Re:sou 第十九話「鞘」
Re:sou 第十九話「鞘」
翌朝、広場に布告が貼り出された。
『悪魔教団の襲撃あり。神殿騎士団の奮戦により、これを撃退。祈りの大儀は中断。聖域は当面、封鎖とする』
それだけだった。
落ちた天使のことも、死んだ騎士の数も、開いた大扉の奥に酒と肉が積まれていたことも——民の代わりに飢えるはずの男が、ひと欠片も飢えていなかったことも、書いていない。
布告の下には、いつの間にか白い花が置かれていた。
最初は一本だった。花屋の娘らしい少女が二本目を置き、杖をついた老婆が三本目を添えた。
包帯を巻いた若い騎士が立ち止まり、兜を胸に抱いて頭を垂れた。
誰も、大声で怒らなかった。
紙を破る者も、役所へ石を投げる者もいなかった。
民は静かに読み、静かに花を置き、静かに散っていく。
けれど、誰もが、書いてあることより、書かれていないことの方を知っている顔をしていた。
通りの向こうで、子供が母親の袖を引いた。
「お母さん。天使さま、また来る?」
母親は、答えなかった。
子供の髪を撫で、尖塔を見上げて、それから黙って歩き出した。
鐘は、鳴っていなかった。
祈りの国で朝の鐘が鳴らないことの方が、どんな怒号より重かった。
*
夜明け前。
まだ広場の布告を知らない頃、宿の裏庭で、木剣が二本飛んできた。
一本をジェスが受け取り、もう一本が俺の胸に当たって落ちた。
「取れ」
ヤンさんが言った。
「投げるなら、せめて取れる速さでお願いします」
「今のも取れん奴が、何を言っている」
ぐうの音も出ない。
裏庭には朝露が残っていた。
石壁の向こうから、パンを焼く匂いが漂ってくる。空はまだ薄暗く、宿の窓はほとんど閉じたままだった。
ジェスは木剣を軽く振り、肩を回した。
「俺だけじゃなかったのか?」
「こいつもだ」
「カイも?」
「ジェスに頼まれていた。ついでだ」
「ついでで地獄に増員しないでくださいよ」
ヤンさんは、自分の木剣を無造作に提げていた。
構えているようには見えない。肩の力は抜け、足も自然に開いているだけだ。
それなのに、正面に立つと、どこから入っても斬られる気がした。
「カイ。あの術は、何度も撃てんのだろう」
見抜かれていた。
「……はい」
「味方の近くでも使えん。一度放てば、途中で止められん」
「……はい」
「なら、撃てない時のお前は、ただのひょろい若造だ」
言葉の刃だけは、朝からよく切れる。
「死ぬぞ」
冗談のない声だった。
大災の尾が来た時、俺は動けなかった。
ナナが前に出て、モーリーさんが横から飛び込み——その結果、あの人は死んだ。
真空を撃てたから、勝った。
でも、その前の俺は、何もできなかった。
「言っただろう。教えねばならんことがある、と」
ヤンさんは、木剣の先をわずかに上げた。
「二人で来い」
ジェスが踏み込んだ。
速い。冒険者として何年も戦ってきた人の踏み込みだった。
木剣が低い位置から跳ね上がり、ヤンさんの脇腹を狙う。
ヤンさんは、半歩動いた。
それだけだった。
ジェスの剣が空を切り、次の瞬間、足を払われた。
「うおっ」
派手な音を立てて、ジェスが地面へ転がる。
「カイ」
「はい!」
見ている暇はないらしい。
俺は、正面から踏み込んだ。
剣道の癖で、間合いを測る。相手の肩、手元、足先を見る。
竹刀とは重さも長さも違うが、踏み込みと打突の線は作れる。
面。
木剣を振り下ろす。
ヤンさんの木剣が、俺の剣の腹へ軽く触れた。
力を込めて打ち払われたわけじゃない。ほんの少し角度を変えられただけなのに、切っ先が肩の横へ流れていく。
腹に、衝撃が来た。
「ぐっ」
柄頭だった。
息が抜けて、膝をつく。
「立て」
「今、腹に入りましたけど」
「入れた」
「そうじゃなくて」
「立て」
話が通じない。
ジェスが横で起き上がりながら笑った。
「カイ、あの人に人情を求めるな。宿に置いてきた」
「宿屋の主人なのに」
「口が動くなら、もう一本だ」
今度は、二人で左右へ分かれた。
ジェスが先に出る。ヤンさんの視線がそちらへ動いた瞬間、俺は背後へ回る。
つもりだった。
ヤンさんは、俺を見ていなかった。
見ていないのに、木剣の先が、俺の喉元へ来ていた。
急停止する。
止まれず、俺の方から切っ先へ首を差し出しかけた。
皮一枚の手前で、木剣が止まる。
「今ので死んだ」
「……はい」
横では、ジェスが肩を打たれてまた転がっている。
「今の、見えてました?」
「見ていない」
