Re:sou 第二十話「悲哀」
教王庁からの招請を受けた翌朝も、ヤンさんは夜明け前に俺とジェスを裏庭へ呼び出した。
首都へ発つまで、七日。
その七日を休養に使う気は、どうやら一欠片もないらしい。
「二人で来い」
朝靄の向こうで、ヤンさんが木剣を下げて立っている。
構えてすらいないのに、どこへ踏み込んでも打たれる未来だけは、嫌になるほど鮮明に見えた。
「昨日の疲れが残ってるんですが」
「実戦では、毎朝万全の体で起きられると思うな」
「この人、何を言っても修行の理由にしますよ」
ジェスが小声で言った。
「口が動くなら、先に来い」
「聞こえてるし」
ジェスが踏み込む。
低く構えた木剣が地面すれすれから跳ね上がり、ヤンさんの脇腹を狙った。
昨日より速い。肩にも目にも、打つ前の力みが少ない。
けれど、ヤンさんは半歩だけ外へ出ると、木剣をジェスの柄へ添えた。
それだけで軌道が逸れ、前へ流れたジェスの背へ軽い一撃が落ちる。
「ぐっ」
「昨日よりましだ」
「それ、褒めてます?」
「昨日なら首だった。今日は背だ」
基準が、殺伐としている。
次は、俺だった。
正面へ立ち、切っ先を喉元へ向ける。剣道の中段に近い。
ただし木剣の長さも重さも竹刀とは違う。打突部位も、一本の判定もない。
止まらなければ、人が死ぬ。
息を整える。ヤンさんの肩、腰、足を見る。
昨日は全部を見ようとして、全部に遅れた。
今日は、一点だけではなく、全体が動く前の気配を見る。
踏み込んだ。
面を狙うと見せ、途中で手首を返す。切っ先を肩へ流した。
ヤンさんの木剣が上がる。それを予想して、さらに胴へ落とした。
二度、変えた。
それでも、届かなかった。
俺の剣が胴へ触れる寸前、ヤンさんの姿が視界から消えた。
次の瞬間、首筋へ木剣が添えられている。
「変えすぎだ」
「一度じゃ読まれると思って」
「二度変えれば、お前自身の足が遅れる。技を増やすことと、選択肢を増やすことは同じではない」
「難しいですね」
「簡単なら、昨日のうちに終わっている」
木剣が、首筋から離れる。
「もう一度だ。今度は、最初に決めた線を通せ」
「読まれませんか」
「読まれても、相手が動かざるを得ない打ちを出せ」
俺は、構え直した。
剣道部だった頃、顧問にも似たことを言われた気がする。
小手か面かを迷って振りが鈍るくらいなら、相手が分かっていても止められない面を打て。
試合では、なかなかできなかった。相手が強くなるほど、小細工で先に触りたくなった。
今は、一本を取られるだけでは済まない。
けれど、だからこそ、中途半端な迷いはもっと危険になる。
踏み込む。
今度は、変えなかった。
切っ先を中心から外さず、真っ直ぐに振り下ろす。
木剣が交差する。鈍い音が一つ響き、腕が痺れた。
弾かれた。それでも、昨日までのように体勢は崩れていない。
次の一撃が来る。
見えた。
俺は後ろへ逃げず、半歩だけ右へ出た。
ヤンさんの切っ先が頬の横を通る。すれ違う瞬間、木剣を胴へ戻した。
触れた。
本当に、服へ掠っただけだった。
ヤンさんが、動きを止める。
「今のは」
「一本、ですか」
「実戦なら、互いに浅手だ」
「厳しいなあ」
「だが、昨日よりはいい」
横で、ジェスが腕を組んだ。
「弟弟子に先を越されたか」
「同期です」
「心の中では、俺も二本取ってる」
「まだ数えてるんですか」
「二人とも来い」
結局それから一時間、俺たちはまた地面と仲良くなった。
だが昨日とは違い、ただ転がされているだけではない。
ヤンさんの剣へ触れる回数が、少しずつ増えていた。
*
修行を終える頃、ナナが水の入った器を持ってきた。
木箱には座らず、俺たちの近くまで歩いてくる。
『水分補給を推奨します』
「ありがとう。状態は?」
あの夜から、俺は毎朝必ず聞くことにしていた。
ナナは一瞬だけ間を置いたが、今度は誤魔化さなかった。
『コア機能は回復傾向。自己修復を継続中です。通常行動への支障はありません』
「演算補助は?」
『軽度であれば可能です。ただし、大規模な座標演算は推奨されません』
「しない」
答えると、ナナは俺を見た。
『緊急時においても、ですか』
言葉に、詰まる。
緊急時なら使わないとは、言い切れない。
目の前で誰かが死にそうなら、自分の器が割れることも、ナナの負荷が増えることも、後回しにする可能性がある。
それを分かっているから、ナナは聞いたのだろう。
「使わずに済む手段を、七日で作る」
俺は、木剣を持ち上げた。
「そのための修行だ」
『了解しました』
納得したかどうかは分からない。けれど、ナナはそれ以上追及しなかった。
ヤンさんが、俺の木剣を見る。
「考えがあるのか」
「遠くへ真空を作るから、演算も出力も大きくなる。なら、剣の近くだけに作ればいい」
「刀身へ纏わせるのか」
「はい。打つ瞬間だけ。自分の手元なら座標も近いし、範囲も小さくできる。空振りしたら、発動を切ればいい」
ジェスが、眉を上げた。
「剣に魔法を乗せる奴ならいるぞ。炎剣とか雷剣とか」
「たぶん、少し違う。炎を出すんじゃなくて、刃の周りから空気をなくす」
「空気を?」
「抵抗を減らして、切断する瞬間だけ薄い真空を作る。さらに絞れるなら、接触点だけ虚空へ繋げる」
ジェスが、分かったような分からないような顔をした。
「最後の方は、相変わらず何言ってるか分からねぇな」
「俺も、できるかは分からない」
『理論上は、可能です』
ナナが言った。
『刀身を補助座標として固定した場合、遠隔座標を指定する必要がありません。起点をカイさまの掌、方向軸を刀身、終点を切っ先として定義できます』
「負担は?」
