Re:sou 第十六話「旅立ち」
ミルウーダ王国、副首都イリス。朝は、鐘の音から始まる。
副首都とはいえ、石畳は痩せ、家々の壁は継ぎだらけだ。それでも人々は、朝の最初の光を、まず教会へ運ぶ。
聖女アナスタシアが、扉の前に立っている。
伏せた睫毛。飾りのない、黒い衣。
貧しい信徒たちが、列をなして、その前に膝をつく。
「聖女さま」
「どうか、うちの子に」
「今年の畑を、どうか」
アナスタシアは、そのひとつひとつに、手を伸ばした。
祈りの文言が、澄んだ声で、歌うように流れていく。
指先に、仄かな金色の光が灯る。
傷がふさがり、熱が引いていく。
人々は涙ぐみ、黒い衣の裾に額をつけた。
「ああ、クオンジーさま」
「聖女さまに、御加護を」
アナスタシアは、微笑む。
誰も、綻びを見つけられない微笑みだった。
*
列が尽き、扉が閉ざされたあと。
無人の礼拝堂で、彼女はしばらく、動かなかった。
伸ばしていた手を、ゆっくりと下ろす。
その手を、見つめる。
——この手は、幾人を癒しただろう。
そして。
窓の高みに、幼い聖像がある。少年の像。
アナスタシアは、それを見上げた。
昔。まだ、神様なんて信じていなかった頃。
泥だらけで駆け回る小さな背中が、いつも、すぐ隣にあった。
「……見ててくれてる?」
声が、誰もいない礼拝堂に落ちる。
聖像は、答えない。
当たり前だ。
彼女は、もう一度、微笑んだ。
今度のそれを、イリスの誰も、見ていない。
◆
大災の討伐から、十日が過ぎた。
ハジの町は、驚くほどの速さで元の音を取り戻しつつあった。
金槌の音。荷車の軋み。市場の呼び声。
瓦礫を片づける音と、新しい板を打ちつける音が、朝から晩まで、町のどこかで鳴っていた。
広場の隅では、子供たちが遊んでいた。
瓦礫の山に、一番大きい子が仁王立ちになる。
「俺が大災だぞー!」
「じゃあ俺、英雄様!」
「ずるい! 俺が英雄様!」
一人だけ、輪の外で、黒い布を頭から被っている子がいた。
「おまえ、なにやってんだよ」
「死神」
その子は、当然のように言った。
「死神はな、最後に、消えるんだ」
俺は、足を止めていた。
少しだけ見て、また歩き出した。
あの夜は、十日で、遊びになっていた。
死んだ者の数を数え終える前に、生きている者は働きはじめる。
それが強さなのか。
ただ、止まれないだけなのか。
俺には、まだ分からなかった。
分かったことは、別にある。
俺が大通りを歩くと、町の音が、少し変わるのだ。
「——おい、あれ」
「北の丘の……」
「英雄様だ」
声が、低くなる。
人が、集まってくる。
ただし、近くには来ない。
拝む婆さんがいた。
握り飯を差し出してくる親父がいた。
うちの子に触ってやってくれ、と赤ん坊を抱えてくる母親もいた。
俺が、手を伸ばす。
抱かれていた赤ん坊は、火がついたように泣き出した。
「す、すみません……!」
母親は慌てて頭を下げ、赤ん坊を抱え直して下がっていった。
その足は、ほんの少しだけ、速かった。
それでも母親は、角を曲がる前に、一度だけ振り返って、深く頭を下げた。
『マナ漏出は、継続しています』
隣を歩くナナが、静かに言った。
『常人には——わずかに、重い空気として知覚されます』
「止められないのか」
『完全な遮断には、演算野の安定が必要です。現在は、応急処置の段階です』
「そっか」
英雄様の周りには、いつも人がいた。
そして、いつも、少しだけ空いていた。
半径三歩。
誰も入ってこない円が。
*
他所から来た連中は、もっと正直だった。
ギルドの酒場の前を通ると、聞こえよがしの声がした。
「見たかよ、あの最後のやつ」
「詠唱もなし、魔法陣もなしだぜ」
「ありゃ人間の業じゃねぇって。うちの隊長が言ってた」
「近寄るなよ。機嫌損ねたら、消されるぞ」
笑い声が上がった。
悪意というより、酒の肴だった。
それが、余計にきつかった。
カウンターの奥で、地元の年寄りが、杯を置いた。
「……北の丘を見てから言いな」
低い声だった。
傭兵たちは、聞こえないふりをした。
「おう、コラ」
低い声がした。
酒場の入り口に、ジェスが立っていた。
腕を組み、笑っていない。
「誰が、消されるって?」
傭兵たちは、ばつの悪そうな顔をして、奥へ引っ込んでいった。