「じゃあ、なんで」
「お前が来る場所は、最初から一つしかない」
ヤンさんは、俺から木剣を引いた。
「正面を避けた。ジェスの影へ入った。俺の利き手側を嫌った。なら、反対へ回る。——考えたことが、足に出すぎだ」
「考えないで動けってことですか」
「違う。考えていると悟らせるな」
難易度が、急に上がった。
それから何度挑んでも、結果は同じだった。
ジェスは速い。力もある。型も整っている。俺から見れば、十分に強い。
けれど、ヤンさんには届かない。
斬りかかれば、少しずらされる。突けば、線の外へ出られる。フェイントをかければ、かけた方の体勢を崩される。
俺はもっとひどい。
剣道部で二段まで取ったのに、戦場の剣となると、間合いの外から足を払われ、鍔のない木剣を握り損ね、地面と親交を深めるばかりだった。
一時間後。
俺とジェスは、並んで仰向けになっていた。
空が、すっかり明るい。
「……なあ、カイ」
「はい」
「俺、これでもB級なんだよな」
「はい」
「今、五回に一回も木剣に触れてねぇ」
「俺は零回です」
ジェスが、土のついた顔でにやりと笑った。
「よし。今日から、お前は俺の弟弟子な」
「同期でしょう!?」
「実戦経験の差だ」
「当てられてないなら同じですよ」
「心の中では三回当てた」
「それを数えるなら俺も二回です」
木剣の先が、二人の間の地面を叩いた。
「休憩は終わりだ」
「今、始まったばっかりですよ」
「立て」
俺たちは、同時に呻きながら立ち上がった。
今度は、一人ずつだった。
先にジェス。
ヤンさんは、彼の打ち込みを三度受けてから、初めて木剣を止めた。
「ジェス。お前は当てに行きすぎる」
「当てるために振ってるんですが」
「だから読まれる」
ヤンさんは、ジェスの構えを木剣で軽く直した。
「型は綺麗だ。だが、綺麗な型は、型を知る者には次が見える。お前の剣には、踏み込みより先に『打つぞ』という声が出ている」
「声?」
「肩だ。腰だ。目だ。全部で喋っている」
ジェスは、納得いかない顔で自分の肩を見た。
「じゃあ、どうすれば」
「黙れ」
「喋ってねぇよ」
「体の話だ」
俺は、少し笑った。
ジェスが振り返る。
「次、お前だからな」
笑いが、止まった。
俺の番になった。
構える。
剣道では、相手の中心を取る。切っ先を相手の喉へ向け、いつでも打てる位置を作る。
だが、この木剣には鍔も反りもない。足場も道場の床ではない。相手は面も胴も着けていない。
ヤンさんが、俺の周りを一度歩いた。
「剣道、だったか」
初めて現代の言葉を拾われた気がして、少し驚いた。
「通じるんですか」
「意味は分からん。だが、お前が以前使った言葉だ。——刀を使う型か」
「はい。竹刀ですけど」
「刀の型が、体に残っている」
ヤンさんは、俺の手首を木剣で押した。
「だから、この剣とは噛み合わん」
「才能がないってことですか」
「剣才はない」
はっきり言われた。
剣道部員として、なかなか複雑だ。
「刀を持たせれば、多少は違うかもしれん。お前の打ちは、斬るというより、線を通す型だ」
ヤンさんは、俺の正面に戻った。
「だが、目はいい」
「目?」
「よく視ている。相手の肩、足、切っ先。ジェスが転がされるたび、俺の手を見ていた」
「それは、次に自分がやられないように」
「それでいい」
木剣が、俺の喉元へ伸びた。
今度は、見えていた。
避けようとして、足が動く。切っ先が追ってくる。止まれない。
俺は、後ろへ尻餅をついた。
ヤンさんの木剣は、また皮一枚の手前で止まっていた。
「剣で一番難しいのは、振ることじゃない」
朝の空気の中で、その声だけが妙に静かだった。
「止めることだ」
ヤンさんは、木剣を下ろした。
「人は、振る力ばかりを鍛える。速く、強く、深く。だが、戦場で必要なのは、それだけじゃない。敵の喉で止める。味方の背で止める。斬れる時に斬らず、抜ける時に抜かない」
モーリーさんの体が、光の中で治っていったのを思い出した。
傷は、戻せた。でも、魂は戻らなかった。
俺の力は、起こしたあとで取り消せない。
真空も。大災を潰した、あの座標圧潰も。
放てば、終わる。
「お前の力には、鞘がない」
ヤンさんが言った。
「抜き身のまま、町を歩いているようなものだ。敵を斬れる。味方も斬れる。——お前自身も斬る」
俺は、自分の手を見た。
大災を倒した手。悪魔を消した手。
何も、付いていなかった手。
「だから、鞘ごと持てる力を覚えろ」
