Re:sou 第十七話「祈りの国」
馬車の車輪が、乾いた土を噛んでいる。
東門を出て、四日。
道は日ごとに痩せていった。木々の緑はまばらになり、剥き出しの岩と丈の低い草の丘が続く。
空だけが、やたらと広かった。
俺は荷台の縁に背を預け、流れていく雲を眺めていた。
風が、俺の周りで少しよどむ。
器の罅から漏れる、わずかなマナ。
町では、これが半径三歩の円を作った。
けれど、この荷台の中に円はなかった。
「……ねえ」
クーリが膝に顎を乗せたまま、こちらを見ずに言った。
「あんたたち、昨日の宿もそうだけど、ヤンさんの宿にいた頃からずっと……同じ部屋だったの?」
「え?」
少し考えて、ああ、と思い当たる。
「ナナと? そうだけど」
「…………ふうん」
短い返事のわりに、膝を抱く腕へ力がこもったのが横目に見えた。
向かいのジェスが口の端を上げる。
「クーリちゃん、それ気になるやつだ」
「なっ……別に!」
俺は荷台の隅へ目をやった。
ナナが背筋を伸ばし、木箱に腰かけている。膝の上で手を揃えたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「勘違いしてるのかもしれないけど、ナナは寝ないんだよ」
「……は?」
『はい。わたしは通常生物のような睡眠を必要としません。疲労も蓄積しません。宿では椅子をお借りして、座っておりました』
「じゃあ、夜の間ずっと起きてたの?」
『機能を落として待機することは可能です。スリープモード、とでも申しましょうか。目を閉じているだけですが』
クーリは二度、ぱちぱちと瞬きをした。
それから急に、耳まで赤くなる。
「……なによ。あたしが変なこと考えてたみたいじゃない」
「考えてたのか?」
「考えてないっ!」
ジェスが声を上げて笑った。
クラインの目が、別の意味で輝く。
「ほう。睡眠を必要としない……ますます興味深い」
御者台のヤンさんが、手綱を握ったまま鼻を鳴らした。
「にぎやかで結構だ。揺れるぞ。舌を噛むな」
車輪が石を踏み、荷台が大きく跳ねた。
しばらく、車輪の音だけが続いた。
ふと、あの天災の日を思い出した。
籠城を決めたネンジさんが、吐き捨てるように言っていた。
——奴らの天使召喚があれば話は変わる。だが、呼んだところで連中が来るまで半日かかる。間に合わん。
「なあ、ナナ」
『はい』
「ミルウーダの天使召喚ってさ。天使って……羽の生えた、あの天使?」
ナナは、わずかに首を傾けた。
『創世人の時代に構築された、一時的な精神生命体です。カイさまには、その理解が近いかと』
『大勢の祈りがひとつの名を呼ぶ。名は形を得て、しばらく現界し、やがて還ります』
「あー……召喚獣ね」
『……おおむね、その理解で問題ありません』
ナナが、ほんの少しだけ困ったように目を伏せた気がした。
クラインが興味深そうに身を乗り出す。
「また秘密の会話かい? でも今のは『召喚獣』と聞こえた。意味も、なんとなく分かる。僕たちも、君の訛りに慣れてきたかな」
冗談めかして笑う。
——お。
「召喚獣」は通じるのか。
まあ、いそうな世界ではある。
『天使は祈られた通りに働き、命じられた以外のことは行いません』
「ゴーレムみてぇだな」
ジェスが言った。
『近いかと。ただ——悪魔だけは、頼まれずとも憎みます』
「悪魔?」
俺は聞き返した。
「いるのか。そんなのも」
『います』
クラインが引き継いだ。
「カイは知らないんだね。悪魔も、天使と同じような——そう、君の言う『召喚獣』に近いものだよ。ただし、言うことを聞かない方の」
なるほど。
悪魔、か。
*
五日目の昼。
丘をひとつ越えた先で、鐘が鳴った。
痩せた土地の真ん中に、白い石の街があった。
高い城壁はない。代わりに街の中心から、天を衝くような尖塔が一本伸びている。
鐘の音は、そこから来ていた。
『イリス。ミルウーダ王国の副首都です』
ナナが言った。
『端末反応は街の東。強度、良好』
「近いのか」
『徒歩圏内です』
街道の終わり、木の門に衛兵が二人立っていた。
槍を持ってはいたが、俺たちを見ると、槍より先に胸の前で手を組んだ。
祈るように。
「巡礼の方ですか。それとも、お仕事で」
「冒険者です。ハジのギルドから推薦状を預かっています」
「では、教会へどうぞ」
「……ギルドじゃなくて、ですか」
衛兵は、当たり前のように尖塔を指した。