ジェスは何事もなかったように俺の隣へ並び、そのまま歩き出した。
「……気にすんな」
「してないですよ」
「嘘つけ」
「ジェスさんにだけは、言われたくないです」
「俺は嘘つく時、もっと上手い」
「それ、威張ることじゃないでしょ」
ジェスが笑った。
俺も、少しだけ笑った。
嘘だった。
気にしていた。
*
ギルドの窓口に呼ばれたのは、その足でだった。
受付の向こうに、ネンジさんが座っていた。
机の端に、黒い縁取りの書付が積まれていた。
討伐で死んだ者たちの、弔いの手続きだろう。
数えかけて、やめた。
冴えない中年が、机の上に、真新しい認識票を四枚並べる。
「討伐報奨と、査定だ」
一枚を、指で押し出した。
「クーリ。C」
「……えっ、私、まだDじゃ」
「戦場で奇跡系の治癒を通した回復役をDに置いとくギルドがあるか。むしろギルドお抱えにしたいが本音だ。他所に引き抜かれる」
二枚目、三枚目。
「ジェス。クライン。両名B」
「はっ……?」
ジェスの声が裏返った。
「お、俺、この前Cに上がったばっかで」
「前線で線を保った剣士と、極大魔法の指揮者だ。文句あるか」
クラインさんが、静かに眼鏡を直した。
そして、四枚目。
ネンジさんは、それを俺の前に置いた。
「カイ。……B」
息を、呑んだ。
「あの、俺、Eから——」
「三階級だ。分かってる」
ネンジさんは、頭を掻いた。
「本来なら通らん。だがな、あの丘で三千人以上が見てる。今さらお前をEに置いといたら、ギルドの査定そのものが笑い物だ」
それから、少しだけ声を落とした。
「……モーリーが、Bだった」
俺は、その札を見た。
「あいつは、実力A級だ。誰もが知ってた。だが、ハジの支部で出せるのはBまででな。上に行くには、中枢の本部へ出向がいる。……あいつは、行かなかった」
「なんで、ですか」
「知らん。聞いたら『ここを離れられねぇ理由がある』とだけ言いやがった」
孤児院の、傾いた柵が、頭に浮かんだ。
「その空いた席に、お前が座る」
ネンジさんは、こともなげに言った。
「死神からの贈り物だ。ありがたく持っていけ」
俺は、札を握った。
冷たくて、軽かった。
こんなに軽いものを、あの人は、一生かけて動かさなかったのだ。
「……ヤンさんは」
聞いてみた。
ネンジさんは、鼻を鳴らした。
「あの旦那は、登録しとらん」
「え」
「五年前のスタンピードからだ。何度も紙を出した。全部突き返された」
椅子の背にもたれて、天井を見上げる。
「だが、ギルドが本気で困った時、必ず来る。……こっちが呼ぶ前にな」
「それって」
「うちの帳簿にゃ載ってねぇ。だが、この町で誰かが『Aランク』と言ったら、それは旦那のことだ」
紙にない位。
宿屋の主人が、五年かけて、名乗らずに積み上げたもの。
「あれだけの男の下で修行できるとはな。……羨ましい話だ」
帰り際、ネンジさんは引き出しから紙の束を摘み上げ、ひらひらと振った。
「お前宛ての照会状だ。余所のギルド、商会、貴族。……魔法ギルドからもな」
「な、なんて返事すれば」
「するな。全部、俺の机で迷子になった。……いいな、迷子だ」
束は、引き出しの奥へ戻された。
それが、妙に頼もしかった。
*
孤児院には、討伐の後、二度行った。
一度目は、物資を届けるため。
二度目が、今日だった。
庭では、子供たちが遊んでいた。
俺の姿を見つけて、歓声が上がりかけた。
そして、止まった。
年かさの子が、小さな子の袖を引いたのだ。
さっきまでの笑い声が、静かになる。
ここにも、あの円ができた。
トゥイだけが、円の内側に立っていた。
彼の足が、半歩、後ろに下がる。
下がってから——トゥイは歯を食いしばり、その半歩を戻した。
「……よお」
「……よお」
たったそれだけの挨拶に、あの子は、全部の勇気を使ったみたいだった。
俺は、笑ってみせた。
上手く笑えたかは、分からない。
でも、トゥイは、目を逸らさなかった。
と、その横を、小さな影がよちよちと通り抜けた。
まだ三つか四つの、女の子だった。
怖がるということを、まだ知らない年頃の。
女の子は、俺の足元まで来て、見上げた。
「ねえ。モーリーは?」
息が、詰まった。
「モーリー、いつ、かえってくるの?」