『真空層のみであれば、大幅に軽減可能です。接触時のみの虚空接続は、深度によって変動します』
ゼロでは、ない。
けれど、今までのように戦うたびナナを削るより、ずっとましだ。
ヤンさんはしばらく考えたあと、裏庭の隅に立ててあった藁束を指した。
「試せ」
「今ですか」
「七日しかないのだろう」
木剣では刃の位置が曖昧になるため、ジェスの予備の剣を借りることになった。
刃を潰した練習用だが、重さは実剣とほとんど変わらない。
俺は、藁束の前に立った。
剣を両手で握る。刀とは違う。反りもなく、柄も短い。
それでも、中心線を通す感覚は同じだった。
『座標固定を、開始します』
ナナの声が、意識のすぐ近くへ響いた。
刀身の位置が、感覚として頭の中へ浮かび上がる。
自分の手から伸びた、一本の線。
その周囲、紙より薄い範囲だけから、空気を除く。
「常に纏わせるな」
ヤンさんが言った。
「はい」
「構えている間も使うな。踏み込み、剣、体が重なる一瞬だけだ」
気剣体の一致。
懐かしい言葉が浮かんだ。剣道で打突が成立する条件。気勢、竹刀の動き、体の運びが一つになること。
声は、出さなかった。
踏み込み、振る。
発動。
藁束の手前で、空気が破裂した。
剣は触れる前に弾かれ、俺の腕が大きく上へ跳ねる。周囲の藁が舞い上がった。
「うわっ」
ジェスが顔を庇う。
『範囲指定、過大。真空層が刀身より外へ展開されました』
「失敗だな」
「見れば分かります」
ヤンさんは、舞い落ちる藁を一本掴んだ。
「今のお前は、斬ろうとしたのではない。力を出そうとした」
「同じじゃないんですか」
「違う。剣が届く前から術で倒そうとしている。だから、力が先走る」
言われてみれば、その通りだった。
剣を振る形をしていても、意識は真空をぶつけることへ向いていた。
「術を忘れろ」
「発動できませんよ」
「剣を振れ。術は、刃が届く瞬間だけ添えろ」
二度目。
今度は刀身の周囲だけを意識しすぎた。
踏み込みが遅れ、剣が藁へ食い込んだところで真空が発生する。
ぼすっ、と間の抜けた音がした。
藁束の中身が内側へ吸われ、剣が抜けなくなる。
ジェスが、耐えきれず笑った。
「新しいな。敵に剣を取られる技か」
「うるさい」
『発動時機、遅延』
戦闘なら、その間に相手の攻撃が来る。
三度目。
踏み込み、剣、体。
考えすぎない。藁へ剣が触れる直前、刃の薄さだけに真空を重ねる。
音が、消えた。
振り抜いたあと、遅れて藁束の上半分が滑り落ちた。
切断面は荒い。刀で斬ったというより、細い線に沿って引き裂かれている。
それでも、成功だった。
『真空層の形成を確認。演算負荷は、軽微です』
ナナの声に、遅れはない。
俺は、剣を見た。
「できた」
「まだだ」
ヤンさんは落ちた藁束へ近づき、切断面を指で撫でた。
「お前は今、当たると分かっていた的を斬った。敵は動く。避ける。こちらの剣を払う。そこで術を止められなければ、鞘を得たとは言えん」
「次は空振りですか」
「そうだ」
新しい藁束を立てるのかと思ったが、ヤンさんは俺の正面に立った。
「俺を打て」
「危ないですよ」
「止める修行だ」
「当たったら」
「当ててから心配しろ」
それも、そうだった。悔しいけれど。
構える。ヤンさんへ向けて、踏み込む。
面。
剣が届く寸前、ヤンさんが半歩外へ出た。
術を、止める。
真空は、生まれなかった。
空振りした剣が地面近くまで落ちる。体勢は崩れたが、周囲の空気も地面も傷ついていない。
木剣が、後頭部へ軽く当たった。
「今ので死んだ」
「でも、術は止まりました」
「一つできて、一つ死んだな」
「先は長いなあ」
「七日ある」
ヤンさんにとって、七日は長いらしい。
*
その日から、修行の内容が変わった。
朝は俺とジェスがヤンさんへ挑み、午後は真空を剣へ纏わせる練習。
最初は止まった的だけだったが、二日目からジェスが木の盾を持って動く役になった。
「なんで俺が的なんだよ」
「B級だから」
「理由になってねぇ」
「当たっても避けられるだろ」
「避けたら練習にならないんじゃないのか?」
「じゃあ、避けないで」
「お前、俺を何だと思ってる?」
「兄弟子」
「よし、避ける」
結局、ジェスは本気で逃げた。
俺が踏み込むと左右へ動き、盾で剣を弾き、時には足を引っかけてくる。
そのたび、発動を止めなければならない。
三日目には、十回のうち七回ほどは空振りで術を切れるようになった。
残りは空中に小さな真空が生まれ、庭の草や藁を巻き込んだ。
ナナへの負荷は、以前より少ない。
それでも、演算補助を使う以上、連続では行わない。
一日に十回。三回ごとに休憩。状態を報告させ、クーリにも確認してもらう。
「昨日より、いい」
ナナの胸元へ手を当てたクーリが言った。
淡い緑色の光が、白い衣の奥へ染み込んでいる。
『自己修復速度が、推定値を上回っています』
「クーリの魔法が効いてるのか」
「魔法じゃなくて、奇跡」
クーリが、少し不満そうに訂正した。
「違うのか」
「違うわよ。普通の回復は、傷を見つけて塞ぐの。でもナナの中、あたしには何がどうなってるか分からない。心臓でもないし、魔石とも違うし」
「じゃあ、どうやって治してる」
「分からない」
「分からないのか」
「でも、この子はこうじゃないって思うと、光が勝手に奥へ行くの」
クーリは目を閉じたまま、ナナの胸へ手を置いている。
「疲れて、返事が遅くなって、髪の光が薄くなってるのは、いつものナナじゃない。だから戻ってって思う。そうすると、少し届く」
あの日、クーリは誰より先に、ナナの異変を見抜いていた。
あの時より、今の光は深く、安定しているように見える。
