Re:sou 第十八話「民の代わりに」
儀は、街に着いて三日目の朝に始まった。
夜明け前から、鐘が七つ鳴った。
いつもの時告げの鐘より、低くて、長い。
一つ鳴るたび、眠っていた家々に灯がともる。
宿の窓から見下ろすと、尖塔の下へ、灯籠を手にした民が列を作っていた。
老人も、子供もいた。
誰も、喋らない。
無数の小さな灯だけが、朝靄の中をゆっくりと流れていく。
『祈りの大儀、開始と推定します』
窓際で、ナナが言った。
枢機卿が遺跡に籠り、七日七夜、食を断って祈る。
民の代わりに、飢える。
昨夜その話をした宿の親父は、帽子まで取っていた。
この国の民にとって枢機卿は、自分たちの苦しみを代わりに引き受けてくれる人なのだ。
……偉いもんだな。
*
儀を待つあいだ、アナスタシアさんは、まめに宿へ顔を出した。
滞在の作法。市の立つ日。夜の鐘の数え方。施療院で無償の治療を受けられる刻限。
聞けば、なんでも答えてくれる。
聞かないことは、なにも言わない人だった。
「……あの人、暇なの?」
クーリが、窓辺から通りを覗きながら、ぶすっと言った。
「巡礼者の案内も務めなんだと」
「ふうん」
「なんだよ」
「べつに」
なんでもない人間は、そんなに窓硝子に額を押しつけないと思う。
道々、あの人はよく質問した。
「ハジの町は、どのようなところですか」
「旅は、長いのですか」
「皆さまは、どちらで知り合われたの?」
世間話の顔をした問いに、ジェスが調子よく答え、クーリが盛り、クラインさんが事実の形へ戻していく。
「ハジ最大のスタンピード——あの大災を、カイが片手で沈めた話は、盛りすぎじゃないかい」
「片手で、とは言ってないでしょ」
「素手で、とは言っていたよ」
「ほとんど同じじゃない」
「……全然違いますからね」
そんなやり取りを、アナスタシアさんは口元を隠すようにして、笑って聞いていた。
一度だけ、「カイ様は、どちらから?」と聞かれた。
俺が答えに詰まると、彼女は瞬きひとつ分だけ待って、「失礼いたしました」と、それ以上は聞かなかった。
聞かない、ということを、綺麗にやる人だった。
*
この国では、祈りが生活に混ざっていた。
市場の商人は、品物を渡す前に、短く胸の前で指を組む。
パン屋は、その日の最初の一つを、必ず施療院へ納める。
道端で転んだ子供を見ず知らずの老人が起こし、その老人の荷を、別の誰かが黙って持つ。
誰も、それを褒めない。
善いことをした、という顔すらしない。
たぶん、この国では、それが普通なのだ。
広場の炊き出しで、痩せた男が薄い粥を受け取った。
その横で、もっと痩せた老婆が順番を譲る。
男は椀を受け取ると、半分を老婆の椀へ戻した。
「神さまに、叱られますよ」
「なら、半分ずつ叱られましょう」
二人は、笑った。
クーリが、その光景をじっと見ていた。
「……変な国」
悪口では、なかった。
たぶん、俺も同じ顔をしていた。
*
宿の親父は、よく喋る人だった。
「祭りの日にはね、神殿騎士さま方が天使さまをお呼びになるんですよ」
卓を拭きながら、得意そうに話す。
「金色のが、空を舞うんだ。子供なんて前の日から寝やしない。皆で場所取りですよ」
この国で、天使は珍しいものではないらしい。
戦の切り札で、祈りの象徴で、祭りの華。
天使が現れることが奇跡なのではなく——天使を呼べるだけの祈りを保っていることが、この国の誇りなのだ。
ある日の昼、練兵場の脇を通った。
木剣を持った少年たちが、声を張り上げて型を振っている。
神殿騎士の、卵たちだという。
「この国の男の子は、皆、一度は騎士を目指します」
アナスタシアさんが言った。
「女の子は、聖女を」
「アナスタシアさんも?」
「ええ。私も、あの柵の外から見ていました」
柵のそばで、小さな男の子が背伸びをしていた。
木の枝を腰に差して、少年たちの動きを真似ている。
踏み込んでは転び、すぐに立つ。
トゥイを思い出して、俺は少し笑った。