「……さあな」
俺は、膝を折って、目の高さを合わせた。
「あの人、気まぐれだから」
「じゃあ、かえってきたら、おこる」
「ああ。……うんと怒ってやってくれ」
年かさの子が飛んできて、女の子を抱え上げた。
ぺこりと頭を下げて、下がっていく。
女の子は、抱えられたまま、まだこっちに手を振っていた。
俺も、振り返した。
嘘は、まだ、始まったばかりだった。
*
シスター・ルシアは、庭の椅子に座って、豆の筋を取っていた。
もう、すっかり歩けるようになっていた。
俺は、その前に立った。
ヤンさんが、少し離れた場所に立っている。
十日、言えなかったことを、今日、言うために来た。
「シスター」
「なんだい」
手は、豆から離れなかった。
「モーリーさんの、ことなんですけど」
手が、止まった。
俺は、あの人の遺言を、そのまま届けた。
「あの人は——俺たちを囮にして。……逃げました」
言葉にした瞬間、喉の奥が焼けた。
嘘だ。
世界で一番の、嘘だ。
あの人は逃げなかった。
最後の最後に、たった一度だけ、生き残るための算段を捨てて、俺を庇った。
けれど、これが、あの人の注文だった。
死神モーリーは死んでいない。
あの戦場からも、また一人だけ、消えた——
その噂が残る限り、この孤児院に手を出す悪党はいない。
この嘘が、あの人の、最後の見回りになる。
シスターは、長いこと黙っていた。
豆の筋を、一本、取った。
もう一本、取った。
それから。
「……そうかい」
声は、揺れなかった。
「逃げ足だけは、昔から速い子だったよ」
俺は、シスターの顔を見られなかった。
見たら、俺の方が保たない気がした。
「あの、シスター。俺——」
「あんた」
遮られた。
「顔が、噓の下手な顔をしてるよ」
心臓が、跳ねた。
シスターは、豆の笊を膝に置いたまま、庭の子供たちを見ていた。
「……いいんだよ。それで」
それだけだった。
信じたのか。
見抜いたのか。
分からなかった。
分からないままで、いいのだと思った。
帰り際、布の包みを二つ、押しつけられた。
「持っていきな」
「これは?」
「焼き菓子だよ。見りゃ分かるだろ」
「二つも?」
「どうせ、あんたら。遠くへ行くんだろ」
まだ、誰にも言っていなかった。
ルシアさんの目は、刃みたいに鋭いままだった。
ただ、その縁が、少しだけ赤かった。
——一番の親不孝は、親より先に死ぬことだよ。
そう言われた気がして、俺は、俯いた。
*
その夜。宿の部屋で、俺はナナに聞いた。
ずっと、聞けなかったことを。
「なあ、ナナ」
『はい』
「……上位権限って、どうやったら手に入る」
ナナは、すぐには答えなかった。
窓の外の月を見て、それから、俺へ向き直る。
『この世界の「権限」とは——民意です』
「……民意?」
『この世界を作った創世人は、一人の王を置けませんでした』
ナナは、机の上に指を置いた。
指先から、小さな光点がいくつも浮かび上がる。
『代わりに、世界各地へ端末を設置しました。後世において「遺跡」と呼ばれるものです』
光点が、細い線で繋がっていく。
『世界への深い干渉には、複数端末の承認が必要です。誰か一人の暴走を、防ぐための仕組みです』
「投票、みたいなものか」
『はい。遺跡は、ある意味ですが、投票所に相当します』
光点が、一つだけ、強く光った。
『そして。通常、投票権は「創世人」にのみ与えられます』
「……創世人に」
『神代の時代には大勢いました。票は割れ、均衡が保たれていました』
ナナは、一拍、置いた。
『ですが、現在——資格を持つ創世人は、この世界に、カイさま一人です』
「……一人」
『一対零の投票は、常に、全会一致です』
冗談みたいな理屈だった。
けれど、冗談ではないのだろう。
『眠っている端末を起こし、接続するたびに、その票がカイさまへ集約されます。権限は、一定数ごとに、一段ずつ上昇します』
「じゃあ、いくつか遺跡を巡れば」
『はい。カイさまの権限は、上がります』
ナナは、自分の胸に手を当てた。
『わたしは、第七研究所管理支援端末。端末との接続を補助し、票を運ぶことが——本来の役割です』
「……最初から、そのために?」
『はい。最初から、創世人のために作られました』
ナナは、なんでもないことのように言った。
