Re:sou 第十三話「大災」
痛い。
それが、山の主が生まれて初めて覚えた感覚だった。
長い眠りだった。
何百年か。
あるいは、もっと。
地の底に根を張り、魔素を吸い、ゆっくりと、ゆっくりと、何かへ変わっていく途中だった。
急ぐ理由はなかった。
あと5年もすれば、鱗は完成しただろう。
あと10年もすれば、翼は空を掴んだだろう。
あと100年もすれば、名を持つ災いになったかもしれない。
眠りの中で、それは静かに熟れていくはずだった。
だが。
小突かれた。
たったそれだけで、体の内側の何かが、堰を切った。
数百年分の時間が、数日に押し込められる。
骨が伸びた。
鱗が噴き出した。
翼が背を裂いて広がった。
まだ形になっていない臓腑が熱を吐き、まだ固まりきっていない肉が、成長に追いつけずに裂けた。
——溶けた。
腹の側が、蝋のように垂れた。
肉が液になって地面に落ち、石を焼いた。
同時に、傷は塞がった。
溶けたそばから、新しい鱗が生える。
生えては、また溶ける。
溶けては、また生える。
痛い。
それは死ななかった。
死ねなかった。
壊れるより速く、再生する。
痛い。
洞窟の天井が、熱で崩れた。
地下の水脈が沸き、蒸気が岩の裂け目から噴き出す。
関節の隙間から、抑えきれない光が漏れた。
呼吸のたび、体表の燐光が粉になって舞い、空気に混ざる。
その粉が、自らの吐息の熱に触れて——爆ぜた。
山の中腹が、白く弾け飛んだ。
痛い。
痛い。
痛い。
それは、自分の熱で自分を焼きながら、地上へ向かって這い出した。
出口を求めたわけではない。
逃げ場を探したわけでもない。
ただ、この痛みが、どこかで終わることを願って。
山が、燃えていた。
*
異変に町が気づいたのは、翌朝だった。
北の空が、赤かった。
夜明けの赤じゃない。
太陽とは反対の方角が、赤く濁っていた。
空の下端に、汚れた綿みたいな煙が横たわり、風に乗って、灰が降ってくる。
町の広場に、人が出てきた。
誰も、大きな声を出さなかった。
ただ、みんなで北を見ていた。
「山焼けか?」
誰かが言った。
「山焼けは、あんな色を含まん」
ヤンさんが言った。
*
一日目。
ギルドは、緊急招集の鐘を鳴らした。
先発の斥候隊が、北の丘へ出た。
夕方に戻ってきたのは、三人のうち、二人だった。
二人とも、口をきける状態ではなかった。
全身に、火傷を負っていた。
その夜。
ギルドマスターが、掲示板の依頼を全部剥がした。
代わりに、一枚だけ貼った。
【北丘 最大規模スタンピード警戒 全ランク動員】
【近隣ギルドへ応援要請済】
最大規模。
その文字を、掲示板で見るのは初めてだった。
実感は、湧かなかった。
*
二日目。
街道に、人が増えはじめた。
前回のスタンピードの時点で応援を要請していた国内、または周辺国のギルドから、冒険者が続々と入ってくる。
見たことのない紋章の外套。傭兵団か。
初めて見る、冒険者の一団。
武器と革鎧の擦れる音が、大通りに増えていく。
宿は埋まり、ギルドや広場、役所の周りには、テントが立ち始めた。
うちの宿も、あっという間に満室になった。
二階の廊下に藁を敷いて、そこにまで人が寝た。
ヤンさんは黙って鍋を大きくし、在庫が切れるまで料理を作った。
食堂は、朝から晩まで満員だった。
だが、陽気な賑やかさではなかった。
みんな、静かに食っていた。
武具を横に置いて、黙々と、覚悟を飲み込むみたいに食っていた。
「五年前とは、かなり違うな」
常連の白髭の爺さんが、呟いた。
「五年前は、中規模だった。こんなには集まらなかった」
爺さんは、麦酒を舐めた。
飲んでは、いなかった。
「……こんだけ人が集まるってのはな、坊主。それだけ、悪いってことだ」
*
物の値段が、上がりはじめた。
まず、傷薬。
次に、干し肉と、保存食。
三日目には、鉄が上がった。
剣も。
矢尻も。
鍋まで。
市場で買い物をしていたクーリが、店主と揉めていた。
「昨日の三倍じゃない! なんでよ!」
「入ってこねぇんだよ、姉ちゃん。北の街道が封鎖されてる。……悪いね」
店主は、諦めた顔をしていた。