「剣が、鞘になるんですか」
「剣だけではない」
ヤンさんは、俺の木剣を足先で持ち上げ、こちらへ蹴り返した。
「間合い。判断。止める技。逃がす技。殺さずに済ませる選択肢。——その全部だ」
木剣を、取る。
「強い術を覚えるより、強い術を使わずに済む方が難しい」
その言葉は、説教というより、自分へ向けたもののようにも聞こえた。
この人が、どこで何を見てきたのかを、俺は知らない。
聞かない方がいい気が、なんとなくした。
「もう一本だ」
俺は、構えた。
次も、当たらなかった。その次も。
けれど、四十回目くらいで、初めてヤンさんの木剣へ触れた。
当てたわけではない。俺の喉へ来た切っ先を、ほんの少し外へ押しただけだった。
それでも、ヤンさんの眉が、わずかに動いた。
「今のだ」
それだけ言われた。
褒められた気がして、少し嬉しかった。
直後、足を払われた。
「痛っ!」
「喜ぶのが早い」
地面へ転がった俺の上から、宿の二階の窓が開いた。
クーリが、顔を出している。
「朝からうるさいんだけど!」
「すみません!」
「カイじゃないわよ。ジェス! 情けない声出さないで!」
「俺だけ名指しかよ!」
その隣から、クラインさんも顔を出した。
「朝食が冷めるよ。ヤンさん、ほどほどにしないと、二人とも匙を持てなくなる」
「その時は食わせてやれ」
「誰が!?」
クーリの声が、裏返った。
裏庭の隅では、ナナが木箱へ腰かけて、最初から最後まで俺たちを見ていた。
『水分補給を推奨します。カイさまの発汗量は、平常時の四・二倍です』
「見てたなら、もう少し早く言ってくれ」
『修練を中断する権限は、ありません』
ヤンさんが、鼻を鳴らした。
「よく分かっている」
ナナまで、すっかりヤンさん側だった。
*
朝食のあと、ヤンさんから買い出しを言いつけられた。
「塩と油と包帯だ。昨日の騒ぎで値が上がる。午前のうちに買え」
「はい」
「ついでに休んでこい。午後にもう一度やる」
「休ませる気、あります?」
「午前はある」
午後には、消えるらしい。
クーリは施療院へ持っていく薬草の仕込みがあり、ジェスは神殿騎士団から、昨日の戦闘について聞き取りを受けることになっていた。
クラインさんは宿の親父から借りた古い教会史に夢中で——気づけば、ナナと二人になった。
「じゃあ、行ってきます」
「……ふーん」
薬草を刻んでいたクーリが、顔を上げずに言った。
「二人で」
「買い出しだよ」
「誰もデートなんて言ってないけど」
「俺も言ってないよ」
「なによ。あたしが言ったみたいじゃない」
「言ってるだろ」
「言ってない!」
包丁が、まな板へ少し強く当たった。
ジェスが笑いを堪えながら、俺の肩を叩いた。
「早く行け。包丁がこっち向く前に」
「なんで俺まで危険なんだよ」
「男は連帯責任だ」
意味が分からない。
*
市場は、昨日より賑わいを取り戻していた。
布告の前では皆が声を潜めていたが、市へ入れば、商人は商人だった。
野菜の値を張り上げ、魚の鮮度を競い、客は少しでも安く買おうと粘る。
それでも、笑い声はどこか控えめだった。
通りの角に、包帯を巻いた騎士が一人座っていた。片腕を吊っている。
通りかかったパン屋が、売り物の袋を黙って膝へ置いた。
騎士が断ろうとする。パン屋は、聞かずに歩いていった。
国の上がどれだけ腐っていても、下にいる人まで腐っているわけじゃない。
むしろ、支えている人たちが真面目だからこそ——上は長く腐っていられるのかもしれない。
そんなことを考えていると、ナナが足を止めた。
『カイさま。目的地は右方向です』
「分かってる。ちょっと考え事してた」
『歩行速度が、十二パーセント低下していました』
「そこまで測らなくていいよ」
最初は、塩だった。
露店の店主が、袋を叩いて声を張る。
「上物だよ! 北の塩田から来たやつだ! 銅貨八枚、まけとくよ!」
ナナが、値札と塩を一度見た。
『適正価格は、六枚です』
店主の笑顔が、固まった。
「いやいや、お嬢ちゃん。昨日の騒ぎで街道が止まりかけてんだ。八でも安いくらいで」
『在庫量は背後の木箱三つ分。今朝到着した荷車の積載量から、供給不足は発生していません。品質は中等。適正価格は六枚です』
「……七枚」
『六枚』
「六枚半」
『銅貨に半枚は存在しません』
「細けぇな! 六枚!」
店主が、袋を差し出した。
その顔は、俺に助けを求めていた。
俺は、目を逸らした。
「悪いな。うちの交渉担当、強いんだ」