「前から、こんなことできた?」
「できなかった。たぶん」
「たぶん?」
「前は、やろうとも思わなかったから」
クーリが片目を開け、俺を見た。
「カイの傷も同じ。普通の治癒じゃ、表面しか塞がらない。でも最近は、もっと奥に罅があるって分かる。そこに触れられる時がある」
「俺の近くにいるから、か」
「それもあるかもしれない」
クーリは、掌の光を見た。
「クライン兄さんも、前より古い言葉が分かるようになってる。ジェスも、前なら寝込んでた傷で次の日には動いてる。あんたの周りにいると、何かが少しずつ緩くなる」
枷。
世界が、この時代の人間へ掛けている制限。
俺が創世人だから、近くにいる者の権限まで引き上げているのかもしれない。
『可能性は、あります』
ナナが答えた。
『カイさまとの継続的接触により、周辺個体へ一時的な権限共有が発生している可能性があります』
「俺、何もしてないぞ」
『意図の有無は、権限作用の条件ではありません』
クーリが、俺を見る。
「じゃあ、あたしが治せるようになったのも、カイのおかげ?」
「クーリ自身の力だろ」
「でも、あんたがいないと届かなかったかもしれない」
「それでも、治してるのはクーリだ」
答えると、クーリは一瞬黙った。
「……そういうこと、さらっと言うのずるい」
「何が?」
「なんでもない」
最近、俺の周りには「なんでもない」が増えている気がする。
ナナの状態は、クーリの奇跡と自己修復で少しずつ戻った。
俺も、練習以上の演算補助は頼まなかった。
四日目、真空を纏わせた剣で、ジェスの盾へ初めて一撃を通した。
盾自体は斬らず、表面だけへ細い傷を残して止めた。
「止めたな」
ヤンさんが言った。
「はい」
「なぜ振り抜かなかった」
「盾の後ろにジェスがいたから」
「敵だぞ」
「今は味方です」
ジェスが、盾の向こうから顔を出した。
「今は、って何だよ」
「実戦なら、盾だけ斬って止める。できれば」
「できれば、か」
ヤンさんは、傷を確認した。
「それでいい。自分がどこまで斬るのか、振る前に決めろ」
「当たってから決めるんじゃ遅い?」
「遅い。剣は、振る前に半分終わっている」
*
その日の夕方、技の名前を決めることになった。
俺は別に名前などなくてもいいと思っていたが、ジェスが納得しなかった。
「技には名前が要るだろ。咄嗟に指示する時も便利だ」
「『剣に真空を纏わせるやつ』でいいじゃないか」
「長ぇよ。真空斬でいい」
「そのまますぎるわ」
クーリが、即座に却下した。
「じゃあ、風断」
「風じゃないだろ」
クラインさんは、帳面へ術式の特徴を書きながら考えていた。
「空気のない層を刃へ重ねるのなら、空衣というのはどうかな」
「服みたい」
俺が言うと、クラインさんが眼鏡の奥で少し傷ついた顔をした。
「では、虚刃」
「悪くないけど、まだ虚空までは使ってないんだよな」
「真空刃」
「ジェスの案と同じくらい、そのままね」
「お前は何か出せよ」
クーリは、腕を組んだ。
「カイが考えればいいじゃない。本人の技でしょ」
「こういうの、口に出すと恥ずかしいんだよ」
「もう真空だの虚空だの言ってる時点で、十分恥ずかしいぞ」
ジェスに言われると、腹が立つ。
黙っていたヤンさんが、練習用の剣を鞘へ戻した。
「鞘でいい」
「鞘?」
「力を抜き身にせず、必要な時だけ抜くための技だ」
あの朝、言われた言葉が、そのまま形になった。
——お前の力には、鞘がない。
なら、この技そのものを鞘にすればいい。
「〈虚鞘〉」
口にしてみる。
クーリが、少しだけ眉を寄せた。
「格好つけたわね」
「悪い?」
「真空斬よりは、まし」
「俺の案、ずっと比較対象にされてない?」
技法全体を、〈虚鞘〉と呼ぶことになった。
今使えるのは、真空を刀身へ薄く纏わせる基本形だけ。
虚空へ繋ぐ上位形は、ナナの負荷と俺の器を考え、封印した。
少なくとも、今は。
*
首都へ出発する前日、俺はクーリと買い出しへ出た。
薬草。旅用の包帯。解毒薬の材料。
ナナの収納へ入れれば荷物持ちは必要ないはずだが、クーリは俺へ籠を押しつけた。
「今日は手で持って」
「なんで」
「買い物してる感じがするから」
「ナナと行った時も、最後は収納へ入れたぞ」
「今日は、あたしと来てるの」
それ以上聞くと怒られそうなので、黙って持った。
市場の空気は、七日前とは少し変わっていた。
布告は何度も貼り替えられたが、内容はほとんど同じだった。
神殿騎士団の奮戦。悪魔教団への警戒。流言に惑わされぬようにという注意。
枢機卿の部屋については、一文字も触れられていない。
それでも、民は知っていた。
酒瓶が転がっていたこと。肉と果物が積まれていたこと。大儀の間、女たちを侍らせていたこと。
どこまでが真実かは分からなくても、扉の奥に祈りがなかったことだけは、多くの巡礼者が見ている。
怒りは声にならず、代わりに寄進箱へ入る硬貨が減った。
いつも行列のできていた教会の前を、人々が目を伏せて通り過ぎる。
「このまま、何もなかったことにするつもりかな」
俺が言うと、クーリは薬草の葉を選びながら答えた。
「できないでしょ。見た人が多すぎるもの」
「でも、布告には書かない」
「書いたら、上にいる奴らまで燃えるからじゃない」
「悪い奴だけ燃えればいいのに」
「火って、そんなに器用じゃないわよ」
クーリは、赤根を一本折り、断面を確かめた。
「あたしたちだって、教会の施療院を使った。あそこで働いてる人は、アナスタシアみたいな人ばかりだった。神殿騎士も、民を守って死んだ。上が腐ってるからって、全部壊せば困るのは下の人よ」