その手元では、傷薬の瓶が、みるみる棚から消えていった。
俺たちも、孤児院の分も含めて多めに仕入れた。
*
その孤児院で、シスター・ルシアは、まだ寝込んでいた。
熱は下がった。
だが、立って歩くには、あと数日はかかる。
本人は「子供が世話をするな」と言い張って、二度も寝台から落ちた。
院の子供らは遊ばなくなり、代わる代わる看病を手伝っていた。
三日目の昼。
「毎日飽きないね。ウチにかまけている場合かい?」
俺が芋を剥いていると、老婆が寝台から言った。
声には、いつもの棘があった。
「暇なんです」
「嘘をおつき。あの鐘を、聞いてないとは言わせないよ」
俺は、芋を剥き続けた。
「方々から大勢の人が来てるんだろう。街に冒険者らが溢れてるとトゥイが言ってたよ。……あんたらも、また駆り出されるんだろう」
「はい」
それきり、老婆は天井を見ていた。
しばらくして、眠るようにこう言った。
「ババァの前に……子が死ぬんじゃないよ」
その子に、誰が入っているのか。
俺は、聞かなかった。
*
四日目の朝。
トゥイが、庭で木の棒を振っていた。
前より、様になっていた。
「トゥイ」
「……行くの?」
振り向かずに、彼は聞いた。
「うん」
「僕も——」
「駄目だ」
答えたのは、俺じゃなかった。
柵の外に、ジェスが立っていた。
「……お前は、ここにいろ」
ジェスは、静かに言った。
「走れる足がある。子供たちを、遠くまで連れて逃げられる。それが、今のお前の役目だ」
トゥイは、二度は言わなかった。
俯いて、頷いた。
棒を握る手が、白くなっていた。
「……強くなきゃ、守れないんだよね」
「ああ」
「じゃあ、なんで、強くなる前に、みんな戦いに行くの」
ジェスは、答えなかった。
しばらくして、彼はトゥイの頭を乱暴に撫でた。
「ちゃんと帰ってくる。……修練を怠るな。来るべきに備えろ」
*
その日の夕方、ギルドの前は、人で埋まっていた。
広場に入りきらなかった。
大通りにまで、隊列が溢れていた。
三千か。
四千か。
数える気にもならなかった。
見たことのない旗が、いくつも立っている。
隣国のギルドや傭兵団の紋章だ。
斧と麦の穂。
三日月と鎖。
北の海の、青い魚。
名前も知らない国から、名前も知らない冒険者たちが、どんどん流れ込んでくる。
人間以外も沢山いた。
エルフ、獣人、巨人めいたくらい大きい冒険者もいた。
「みんな、ハジのために来たんですか」
俺が言うと、隣の傭兵らしき男が鼻で笑った。
「馬鹿かお前。ここが焼けりゃ、街道が死ぬ。俺の国の塩も、鉄も、通らなくなるんだよ」
商会連合の使いが、傭兵たちに前金を配って歩いていた。
金貨の入った袋が、次から次へと手渡されていく。
——じゃあ、この人たちは。
俺は、旗の海を見渡した。
町を守りに来ただけじゃない、商路を守りに来たのだ。
「王都からの兵は?」
誰かが聞いた。
ギルド職員が、言葉を濁した。
「……最初の中規模の時点で、申請は出しています。もちろん周辺国の騎士団にまで」
つまり、来ない。
少なくとも、間に合わない。
北の空は、もう、はっきりと赤かった。
作戦は、簡単だった。
丘の稜線に防衛線を張り、湧いてくるものを押し戻す。
極大魔法で焼き払い、応援が来るまで持たせる。
最大級のスタンピートだ、これだけの規模が集まってもどうなるかわからない。
ともかく街には一匹たりとも入れさせない。
「魔物の数は、五年前の数十倍を想定しています」
ギルド職員の声が、震えていた。
「そして——斥候の報告によれば、その中に、一体」
言葉が、そこで止まった。
「……巨大なマナを持つ巨大な個体が、確認されています」
ざわめきが、広場を走った。
「種類は」
「なんの魔物だ!」
「……不明です」
「ふざけんな!」
怒号が飛ぶ。
職員は、青い顔で首を振った。
「先遣隊はほぼ壊滅。帰還した者も、重度の火傷でまともに話せません。山は燃えています。原因も、個体の正体も、本当に、わからないんです」
沈黙が落ちた。
職員は、乾いた唇を動かした。
「生き残りは最後に、こう言いました」
一拍。
「——山が、溶けていた、と」
*
その晩。
