Re:sou 間話・二「姫」
差し出された椀の水を飲んだところから、男の帰り道は始まった。
戦から帰る道は、行きの半分の長さしかないはずだった。男には、その半分が、ひどく長かった。馬上の男は、もう号令をかけなかった。かける相手がほとんど残っていなかったからでもあるし、かけるための何かが、あの夜にすっかり折れてしまったからでもある。生き残ったわずかな部下は、隊列というより葬列のように黙って歩き、その列の真ん中に、一人の捕虜がいた。
魔族の女だった。補給の陣で捕らえた、名のある家の姫だという。縛めは形ばかりの縄が一本きりで、逃げようと思えばいつでも逃げられたはずのその女は、しかし逃げなかった。それどころか、夜営のたびに、うつろな目で火を見ている男の横へ来て、湯を沸かし、傷に布を当て、黙って椀を差し出した。男だけではない。部下の傷まで診た。毒か、呪いか、寝首か——最初は誰もが刃の届く距離を保っていたが、膿んだ腕を三本救われる頃には、兵たちは黙って椀を受け取るようになっていた。姫は傷病の兵を扱い慣れていた。戦うより、繕う方を長くやってきた手だった。
なぜだ、と男は一度だけ聞いた。女は少し考えて、捕虜には捕虜の仕事がある、とだけ答えた。高潔という言葉を、男はその時、生まれて初めて実物で見た気がした。
ある晩の焚き火で、男は聞いた。
「魔族は、なぜ戦う」
女は火を見たまま、長いこと黙っていた。知らない、とは言わなかった。知らぬからこそ、実感だけを絞り出すように、こう言った。
「……生きるため。——もしくは、死なないため」
「…………人類側も、一緒だな」
それきり、二人とも黙った。薪が爆ぜ、火の粉が上がって、闇に消えた。やがて、どちらからともなく、同じ問いが零れた。なぜ、互いが生きられる道を探さないのだろうな——答えられる者は、その焚き火のそばには、いなかった。
*
帝都に着くと、男は、生まれて初めて家の名の重さを道具に使った。捕虜の姫を、正規の手続きの脇をすり抜けさせて、己の側仕えとして認めさせたのである。折れて帰った次期の棟梁が女の一人を囲う気になったのなら、むしろ結構なこと——表向きは誰も何も言わなかった。ただし廊下の陰では違う声がした。女は勝手だが、よりにもよって魔族とは。男はその声を咎めなかった。正しかったからである。少なくとも、この国の理屈の中では。
姫は、屋敷では深いフードを被って暮らした。フードの下にあるものを、屋敷の者は見ないことにし、姫は見せないことにした。それでも姫は俯かなかった。背筋は槍のように立ち、所作は玉座の間のそれで、下女の仕事を分け合っては、誰より綺麗に廊下を磨いた。数月もすると、陰口は声量を少し下げた。
名を呼ぶ段になって、困ったのは姫の方だった。男の名は、長かった。家名も、名も、儀礼の飾りも——人間の名はどうしてこうも長いのか。姫は三度舌をもつれさせ、四度目に諦めて、頭の音だけを残した。
「——◯◯」
男は、瞬きをした。それから、二十数年の生涯で初めて聞くその音を、二度、口の中で転がした。悪くなかった。以後、姫は男をそう呼び、男は、姫の前でだけ、その名の男になった。
*
姫の一族は、姿を変える術に長けているという。姫は屋敷の奥で独り修練を重ね、やがてある朝、耳も、尾も、フードの下に畳んでいたすべてを、霧が晴れるように消してみせた。ついでに、と姫は男の顔にも軽く指を触れ、帝都で知られすぎた輪郭を、少しだけ別人に変えた。鏡の中には、似ているが知らない男がいた。男はその顔に少しだけ笑い、自分が笑ったことに、笑ってから気づいた。
二人は、街へ出た。
市の雑踏、揚げ菓子の匂い、値切る声、遠くの祭り笛。男は、自分がそれらを美しいと感じていることに歩きながら気づいて、狼狽した。あの夜——圧だけで部隊が消えたあの夜から、男の中では何も動いていないはずだった。飯は砂の味がして、剣はただの鉄の棒で、朝は義務だった。どんな気力も、もう二度と湧かない。男はそう静かに確信していて、その確信だけを杖に立っていたようなところがあった。その男が、隣を歩く女の横顔を盗み見て、この時間が終わらなければいい、などと考えている。
狼狽は、数週間続いた。そして、ある朝、稽古場で終わった。
夜明けの斧槍の素振りを、姫が黙って見ていた。一本、と姫が言い、木の得物を取った。姫は強かった。踏み込みは速く、息は乱れず、剣筋は人を守るためのそれだった。だが、男は、それより振った。乾いた音が数合響いて、土に膝をついた姫は、悔しがるでもなく、汗の顔で笑ったのである。やはり強いな、お前は——実直な女は、自分を負かした男に、まっすぐだった。
その笑顔を見て、男は観念した。数週間の狼狽の、名前を認めた。
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街の外れに、小さな宿があった。老夫婦が二人で回している、食堂のついた古い宿である。窓から煮込みの匂いと、皿の音と、老人の笑い声が漏れていた。その軒先で足を止めて、姫は言った。
「……こういう、静かな場所で暮らすのもいい」
戦の理由も知らされずに戦わされてきた女の、それが、初めて口にした望みだった。男は返事の代わりに、ここの飯を食っていくか、と言った。姫は、頷いた。宿の婆は、フードの女を一度見て、男を一度見て、何も聞かずに匙を二本つけた。帰り際、婆は男に言った。あんた、宿屋に向いてるよ。俺がか、と男は鼻で笑った。飯を食う人間の顔を、ずっと見てた——男は、返事をしなかった。その時は、ただの冗談だと思っていた。
兄の話を、姫は一度だけした。ひどく過保護な兄で、危ないからと前線に出してもらえず、気づけば傷病兵の世話ばかり上手くなった、と。語る姫は苦笑していたが、その苦笑の底が存外に温かいことを、男は聞き分けた。重たいが、憎めない兄なのだろう。世界のどこの妹も、同じ顔でそういう話をする。
二年が、過ぎた。
求婚は、稽古場でした。武人の求婚である。片膝も花もなく、木の得物を下ろして、一緒になってくれ、とだけ言った。姫は、驚かなかった。ただ、身分がある、と言った。種族がある、と男が続けた。二人とも、それが越えられる壁だとは言わなかった。言わないまま、姫は、はい、と答えた。
越えられぬと知りながら選ぶことと、諦めることは、違う。二人は前者を選んだ。それだけのことだった。
その夜、男は天井を見ながら、時々自分に呆れた。折れた男が、添い遂げることを考えている。もう二度と何も湧かぬはずだった胸から、湧いたものの名が、よりにもよってこれだとは。誰に折られ、誰に繕われたのか——それだけは、もう、疑いようがなかった。
*
幸福には、足音がない。だから、それに気づくのは、いつも幸福の外側にいる者である。
姫の生存は、やがて、北へ届いた。人間の都で、人間の男の側に立ち、フードの下で笑っているらしい——と。
遠い玉座の兄は、報せを最後まで聞かなかった。
席を、立った。
玉座が、静かに軋んだ。
(間話・二「姫」・了)