アナスタシアさんも、その子を見ていた。
笑っては、いなかった。
ただ、ずっと見ていた。
男の子が転ぶと、彼女は自然に歩み寄った。
膝をつき、擦りむいた手のひらへ、金色の光を当てる。
黒い衣の裾が、土に汚れた。
「痛みますか」
「へいき!」
「強いのですね」
子供が、胸を張る。
アナスタシアさんは、裾の泥を払いもせずに、立ち上がった。
聖女だからやった、という動きには見えなかった。
この人なら、聖女でなくても同じことをした気がした。
*
儀が始まって三日目の朝、報せが来た。
「本日、ご案内いたします」
巡礼路は、街の東門から、緩やかに丘を登っていた。
道の両脇に、丸い石が積まれている。一人一つ、祈りを込めて積むのだという。
クーリが道端の小石を拾って、崩れかけた山の上へそっと置いた。
「……あんたも積む?」
「なにを祈るんだよ」
「いいから。祈りって、口にしたら減るものもあるでしょ」
「初めて聞く理屈だな」
俺も、ひとつ拾った。
慎重に、隣へ置く。
なにを祈ったかは、言わなかった。
先を行く黒い衣が、時々立ち止まっては、作法を教えてくれる。
その途中で、アナスタシアさんが、ふいに聞いた。
「カイ様は——神を、信じておられますか」
前を向いたままだった。
「……いるか、いないかで言えば」
俺は、少し考えた。
「いる、と思います。ただ」
「ただ?」
「祈って届く場所に、いるのかは……分かりません」
アナスタシアさんの足が、半歩だけ乱れた。
すぐに、歩幅は戻った。
「……そう、ですか」
それきり、遺跡が見えるまで、あの人は口を開かなかった。
*
丘を登り切ると、風が変わった。
窪地の底に、それはあった。
白い石の——巨大な、伏せた器のような建物。
半分は土に埋まり、半分は磨き上げられ、祭壇と白い幕で飾られている。
神代の遺構と後世の信仰が、どこからが古くてどこからが新しいのか分からないほど、癒着していた。
『待機信号、明瞭』
ナナが、俺にだけ届く声で言った。
『あの奥に、端末はあります』
遺跡の正面には白い天幕が並び、甲冑の騎士たちが立っていた。
その数は、思っていたより少ない。
「儀のあいだは、騎士団の多くが街の警備へ回ります」
アナスタシアさんが言った。
「巡礼の方が、増えますから」
奥の大扉は、閉ざされていた。
あの中で、枢機卿さまが、民の代わりに飢えている。
巡礼の民が、窪地を囲む道に点々と膝をつき、祈っていた。
「ここから先は、巡礼路の外へ出ないでください」
クラインさんは、もう帳面を開いていた。
「いやあ、実に興味深い。表層は新しいが、基礎の曲面は明らかに別時代だ」
「兄さん、今そういう顔する時?」
「学徒に時と場合を求めるのは、酷だよ」
*
最初に気づいたのは、ナナだった。
『カイさま』
声が、硬い。
『高マナ反応、三。丘の上——移動、速い』
見上げた稜線に、外套姿の影が三つ、並んでいた。
『別に、岩陰へ人影。十前後。魔力反応、微弱——人間です』
離れた岩場に、確かに影がある。
武器は、構えていない。
窪地の人数を数えるように、見回している。
ヤンさんも気づいていたようで、そちらを気にする素振りを見せた。
『音声、拾えます』
ナナが、遠い声を俺の耳へ流しはじめた。
「……騎士の数を確認しろ」
「配置は薄い。予定通りだ」
騎士が少ない日を、わざわざ選んで来ている。
稜線の足元で、赤い光が円を描いて燃え上がった。
祈りの声が、途切れる。
騎士の誰かが、叫んだ。
「——悪魔教団だ!! 鐘を鳴らせ!!」
岩陰の人影が、ざわめいた。
「騎士が多いじゃないか」
「聞いていた配置と違う」
「巡礼者を下げろ! 巻き込むな!」
「召喚を急げ。枢機卿だけだ。他へ手を出させるな!」
悪魔教団と呼ばれる割に、怒鳴り声のどれにも、殺しを楽しむ響きがなかった。
計画が狂った焦りと——人が死ぬことへの、本物の怖れがあった。
赤い円から、三つ、降りてきた。