『交渉ではありません。適正化です』
油も、同じように適正化された。
包帯の店では、ナナが布の目を指先で確かめ、三巻のうち一つを棚へ戻した。
『この一巻のみ、繊維の密度が低いです』
「すごいな。触っただけで分かるのか」
『視覚と触覚による測定です。人型外殻の感覚精度は、従来形態より高く設定されています』
「便利だな」
『はい』
その返事のあと、ナナは、ほんの少しだけ自分の指先を見た。
便利だから、この体なのではない。
コアを守るための外殻。俺の理想値を参照して作られた姿。
それでも、この一ヶ月で、その指は皿を洗い、子供の頭を撫で、クーリを抱き上げ、俺の傷へ触れてきた。
もう、ただの入れ物には見えなかった。
通りの向こうから、焼きたてのパンの匂いが流れてきた。
ナナの顔が、そちらへわずかに動いた。
「食べる?」
『必要性はありません』
「必要かどうかじゃなくて」
『朝食は摂取済みです』
「味覚データの収集は?」
ナナが、一拍黙った。
『……継続が望ましいと、判断します』
素直じゃないところまで、少し人間らしくなっている気がする。
焼きたての小さな丸パンを二つ買った。中に蜂蜜と、砕いた木の実が入っている。
紙袋から一つ渡すと、ナナは両手で受け取った。
『表面温度、六十一・三度。香気成分は——』
「食レポはいいから」
『食レポ』
「食べた感想を言うやつ」
『理解しました』
一口。
ナナは、いつもの等間隔より少し長く、瞬きをした。
『甘いです』
「うん」
『柔らかいです』
「うん」
『……好ましいと、判断します』
「それ、好きって言うんだよ」
ナナは、残ったパンを見た。
『好き』
言葉を確かめるように、小さく繰り返した。
『記録します。——このパンを、好きです』
店の婆さんが、こちらを見て笑った。
「可愛い彼女さんだねえ」
「違います」
『違います』
声が、重なった。
「息ぴったりじゃないか」
否定すると余計に面倒になるやつだ。
俺たちは、ほぼ同時に黙った。
しばらく歩いたところで、ナナが言った。
『彼女、とは、どの条件を満たした関係でしょうか』
「今それを聞く?」
『不明瞭な語です。友人、仲間、主従、恋愛対象のいずれを示すのか、文脈により変動します』
「俺も説明しづらいな……」
『クーリさまは、該当しますか』
むせた。
まだ口に残っていたパンが、喉へ入りかける。
「な、なんでクーリが出てくるんだ」
『昨夜および今朝の発言時、クーリさまの心拍数上昇を確認しています。恋愛対象への反応と類似します』
「そういうの本人の前で言うなよ。絶対だぞ」
『了解しました。本人不在時のみ照会します』
「そういう意味じゃない」
ナナは、少し首を傾げた。
その仕草が妙に可笑しくて、俺は笑った。
*
市場の端に、木工品を並べた露店があった。
匙。小箱。人形。簡素な髪留め。
その中に、花を彫った小さな髪飾りがあった。
白い花ではない。色も塗られていない。
ただ木目を生かして、五枚の花びらが丁寧に彫られている。
ナナの白い髪へ置いたら、似合いそうだった。
「これ、いくらですか」
「銅貨二枚だよ」
ナナが、値札を見た。
『適正価格は——』
「これは、そのままでいい」
『なぜですか』
「作った人の手間込みだから」
店主の老人が、うんうんと頷いた。
「分かってるね、坊主」
「じゃあ、これ」
買ってから、ナナへ向き直る。
「ちょっとこっち向いて」
『はい』
白い髪を少しすくって、耳の上へ留める。
思った通り、よく似合った。
光の加減で虹色を帯びる髪に、素朴な木の花が一つ。
機能だけを考えれば、何の意味もない。
だからこそ、人のものに見えた。
『……装飾機能は、不要です』
「機能の話じゃない」
『戦闘能力、演算能力、耐久性のいずれにも影響しません』
「似合うから」
ナナは、黙った。
淡い銀青の目が、俺を見ている。
『似合う』
「うん」
『それは、性能評価ではありませんか』
「違う。たぶん」
俺も、上手く説明できない。
ナナは、髪飾りへ触れた。
一度。もう一度。
『……記録します』
声が、いつもより少しだけ小さかった。
『初めての、贈り物』
「大げさだな」
『本端末に対する、個人的な贈与の記録はありません』
そう言われると、軽く返せなくなる。
「じゃあ、大事にして」
『はい』
歩き出してからも、ナナの指先は時々、木の花へ触れていた。
*
市場の隅で、ナナの足が止まった。
日陰の石段に、若い母親が座っていた。