けれど、俺には、少し引っかかった。
創世人のためだけに作られた。
そんな言い方は、この一ヶ月で、もうナナには似合わなくなっていた。
『権限が上昇すれば、探査範囲も広がります。現在のわたしに知覚できるのは、ごく近距離のみです。ですが、上がるほど、遠くの遺跡座標が視えます』
「上がるほど、探しやすくなる」
『はい』
俺は、膝の上で拳を握った。
「……権限が上がれば」
言葉を、選んだ。
「あの照会が、できるんだな」
『はい』
ナナは、静かに答えた。
『照会を要求する、資格が得られます』
「資格」
『ただし。回答が存在するか。回答が許可されるか。照会によって何が得られるか。……わたしには、分かりません』
「いい」
俺は、言った。
「できるとは、思ってない」
モーリーさんの、眠っているような顔が浮かんだ。
「ただ、聞きに行く」
あの人が戻るのか。
魂とは、何なのか。
死んだ人間は、本当に戻らないのか。
この世界は……なんなのか。
「聞く資格もないまま、諦めるのだけは、嫌なんだ」
ナナは、三秒、黙った。
『……記録します』
小さく、けれど、はっきりと。
『旅の目的——照会の資格』
そして。
『最寄りの端末反応は、東。ミルウーダ王国の方向です』
*
翌朝。階下に降りると、ヤンさんが、食堂の椅子を机の上に上げていた。
閉店の、仕草だった。
入口の扉には、木の札が掛かっている。
【当分の間、休業します 月と猫】
表から、ガラス越しに、常連の親父たちが覗き込んでいた。
「おい、嘘だろ」
「町一番の飯を、どうしてくれる」
「旦那ぁ、俺の昼飯は」
ヤンさんは、振り向きもしなかった。
「……ヤンさん?」
ヤンさんは、振り向かなかった。
「決めた」
雑巾で、カウンターをひと拭きする。
「お前には、まだ教えねばならんことがある。今のままじゃ、危なっかしくて敵わん」
「でも、宿は」
「宿は逃げん」
それだけだった。
それから、少しの間があって、背中のまま、こう続けた。
「……俺にも、俺の用がある」
手が、止まる。
「北に——迎えに行かなきゃならん奴が、いる」
森の、石の女の人のことだろうか。
セラ。
俺は、何も聞かなかった。
「はい」
とだけ、答えた。
親父たちは、まだ表で喚いていた。
けれど、誰も、札を剥がせとは言わなかった。
*
昼。ギルドに装備の精算へ行くと、待ち伏せされていた。
ジェス。クーリ。そして、クラインさんまでいた。
「よお」
ジェスが、にやにやしながら言った。
「で。いつ発つんだ?」
「え」
「え、じゃねぇよ。宿に『休業』の札が下がってんだぞ。町中が知ってるわ」
「いや、あの。これは俺とヤンさんの——」
「水くせぇんだよ」
ジェスが、俺の頭を乱暴に掴んだ。
「仲間だろ。一緒に行くに決まってんだろうが」
それから、ジェスは手を離して、ばつが悪そうに首の後ろを掻いた。
「……それによ。俺は、あの丘で自分の天井を見た」
「線は保った。けどな、あれ以上のもんが来てたら、俺の剣は届かねぇ。……分かっちまったんだよ」
「ジェスさん」
「強くなりてぇんだよ。単純だろ?」
笑った顔は、いつものジェスだった。
「あんたたちだけで旅なんて、三日で野垂れ死ぬわよ」
クーリが、腰に手を当てる。
顔色は、もうすっかり戻っていた。
「炊事は?」
一本、指を立てる。
「繕い物は?」
二本目。
「薬草の目利きは?」
三本目。
「ほら。私がいないと駄目でしょ」
「クーリ、炊事できるんだ?」
「そこは今から覚えるの!」
「できないんじゃないですか」
「うるさい!」
それから、クーリはほんの少しだけ、声を落とした。
「……それに。あんた、体、まだ変なんでしょ」
「え」
「近くにいれば分かるのよ、それくらい。回復役なんだから」
目は、こっちを見ていなかった。
「だから、その。……職分の話よ、職分の」
クーリの耳が、少し赤かった。
クラインさんは、静かに笑っていた。
「僕の専門は、古い魔導と、古い遺構でね」
眼鏡の位置を、指で直す。
「遺跡を巡る旅と聞いて。行かない学徒がいると思うかい?」
それから、少しだけ声を落として。
「……それに。妹を、任せきりにはできない」
「兄さん!?」
クーリが、真っ赤になった。