歩いて、降りてくる。
慌てもせず、隠れもせず。
人の形を、していた。
人より、綺麗な形をしていた。
肌は白磁。目は硝子。口元だけが、柔らかく笑っている。
頭には、それぞれ違う角。
牛。山羊。鹿のような、細い角。
そしてどれも——幼かった。
俺やジェスより、ずっと。
十二か、十三。上でも、十五。
声変わりも終わっていないような、顔だった。
『供物との適合により、現界した個体です』
ナナが言う。
『どの悪魔が応じるかは、供物の質に依存します。……選べるものでは、ありません』
『個体強度は高くありません。ただし、感情傾向は不安定です』
選んで、幼いのを呼んだわけじゃない。
用意できた供物に応えたのが——今回は、これだった。
教団にとっても、誤算なのかもしれない。
けれど。
人を殺すには、十分すぎる力だった。
山羊角の一体が、よく通る声で言った。
「用があるのは、中の人間だけだ」
少年の、声だった。
大扉を、指す。
「退けば、死ぬのは一人で済む。……悪くない取引だろう?」
「民に手を出すな!」
岩場から、男の声が飛んだ。
「約定は守れ! 枢機卿以外を殺す必要はない!」
山羊角は、面倒そうに目だけを動かした。
「分かってるよ。口うるさいな」
その返事に、教団の男は安心しなかった。
むしろ、唇を噛んだ。
悪魔との契約が、言葉通りに守られるものではないと——呼んだ本人たちが、一番よく知っている顔だった。
*
騎士たちは、退かなかった。
槍を構え、大扉の前に円陣を組む。
その中央で、六人が膝をつき、祈り始めた。
歌うような、祈りだった。
巡礼の民が、それに気づいた。
逃げかけた足が、止まる。
一人、また一人と、その場に膝をつき、祈りへ声を重ねていく。
老婆が。子を抱えた母親が。杖の老人が。
窪地じゅうが、ひとつの名を呼んでいた。
隣でクーリも手を組みかけて——組んでいいのか分からない顔のまま、途中で止めた。
俺は、悪魔教団の敵意の薄さに戸惑って、なにもできずに見ていた。
声がひとつ増えるたび、空気に金色の粒が浮かんだ。
誰も撞いていない鐘が、震えた。
風が止まり、地面に落ちた人々の影が、薄くなる。
金の粒が、騎士たちの頭上へ吸い寄せられていく。
骨格を編む。翼を編む。長い手足。剣。盾。
顔のあるべき場所だけが、滑らかなまま残った。
白地に金縁の全身鎧。金の剣と盾。翼の生えた、顔のない巨人。
着地の音は、しなかった。
ただ、地面が——祈りに応えるように、静かに光った。
『——ドミニオン。守護天使です』
ナナが言った。
祭りの日なら、子供たちが歓声を上げたのだろう。
この国の民にとって、天使は、何度も見た神の使いだ。
けれど今日、誰も笑わなかった。
この祈りの意味が、あまりにも重かったからだ。
悪魔たちの笑みが、消えた。
*
最初の激突は、音より光が先だった。
天使は剣と盾で、教本のように綺麗に戦った。
無駄がなく、迷いがなく、祈られた通りに。
牛角の腕が、肩から千切れ飛んだ。
「いっ……!」
幼い声が、上がった。
血ではなく、赤い光が散った。
「っ散れ!」
悪魔たちが、散開する。
山羊角と鹿角が天使を挟み、術を撃ち合う。
地面が抉れ、白い天幕が燃えた。
岩場から、教団の声が飛び交う。
「民の方へ撃たせるな!」
「騎士を殺すな! 天使だけを崩せ!」
「牛角を引かせろ! 契約の維持が——」
敵、なのだろう。
なのに、その声はどれも、一人でも多く殺したい人間の声じゃなかった。
「伏せて! 窪みへ!」
アナスタシアさんが叫び、民を巡礼路の窪みへ導いていく。
転んだ老人を抱き起こす。泣く子を、隣の母親へ預ける。
黒い衣が、泥にまみれていく。
クラインさんが杖を立て、光の膜で民の頭上を覆った。
ヤンさんは、いつの間にか俺たちの前にいた。
ハルバードを片手に提げ、飛んでくる流れ弾だけを、静かに落としていく。
「ちっ——届かねぇ」
ジェスが、歯噛みした。
剣の間合いの遥か外で、神話が撃ち合っていた。