腕の中で、赤ん坊があくびをしている。
母親は歌とも呼べないような小さな声で、ゆっくり体を揺らしていた。
赤ん坊が、母親の指を握る。
母親が、笑う。
それだけの、光景だった。
ナナは、長いこと動かなかった。
「ナナ?」
『…………』
「どうした」
『観察しています』
「何を?」
ナナは、すぐには答えなかった。
赤ん坊が、母親の胸へ頬を寄せる。
母親の手が、背中を一定のリズムで叩く。
『人間の幼体は、単独で生命を維持できません』
「まあ、赤ちゃんだからな」
『長期間、他者による保護を必要とします。効率は、非常に低いです』
「うん」
『それにもかかわらず、保護する側の心拍と表情は、安定しています』
「嬉しいんじゃないか」
『なぜですか』
「自分の子供だから」
『自分の』
ナナは、その言葉を繰り返した。
『遺伝情報を継承した、次世代個体』
「言い方」
『では、どのように』
「子供でいいよ」
赤ん坊が、笑った。
理由もなく、ただ母親の顔を見て笑う。
母親も、つられて笑った。
ナナの瞬きが、止まった。
「好きなのか?」
『……分かりません』
「分からない?」
『はい。ただ』
長い、間。
『演算が、一時的に停止しました』
「故障?」
『異常は、ありません』
なら。
それは、見入っていたということなのかもしれない。
ナナは、自分の胸元へ手を置いた。
そこには、外殻の奥にコアがある。
心臓のように見えて、心臓ではないものが。
『あの幼体は、暖かそうでした』
「抱いてみたい?」
ナナは、母子を見たまま答えた。
『……現時点では、回答できません』
少しして。
『いえ。なんでも、ありません』
なんでもありません、という言い方を、ナナがしたのは初めてだった。
答えがないのではない。
答えを、隠した。
そんなふうに、聞こえた。
俺は、それ以上聞かなかった。
帰り道の間、ナナの木の花が、歩調に合わせて揺れていた。
それを見ながらふと
これが俺の理想…確かにこれは…ぐっときてしまっ
いやいや相手はアンドロイド?だぞ
*
宿へ戻るには、裏通りを抜けた方が近かった。
白い石壁に挟まれた、細い道。
洗濯物が頭上へ渡され、窓から煮込みの匂いが落ちてくる。
角を曲がりかけたところで、黒い衣が見えた。
アナスタシアさんだった。
外套を深く被った男と、向かい合っている。
男の顔は見えない。荷物も、紋章も、目印になるものもなかった。
ただ、その立ち方だけで、軽い話ではないと分かった。
アナスタシアさんは俯き気味に、何かを聞いている。
男が、短く答える。
彼女の手が、胸元のペンダントを強く握った。
風が吹き、男の袖が一瞬だけめくれた。
黒い細紐が、手首に巻かれていた。
ただの紐にも見える。印にも見える。
俺には、分からなかった。
男が先に、路地の奥へ消える。
足音が完全に遠ざかってから、俺たちは角を曲がった。
「アナスタシアさん?」
肩が、跳ねた。
振り向いた顔が、一拍だけ白かった。
次の瞬間には、いつもの微笑みが載っている。
「……カイ様」
「どうしたんですか。今の人、お知り合いですか?」
「いつから、そちらに」
声が、わずかに硬い。
「今、来たところですけど」
アナスタシアさんは、俺とナナを交互に見た。
「会話は」
「聞こえてませんよ。離れてたし」
それを聞いて——胸元を握っていた指が、ほんの少し緩んだ。
「そうですか」
「何か大変そうでしたけど」
「ええ。……施しについてのご相談を」
「施し?」
「事情のある方で。人目のある場所では、話しづらい内容でしたので」
「大変ですね」
「ええ」
あまりにも、綺麗な答えだった。
それ以上聞くところがないように、隙間なく整えられている。
彼女の目が、ナナの髪へ動いた。
緊張が、ほんの少しほどけたように見えた。
「まあ」
木の花を、見る。
「よく、お似合いです」
『恐縮です』
「カイ様から?」
「はい」
『初めての贈り物です』
「そこまで言わなくていい」
アナスタシアさんが、小さく笑った。
でも、その笑顔は、街を案内してくれた時より少し薄かった。
「仲が、よろしいのですね」
「仲間ですから」
『はい。カイさまは、わたしのマスターです』
アナスタシアさんの目が、一瞬だけ細くなる。
俺には分からないほど、小さな変化だった。
けれどナナは、見ていたのだろう。
「それでは。私は、まだ務めがございますので」
「はい。また」
アナスタシアさんは、通りの向こうへ去っていった。
