Re:sou 第十一話「死神モーリー」
屋根が塞がったくらいで、孤児院の仕事は終わらなかった。
柵が傾いている。
井戸の滑車が軋む。
物置の扉が閉まらない。
雨樋には落ち葉が詰まり、裏手の薪小屋は片側に傾き、庭の水溜まりは雨が止んで二日経っても乾かない。
数え上げれば、きりがない。
そしてそのどれもが、今はまだ笑って済ませられても、冬になれば牙を剥く類のものだった。
だから、俺たちは通うことにした。
ギルドの依頼票は、いつの間にか貼り替えられていた。
【聖アロウ孤児院 雑務 継続】
報酬は相変わらず、銅貨と昼飯だけ。
依頼主の名は、空白のままだったが、終了証書を持っていけば一応ギルドは換金してくれた。
換金すれば依頼主がだれかわかるかと思ったがギルドも匿名だということだった。
通常誰も受けないその一枚を、俺は毎朝、剥がした。
*
一日目は、柵を直した。
二日目は、井戸をさらった。
三日目には、俺の顔を見ても、子供たちが逃げなくなった。
四日目には、名前を呼ばれるようになった。
五日目には、背中に飛びつかれた。
六日目には、俺の方が、誰がどの子の泣き方か、少しだけ分かるようになっていた。
シスター・ルシアは、相変わらず仏頂面だった。
「勝手におし」以外の言葉を、めったにくれない。
ただ、昼飯の皿は、日に日に、ほんの少しずつ、盛りが良くなっていった。
芋が。豆が。
たまに、干し肉の欠片が。
気づかないふりをするのが、俺の昼の日課になった。
*
クーリは、意外だった。
「はいはい、順番! 順番でしょ! 押さない!」
三人の子供に同時に髪を引っ張られながら、器用に全員を捌いている。
泣いた子を膝に乗せ、拗ねた子の言い分を聞き、喧嘩の仲裁をして、気づけば全員笑わせている。
黒いポニーテールを引っ張られても、短パンの裾に泥をつけられても、文句は言うが、本気では怒らない。
俺が薪を割りながら見ていると、視線に気づいたらしい。
「なによ」
「いや……上手いなあと思って。子供の相手」
「べ、別に。普通でしょ、こんなの」
そっぽを向いたが、膝の上の子は、もう寝息を立てていた。
「クーリさ」
「なに」
「妹とか、いたりする?」
「……いないわよ」
短い間があった。
「兄さんしか、いない。ずっと二人だったから」
それきり、彼女は子供の頭を撫でることに戻った。
撫でる手つきが、シスターの湿布の手つきと、少し似ていた。
慣れた者の手だ。
誰かの世話をすることに、慣れすぎた者の。
俺は、それ以上聞かなかった。
*
ナナは、苦戦していた。
「なな、しつもーん! 空って、なんで青いの?」
「回答します。大気による、光の散乱によって——」
「じゃあ、なんで夕方は赤いの!?」
「それも、散乱の——」
「じゃあ、夜はなんで黒いの!? 空、いなくなるの!? どこ行くの!?」
「…………照合中です」
論理が、追いつかないらしい。
子供の質問は、理屈の階段を三段飛ばしで駆け上がる。
答えを組み立てている間に、もう次の問いが降ってくる。
「なな、こまってるー!」
「困ってはいません。演算を——」
「こまってるこまってる!」
「…………」
膝を抱えた子供に囲まれて、白い髪の少女が、珍しく返答に詰まっている。
その様子を、シスターが戸口から見ていた。
ふん、と鼻を鳴らす。
だが、追い出せ、とは言わなかった。
「質問への回答精度が低下しています」
ナナが小さく言った。
「人間の幼体は、論理の接続順が不規則です」
「子供って、だいたいそういうもんじゃない?」
「記録します。子供は、不規則」
「それ、だいぶ雑な記録じゃない?」
俺が言うと、子供たちが笑った。
ナナはその笑い声を、少しだけ不思議そうに聞いていた。
*
四日目頃からジェスが、子供たちに稽古をつけ始めた。
きっかけは、一人の男の子だった。
トゥイという、痩せた十歳くらいの子だ。