「この国では、すべてが教会附属です」
*
門を抜けると、匂いが変わった。
香だ。
どこかで絶えず、香が焚かれている。
石畳は古く、擦り減っていた。建物は質素で、人々の服には継ぎが当たっている。裸足に近い子供が、笑いながら駆けていった。
けれど、道はよく掃き清められていた。
貧しいのに、汚れていない。
広場では炊き出しの列ができていた。
並んでいるのは、貧しい身なりの民。
配っているのも、同じくらい貧しい身なりの民だった。
「……配る方も、もらう方も、同じ格好だな」
ジェスが呟いた。
「あるものを、あるだけ回しとるんだろう」
ヤンさんが短く答えた。
すれ違う人々は、俺の円を静かによけていく。
その避け方にすら、詫びるような遠慮がちな色があった。
「信心深いって聞いてたけど」
ジェスが街を見回す。
「本当みてぇだな」
清貧とは、こういうことか。
*
教会は、街の中心にあった。
というより——街の中心そのものが、教会だった。
礼拝堂。
役場。
市場の帳場。
学び舎。
施療院。
すべてが、尖塔を囲むひとつの敷地に収まっている。
正面の大扉の上に、この世界の文字が彫られていた。
クラインが、小さく読み上げる。
「人神クオンジーの家」
俺の足が止まった。
「カイ?」
「……いや。なんでもない」
首を振る。
久遠寺。
俺の名字と同じ音をした神様が、この国の真ん中にいた。
*
教会の中は、外より豪奢だった。
磨かれた石。
金の燭台。
高い天井には、翼を広げた天使の画。
継ぎの当たった服の民が、その下で膝をついている。
喉の奥に、少しだけ何かが引っかかった。
何が引っかかったのかは、まだ言葉にならなかった。
回廊の先に、長い列が見えた。
施療院の列だった。
先頭で、黒い衣の人が膝をついている。
継ぎだらけの老婆の手を、両手で包んで。
祈りの文言が澄んだ声で流れ——指先に金色の光が灯る。
老婆が泣きながら、何度も頭を下げた。
黒衣の人は微笑み、次の人へ向き直る。
「……すごい」
クーリが小さく言った。
「あんなにはっきり唱えるんだ。……あたしのと、色も違う」
その声が少しだけ硬かった理由を、俺は聞かなかった。
*
冒険者向けの窓口は、回廊の端にあった。
「冒険者の方は、こちらへ」
声の方を見て、少しだけ驚いた。
さっき、施療院の列の先頭にいた人だった。
青い髪を短く切り揃えた、黒い衣の女性。
金色の目。
右目の下に、小さな泣きぼくろ。
胸元では、小さな聖像のペンダントが揺れている。
「ようこそ、イリスへ。聖女団のアナスタシアと申します。冒険者の皆さまの窓口を担当しております」
聖女。
その言葉に、隣でクーリの背筋が伸びた。
アナスタシアさんは、俺たちを順に見て——俺のところで、ほんの一瞬だけ止まった。
瞬きひとつ分。
それだけで、また微笑みに戻る。
「推薦状を、お預かりいたします」
差し出された手は、円の内側にあった。
……この人、平気なのか。
町の人は三歩空ける。
門の衛兵も半歩引いた。
この人は、詰めてきた。
「どうかなさいましたか」
「い、いえ。なんでも」
俺は慌てて、ネンジさんの推薦状を渡した。
手続きは淀みなかった。
滞在の割符。
施療院の場所。
夜の鐘が鳴ったら出歩かないこと。
「それで——ご用向きは、討伐ですか。護衛ですか」
「遺跡を見たいんです」
答えたのは、クラインだった。
目的の話は、馬車の中で済ませてある。
俺の目的は、口で説明できる形をしていない。だから表向きの用件は、クラインが引き受けてくれた。
というか、このパーティで穏便な交渉ができるのは、たぶんこの人だけだ。
「古い魔導と遺構を研究していまして。東の遺跡は、小国群でも特に保存状態が良いと聞きます」
「……遺跡、ですか」
アナスタシアさんの声は変わらなかった。
「遺跡は、当国において聖域です。どなたにも開かれておりますが、巡礼の作法がございます。それに——」
彼女は、壁に掛かった暦へ目をやった。
「まもなく、祈りの大儀がございます。枢機卿さまが遺跡に籠られ、七日七夜、断食で祈りを捧げられます。その間、聖域は閉じられます」
「枢機卿が、断食を?」
「はい。年に一度の、最も大切な祈りです。……民の代わりに、飢えてくださるのです」
その微笑みが、それまでと同じだったのか。
ほんの少し違ったのか。
俺には分からなかった。