黒い衣が角を曲がり、見えなくなる。
しばらく歩いたところで、ナナが言った。
『カイさま』
「ん?」
『アナスタシア様の心拍は、私たちに気づいた瞬間、本日観測した中の最大値でした』
「そりゃ、俺のマナ漏れは怖いだろ」
『接近前より、急激に上昇しました。通常の忌避反応とは、波形が異なります』
「じゃあ、急に声かけたから驚いたんだろ」
『会話相手が去る際には、上昇していません』
俺は、足を止めかけた。
「……どういうこと」
『私たちに、見られたことを恐れた可能性があります』
「施しの相談を?」
『発言時、呼吸間隔の乱れを確認。虚偽応答の可能性は、七十一パーセントです』
「そんなのまで分かるのか」
『推定です』
アナスタシアさんの、聞かないことを綺麗にやる顔を思い出した。
俺は聞かないということを、あの人ほど綺麗にはできなかった。
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
「今は、記録だけしておいて」
『了解しました』
『外套の人物についても、特徴を記録済みです』
「顔、見えなかっただろ」
『歩幅、体格、利き足、声紋の一部、手首の黒紐を記録しました』
本当に、視ている。
聞いているだけでは、ない。
だからアナスタシアさんは、俺よりナナを警戒したのかもしれない。
*
宿へ戻ると、クーリが薬草を干していた。
こちらを見る。
ナナの髪を見る。
木の花を見る。
「……へえ」
嫌な予感のする「へえ」だった。
「可愛いじゃない」
『ありがとうございます』
「カイに買ってもらったの?」
『はい。初めての贈り物です』
「ナナ、そこ毎回言う必要ある?」
『重要な記録です』
クーリが、俺を見る。
「ふーん」
「なんだよ」
「べつにー」
また、伸びた。
「これ、何の感情なんだろうな」
背後から、ジェスの声がした。戻ってきていたらしい。
クーリが、振り返る。
「うるさい!」
干していた薬草の束が飛んだ。
ジェスが避ける。
薬草は、後ろにいたクラインさんの顔へ当たった。
「……僕は何も言っていないんだけどね」
「ご、ごめん兄さん!」
「賑やかで何よりだよ」
クラインさんは薬草を外しながら、ナナの髪飾りを見た。
「よく似合っている。素朴な素材だが、白い髪にはかえって映えるね」
『評価を記録します』
「君は、何でも記録するんだね」
『記録は、存在の継続に必要です』
クラインさんの手が、一瞬止まった。
「……存在の、継続」
「どうしたんですか」
「いや。面白い言い回しだと思ってね」
笑っては、いた。
でも、目はナナを見ていた。
*
午後の修行は、朝より長かった。
打っては、払われる。回っては、読まれる。
それでも、朝より足が動いた。
動くようになった分だけ、俺は調子に乗っていたんだと思う。
「もう一本お願いします」
「今日は終わりだ」
「まだできます」
「お前の話はしていない」
ヤンさんは、木剣を下ろして——裏庭の隅を見た。
木箱の上の、ナナを。
ナナは、いつも通りに背筋を伸ばして座っていた。
いつも通りに、見えた。
「ナナ」
俺が呼ぶと、返事が来た。
『……はい』
一拍、遅かった。
「お前は、自分しか見えていない」
ヤンさんが言った。
「ナナは、疲れないって——」
「お前があれだけ傷ついて、隣で式を支えた娘が、無事だと思うのか」
言葉が、出なかった。
「一人で無茶をしているつもりなら、思い上がりだ。お前が力を振るうたび、あの娘も同じ戦場に立っている」
俺は、ナナを見た。
初めて見るみたいに、見た。
瞬きの間隔が、いつもの等間隔じゃない。
髪の虹色の艶が、心なしか薄い。
そして——今日、何度も木箱に座っていた。
疲れないやつが、座る理由なんて、ないのに。
『……問題、ありません』
ナナが言った。
問題ない、と言い張るやつを、俺はもう一人知っていた。
「今日は終わりだ」
ヤンさんは、それだけ言って、宿へ入っていった。
入れ替わりに、施療院から戻ったクーリが、庭を横切った。
ナナの前で、ふと足が止まる。
「……ナナ。あんた、今日なんか変よ」
『平常です』
「ふうん」
クーリは、しばらくナナを見て、それ以上は言わなかった。
けれど、その目は、いつもの目じゃなかった。
どこか——透かして視るような、目だった。
*
夕食の席で、ナナは俺の隣に立っていた。
今日買った品物を卓上へ並べ、宿の残りと照合している。
