Re:sou 第十四話「近づくな」
——イタイ。
頭の中に、それが降り続いていた。
雨みたいに。
丘の上のあれが、身じろぎするたびに。
——イタイ。イタイ。イタイ。
『カイさま』
ナナの声が、雨の隙間に割り込んだ。
『先ほどの報告を、完了します。干渉の発信源は——前方の個体です』
分かってた。
聞く前から、分かってた。
『受信しているのは、この戦場で、カイさまだけです。遮断を推奨します』
『……いや』
俺は、丘の上を見た。
『聞かせてくれ』
『推奨できません』
『頼む』
ナナは、三秒、黙った。
『——干渉が閾値を超えた場合、強制的に遮断します』
それが、彼女の精一杯の譲歩だった。
肩を、掴まれた。
ジェスだった。
「おい。顔が真っ白だぞ」
「……大丈夫です」
嘘だった。
でも、下がったら、誰がこれを聞くんだ。
*
あれが、また一歩、踏み出した。
背の鱗が、ばりばりと音を立てて剥がれた。
剥がれた端から、新しい鱗が噴き出す。
腹は蝋のように垂れて、地面を焼いている。
そして、動くたび。
体表の燐光が、粉になって、舞い上がった。
粉は、風に乗った。
ゆっくりと、丘を下って。
俺たちの上にまで、降ってきた。
雪みたいだった。
鎧の肩に積もる。
剣の背に積もる。
誰かが手のひらで受けて、首を傾げた。
「……毒か!?」
膝をついたまま、誰かが叫んだ。
「違う——!」
叫び返した声に、聞き覚えがあった。
モーリーさんだった。
戦場の裏側にいたはずの男が、隠れずに走ってくる。
初めて見る、あの人の全力疾走だった。
「触るな! 息を止めろ! 火を消せ! 火だけは、絶対に——」
遅かった。
丘の中腹。
崩れた隊列の端で。
若い術者が一人、逃げ惑う魔物の残党に向かって、手を突き出していた。
条件反射だった。
責められない。
そういう訓練を、受けてきたんだから。
指先に、小さな火が灯った。
蝋燭ほどの、火が。
*
世界が、白くなった。
音は、後から来た。
俺は、地面に叩きつけられていた。
耳の奥で、甲高い音が鳴っている。
土の味がした。
——粉塵、爆発。
その単語を思い出すまでに、たっぷり数秒かかった。
理科室で、聞いた。
細かい粉が空気に舞って、そこに火が入ると。
小麦粉の工場が、吹き飛ぶことがあると。
「立て! 立てぇ!」
襟を掴んで、引き起こされた。
ジェスだった。
額から、血が流れていた。
視界が、戻ってくる。
戻ってきて——後悔した。
*
丘の一角が、抉れていた。
人が、いなくなっていた。
百、という単位で。
燃え尽きた、というより。
なかったことに、なっていた。
さっきまで、そこに隊列があった。
旗があった。
斧と麦の穂の旗が。
今は、折れた竿だけが、土に刺さっている。
焦げた地面に、金貨が散らばっていた。
前金だ。
拾う手が、なかった。
——馬鹿かお前。
昨日、鼻で笑った男の声を、思い出した。
あの人が、どの旗の下にいたのか。
俺は、知らない。
知らないままに、なった。
*
モーリーは、焼けた斜面に立っていた。
隠れる場所が、なかった。
普段から沢山仕込んでいる落とし穴のスクロールは先ほどの爆発で
すべて灰になった。
仕込んだ毒も、熱で飛んだ。
撒いておいた人形たちは、そこら中で、黒い塊になっていた。
麻痺の剣もあの巨体には通用しそうにない。
二十年、磨いてきた。
正面から戦わないための技術を。
死なないための、死なせないための、卑怯の全部を。
一晩で、焼けた。
残ったのは、体ひとつ。
モーリーは、空を見上げた。
灰が、降っていた。
「……勘弁してくれよ」
誰にともなく、言った。
それから、視線を丘に戻した。
足は、なぜか、下りはじめていた。
*
「第三陣、充填完了!」
「通せ! 奴の周りの粉ごと——!」
後方で、怒号が飛び交っていた。
魔法陣の中心で、青銀色の髪が、まっすぐに立っていた。
クラインだ。
集めて、束ねて、向ける側。
その手が、丘の上を指した。
雷が、走った。
雷は、あれに届く前に——届いた。
あれを包む粉の雲が、雷の先で受け取って、白く爆ぜた。
丘の上が、丸ごと、光になった。
轟音。
衝撃で、前列がまた薙ぎ倒される。
誰かが、拳を突き上げかけた。
煙が、割れた。
あれは、立っていた。
抉れた脇腹から、湯気を上げて、肉が盛り上がっていく。
みるみる、鱗が張っていく。