「じゃあ、どうすればいいんだろうな」
「それが分かれば、悪魔なんて呼ばないんじゃない」
軽い口調だったが、その言葉には窪地の光景が残っていた。
買い物を終えたあと、クーリが雑貨屋の前で足を止めた。
細い組紐や髪留め、短剣の柄へ巻く飾り紐が並んでいる。
視線が、緑色の組紐へ向いていた。
「欲しいの?」
「見てただけ」
「髪に使うやつ?」
「どっちでも使えるわ」
ナナへ木の髪飾りを買った時のことを思い出した。
クーリはあのあと、何度も「べつに」を伸ばしていた。
「これ、似合いそうだな」
「え?」
「クーリに」
クーリは、俺と組紐を交互に見た。
「ナナには花で、あたしには紐?」
「実用的な方が好きかと思って」
「……まあ、分かってるじゃない」
「買う?」
「カイが買いたいなら」
「なんで俺次第なんだよ」
「別に、欲しいとは言ってないし」
「じゃあ、やめる?」
「なんでやめるのよ」
難しい。
銅貨を払って渡すと、クーリはすぐには髪へ使わず、手の中で組紐を撫でた。
「結ばないの?」
「宿でやる」
「今でもいいだろ」
「鏡がないもの」
「見てやるよ」
「だから嫌なの!」
店主の女が、声を上げて笑った。
帰り道、クーリは袋の上から何度も組紐を触っていた。
「ナナの髪飾り、似合ってたな」
俺が言うと、クーリは少し間を置いて頷いた。
「うん。あの子、ああいうの初めてだったんでしょ」
「そうらしい」
「なら、よかった」
「怒ってたんじゃないのか」
「少しくらいは、怒るわよ」
認めるんだ。
「でも、ナナが嬉しかったことまで嫌なわけじゃない」
「複雑だな」
「あんたが鈍いだけ」
宿へ戻ると、ナナはクーリの新しい組紐を見て、すぐに俺が買ったものだと推定した。
『クーリさまへの、初めての贈り物ですか』
「そうなるかな」
『記録します』
「なんでナナが記録するのよ」
『重要な進展である可能性があります』
「何の進展!?」
クーリの顔が赤くなる。
ジェスが笑い、薬草の束が飛び、今度も避けた先にクラインさんがいた。
「最近、僕だけ命中率が高くないかい」
「ごめん兄さん!」
「ヤンさん。クーリの投擲も鍛えてあげては」
「十分当たっている」
*
翌朝、俺たちはイリスを発った。
首都までは、馬車で五日。
教王庁から迎えとして神殿騎士が四名付き、あの窪地で仲間の骸を抱いていた若い騎士も同行した。
名は、レオンという。
アナスタシアさんは、黒い衣の上へ旅用の外套を重ねていた。
俺たちと話す時は以前と変わらず穏やかだが、東門を出る直前、一度だけ街の方を振り返った。
誰かを探しているようにも。
誰かに、別れを告げているようにも見えた。
宿の親父が、弁当を持たせてくれた。
「首都は立派ですよ。大聖堂なんて、尖塔の先が雲へ届く。天使さまも毎日のように飛んでおります」
「教王って、どんな人なんですか」
俺が聞くと、親父は少し遠い目をした。
「清廉なお方ですよ。わしが若い時分にゃ、まだ司祭さまでねえ。ご自分で炊き出しの鍋を振るっておられた。私財まで施しに使うお方だと、皆が言ったもんです」
「今は?」
「……もう長いこと、お姿を見た者はおりません。ご病気だそうで。教王さまになられてからは、市井へ降りられたのも、数えるほどだとか」
親父は、帽子を撫でた。
「あのお方なら、と皆で選んだんですがねえ。……悪いのは、その周りで耳と目を塞いでる連中でさあ」
清廉だが、遠い。
選ばれた人は、選ばれたきり、見えなくなった。
本当に清廉なのか。そう信じたいだけなのか。
俺たちには、まだ分からなかった。
一日目の旅は、穏やかだった。
街道沿いの村で神殿騎士を見ると、子供たちが木の棒を剣にして駆け寄ってくる。
レオンは片腕にまだ包帯を巻いていたが、子供たちの前では笑って手を振った。
「騎士さま、天使呼べる?」
「私はまだ祈り手だ。もっと修行したらな」
「いつ?」
「君が騎士になる頃には」
子供は、目を輝かせた。
仲間を失っても、レオンはこの子たちの憧れでいようとしている。
夜、野営地で俺とジェスはヤンさんに型を見てもらった。
〈虚鞘〉の使用は一日三回まで。ナナの状態に余裕があっても、回数は増やさない。
二日目、関所で教会税を積んだ荷車とすれ違った。
小麦袋が、荷台へ山のように載せられている。
その脇で、痩せた村長が役人へ頭を下げていた。
「今年は雨が少なく、冬越しの分まで納めれば、子供たちが」
「規定だ」
役人は、書類から顔を上げない。
「一つの村だけを免除すれば、他へ示しがつかん」
「せめて、三袋だけでも」
「教王庁へ異議があるなら、首都で申し立てろ」
首都まで来る金も食料もないから、ここで頼んでいるのだろう。
神殿騎士たちも、苦い顔をしていた。だが正式な徴税へ口を出す権限はないらしい。
アナスタシアさんの指が、膝の上で強く組まれた。
「祈りって、お腹には溜まらないのにね」
クーリが、小さく言った。
その夜、食事の量が一人分減っていた。
誰も何も言わなかったが、翌朝、村の入り口に食料の入った袋が置かれていた。
アナスタシアさんの荷物も、少し軽くなっていた。
三日目、街道沿いの礼拝所へ立ち寄った。
小さな建物で、神官は一人しかいない。
病人を休ませる寝台と、旅人へ配る水が用意されていた。
神官はアナスタシアさんを見ると、深く頭を下げた。
「聖女様。首都へお戻りになるのですか」
「証言のために」
「どうか教王猊下へ、お伝えください。南の村々は限界です。税だけでなく、騎士団の派遣費まで求められております」
「派遣費?」
ジェスが聞く。
神官は周囲を見てから、声を潜めた。