街の方で、警鐘が乱打され始める。
けれど、この数分に間に合う者は、いない。
*
形勢が変わったのは、一瞬だった。
牛角が、いない。
天使と撃ち合う二体の陰から、消えていた。
『左!』
ナナの声と同時に、円陣の左が赤く弾けた。
祈っていた六人のうち、二人が、声ごと消し飛んだ。
岩場から、悲鳴のような怒号が飛んだ。
「違う! 祈り手を殺せとは言っていない!」
「約定違反だ! 戻れ!」
牛角が、振り返った。
幼い顔で、不思議そうに首を傾げる。
「天使を消すには、祈る人を消せばいいんだろう?」
「気絶させるだけでいい!」
「戦いの中で、そんな小難しいことができるもんか」
悪意じゃ、なかった。
本当に分からない、という声だった。
だから、恐ろしかった。
天使の輪郭が、揺らぐ。
金縁の腕が、途中から砂のように崩れはじめる。
「祈りを絶やすな!! 継げ!!」
騎士が叫び、別の騎士が膝をつく。
その背を、赤い光が撃ち抜いた。
牛角は、祈り中の動けぬ者を、狙い撃ちにした。
楽しんでいるのでは、ない。
合理的だから。命の重さを、知らないから。
岩場では、術式を保ったまま、男たちが怒鳴り合っていた。
「止めろ!」
「止められん! 急ぎの召喚だ——契約者を害するな以外の誓約は、契約の外だ!」
「こんなはずでは——」
誰かが、そう叫んだ。
けれど、始めたのは彼らだった。
「二度目を! 二度目の召喚を——」
騎士の声に、別の声が被さる。
「人が足りん!!」
円陣は、もう半分も残っていない。
槍を捨てて祈りに回る者。祈りをやめて槍を取る者。
どちらも正しくて、どちらも足りなかった。
老婆が、まだ祈っていた。
窪みの縁で、逃げもせず、皺だらけの手を組んで、声を限りに名を呼んでいた。
天使の崩れた翼が、その声の届く側だけ、わずかに編み直される。
けれど、足りない。
白金の巨人は、崩れながら、最後の力で祈り手たちの前へ跳んだ。
砂になりかけた腕で、牛角を抱き込む。
牛角が、初めて怯えた顔をした。
「待っ——」
二つの体が、道連れに、光の粒となって崩れた。
金色と赤色の雪が、祈る民の上へ降った。
祈りは、届かなかったのでは、ない。
届いたから、天使は最後まで民を守った。
ただ——足りなかった。
*
残った山羊角と鹿角が、ゆっくりと大扉へ向き直った。
山羊角が、ふと、足を止める。
まだ祈りやまない民の方を、硝子の目で見た。
「……その声」
首が、傾く。
「耳に、残るなあ」
白い指が、民の方へ上がった。
岩場から、声が飛ぶ。
「やめろ!!」
もう、命令では止まらなかった。
黒い衣が、その前へ躍り出た。
アナスタシアさんだった。
両腕を、広げていた。
赤い光が放たれ——届く前に、空中で弾かれた。
ヤンさんが、ハルバードを振り切っていた。
術を、刃で。
冗談みたいな光景だったけれど、赤い光は砕けて、散った。
窪地が、静かになった。
「……なんだ、お前」
山羊角の硝子の目が、ヤンさんを映す。
声は、まだ幼い。
「この国の戦士だけが標的なら、俺は手を出さん。だが——民を狙うのは、見過ごせん」
ヤンさんが、地を蹴った。
一息で、間合いが消える。
ハルバードの柄が唸って、細い体が宙へ吹き飛んだ。
「——行くぞ、クーリ!」
ジェスが駆け出し、クーリが続いた。
狙いは、鹿角。
俺も走り出しかけて——肩を、杖で止められた。
「魔法職は後衛さ」
クラインさんの目は、もう戦場を測っていた。
「誰を助けるべきか見極めて、術を放つんだ。前へ出ることだけが、戦いじゃない」
……そうだ。
俺の技は、味方の近くじゃ振れない。
ヤンさんには、危なげがなかった。
山羊角が翼もないのに宙へ浮き、距離を取ろうとする。
空に逃げられるとまずい——と思った時には、ヤンさんが遠間からハルバードを振り抜いていた。
斬撃の衝撃だけが空を走り、悪魔を地面へ叩き落とす。
……ヤンさんも、大概、人間の動きじゃなくない?