この孤児院で一番年上で、一番、目つきが鋭い。
他の子が俺たちに懐いても、この子だけは、遠くから見ているだけだった。
そのトゥイが、ある朝、ジェスの前に立った。
「強くなりたい」
理由は言わなかった。
ジェスも、聞かなかった。
「よし。まず、走れ。あの木まで」
それから、庭の隅が、二人の道場になった。
走って、転んで、また走る。
木の棒を振って、素振りの数を数える。
地味で、単純で、終わりのない稽古だ。
俺も、混ぜてもらった。
剣道の型は、この世界の剣とまだ噛み合わない。
けれど、基礎の走り込みは、どこの世界でも同じらしい。
身体強化無しでトゥイと並んで庭を走ると、この子は、歯を食いしばって、決して先に音を上げなかった。
「なあ、ジェスにいちゃん」
休憩中、トゥイが地面を見たまま聞いた。
「強くなったら。……ここ、守れる?」
ジェスは、少しの間、黙った。
それから、汗を拭って、笑った。
「守れる。——ただし」
木の棒を、トゥイに投げて寄越す。
「守り方は一つじゃないかもしれない、工夫は必要かもな。ただ俺はすぐに思いつかねぇだから、こうやって、鍛えるんだよ」
俺は、その言葉に、聞き覚えがあった。
——護りてぇもんがあるなら、うまくやりな。
あの日、土まみれのジェスに向かって、あの擦れた声が言った台詞。
ジェスは、それを覚えていた。
覚えていて、今、自分の言葉みたいに、子供に渡している。
本人は、たぶん、気づいていない。
ムカつく。
放っておけない。
そう言いながら——ちゃんと、受け取っているのだ。
あの男から。
*
その夜、宿に帰ると、ヤンさんがカウンターでグラスを磨いていた。
客はまばらで、食堂には薪の爆ぜる音だけが残っている。
ナナは部屋に戻って、修復の続きに入っている。
俺は、ずっと聞きたかったことを聞いてみた。
「ヤンさん。モーリーって人、知ってますか」
布を動かす手は、止まらなかった。
ただ、少しだけ、間があった。
「……知ってる。この辺の冒険者なら、大抵はな」
「どんな人ですか」
ヤンさんは、グラスを灯りにかざした。
磨き残しを探すみたいに。
あるいは、昔の記憶を透かして見るみたいに。
「ランクはB。だが、腕はもっと上だ。Aに届く。……届くのに、上がらん」
「なんで、上がらないんですか」
「素行が悪い。噂も悪い。あいつが出た極地戦は、生き残りが少ない——本人以外、な」
グラスが、かちり、と棚に置かれた。
「二度あるらしい。あいつ以外、奴の部隊が全滅した戦が」
言葉の意味を、俺は少し、飲み込みかねた。
全滅の中で、一人だけ生き残る。
二度も。
それは、運が良かった、という話なのだろうか。
それとも。
「この辺の連中は、あいつをこう呼ぶ」
ヤンさんは、布を動かしながら言った。
「——死神モーリー、と」
その呼び名の重さを、俺はまだ、量りかねていた。
「運じゃない」
俺の考えを読んだように、ヤンさんは言った。
「あいつは、死なん。死なないための算段を、誰よりする男だ」
ヤンさんの声は低かった。
責めているようにも、褒めているようにも聞こえなかった。
「逃げ際、囮、退き時。勝ち目の見切り。斬る相手と、斬らん相手の選び方。——勝つためじゃない。生き残るために、頭を使う」
俺は、昼間のモーリーを思い出した。
汚い戦い方。
けれど、どこか教えるような拳。
柵の内側には、決して入らなかった足。
「ただ」
ヤンさんは、新しいグラスを手に取った。
「感情を、前に出しすぎる」
布が、静かに動く。
「あれだけ悪ぶって、あれだけ口汚くして、それで隠せているつもりなら、下手なものだ。もう少し内に秘めて使えれば、もっと上に行けるだろうに」
その言い方に、俺は妙なものを感じた。
他人を評する声じゃ、なかった。
もっと近い。
まるで——昔の、自分の何かを、その男に重ねているような。