「魔物や賊の被害を訴えても、寄進が足りぬ村には騎士を出せないと。教王猊下の命とは、思えません」
アナスタシアさんは、唇を噛んだ。
「必ず、お伝えします」
「お願いします。教王猊下まで、声が届いていないのです」
教王は、清廉。
だが、その下にいる者たちが情報を止めている。
もし本当なら、教王は国の頂点にいながら、誰より孤立していることになる。
四日目の夜、川辺で水を汲んでいると、アナスタシアさんが一人で立っていた。
月明かりが水面に揺れ、黒い衣の裾を風が動かしている。
「眠れないんですか」
声をかけると、彼女は少し驚いて振り返った。
「ええ。旅の前後は、いつも」
「首都は半年ぶりでしたっけ」
「はい」
「緊張します?」
アナスタシアさんは、少し考えてから頷いた。
「します」
意外に、素直な答えだった。
「教王庁に呼ばれるから?」
「それもあります」
「他にも?」
彼女は、川面へ視線を戻した。
「カイ様は、正しいこととは何だと思われますか」
急な、問いだった。
「難しいですね」
「悪い人を止めることは、正しいでしょうか」
「たぶん」
「そのために、善い人が傷つくと分かっていても?」
窪地で死んだ騎士たちを思い出した。
教団は、彼らを殺したくなかった。
それでも悪魔を呼び、結果として人が死んだ。
「傷つけない方法を、最後まで探すべきだと思います」
「探しても、見つからなければ」
「それでも、傷ついた人を『仕方なかった』で終わらせたら駄目だ」
自分へ言っているような気もした。
モーリーさんを仕方なかったで終わらせれば、俺はまた、自分や誰かを犠牲にする。
アナスタシアさんは、目を伏せた。
「……優しいのですね」
「違います。忘れるのが怖いだけです」
「忘れなければ、正しくいられますか」
「分かりません。でも、忘れたら同じことをする」
川の流れる音だけが、続いた。
「どうか、首都では」
アナスタシアさんが言った。
「ご自身の目で、この国を見てください」
「何か起きるんですか」
彼女の肩が、強張った。
「……何も起きないことを、願っています」
祈らなかった人が、初めて口にした願いだった。
けれど、彼女は手を組まなかった。
*
五日目の昼、首都ミルウーダが見えた。
白い城壁が丘陵を三重に囲み、その中心に巨大な大聖堂がそびえている。
尖塔は雲へ突き刺さり、その周囲を黄金の輪を模した建造物が囲んでいた。
空には、小型の天使が二体浮かんでいる。
顔のない金色の姿が、城壁に沿って巡回していた。
街の者にとっては見慣れた光景なのか、足を止める者はいない。
子供が手を振り、天使は応えず通り過ぎる。それでも子供は嬉しそうだった。
城門をくぐると、豊かさと貧しさが一度に目へ入った。
大聖堂へ近い通りは磨かれた石畳と白い建物が並び、外縁には粗末な家が城壁へ張り付いている。
香を焚く店の向かいで、痩せた子供が施しを求めていた。
ナナが、大聖堂を見上げる。
『大聖堂の地下に、大規模な構造反応を確認』
「端末か?」
『信号形式が異なります。用途は——不明です。ただ、巨大な何かが、眠っています』
クラインさんが、声を潜める。
「……そういえば、古い伝承があるね。国家の危機には、セラフ級——熾天使が召喚された過去がある、と」
「熾天使?」
「守護天使より、遥か上位とされる存在さ。古い呼び方で、セラフ。もっとも、伝承は伝承だ。果たして、人に召喚できるものなのか……僕は眉唾だと思っているけれどね」
「そんなの、何と戦うためにあるんだ」
ジェスの問いへ、誰も答えなかった。
教王庁の使者が、俺たちを迎えに来た。
白い法衣の神官たちの中に、一際立派な衣を着た肥えた男がいる。
「遠路、ご苦労であった」
男は俺たちを順に見たあと、ヤンさんのハルバードへ嫌そうな目を向けた。
「教王猊下への謁見は明日である。本日は客殿にて身を清め、待機せよ。聖域で目にした事柄については、余計な発言を慎むように」
クラインさんが、穏やかに笑った。
「余計な発言とは、どの辺りからでしょう」
「民の混乱を招く内容だ」
「枢機卿の部屋にあった酒や肉の話ですか」
男の頬が、引きつった。
「事実確認の済んでいない流言である」
「僕たちは、その場で見ましたが」
「戦闘による混乱と疲労があったのだろう」
「五人揃って、同じ幻を?」
「口を慎め、半エルフ」
空気が、冷えた。
ジェスが前へ出かける。ヤンさんの腕が、それを止めた。
クラインさんは、笑みを崩さない。
「失礼。首都では、目に映ったものより、地位の高い方の言葉を信じるのが作法なのですね」
「……客殿へ案内しろ」
神官は答えず、部下へ命じた。
その時、通りの向こうで怒鳴り声がした。
「返せ!」
痩せた男が、神殿騎士二人に取り押さえられている。
「うちの村の麦だ! 子供が食う分まで持っていった! 返してくれ!」
騎士たちは、困った顔をしていた。殴ることもできず、放すこともできない。
肥えた神官が、舌打ちした。
「見苦しい。早く連れて行け」
アナスタシアさんが、一歩前へ出る。
「お待ちください。事情を聞かせてください」
「聖女アナスタシア」
神官の声が、冷たくなる。
「そなたは証人として呼ばれた。命じられていないことへ口を出すな」
アナスタシアさんの足が、止まった。
男は、引きずられていく。
大聖堂の鐘が鳴り、その叫びを呑み込んだ。
通りの端で、黒い紐を手首へ巻いた男がこちらを見ていた。
イリスの路地でアナスタシアさんと話していた人物とは、背丈も顔も違う。
だが、同じ印だった。
ナナも、気づいた。
『外套の人物と、同系統の装具を確認』
「今は黙って」
『了解しました』
