは」
「裁きの場で、すべて申し上げます」
その先を、彼女は言わなかった。
弟のことも。名前のことも。
ここで言えば、それは免罪の飾りになる。
そう決めているような、口の結び方だった。
レオンは、何も聞かなかった。
拳だけが、鎧の胸元で、強く握られていた。
「今は、聞きません」
掠れた声で、それだけ言った。
「今、聞けば。私は、まだ——」
続きは、なかった。
*
教王は、目を閉じた。
「聖女を辞めれば、罪は軽くなると思うか」
「思いません」
「裁かれれば、終わると」
「……いいえ」
「ならば、その証は持っていろ」
アナスタシアさんが、顔を上げる。
「ですが」
「返すことは、許さぬ」
教王の声は、弱い。
けれど、拒めない強さがあった。
「お前は、祈りを裏切った」
アナスタシアさんの肩が、震える。
「はい」
「同時に、今日、祈った」
「……はい」
「どちらも、お前だ」
教王は、広場を見た。
傷ついた騎士。泣く民。崩れた大聖堂。
「私も、同じだ。民を思っていた。だが、民を見なかった」
白い法衣の胸元を、握る。
「知らなかった。それを、無実とは呼べぬ」
アナスタシアさんの目から、また涙が落ちた。
「猊下は、騙されて」
「騙された者に、責がないわけではない」
教王は、彼女へ手を伸ばした。
ペンダントではなく、その手を取る。
「死ぬことも、罰を受けて消えることも、時に、容易い」
アナスタシアさんが、息を呑む。
「生きろ」
教王は、言った。
「見たものを、忘れるな。死んだ者の名を、背負え。お前が救おうとした民の前へ、二度と目を伏せずに立て」
「それは」
「贖罪だ」
教王は、わずかに笑った。
「私と共に、贖おう」
アナスタシアさんは、答えられなかった。
膝をつく。
教王の手を握ったまま、声を殺して泣いた。
レオンは、それを見ていた。
怒りが消えたわけではない。
許したわけでも、ない。
ただ、鎧の胸元を、握りしめていた。
*
広場の民は、誰も歓声を上げなかった。
石を投げる者も、いない。
許すと言う者も、いなかった。
ただ、見ていた。
祈った者たちが、次に、何を選ぶのかを。
鐘が、もう一度鳴った。
今度は、誰かの手で。
(第二十一話・了)