そして、俺の頭の中で。
——イタイイタイイタイイタイイタイ。
雨が、豪雨になった。
俺は、こめかみを押さえた。
効いてない、んじゃない。
効いてる。
効いて、治って、その全部が、痛いんだ。
*
「——どけぇ!!」
前線の中央が、割れた。
ヤンさんだった。
ハルバードが、唸りを上げてあれの前脚に食い込んだ。
深い。
入っている。
黒い血が噴き、巨体が傾いだ。
——イダイィィ。
俺の頭の中で、悲鳴が跳ねた。
ヤンさんは止まらない。
二撃。三撃。
同じ場所を、正確に、深く。
そのたびに。
——イタイ。イタイ。イタイ。
そして、そのたびに。
傷は、塞がっていった。
斬るそばから、肉が湧く。
四撃目は、もう新しい鱗の上を滑った。
ヤンさんが、跳び退がった。
あの人が、初めて、下がった。
肩が、大きく上下していた。
*
圧は、消えていなかった。
ただ、人間は慣れる。
恐ろしいことに。
みんな、立ち上がりはじめていた。
剣を拾い、列を直し、それでも誰の足も、前には出ない。
出られるわけがない。
極大魔法が効かない。
最強の武が効かない。
なら、何を持って、前に出るんだ。
俺だけが。
俺の頭の中だけに、降り続けていた。
——イタイ。
——アツイ。
——コロシテ。
効かないんじゃ、ない。
終わらないんだ。
あれの中では、何も。
『カイさま』
ナナの声が、遠かった。
——コロシテ。コロシテ。コロシテ。
あれには、言葉があった。
言葉が、あるなら。
足が、出ていた。
「カイ?」
クーリの声。
「おい——カイ!!」
ジェスの声。
雨の、向こうだった。
『カイさま。停止してください』
一歩。
二歩。
あれが、近くなる。
熱が、頬に触れる。
燐光の粉が、視界いっぱいに、雪みたいに舞っている。
綺麗だった。
「戻れ小僧ォォ!!」
ヤンさんの声すら、遠かった。
——ヲワラセテ。
聞こえてるよ。
俺には、聞こえてるんだ。
だから——
「近づくなァァァ!!」
その声だけが、なぜか、近かった。
*
あれが、身をよじった。
後で思えば、攻撃ですら、なかったのかもしれない。
痛みに、身をよじっただけ。
ただ、それだけの動きで。
尻尾が、来た。
横倒しの塔が、地面を薙いで来るみたいだった。
『近づきすぎです!!』
白い影が、俺の前に割り込んだ。
ナナが、両腕を広げていた。
世界が、ゆっくりになった。
粉が、止まって見える。
尻尾の鱗の、一枚一枚が、見える。
ナナの背中が、見える。
こんなに、細かったか。
——死ぬ。
初めて、その言葉が、俺のものになった。
置かれたんじゃない。
俺の内側から、来た。
冷たくて、重くて、動けなくて——
横から、衝撃が来た。
*
土の上を、ナナごと、転がった。
風が、頭のすぐ上を、抜けた。
風じゃない。
尻尾の先端が、俺のこめかみを掠め、ナナの左半身を薙いで、通り過ぎたと分かった。
そして。
どっ、と。
少し離れた場所で、何かが土に落ちる音がした。
俺は、顔を上げた。
こめかみから、生温かいものが、目に入った。
赤い視界の先に。
モーリーさんが、転がっていた。
*
「モーリー、さん……」
這った。
立てなかったから、這った。
頭の中が、揺れていた。
地面が、波打って見える。
吐き気が、喉まで来ていた。
——痛い。
俺の、痛みだった。
生まれて初めてってくらい、俺のだった。
「モーリーさん!」
あの人は、仰向けだった。
右足が。
膝から下が、なかった。
ヒュー。
ヒュー。
笛みたいな音が、胸から鳴っていた。
「……ぼう、ず」
薄く目が開いた。
「……ちか、づくなと……」
ヒュー。
「……言った、ろ……」
*
「クーリ!!」
自分の声じゃ、ないみたいだった。
割れて、裏返って、子供の声だった。
「クーリっ……!!」
彼女は、もう走ってきていた。
モーリーさんの横に滑り込んで、両手を、かざした。
淡い緑の光が、灯った。
光は、失われた足の付け根に、沈んでいく。
沈んで——消えた。
血は、止まらない。
「なんで……」
もう一度。
光が、灯る。沈む。消える。
「なんでよ……!」
三度目の光は、灯りきる前に、霧みたいに散った。
指先から、白いものが、ほどけて消えていく。
魔力が、霧散していた。
「私じゃぁ……」
クーリの声が、濡れていた。
「私じゃ、届かない……っ」
『クーリさま』