一方の鹿角は、厄介だった。
ジェスの剣は、届く。届いて、白磁の肌に浅い筋を残す。
そのたび、赤い光が返ってくる。
クーリの緑がジェスの傷を塞ぎ、クラインさんの光弾が術を相殺して——それでも、押されていた。
……こっちだ。
*
俺の技は、大雑把だ。
大きく振れば、味方ごと消す。
なら、絞ればいい。
大災を屠った、あの技——異次元までは、繋げない。器が保たない。
簡易でいい。局所の、真空。
マナを集めはじめると、空間が微かに軋んで、地面が揺れた。
民の前で両腕を広げ、結界を張ったままのアナスタシアさんが——振り向いた。
俺を、見た。
『カイさま。その術は、器への負荷に繋がります』
背後で、ナナの声がした。
「短くやる。異次元は作らない。簡易の真空で壊す——破壊箇所を演算してくれ」
『最小範囲に限定します。悪魔の魔石は、心臓部です』
ナナが膝をつき祈るような体勢で補助にはいる。
鹿角が、ジェスたちを相手取りながら、こっちを見た。
硝子の目が、俺を映して——見開かれた。
「…………あ」
後ずさった。
さっきまで、子供みたいに笑っていた悪魔が。
「嘘だ」
顔から、色が消える。
「嘘だろ。なんで、こんなのが」
両手を、上げた。
「降参だ!」
高い声が、裏返る。
「僕と契約をしよう! 対価はなんでもいい! 僕は、まだ——」
幼かった。
見た目だけじゃない。声も。死を怖がる顔も。
こいつは、生まれてから、どれだけの時間を生きたんだろう。
一日か。一時間か。
呼ばれて、命じられて、命を奪って——今、自分が消される番になった。
俺の手が、一瞬だけ、止まった。
『カイさま』
ナナの声。
その一瞬に、鹿角の指先へ、赤い光が集まっていた。
命乞いは、時間稼ぎだった。
光の先は、ジェスじゃない。クーリでもない。
——窪みの、民。
俺が迷えば、誰かが死ぬ。
「……悪い」
極小の真空が、体内の——マナの最も厚い一点に、生まれた。
硝子の砕けるような音が、した。
魔石に、罅の入った音だった。
鹿角は、端から光の粒になって、ほどけていく。
硝子の目は、最後まで、俺だけを見ていた。
「……ちっくしょ……なんで、俺が……」
幼い、声だった。
消える寸前——岩場の男が一人、目を伏せた。
悪魔の死を悼んだのか。
自分たちが呼んだものの末路を、見ていられなかっただけなのか。
分からなかった。
山羊角の方も、ヤンさんが仕留めたらしい。
同じように、赤い粒になって、消えていった。
風が、窪地を渡った。
最後の光が消えるまで、誰も、なにも言わなかった。
膝が、少し笑っていた。
口の中に、薄く血の味がする。
胸の奥で、また罅が軋んだ気がした。
手のひらを、見た。
なにも、ついていなかった。
なにも、ついていないことが、変な感じだった。
これはまだ、何度も使える技じゃないな。
悪魔は意外に幼い声だった、ということだけが、耳の奥に残った。
丘を見上げると、教団の影は、もう退きはじめていた。
一人が、倒れた騎士の方を振り返る。
唇を噛んで、仲間に腕を引かれて——ようやく、消えた。
勝った顔をしている者は、一人もいなかった。
*
静けさを破ったのは、大扉だった。
内側から、開いた。
転げ出てきたのは、絹の夜着の男だった。
肥えた体。汗ばんだ肌。手には、酒杯を握ったまま。
「なんだ、今の揺れは! とてつもないマナだったぞ! なにがあった!」
男は、辺りを見た。
血と、骸と、崩れた天使の金の残光。
