# Re:sou 第十話「孤児院の悪党」
その洞窟に、名前はなかった。
小国群のどこか。
地図にも載らない山の奥。
人の足が届かず、祈りも届かず、ただ長い年月だけを飲み込んで肥え太ったダンジョンだった。
奥の奥。
濡れた肉のように脈打つ赤い結晶——コアのそばに、いつからか、ボロをまとった旅人が立っていた。
影が、薄かった。
旅人は、コアを見下ろして、退屈そうに首を傾げた。
この穴の主は、もう長い。
マスターも代を重ね、貯め込んだ魔素は淀むほどに濃い。強い。強いのだろう。ここに迷い込んだ人間なら、百人が百人、奥へ辿り着く前に骨になる。
だが。
面白くはなかった。
ただ深く、ただ濃く、ただ眠っている。
それだけだった。
「……惰弱よな」
旅人は、枯れ枝の先で、コアをこつん、と小突いた。
本当に、それだけだった。
ただ、その一突きに乗せられた「なにか」が、コアの芯へ、さざ波のように広がっていく。
眠っていたものが、身じろぎをした。
淀んでいた魔素が、ゆっくりと、対流を始める。
洞窟の壁が、かすかに鳴った。
獣が、遠い夢の中で目を開けるように。
「足りぬなら、育てるか」
旅人はつまらなそうに言った。
「増えよあふれるほどにな。——」
気まぐれの神は、それだけ言って、背を向けた。
自分が何を起こしたかには、もう興味がなかった。
退屈しのぎに、遠くの盤面をひとつ、指で弾いた。
それだけのこと。
弾かれた石が、どこまで転がって、誰を巻き込み、何を壊すのか。
そんなことは、神の関心の外だった。
洞窟の奥で。
赤い光が、ひとつ、脈打った。
*
その朝の俺は、宿の裏庭で、盛大にすっ転んでいた。
「加減! 加減だっつってんだろ!」
「してるんですよ、これでも!」
身体強化の、出力調整の特訓中である。
訓練内容は単純だ。
ジェスが放り投げた木の実を、指で弾いて割る。
ただ、それだけ。
地味だ。
ものすごく地味だ。
なのに俺がやると、木の実が粉々に消し飛ぶか、指がすり抜けて地面に落ちるかの二択になる。
ちょうどいい、が、どうしてもできない。
「お前な、木の実を割れって言ってんだ。町の外壁を破壊しろとは言ってねぇ」
「外壁はまだ壊してないです」
「まだ、って言うな。不安になるだろ」
白いローブ姿のナナが、少し離れた場所でこちらを見ていた。
銀青の瞳が、感情の薄いまま、正確に俺の動きを追っている。
「出力、三分。……二分。一分。——今です」
ナナの声に合わせて、指を弾く。
木の実が、ぱきん、と綺麗に二つに割れた。
「お、割れた!」
「ナナ様々だな」
「ナナがいなかったら、まだ庭に穴掘ってましたよ」
「掘ってたな、実際」
ジェスが笑う。
否定できない。
この一ヶ月で、俺のランクはEからDに上がった。
掃除、薬草、荷運び、迷子探し。
地味な依頼をこなすたびに、ステータスの「錬度」の数字が少しずつ上がっていく。
ゲームで言うところの、コツコツ経験値稼ぎだ。
派手さはない。
でも、こういうのは嫌いじゃない。
そしてこの一ヶ月で、いちばん変わったのは——ナナだった。
「ナナ、朝ごはん食べた?」
「摂取しました。本日の煮込みは、昨日より塩分濃度が〇・三割高い、と記録しました」
「そこまで分かるんだ……」
「味覚データは蓄積中です」
ナナは、人の姿にすっかり馴染んでいた。
腰まで届く白い髪を朝日に透かして、律儀に三食を「味覚データの収集」と称して平らげる。
宿の手伝いも、いつの間にか普通にこなしていた。
白い厚手のワンピース風ローブに袖をまくり、クーリと二人で洗濯物を干している姿は、もう完全に、ただの姉妹みたいだった。
……当のクーリは、微妙に張り合っているみたいだけど。
「ちょっとナナ! そのシーツの畳み方、あたしのより綺麗すぎ! もっと雑にやんなさいよ!」
「非効率な指示です」
「うるさい! かわいげってものがあるでしょ!」
「照合。かわいげ。定義が曖昧です」
「そこから!?」
平和だ。
平和なんだけど——ときどき、ふっと思い出す。
あの森の、白く枯れた草の円を。
ナナの光に走った、墨色の罅を。
ヤンさんの、死ぬ気の目を。
あれ以来、何も起きてはいない。
起きてはいないんだけど。
その静けさが、たまに妙に気になる。
ゲームで言えば、平和なマップに、なぜかBGMだけ不穏なやつ。
……いや。
考えすぎだ。
今日も依頼をこなそう。
*
その日、ギルドの掲示板で目に留まったのは、こんな依頼だった。
【聖アロウ孤児院 建物修繕・雑務 報酬:銅貨100+昼食】
「報酬、少なっ」
隣でクーリが顔をしかめた。