男は、人混みへ消えた。
アナスタシアさんは、見なかった。
いや。
見ないようにしているのだと、思った。
*
客殿には、豪華な食事が用意されていた。
厚い肉。白いパン。果実酒。香辛料を使った煮込み。
街の外では麦を奪われた者が叫んでいたのに、ここでは食べきれない量が卓上へ並んでいる。
俺は、すぐには手を伸ばせなかった。
「食え」
ヤンさんが、パンを割った。
「でも」
「食事に罪はない。明日動けなくなれば、お前が困る」
正しい。
それでも、味はほとんどしなかった。
ナナは俺の隣で、果実を小さく切っていた。
最近は必要性ではなく、味覚の記録として少しずつ食べている。
「状態は?」
『回復を継続中です。クーリさまの奇跡による改善を確認しています』
クーリが、向かいで胸を張る。
「当然でしょ」
「無理はしてない?」
「してない。カイよりは」
比較対象が悪い。
食後、客殿の庭で〈虚鞘〉を三度だけ確認した。
一度目は、成功。
二度目は空振りし、術を止める。
三度目は踏み込みがずれ、発動条件そのものが成立しなかった。
まだ、実戦で自在に使える技ではない。
それでも、放ったら終わりだった以前とは違う。
止められる。
選べる。
剣を鞘へ戻した時、大聖堂の地下ではない方角から、低い震動が伝わってきた。
地鳴りでは、なかった。
巨大な心臓が、街のどこかで一度だけ脈打ったような響き。
ナナが、南を向く。
『高密度マナ反応を確認』
「地下の召喚設備か」
『違います。首都南区。——複数の生命反応が、急速に消失しています』
大聖堂の鐘が鳴った。
一つ。二つ。三つ。
時を告げる音では、ない。
警鐘だった。
空を巡回していた二体の天使が、一斉に南へ向きを変える。
客殿の廊下から、アナスタシアさんが飛び出してきた。
顔から、血の気が消えている。
「まさか……今日では」
「何が始まるんです」
俺の問いに、彼女の唇が震えた。
答えが出る前に、南の空が赤黒く染まった。
光の柱が、地上から天へ伸びる。
その中で、何人もの声が重なっていた。
『我らは、願わぬ』
低い声。老いた声。女の声。
『我らは、縋らぬ』
一人ずつ、途切れていく。
『我らは、民を供物とせぬ』
赤い光の中で、人影が自らの胸へ刃を入れた。
アナスタシアさんが、壁へ手をつく。
「やめて……」
『我らは、子を供物とせぬ』
刃が、沈む。
血が、落ちる。
それでも、声は続いた。
『我らは、奪いし命を供物とせぬ』
彼らは、人間の心臓を使わないという掟を破らなかった。
他人のものを差し出さず。
自分たちの心臓を、供物にした。
『我らが欲は、ここにある』
最後の男が、震える手で胸へ刃を当てた。
『我らが罪も、ここにある』
声には、恐怖があった。
それでも、刃は止まらなかった。
『ゆえに、対価は我ら自身』
男が、膝をつく。
血が、石畳へ広がる。
それでも最後まで、顔を上げていた。
『名も、明日も、帰る場所も差し出そう』
赤黒い柱の奥で、何かがこちらを見た。
姿は、まだない。
ただ、深い場所から、視線だけが届いた。
『契約する』
最後の声が、首都全体へ響く。
『この国に巣食う、醜きものを殺せ』
光の柱が、音もなく砕けた。
*
空から現れたのは、巨大な怪物ではなかった。
一人の、男の姿をしていた。
長い灰色の髪。痩せた体。黒い衣。
頭には、割れた王冠のような角がある。
美しい顔だった。
けれど、その目には、生まれた瞬間から世界のすべてを悼んでいるような、深い悲しみがあった。
ナナの声が、硬くなる。
『……魔王級です』
それだけで、十分だった。
ヤンさんの手が、ハルバードの柄へ伸びる。
クラインさんの顔から、いつもの笑みが消えた。
ジェスが剣を抜き、クーリが息を呑む。
悪魔は、足元に倒れた契約者たちを、一人ずつ見下ろした。
しばらく、動かなかった。
やがて膝をつき、最も近くに倒れた老人の目を閉じる。
「……こんなにも、払う必要はなかった」
悲しそうな、声だった。
窪地の悪魔たちとは、違う。
契約の意味も。命の重さも。理解している。
だからこそ、止まらない。
悪魔は立ち上がり、大聖堂へ顔を向けた。
その頬を、一筋の涙が伝う。
「人は、醜いものを嫌いながら」
声に、怒りはなかった。
ただ、悲しみだけがあった。
「なぜ、自ら醜くなるのだろう」
次の瞬間。
南区から大聖堂まで続く屋根が、一列に砕けた。
悪魔が跳んだのだと気づいた時には、教王庁の上層で最初の悲鳴が上がっていた。
白い塔の窓が、内側から弾ける。
赤い法衣を着た男が一人、宙へ投げ出された。
悪魔は落下する男の首を掴み、空中で止めた。
「待て! 金ならある! 地位もやる! 何が望みだ!」
悪魔は、男の顔を悲しげに見た。
「あなたは、他者から奪ったものでしか、支払えないのですね」
「違う! 私は国のために——」
「嘘は、悲しい」
細い指が、閉じる。
男の体が、赤い灰となって崩れた。
街じゅうから、悲鳴が上がった。
「悪魔だ!」
「教王庁が襲われている!」
「天使を! 騎士団は何をしている!」
鐘が、乱打される。
大聖堂前の広場へ、神殿騎士たちが次々と集まってきた。
騎士は円陣を組み、その内側で祈り手たちが膝をつく。
歌うような祝詞が、重なった。
『一なる祈りを、一なる光へ』
最初は六人。次に十二人。
やがて広場の騎士全員が、声を揃える。
『我らの願いを、一つの翼へ』
空気へ金色の粒が浮かび、騎士たちの頭上へ集まっていく。
『正しき道を守りたまえ』
光が骨格を作る。翼を編む。剣と盾を形にする。
『民の命を、明日へ繋ぎたまえ』
三体の守護天使が、広場へ降り立った。