——その全部より先に、男は、自分を守る騎士を探した。
「また悪魔教団か!? 騎士は! 騎士はなにをしている! 賊はどうした!」
開いた扉の奥から、匂いが流れ出た。
香では、なかった。
酒と、脂と、白粉と、甘い果実の匂いだった。
厚い敷物。果物の山。肉の皿。倒れた酒瓶。衣を掻き合わせる、人影。
机の上には、祈祷文の巻物が——一度も開かれないまま、積まれていた。
七日七夜、飢えるはずの部屋だった。
誰も、動かなかった。
最初に動いたのは、ジェスだった。
「……はぁ!?」
踏み出しかけた肩を、ヤンさんの手が掴んで止めた。
クーリは、騎士の傷を塞ぐ手を止めなかった。
止めないまま、唇を噛んでいた。
クラインさんが、眼鏡の奥で静かに目を細めた。
「……なるほど」
声が、冷たかった。
「派遣騎士団の稼ぎも、民の寄進も——こういう部屋に化けるのか」
生き残りの若い騎士が、仲間の骸を抱えたまま、男を見上げていた。
血まみれの顔で。
なにも、言わずに。
男は——枢機卿は、その視線に気づいた。
恥じは、しなかった。
むしろ、腹を立てた。
「な、なにを見ている! この者たちは儀を守って死んだのだ! 誉れであろう!」
「早く祈りを再開させろ! 民が見ておるのだぞ!!」
民は、見ていた。
金色の雪の残る窪地で、膝をついたまま。
祈りの形に組んだ手を、ほどけないまま。
見ていた。
誰かが、小さく言った。
「民の、代わりに……」
その先は、続かなかった。
*
手当てが終わる頃には、日が傾いていた。
窪地では、金色の光と緑色の光が、並んで灯っていた。
アナスタシアさんと、クーリだった。
生き残った騎士の傷を、ふたつの光が順に塞いでいく。
アナスタシアさんは、一度も、枢機卿を見なかった。
帰り支度の途中で、肩に手が置かれた。
ヤンさんだった。
「引くぞ」
「でも」
「ここから先は、この国の火だ」
ヤンさんは、崩れた円陣を見た。
「余所者が、薪をくべるな」
歩き出してから、前を向いたまま言う。
「……驚いたか」
「…………はい」
「全部が綺麗な組織など、ない」
一拍。
「——どこの国でも、だ」
その声は、妙に古い場所から出てきた気がした。
この人にも、見てきた火があるんだろう。
俺は、聞かなかった。
現代にも、似たような話はあった。
ゲームの中でまで、か——
そう思ってから、気づいた。
この世界を、もうほとんどゲームだと思っていない自分に。
『カイさま』
ナナの声が、低かった。
『聖域は当面、封鎖されると推定します。端末への接続は——延期です』
「……だな」
急ぐ理由は、ある。
けれど、急げる場所じゃなかった。
帰り道の途中で、一度だけ振り返った。
夕暮れの窪地で、黒い衣が、まだ膝をついていた。
死んだ騎士の一人に、手を組ませて、祈っていた。
その横顔は。
初めて見る、微笑んでいない顔だった。
*
街へ戻る道は、登ってくる人の波と、すれ違いだった。
騎士。僧衣の男たち。松明。担架。
家族の名を叫びながら、丘を駆け上がっていく女の人。
血のついた鎧を見て、道端に膝をつく老人。
街は、どの窓にも灯が入っていた。
尖塔の鐘は、まだ鳴りやまない。
宿の親父が、扉の前で待っていた。
「お客さん、ご無事で……! 聖域で、なにがあったんです」
答える言葉を、俺は持っていなかった。
天使が、民を守って消えた。
悪魔が、幼い声で死んだ。
騎士が、祈りながら死んだ。