『本日の消費量と残量を演算します。塩は十日分。油は通常使用で八日。包帯は——』
クラインさんの匙が、止まった。
「……今、『えんざん』と言ったかい」
ナナの声が、止まった。
俺も、匙を持ったまま固まる。
「聞き間違いじゃないですか」
クラインさんは、眼鏡の位置を直した。
「そうかな。最近、君たちの訛りが、ずいぶん聞き取れるようになった気がしてね」
「慣れたんじゃないですか」
「かもしれない」
クラインさんは、穏やかに笑った。
「ただ、不思議なんだ。以前は音の塊にしか聞こえなかった言葉が、少しずつ意味を伴って聞こえる。『演算』。計算、処理、式を回すこと。——そんな感じかな」
説明が、ほとんど正しい。
「古書に、似た単語でもありました?」
「いや。今、頭に浮かんだ」
クラインさんは匙を動かし、何事もなかったように食事へ戻った。
ジェスもクーリも、深く気にしていない。
ヤンさんだけが、一瞬こちらを見た。
俺とナナは、目を合わせた。
ナナは、何も言わなかった。
その夜。
部屋へ戻ってから、俺は小声で聞いた。
「クラインさん、日本語を理解しかけてるのか」
『未確定です』
ナナは、窓際の椅子へ座っていた。
木の花が、月明かりに鈍く光る。
『適合率の上昇。カイさまとの長期接触。神代文字への適応。——複数の可能性があります』
「危険なのか」
『現時点で、直接的危険は確認できません。ただし、何かしらのプロテクトが、緩んでいる可能性があります』
「プロテクト? そんなものが、かかってるのか」
「……世界は、監視されてるってことか」
『申し訳ありません。わたしでは、答えられません』
さらっと、怖いことを言う。
「本人には?」
『まだ、告知を推奨しません。意識させることで、接続が強まる恐れがあります』
「じゃあ、観測だけ」
『はい。クライン様について、観測を継続します』
「……もう一つ、聞く」
俺は、寝台の縁から、椅子のナナへ向き直った。
「お前の状態を、報告してくれ。全部」
ナナは、少しのあいだ黙った。
『演算補助に伴う、コアへの累積負荷——現在、機能の約一割に制限が生じています。自己修復の完了まで、推定十九日』
「……大災の時からか」
『天災との接触以降の損耗に、大災、および先日の戦闘の負荷が加算されています』
「なんで、言わなかった」
『お聞きに、なりませんでしたので』
また、それだ。
「……格納の時と、同じだぞ」
『はい。……同じです』
ナナは、目を伏せた。
『任務に支障のない損耗は、報告基準に含まれません。ですが——』
少しの、間。
『隠した、という指摘であれば。否定、できません』
市場の、母子の前。
演算が止まった、と言っていた。
あれは見入っていたのか、それとも——両方だったのか。
分からないのが、一番怖かった。
「これからは、聞かなくても言ってくれ」
『……努力目標として、記録します』
「目標じゃなくて」
『——約束として、記録します』
俺は、天井を見た。
俺の力は、俺だけの傷じゃなかった。
大災を潰したあれも、悪魔を消したあれも——撃つたびに、この子を削っていた。
遠くから撃つのは、やめだ。
撃たずに済む力を、覚える。
明日も、地面と仲良くなるとしよう。
ナナは、窓の外を見た。
俺も、見る。
尖塔の上には月があり、鐘は鳴っていない。
祈りの国は、眠っているように見えた。
本当に眠っているのかは、分からなかった。
*
翌朝。
宿に、客が来た。
アナスタシアさんと、甲冑姿の若い騎士だった。
見覚えがある。
窪地で、死んだ仲間の骸を抱えていた騎士だ。
包帯の巻かれた額。左腕は吊られている。顔色も、まだ悪い。
それでも、磨かれた甲冑を着ていた。
騎士は、俺の前へ立った。
何か言いかける。口が動く。声が、出ない。
「……あの日は」
そこまでだった。
喉が詰まり、顔が歪む。
騎士は右手で剣の柄を取り、ゆっくり抜いた。
一瞬、ジェスが身構える。
けれど剣は、俺へ向けられなかった。
騎士は刃を自分の胸の前へ垂直に立て、片膝をついた。
騎士の、礼だった。
深く、頭を下げる。
「救って、いただきました」
やっと出た声は、掠れていた。
「私だけではありません。巡礼の民も。負傷した仲間も」
俺は、何と返せばいいか分からなかった。
救えなかった人の方が、多い。
天使は落ちた。騎士は死んだ。悪魔も、消えた。
「俺一人じゃ、ありません」
やっと、それだけ言った。
「ヤンさんも。ジェスさんたちも。天使も、祈った人たちも」