顔のない金色の頭が、一斉に悪魔へ向く。
『——ドミニオン、三体』
ナナが言った。
『来たれ、守護の御使よ』
天使が、飛んだ。
三方向から、悲哀の悪魔へ剣を振るう。
一体目の剣を、悪魔は素手で受けた。
金色の刃が、掌へ触れる。
次の瞬間、天使の腕が、肩から崩れた。
光の砂が、空へ散る。
悪魔は、攻撃を避けなかった。
盾を持つ二体目の胸へ、掌を当てる。
「あなたは、守りたいのですね」
呟きと同時に、天使の体へ黒い亀裂が走った。
盾。胸。翼。
すべてが内側から砕け、金色の粒へ戻っていく。
三体目が、背後から剣を振り下ろした。
悪魔は、振り返らない。
灰色の髪が揺れる。
それだけで、天使の剣が途中から腐るように崩れた。
「だが、守るものを選ぶのは、あなたではない」
悪魔が、指を上げる。
三体目の天使が空中で静止し——輪郭が細く潰れ、光の線になって消えた。
三体。
一息、だった。
広場に膝をついていた祈り手たちが、一斉に倒れる。
死んでは、いない。けれど、意識を失っている。
支えていた祈りを、根ごと断たれたみたいだった。
「次を呼べ!」
指揮官が叫ぶ。
「第二陣! 陣形を組め!」
別の騎士たちが、膝をつく。
民も、祈り始めた。
広場の商人。窓辺の女。泣く子を抱いた母親。
けれど、悪魔は既に次の塔へ向かっていた。
肥えた神官が、回廊を逃げている。
客殿で俺たちを迎えた、あの男だった。
「助けろ! 私は大司教だぞ!」
悪魔は、その前へ降り立った。
大司教が、尻餅をつく。
「私は何もしていない! 命令に従っただけだ!」
「何も、しなかったのですね」
悪魔の声は、どこまでも静かだった。
「泣いている者を、見ながら」
「違う! 私には権限が——」
「権限がなければ、心も使わないのですか」
「待て! 教王の命令だ! 全部、教王が——」
悪魔の手が、止まった。
大司教の顔に、希望が浮かぶ。
「そうだ! 教王だ! あの男が全部決めた! 私は従っただけだ!」
悪魔は、ゆっくり顔を上げた。
大聖堂の最上部。教王のいる場所を見る。
それから、目の前の男へ戻した。
「また、他者を差し出すのですね」
大司教の笑みが、凍った。
「あなたは最後まで、自分のものを払わない」
指先が、触れる。
大司教の体が、膝から灰へ変わった。
風が吹き、赤黒い灰が白い回廊へ散った。
*
「止めるぞ」
ヤンさんが言った。
「でも、教王庁の連中を狙ってる」
ジェスが剣を握ったまま、大聖堂を見上げる。
「民には手を出してねぇ」
「今はな」
ヤンさんの声は、冷静だった。
「契約の『醜いもの』を決めるのは、あれだ。次に誰を醜いと見るか、誰にも分からん」
アナスタシアさんが、震える声で言った。
「違います」
皆が、彼女を見る。
「彼は、契約を曲げません。教団の者たちは、対象を教王庁の腐敗した者に限定したはずです」
「どうして分かる」
ヤンさんが問う。
アナスタシアさんの唇が、止まる。
言えば、終わる。
それでも彼女は、目を逸らさなかった。
「……私が、契約文を見ました」
レオンの顔が、強張った。
クーリが、息を呑む。
ジェスは何も言わず、アナスタシアさんを見た。
「あなたが、教団と」
レオンの声が、掠れる。
アナスタシアさんの顔が、今にも崩れそうになる。
「はい」
短い、返事だった。
「聖域の配置を流したのも」
沈黙。
それが、答えだった。
レオンの右手が、剣の柄へ伸びる。
けれど、抜かなかった。
窪地で死んだ仲間。自分が抱いた骸。
その死へ繋がる情報を渡した人間が、目の前にいる。
それでも彼は、剣を抜かなかった。
「……なぜです」
「民を、救いたかった」
「そのために、騎士を死なせたのですか」
アナスタシアさんの肩が、震える。
「死なせたく、ありませんでした」
「死にました」
「はい」
「私の友が」
「はい」
「あなたの知っていた者も」
「……はい」
レオンの手が、剣の柄から離れた。
代わりに、拳が強く握られた。
「今は、聞きません」
声が、震えている。
「今、聞けば。私は、あなたを斬るかもしれない」
アナスタシアさんは、深く頭を下げた。
「はい」
ヤンさんが、大聖堂を見上げる。
「話はあとだ。次が来る」
*
第二陣の天使が、現れた。
五体。先ほどより大きい。祈り手の数も多い。
その後ろから、翼を持つ騎士たちが空へ上がる。
魔法で飛んでいるのか、天使の力を借りているのかは分からない。
天使たちは、隊列を組んだ。
前衛が盾。後衛が槍。一体が上空へ回り、光の杭を放つ。
悲哀の悪魔は、それを見上げた。
「正しさは、美しい」
初めて、ほんの少しだけ、口元が笑ったように見えた。
「だからこそ、悲しい」
悪魔が、両手を広げる。
空に、黒い雨が生まれた。
雨粒ではない。細い針。
一つ一つが、天使の輪郭へ突き刺さる。
盾が穴だらけになる。翼が千切れる。槍が砕ける。
祈り手たちの声が、苦痛に変わった。
それでも、天使は進む。
規律通りに。命じられた通りに。
一体が崩れ、二体目が前へ出る。二体目が落ち、三体目が盾を継ぐ。
悪魔の顔から、笑みが消えた。
「もう、よいのです」
天使は、止まらない。
「あなたたちは、十分に守った」
届かない。
天使は、祈られた通りに戦うだけだ。
悪魔は、目を伏せた。
「そうですか」
両手が、閉じる。
五体の天使が、一斉に崩れた。
広場で、また祈り手たちが倒れる。
今度は、数十人。
騎士が駆け寄る。
クーリも、走り出した。
「治療する!」
「俺も行く!」
ジェスが続く。
クラインさんは杖を構え、落ちてくる光の破片を結界で逸らした。
ヤンさんは、悪魔から目を離さない。
「カイ。剣を抜け」