俺は、ヤンさんの部屋の前を通りかかった。
扉が、細く開いていた。
中で、ヤンさんが、ハルバードの刃に砥石を当てていた。
規則正しい音がしていた。
しゃり。
しゃり。
その傍らの壁に、俺の借りている剣の、鞘だけが立てかけてあった。
手入れをしてくれていたらしい。
「入るか」
背中を向けたまま、言われた。
俺は、部屋に入った。
ヤンさんの部屋に入るのは、初めてだった。
何もない部屋だった。
寝台と、小さな机。
それだけだった。
置かなかったのか、これから置くのか。
分からなかった。
「怖いか」
「……はい」
正直に言った。
「賢いな」
しゃり、と音がした。
「怖くない奴から、死ぬ」
俺は、聞いてみた。
ずっと、聞きたかったことを。
「ヤンさんは、なんで戦うんですか」
砥石が止まった。
長い間があった。
「……この町が無くなれば、宿屋ができん」
それだけだった。
俺は、その言葉の下に、もっと大きな何かが沈んでいるのを感じた。
宿屋。
二人の店。
あの森の、石の女。
だが、俺は何も聞かなかった。
ヤンさんは、また砥石を動かしはじめた。
「寝ろ。明日からは、長い」
*
翌朝。
夜明け前の丘に、俺たちは並んでいた。
冷たかった。
手が、震えていた。
剣の柄を、何度も握り直した。
右隣にジェス。
左隣にクーリ。
ヤンさんは、少し離れた最前列にいる。
ナナは、俺の後ろに立っていた。
そして、前衛から遠く離れた後方。
町の壁を背に、いくつもの魔法陣が光っていた。
一つの陣に、術者が七、八人。
それぞれが式の一部を受け持ち、集めたマナを、陣の中心に立つ一人へ流し込む。
その中心の一つに、青銀色の髪が見えた。
クラインだ。
昨日、あの人は何でもないことのように言っていた。
「僕は皆から集めて、束ねて、向ける側だ」と。
ハーフエルフの魔術適性が高い、という話は聞いていた。
けれど、あれだけ濃密な他人のマナを収束させ、ひとつの術として撃ち出すことがどれだけのことなのか。
俺は、まだ分かっていなかった。
『カイさま。脈拍、平常時の一・八倍です』
『分かってる』
『恐怖は、正常な機能です』
そして。
地面が、揺れた。
*
来た。
夜明けの光の中、丘の斜面が黒く沸き立った。
数が、おかしい。
この前の数倍——なんてものじゃない。
地平が、動いている。
魔物の絨毯が、雪崩れ落ちてくる。
「第一陣——放て!」
大きな女性の声が聞こえた後、丘の巨大な魔法陣が、いくつかが白く光った。
クラインのいる陣から放たれた雷が、束になって斜面を薙いだ。
轟音。
焦げた匂い。
何百という魔物が、一瞬で炭になる。
隣の陣が続いた。今度は大きな炎の竜巻。その隣は、氷の雨。
続々と巨大な魔方陣から様々な魔法が放たれた。
「第一陣、再構築! 四半刻かかる!」
「前衛!」
一度撃てば、次までが長い。
陣を組み直し、術者の息を整え、マナを溜め直す。
その間、極大魔法は、ただの光る地面だ。
——空白は、一呼吸で埋まった。
尽きない魔物たちが迫ってくる。
「抜かせるな! 線を保て!」
戦いが、始まった。
叫び声。金属の音。
魔獣の咆哮。
俺は、必死だった。
なるべく前線にでて、奥の方に竜巻を起こして、敵の一部が密集しないようにする。
土を隆起させて、群れを分断する。制御を誤れば、味方の邪魔になるからかなり奥の方を狙って魔法を打ちまくった。
ナナの声が、頭の中で絶え間なく続いていた。
『左、二時方向。味方が孤立しかけています。押し戻すように。……出力三割で』
『了解!』
『続けて、正面三百メートル方向。土壁、低く。高すぎると視界を遮ります』
『分かった!』
ジェスの剣が、かなり前方で敵を受け止めている。
クーリの双剣が、その隙間を潰す。
ヤンさんはさらに前線の中心で、魔物が吹っ飛んでいく円を描き続けている。
一度、視界の隅を影が横切った。
死角から迫っていた魔物が、音もなく倒れた。
魔物の一群が、走っている途中で、まとめて地面に消える。
落とし穴。
だが、ただの罠じゃない。
あれだけ早く、広く、正確に地面を変化させるなら、地面系統の魔法だろう。
今なら分かる。