声がした。
ナナだった。
俺は、そっちを見て——息が、止まった。
ナナの左腕が、肩から、なかった。
胸の装甲が裂けて、その奥で、淡い光が明滅していた。
コアだ。
「ナナ!?、大丈夫なのかそれ!」
「マスターお忘れですか?これは外骨格です、コアさえ無事なら私は問題ありません。」
そ、そうか
ナナの見た目は俺の好みだが、外骨格だった。
人間の姿に慣れすぎて忘れかけていた。
でも肝心のコアも無事には見えなかった。
墨色の亀裂が走った、あのコアが、外気に触れていた。
『残りのマナは、預かってください』
ナナは、まっすぐに立っていた。
『……まだ、要ります』
クーリの手が、止まった。
握りしめられて、膝の上に落ちた。
「あんたそれ........ごめん……」
彼女は、そのまま、へたり込んだ。
「ごめんなさい……」
*
地面が、揺れた。
あれが、来ていた。
一歩ごとに、粉を撒きながら。
一歩ごとに、俺の頭に、雨を降らせながら。
——イタイ。
——ハヤクヲワラセテ。
動けなかった。
もう、足が出なかった。
さっきまで出た足が、嘘みたいに。
影が、二つ、突っ込んできた。
「摑まれ!」
ジェスが、俺の腕を肩に回した。
ヤンさんは、何も言わなかった。
モーリーさんを、荷袋みたいに担ぎ上げて、一言だけ。
「舌を噛むな」
ヒュー、と背中で音がした。
鳴っている。
まだ、鳴っている。
クーリが、ナナの残った右腕に、肩を入れた。
『歩行系は、生きています』
「いいから!」
俺たちは、丘を下った。
背中で、地面が、揺れ続けていた。
*
後方の防衛線は、割れた鍋の中みたいだった。
「担架ぁ! 回復系は下げろ! 歩けん奴から通せ!」
嗄れた声で怒鳴っている、冴えない中年の男がいた。
泥だらけで、腹が出ていて、それでも声だけは、通っていた。
「ギルド長! 東の列が——」
「見えとるわ!」
……ギルド長。
掲示板の依頼を、全部剥がした人だ。
名前は確か、ネンジさん。
元Aランク、という話は、この時はまだ知らなかった。
*
その怒号の海を、一つの声が、渡った。
女の声だった。
静かな声だった。
なのに、丘の端まで、届いた。
「動ける陣は、いくつ」
「に……二十一です!」
「結構。全て、こちらに繋ぎなさい、私が入ります」
俺は、ジェスの肩越しに、振り返った。
後方の高台に、その人は立っていた。
白金の髪。
長い耳。
この戦場で、一人だけ、灰を浴びていないみたいな立ち姿だった。
近くの術者が、掠れた声で言った。
「魔法ギルドの、頭目……」
「クルス様だ……」
「火と、雷は、捨てなさい」
女は、丘の上のあれから、目を離さずに言った。
「氷で、組みなさい。仕留めなくて、よろしい。——離すのです」
*
二十一の陣が、一斉に光った。
光は、糸になった。
戦場中から、青白い糸が、一点に流れ込んでいく。
その一点に、青銀色の髪が立っていた。
クラインさんが、両腕を広げた。
糸の全部は中央のクルスさんにまとまり、束ねて——
上へ、向けた。
「——凍れ」
空が、軋んだ。
あれの頭上で、冬が生まれた。
山みたいな氷塊が、いくつも、いくつも、生まれ落ちて。
あれの背に、肩に、燃える鬣に、突き立った。
蒸気が、悲鳴みたいに噴き上がる。
巨体が——初めて、後ろへ滑った。
爪が地面を裂き、四つの足が土を噛み、さらにその地面すら凍って。
燃える稜線の、向こう側へ。
あれは、押し戻されていった。
*
そして。
声が——止んだ。
一呼吸だけ。
たしかに、止んだ。
俺は、ジェスの肩の上で、目を見開いていた。
冷たさが触れた、その一瞬。
あれが、静かになった。
……イタイ。
また、降りはじめた。
遠く、細く。
でも、俺は聞いた。
確かに、聞いたんだ。
*
丘が、静かになっていた。
魔物の波は、散っていた。
稜線の向こうで、蒸気の柱が、まだ上がっている。
ヤンさんの背中で、モーリーさんの息が、鳴っていた。
ヒュー。
ヒュー。
笛みたいな音だった。
鳴っている間は、生きている。
クーリは、ナナに肩を入れたまま、何度も、何度も、その音を振り返っていた。
こめかみの血が、冷えて、固まりはじめていた。
触ると、まだ、頭の中が揺れる。
痛い。
俺の、痛みだ。
そして、遠く、細く。
——ヲワラセテ。
声は、まだ、降っていた。
(第十四話・了)