「俺の技で、届きますか」
「届かせるために近づく」
「魔王級ですよ」
「知っている」
ヤンさんが、ハルバードを肩へ担ぐ。
「だから、お前一人で行かせん」
ナナが、俺の隣へ立つ。
『〈虚鞘〉の補助演算、可能です』
「状態は」
『戦闘継続可能です』
「可能かどうかじゃなくて」
ナナは、俺を見た。
あの夜、交わした約束。
聞かなくても、言う。隠さない。
『負荷は、許容範囲内です。ただし、虚空接続は推奨しません』
「真空だけで行く」
『了解しました』
俺は、剣を抜いた。
*
大聖堂の上空で、悲哀の悪魔が次の回廊へ降り立つ。
そこに、一人の老人が立っていた。
白い法衣が、痩せた体に余っている。派手な装飾はない。
護衛も、いない。
片手を壁へ突いて、立っているだけで精一杯に見えた。
「猊下!」
騎士たちが叫ぶ。
広場のどこかで、囁きが走った。
「教王さまだ」
「……初めて、見た」
「お加減が悪いはずじゃ」
宿の親父の話を、思い出す。
もう長いこと、誰も姿を見ていない——病の、教王。
その人が、逃げなかった。
悪魔の前へ、一人で立っている。
悲哀の悪魔が、教王を見る。
契約は、醜いものを殺せ。
悪魔の手が、上がる。
街じゅうが、息を止めた。
アナスタシアさんの顔が、真っ白になる。
教王は、目を閉じなかった。
悪魔の指先が、その胸へ触れる寸前で——止まった。
長い、沈黙。
「……あなたは」
悲哀の悪魔の目から、また涙が落ちた。
「醜くないのですね」
手が、下りる。
それだけだった。
誰も、説明しなかった。
けれど。
広場の民も。騎士も。神官も。
見ていた。
幹部たちは、殺された。
教王は、殺されなかった。
契約そのものが。
誰を裁き、誰を裁かなかったのか。
「なぜ」
教王が、問う。
「なぜ、こんなことをした」
悪魔は、倒れた教団の者たちがいる南を見た。
「彼らは、あなたへ声が届かないと言いました」
教王の顔が、歪む。
「民が、飢えていると」
「……知らなかった」
「はい」
悪魔は、悲しそうに頷く。
「それもまた、罪ではないのでしょう」
教王が、息を呑む。
「ですが」
悪魔は、彼の横を通り過ぎた。
すれ違いざま、その足が一度だけ止まる。
「……その病は」
言いかけて、やめた。
教王が、目を細める。
「私の病が、どうかしたか」
「……いえ」
悪魔は、また歩き出した。
「あなたを殺す契約では、ありません」
教王庁の奥。まだ逃げている者たちへ、顔を向ける。
「まだ、醜いものが残っています」
教王が、振り返る。
「待て!」
悪魔は、止まらない。
「彼らを裁くのは、私だ!」
その声で、初めて、悪魔の足が止まった。
教王は、震えていた。
恐怖ではない。怒りで。
「この国の罪を、外から来た者の刃で終わらせるな」
悪魔が、ゆっくり振り返る。
「あなたに、できますか」
「やる」
「彼らは、あなたへ嘘をついた」
「それでも、私の下にいた者だ」
「民を、飢えさせました」
「だからこそ、私が裁く」
教王の声は、広場へ落ちた。
「私が知らなかったことも、私の罪だ」
悲哀の悪魔は、長いこと教王を見た。
その目に、初めて、迷いのようなものが浮かんだ。
契約は、醜いものを殺せ。
だが——醜さを認め、自ら裁こうとする者は、まだ醜いのか。
悪魔の手が、わずかに震えた。
「……困りました」
悲しそうに、呟く。
「人は、変わるのですね」
*
その時、大聖堂の奥から、別の声が上がった。
「騙されるな!」
豪奢な法衣の男たちが、数人の騎士を盾にして現れた。
「教王猊下は、悪魔へ屈した! あれは教団と通じている! 捕らえろ!」
広場が、ざわめく。
教王が、目を見開いた。
「何を」
「今だ! 国宝を使え! 教王ごと悪魔を焼け!」
逃げていた幹部の一人が叫ぶ。
その手には、金色の鍵が握られていた。
大聖堂の地下から、轟音が響く。
ナナが、顔を上げた。
『地下の構造物——起動しています。召喚系の信号です』
「さっきの、眠ってたやつか」
『はい。信号が、酷く荒れています。正規の手順ではない——強制起動と推定します』
地下から、光が噴き上がる。
大聖堂全体が、金色に染まる。
教王の顔色が、変わった。
「やめろ! 国宝は、そのように使うものではない!」
幹部たちは、聞かない。
広場へ引きずり出された神官たちが、無理やり膝をつかされる。
「祈れ!」
「できません! この人数では」
「命を燃やせ! 教王庁を守るためだ!」
騎士が、神官の背へ剣を当てる。
祈りではない。
脅迫だった。
それでも、祝詞が始まった。
掠れた声。泣く声。震える声。
『一なる祈りを、一なる光へ』
金色の粒が、集まる。
けれど、形が歪んでいる。
『我らの願いを、一つの翼へ』
翼が、生まれる。
七枚。いや——数えられないほど、重なった翼。
巨大な輪が、何重にも空へ開く。
『正しき道を、守りたまえ』
声が、途切れる。
一人の神官が倒れ、別の者が代わりに祈らされる。
『民の命を、明日へ——』
言葉が、続かない。
幹部が、怒鳴る。
「唱えろ!」
教王が、駆けようとした。
病んだ足が、もつれる。
膝をつき——それでも、叫んだ。
「やめろ! その祈りで、あれを呼ぶな!」
国宝の光が、空を裂いた。
何かが、こちらを見た。
守護天使とは、違う。
遥かに大きい。遥かに熱い。
正義そのものを、形へ押し込めたような圧力。
金色の輪の中心から。
熾天使が、片足を現した。
悲哀の悪魔が、初めて空を見上げる。
その目から、涙が止まった。
「……あなたも、呼ばれてしまったのですね」
次の瞬間。
光が、首都を呑み込んだ。
(第二十話・了)