人を死なせたくないと叫びながら、悪魔を呼ぶ者たちがいた。
そして——民の代わりに飢えるはずの人は、飢えていなかった。
どれから話せば、正しいのか。
「……悪魔が、出ました」
代わりに答えたのは、クラインさんだった。
親父の顔から、血の気が引いた。
「またか……」
声が、震えていた。
「……昔から、義賊みたいな連中はいたんですよ。税を下げろだの、食糧を寄越せだの。役人の倉を襲って、貧民街に撒いたこともあった」
「悪魔教団が?」
ジェスが、聞く。
親父は、首を振った。
「昔は、そんな名前じゃなかった。救民軍だの、夜明けの会だの——名前は何度も変わったが、悪魔なんぞ呼ぶ連中じゃなかった」
帽子を、握りしめる。
「騎士に捕まっても、民には手を出さなかった。神殿騎士だって同じ国の人間だって……そう言ってた連中でした」
「じゃあ、最近になって?」
「ええ。近頃です。国が……あんまりにも、酷くなってから」
親父は、言葉を濁した。
けれど、あの部屋を見たあとなら、その先は言われなくても分かった。
「悪魔を使い始めてから、皆、あいつらを悪魔教団と呼ぶようになりました。悪魔を呼ぶなんて、もう正義じゃないと」
親父は、目を伏せた。
「……でもね、お客さん。正義のままでいられなくなったのは——本当に、あいつらだけなんですかね」
答えられる者は、そこにいなかった。
*
その夜。
アナスタシアは、井戸端で、長いこと手を洗っていた。
血は、とうに落ちている。
爪のあいだの赤だけが、なぜか、水では落ちなかった。
死んだ騎士の中に、知った顔が一つあった。
幼い頃、施療院で膝を治してやった子だった。
騎士になれたのですね、と——半年前、笑って言葉を交わした。
報せを流したのは、私。
儀の日取りを教団へ渡したのは、私。
神殿騎士の少ない日を選ばせたのも、私。
民を巻き込むな、騎士の命はなるべく奪うなと、何度も言った。
教団の者たちにも、その気はなかった。
同じ国の人間を無駄に殺すことなど、ないと思っていた。
けれど、悪魔は祈り手から殺した。
教団の者たちは、やめろと叫んでいた。
本気だった。本気で、あれを望んでいなかった。
なら——誰の罪なのだろう。
呼んだ者か。応じた者か。
呼ばなければ、なにも変わらぬ国か。
民の代わりに飢えると嘘をついて、民の子を死なせる男か。
洗っても、順番は変わらなかった。
——そして、あの少年。
悪魔が、恐れた。
悪魔が、命乞いをした。
悪魔が、幼い声で消えた。
あれは、悪魔ではない。
少なくとも、私の知る悪魔では。
もっと深くて、もっと分からないもの。
そして、あの一行。
天使が消え、騎士団が崩れた窪地で、残った二体の悪魔をへし折った。
私たちの目的を、挫いた。
けれど——民を守った。騎士も、救った。
敵と呼ぶには、正しすぎる。
味方と呼ぶには、恐ろしすぎる。
「…………敵」
口に、出した。
その言葉にしてしまえば、迷わずに済む。
胸が、少しだけ軽くなった。
——それが、なにより恐ろしかった。
祈れば、正しい道が見えると思っていた。
祈れば、自分の罪を忘れずにいられると思っていた。
けれど今夜、祭壇に立てば——神の前で、あの騎士たちの名を呼ばなければならない。
彼らを死なせた、この手で。
アナスタシアは、礼拝堂へ向かわなかった。
井戸端で、冷たい水に手を浸したまま、鐘の音だけを聞いていた。
その夜、聖女は、祈らなかった。
(第十八話・了)