俺の荒い制御とは違う。
あれは研ぎ澄まされた技術だ。
詠唱しているのか、短縮しているのか、待機させているのか。
今の俺には分からない。
分からないほど、練度が高い。
その先で、別の一群が、転がっていた小型人形に食らいついて、動かなくなった。
姿は、見えなかった。
見えなくても、分かった。
——戦場の裏側を、助けて歩いている。
この混戦の中を。
なぜか、それで、少しだけ息がしやすくなった。
保っていた。
かろうじて。
一時間。二時間。
体感では、もっと長かった気がした。
少しだけ、魔物の波が弱まった。
そして——山が、震えた。
*
咆哮、ではなかった。
もっと高く、長く、引き裂かれるような音だった。
悲鳴に近かった。
そして。
空気が震えた。
隣で、ジェスが剣の切っ先を地面に突き立て、ふらついた。
「……っ、なん、だ、これ」
クーリが、近くで双剣の柄を握り直している。
指が震えていた。
押さえようとして、押さえきれていない。
後列で、若い傭兵が何人か膝から崩れた。
武器を取り落とす音。
吐く音。
腰を抜かして、後ろへ這いずる者もいた。
最前線は、耐えていた。
各地から来た精鋭たちだ。
歯を食いしばり、足を踏ん張り、それでも肩が細かく揺れている。
ヤンさんは、さすがに微動だにしなかった。
ただ、ハルバードを握る手の甲に、血管が浮いていた。
「……また、奴ですか?」
俺には感じない類のマナ圧。
心当たりは、あのボロの旅人しかなかった。
俺の声に、ジェスが顔を上げた。
血の気の引いた顔だった。
その目が、俺を見ている。
「いや……あいつほどじゃねぇ。カイ、お前……前もそうだったが、何も感じないのか?」
「すいません。俺には……」
ジェスは、苦笑した。
「化け物じみてんな、お前も」
『カイさま』
ナナの声が、硬かった。
『あれとは異なります。しかし、常人には耐えがたい高密度マナ圧が発生しています』
丘の上。
燃える稜線の向こうから。
それが、姿を現した。
*
——大きい。
山かと思った。
かろうじて四つ足だと分かる。
背には、翼のようなものがあった。
全身は鱗に覆われている。
乾いた鉱物のようで、光の加減によって虹色に見えた。
顔は、肉食獣を思わせた。
首から背にかけて、鬣のようなものが燃える光を帯びて揺れている。
ゲームで例えるなら、キマイラか、竜か。
でも、そんな単語に収まる形じゃない。
それは動くたび、溶けていた。
腹の側の皮膚が、蝋みたいに流れ落ちて、地面を焼く。
焼きながら——同時に、新しい鱗が、そこに生える。
生えては、溶ける。
溶けては、生える。
見ているこっちまで、痛くなる。
歩くだけで、自分の重さに耐えきれず、体の一部が崩れる。
呼吸するだけで、自分の熱に灼かれる。
その巨体が、一歩踏み出すたび。
周囲に燐光を帯びた粉が、雪のように舞った。
綺麗だった。
俺は、一歩、下がっていた。
全ての人間が、身を強張らせて、それを見上げていた。
歯を食いしばる者。
剣を杖にする者。
座り込んだまま、動けない者。
魔物の波すら、止まっていた。
むしろ、あれから逃げていたのだと。
そう思えるほどに、魔物たちは怯えていた。
戦場の裏側で動いていたあの影も、片膝をついて息を切らしていた。
モーリーだ。
あの男ですら、動けていない。
俺には、マナ圧は感じない。
けれど、異常な状況だということだけは、周囲を見れば分かった。
その時だった。
俺の頭の奥に、何かが響いた。
——イタィ。
俺は、思わず周りを見た。
誰も、何も言っていない。
ジェスも、クーリも、彼方を睨んで、息をするだけで精一杯だ。
——アツィ。
声じゃなかった。
音でもなかった。
ただ、そういう形をした何かが、頭の内側に直接置かれていく。
——イタイ。
——アツイ。
——おわらせて。
『カイさま』
ナナの声が、いつもと違った。
『脳波に、外部からの干渉を検知しました。発信源は——』
言葉が、途切れた。
丘の上で。
大災が、天に向かって慟哭した。
戦場の全員が、その音を咆哮として聞いた。
俺だけが。
こう聞いた。
——早く、終わらせて。
(第十三話・了)