騎士は、顔を上げた。
泣いていた。
それでも、騎士の姿勢は崩れなかった。
「はい」
短く、答えた。
「忘れません」
アナスタシアさんは、その様子を静かに見ていた。
昨日の路地のことなど、最初から何もなかったような顔だった。
手には、封書がある。
「こちらを」
差し出された封書には、見たことのない蝋印が押されていた。
翼と、輪と、剣を組み合わせた紋章。
ヤンさんが受け取り、表裏を確認する。
「教王庁の印だな」
「はい」
アナスタシアさんは、頭を下げた。
「教王庁より、招請にございます。聖域における一件について、証言と謝意を賜りたいとのことです。七日ののち、首都へお越しいただきます」
ヤンさんが、封を切った。
クラインさんが、横から文面を覗く。
「証言の要請。功績の確認。教王猊下への謁見候補……ずいぶん丁寧だ」
「断れますか」
俺が聞くと、ヤンさんは鼻を鳴らした。
「形式上はな」
「実際は?」
「断らん方がいい類の、招きだ」
「査問と褒賞、どちらの顔もできる書き方だね」
クラインさんが、眼鏡を押し上げた。
「ただし、悪い話ばかりでもない。首都でなら、聖域の立ち入り許可を、枢機卿より上へ願い出る道がある」
『端末への、道です』
ナナが、俺にだけ届く声で言った。
首都。教王庁。この国の中心。
遺跡へ入るためには、避けて通れない。
「日取りは、七日後なんですね」
「はい」
アナスタシアさんは、そこで一度言葉を切った。
ほんの、一瞬。
路地で見た、白い顔が重なった。
「……私も、聖域の証人として、同行を命じられております」
「じゃあ、またよろしくお願いします」
俺が言うと、隣でクーリが、じとっとした目を向けてきた。
「なんだよ」
「べつにー」
「まだ伸びるのか、それ」
アナスタシアさんが、わずかに笑った。
笑ったけれど。
その手は、黒い衣の袖の中で、強く握られていた。
ナナの視線が、そこへ向いていた。
*
その夜。
アナスタシアは、部屋の窓辺に座っていた。
膝には、教王庁から届いた招請状の写しがある。
七日ののち。首都。教王庁。
聖域の襲撃に関する証言。
表向きは、それだけだ。
路地で交わした会話が、耳から離れなかった。
外套の男は、教団の連絡役だった。
声を潜め、予定を伝えた。
首都の幹部たちが、一堂に会する日。神殿騎士団の配置。教王の出席。
そして。
——最後の、供物。
それが何を意味するのか、アナスタシアは、聞かなかった。
聞けば、答えが形になってしまう気がした。
これまでにも、供物はあった。
魔獣の心臓。魔物の魔石。
教団の者たちは、少なくとも、自分たちが畜生へ落ちないための線を引いていた。
民を使わない。子供を使わない。捕らえた者を、苦しめるためだけに捧げない。
悪魔との契約は、危険だ。
だからこそ、契約する側まで悪魔にならないようにと、何度も決まりを作った。
けれど。
「最後」と呼ぶものは、これまでと同じ重さではない。
男の声には、帰る気のない響きがあった。
七日ののち。教団の幹部たちが集まる。
あの一行も、首都へ向かう。
同じ日に。
偶然ではない。
偶然で、あるはずがない。
そして、あの少年。
路地で声をかけてきた時。
会話は、本当に聞いていなかった。あれは、分かる。
驚いた顔も、質問も、演技ではなかった。
けれど。
銀の髪の娘。
木の花を挿した、白い少女。
あの目は、聞く目ではなかった。
測っていた。呼吸を。脈を。声を。
こちらの中にあるものを。
——視る、目だった。
あの子には、見られた。
どこまで見られたのかは、分からない。
分からないことが、怖かった。
アナスタシアは、写しへ目を落とした。
七日ののち。首都。
教団の幹部たち。教王庁の腐敗した者たち。異国から来た、底の見えない少年。
すべてが、同じ場所へ集まる。
数えたくない答えが、出ようとしていた。
「……どうか、あの日——」
言葉は、そこで止まった。
何を、願おうとしたのか。
誰の無事を、願ったのか。
教団の仲間か。騎士たちか。あの少年たちか。
それとも——計画が成功することか。失敗することか。
分からなかった。
手を、組もうとする。
胸の前で、指が途中まで動く。
けれど。
祈りの形には、ならなかった。
誰に願えばいいのか。
何を正しいと呼べばいいのか。
もう、分からなかった。
窓の外で。
鳴らないはずの鐘が、風に揺らされて——一度だけ、低く鳴った。
(第十九話・了)