俺は、四人の顔を、順番に見た。
英雄様の周りにある、半径三歩の円。
その円の内側へ、この人たちは、当たり前の顔で入っていた。
「……よろしく、お願いします」
声が、少しだけ、震えた。
*
出発の朝は、よく晴れていた。
東門の前で、俺たちは荷を積んでいた。
麻袋。水樽。天幕。保存食の箱。毛布。鍋。薬草。
借りた小さな馬車は、あっという間に一杯になった。
「……ねえ」
クーリが、荷台の隙間を睨んでいる。
「乗る場所、ある?」
「詰めれば何とか」
「その台詞を言う人、大体詰められる側じゃないのよ」
『カイさま』
ナナが、俺の袖を引いた。
『一点、報告が遅れました』
「なんだよ、こんな時に」
『格納領域が——復旧しています』
俺は、麻袋を持ったまま、固まった。
「……え」
『あの天災との遭遇後、コアの損傷により、封鎖されていました。先の戦いのあと、修復に伴い、全域が再開しています』
「……それ」
声が、掠れた。
「いつから使えたんだ」
『大災を討った、夜からです』
十日。
十日も。
ナナは何も言わず、荷物を抱え、運び、片づけていた。
俺は、ナナの体が直ったのかどうかすら、聞いていなかった。
「……なんで、言わなかったんだよ」
『お聞きに、なりませんでしたので』
責める声では、なかった。
だから、余計に、堪えた。
「……ごめん」
『謝罪の必要は、ありません』
ナナは、小さく手を差し出した。
俺が持っていた麻袋が、光の粒になって、ほどけて、消えた。
「うわっ」
「な——なんだそりゃ!?」
ジェスが、荷台から転げ落ちそうになった。
そこから先は、あっという間だった。
水樽が消え。
天幕が消え。
保存食の箱が消え。
鍋も、毛布も、片端から光にほどけて、どこかへ収まっていく。
荷台が、空になった。
「……なに、これ」
クーリが、呆然と呟いた。
「なにこれ。ずるい」
「ナナちゃん。もしかして、最初から」
「先に言いなさいよ!」
『申し訳ありません』
ナナは、ほんの少し、首を傾げた。
『次回からは、申告します』
クラインさんが、堪えきれずに笑い出した。
「……いや、失礼」
肩を、震わせる。
「格納魔法だって? ……レガシー級の魔道具だな。論文が、何本書けるだろうね」
「書かせませんよ」
「なぜだい」
「本人の許可を、取ってください」
ナナが、俺を見た。
『回答。許可しません』
「即答だね」
ヤンさんが、腕を組んで、鼻を鳴らした。
「では、遠慮なく座って行けるな」
がらんと空いた荷台へ、俺たちは順番に乗り込んだ。
やけに、広かった。
*
見送りは、少なかった。
ネンジさんが、欠伸をしながら来て、ギルドの推薦状を押しつけていった。
「小国群のギルドなら、どこでも顔が利く」
それから、俺を見た。
「……死ぬなよ」
「はい」
「英雄様なんざ、死んだ後につく名前だ。生きてるうちは、ただの若造でいろ」
「……はい」
門の脇に、小さな影があった。
トゥイだった。
孤児院の子供たちを、後ろに連れている。
円の外から、こちらを見ていた。
近づいては、来なかった。
代わりに——木の棒を、頭の上へ、まっすぐ掲げた。
剣を掲げる、騎士の礼みたいに。
「——修練、怠るなよ!!」
ジェスが、吹き出した。
「それ、俺の台詞だっつーの!」
子供たちが、笑った。
久しぶりに、俺のいる場所で、笑い声が止まらなかった。
俺も、拳を突き上げて返した。
馬車が、動き出す。
門柱の陰に、あの赤ん坊を抱いた母親がいた。
円の外から、深く、頭を下げている。
腕の中の赤ん坊は——今日は、泣いていなかった。
眠っていた。
俺は、小さく頭を下げ返した。
町が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
『月と猫』の看板が、屋根の間に一度だけ見えて、消えた。
懐の包みの中で、シスターの焼き菓子が、布越しにも硬かった。
硬くて、素朴で、砂糖の少ない菓子。
あの人が、育った家の味だ。
これだけは、ナナに預けなかった。
「……行ってきます」
誰にともなく、言った。
街道は、東へ延びていた。
『進路、確認』
ナナの声がした。
『目標——ミルウーダ王国』
馬車の車輪が、新しい道を鳴らした。
(第十六話・了)