「……嫌いなんですか? モーリーのこと」
ヤンさんは、すぐには答えなかった。
グラスを磨き終え、棚に置く。
しばらくして、独り言みたいに、こう言った。
「あの、ひたむきさだけは。——嫌いになれん。あいつも、もっと——」
カラン、と。
戸口の鐘が、鳴った。
件の男が、立っていた。
「……モーリー」
俺の口から、名前が漏れていた。
「へっ。——死神の噂でも、してたかい」
ヤンさんの布が、止まった。
「……何の用だ」
「おいおい。しけてても、ここは酒場だろ。客が来たんだ。相手してもらわねぇと」
「宿屋だ」
「旦那ぁ。こまけぇこたぁ、いいんだよ」
モーリーはカウンターに近づいて、俺から三つ離れた席に、腰を下ろした。
座り際、一瞬だけ、こっちを見た。
ヤンさんは何も言わず、グラスに琥珀色のを注いで、男の前に置いた。
「どうした。珍しい。……噂の新人でも、値踏みに来たか」
「へっ。ハジギルドきっての、期待の新人——ね」
モーリーは、こちらを薄目にグラスを呷った。
「まぁいい。……北西の山だ。数日前から、おかしい。——森か山で、何かあったな?」
ヤンさんの眉が、ぴくりと動いた。
数日前。
心当たりなら、ある。
あの森で会った——あれだ。
俺が口を開きかけると、ヤンさんの手のひらが、静かにそれを制した。
「……分かっている。あれの周期も、近い」
それから、俺を見ずに言った。
「カイ。上がっておけ」
「そうだ、小僧。ここからは大人の時間だ。ガキは寝ろ」
出す言葉が、見つからなかった。
階段の途中で、一度だけ振り返った。
二人は、額を寄せるようにして、低い声で何かを話しはじめていた。
さっきまでの、野次と皮肉の応酬じゃ、なかった。
*
一週間が、過ぎた。
最終日。
帰り際に、シスター・ルシアが俺を呼び止めた。
「あんた」
「はい」
「……名前、なんだったかね」
「カイです」
「カイ、ね」
老婆は、皺だらけの手で、何かを差し出した。
小さな、布の包みだった。
開けると、焼き菓子がいくつか入っている。
硬くて、素朴で、砂糖の少ない菓子だった。
「持っていきな。……礼だよ。屋根の」
それだけ言って、老婆は背を向けた。
「シスター」
俺は、その背中に聞いてみた。
ずっと、引っかかっていたことを。
「モーリーって人。……あの人、何なんですか」
背中が、止まった。
長い、間があった。
庭の方から、子供たちの笑い声が聞こえている。
やがて、老婆は、振り返らないまま言った。
「……昔ね」
声は、いつもの鋭さを失っていた。
「うちに手のつけられない、悪ガキがいたのさ」
それきり、だった。
老婆は、そのまま建物に入っていった。
続きは、なかった。
俺は、手の中の焼き菓子を見た。
硬くて、素朴で、砂糖の少ない菓子。
子供たちに、たらふく食べさせるための菓子だ。
自分たちの分を、少しずつ削って作る類の。
——うちにいた子。
その一言だけを、俺は持って帰った。
*
宿への帰り道、夕陽が長い影を引いていた。
一週間通っただけの道なのに、最初より少しだけ、短く感じる。
「なあ、ナナ」
「はい」
「あの孤児院さ。……いい場所だよな」
「はい」
ナナはいつもの無表情で答えた。
それから、少しだけ間を置く。
「……ひとつ、記録された事実があります」
「なに」
「この一週間、聖アロウ孤児院の周辺で、私たち以外の不審な人影を、四度、観測しました」
俺は、足を止めた。
「四度とも、同じ人物です。遠くから院を見て、去りました。敷地には、入りませんでした」
言わなくても、分かった。
「……そっか」
「はい」
俺は、また歩き出した。
夕陽の中を。
手の中の焼き菓子は、少し温かった気がした。
本当は、もう冷めているはずなのに。
*
その夜も。
北西の山の底で、赤い光が、静かに脈を打っていた。
昨日より、少しだけ、速く。
(第十一話・了)