「儀が明ければ、お入りいただけます。それまでは、どうぞ街でごゆっくり」
「あの。奥までは入れるんですか」
聞いたのは俺だった。
クラインの視線が、ちらりと刺さる。
アナスタシアさんは、二秒だけ黙った。
「……奥に、何か?」
「あ、いや。せっかくなら、隅々までと思って」
「巡礼路の先は神域です。立ち入れるのは、位階を持つ者のみとなっております」
「……そうですか」
「ええ」
クラインが眼鏡を直した。
「では、外から眺めるだけなら、儀の間も構わないだろうか。遺構は外観にも記録の価値がある」
アナスタシアさんは、一拍置いた。
「外からの拝観は禁じられておりません。ただ、聖域の周囲には巡礼路の作法がございます。……よろしければ」
金色の目が、俺たちを順に見た。
「私が、ご案内いたします」
「え。聖女さまが、直々に?」
「巡礼者のご案内も、聖女団の務めですから。それに——遠くからのお客様を、作法で躓かせるわけには参りません」
クーリが、すっと俺の隣へ半歩詰めた。
何も言わなかった。
ジェスが、口笛でも吹きそうな顔で天井を見た。
「では、大儀が始まりましたら、頃合いをこちらからお報せに上がります」
微笑みは、最後まで崩れなかった。
*
宿は、教会の紹介だった。
古いが、掃除の行き届いた宿。
飯は薄くて、温かかった。
クーリが匙を置いて言った。
「……綺麗な人だったわね。聖女様」
「そうだな」
「そうだな、じゃないでしょ」
「え。なにが」
「なんでもない」
匙が、皿に少し強く当たった。
ジェスが笑いを堪えて咳き込み、ヤンさんは黙って安酒を舐めていた。
窓の外で、夜の鐘が鳴る。
低く、長い音だった。
祈りの国の一日が、閉じていく音だった。
*
部屋に戻ると、ナナが窓際の椅子に腰かけていた。
月明かりの下で、背筋だけがいつも通りに伸びている。
「ナナ。……起きてる、ってのも変か」
『はい。起きております』
俺は寝台に腰を下ろした。
「遺跡の反応、どんな感じだ」
『休眠状態です。損傷の兆候はありません。定期待機信号のみを確認しています』
「奥——神域って言ってたな。位階がないと入れないっていう」
『端末本体は、構造上、最深部にあると推定されます』
「……だよな」
つまり。
正面から頼んでも入れない場所に、俺の用事がある。
厄介な話だった。
「なあ。今日の聖女さま」
『アナスタシア様』
「そう。あの人、俺の近くでも平気そうだったよな」
ナナは、少しだけ間を置いた。
『観測結果を報告しますか』
「観測って……してたのか」
『周辺警戒は、常時行っております』
「……で?」
『接近時、心拍数の上昇と末梢発汗を確認しました。忌避反応の平均を上回る水準です』
「え」
『平気ではありませんでした』
俺は、天井を見た。
怖かったのか。
怖くて——それでも、あの距離まで詰めてきた。
トゥイの、半歩を思い出した。
……聖女ってのは、そういうものなのか。
『カイさま。ご就寝の時間です』
「はいはい」
毛布に潜ると、窓際から小さな声がした。
『スリープモードへ移行します。……おやすみなさいませ、カイさま』
椅子の上で、ナナが目を閉じた。
眠らないやつの寝顔は、存外静かだった。
*
その夜。
礼拝堂の灯りが落ちたあと、アナスタシアは一人、祭壇の前にいた。
——あれは、なに。
昼間の、黒髪の少年。
近づいた瞬間、肌が粟立った。
知っている圧だった。
どこで知ったのかは——誰にも言えない。
美しい顔で嗤い、結んだ約定の、条文の隙間ばかりを探すものたち。
あの圧と、同じ側。
いや。
——もっと、深い。
底が、見えなかった。
悪魔。
その言葉が、胸の内で形になる。
人の姿で。
推薦状を持って。
遺跡の奥を聞いてきた。
観光でもない。
巡礼でもない。
「……なにをしに、来たの」
誰もいない礼拝堂へ、声が落ちる。
思い当たる筋なら、ひとつだけある。
けれど、確かめる術はない。
報せは、いつも向こうから来る。
こちらから糸を手繰れば、糸ごと切られる。
そういう繋がりだ。
だから、聞けない。
なら、この目で確かめる。
「私が、ご案内いたします」
口は、考えるより先に動いていた。
あちらのものなら、それでいい。
違うのなら——。
その先は、考えないことにした。
祭壇の聖像は答えない。
当たり前だ。
アナスタシアは、胸のペンダントを握った。
聖女の微笑みの、内側で。
(第十七話・了)