「昼食って、報酬に食事書く依頼、初めて見たんだけど」
「孤児院の依頼だからな」
ジェスが言った。
「金がねぇんだよ、あそこは。だから、報酬より、行けるやつが行く。俺は何回か行ってる」
ジェスがこういう時、迷わないのは、もう知っている。
損得を考える前に、足がそっちへ向いている。
俺は依頼票を剥がした。
錬度も上がるし、なにより——ジェスの顔が、行きたそうだった。
*
聖アロウ孤児院は、町の外れスラムに似た場所の近くにあった。
古い石造りの建物だ。
屋根の一部が崩れ、壁には蔦が這い、庭の柵は半分傾いている。
だが、掃除は行き届いていた。
貧しい。
間違いなく貧しい。
けれど、荒れてはいない。
誰かが、必死に手入れをしている場所の顔だった。
「わーっ、ジェスにいちゃんだ!」
「おっちゃんも来た!」
子供たちが、わっと駆け寄ってきた。
五、六人。
みんな、継ぎの当たった服を着ている。
みんな、よく笑う。
ジェスは慣れた様子で子供を肩車し、クーリは「おっちゃんじゃないでしょ、おねえちゃんでしょ!」と噛みついている。
ナナは、袖を引かれて目を丸くしていた。
「白いおねえちゃん、きれー」
「……記録します。人間の幼体は、平均体温が高い」
「なな、つめたーい!」
「熱交換の効率が良好です」
「なにそれー!」
「不明です。説明には基礎知識が不足しています」
なんだかんだ、ナナも囲まれている。
俺の理想から抜き出された顔だとかいう話は、もうこの際どうでもいい。
子供に好かれる顔ではあるらしい。
「——お前たち、下がりな」
建物の方から、鋭い声が飛んだ。
子供たちが、ぴたりと止まる。
出てきたのは、老婆だった。
六十は超えているだろう。
白髪を後ろで引っ詰め、色褪せた修道服を着ている。歳は感じるが背筋だけはしゃんとしていた。
皺だらけの顔。
だが、目だけが、刃みたいに強かった。
子供たちは、その一声で、俺たちからさっと離れた。
怖がっている、というより。
そうする決まりになっているような、慣れた動きだった。
「ジェス。また来たのかい」
「シスター・ルシア。修繕の依頼、受けてきた」
「頼んじゃいないよ、そんなもの」
「屋根、また漏ってるだろ。この前の雨で」
老婆——シスター・ルシアは、ふん、と鼻を鳴らした。
ジェスに対してすら、この態度だ。
何度も通っているだろうジェスにも、心を開いた様子がまるでない。
そして、その刃の目が、俺に向いた。
「見ない顔だね。……そっちの、白いのも。どこの馬の骨だい」
「カイです。あと、クーリと、ナナです。手伝いに——」
「手伝い、ねえ」
老婆は、俺を頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように睨めつけた。
歓迎とは、正反対の目だった。
「よそ者は好かないよ。うちの子に、下手なちょっかいをかけてみな。箒でぶっ叩いて追い出すからね」
「シスター」
ジェスが苦笑する。
「こいつら、いい奴らだって」
「あんたの『いい奴』は、あてにならないんだよ」
そう言って、老婆はふと、俺たちの持ってきた依頼票に目をやった。
それから、ふん、と鼻を鳴らす。
聞き取れないほど小さな声で、呟いた。
「……またか。余計なことを」
え? と聞き返す前に、老婆はもう背を向けていた。
にべもない。
だが——不思議と、嫌な感じはしなかった。
この人は、俺たちを疑っているんじゃない。
子供を、守っているんだ。
ここに来る子の大半は、大人に裏切られてきた子たちなんだろう。
だから、簡単に信じない。
笑わない。
牙を剥いて、この場所を守っている。
そういう強さの、顔だった。
「……よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、老婆は、少しだけ意外そうな顔をした。
それでもすぐに、いつもの仏頂面に戻る。
「勝手におし」
それだけ言って、建物の中へ引っ込んでいった。
*
作業は、屋根から始めた。
崩れた瓦を降ろし、下地を直し、新しい——といっても、どこかの廃材をもらってきたらしい——板を張る。
ジェスが身体強化で重い材木を運び、クーリが下で釘や道具を渡す。
ナナは作業効率を計算しながら、完全に無表情で材木を片手で支えていた。
見た目は華奢な美少女なのに、やっていることは人型クレーンである。
「ナナ、それ重くないの?」
「重量、許容範囲内です」
「いや、普通は許容できないやつだよ、それ」
「普通の定義が曖昧です」
クラインは来ていない。
「古書の目録整理がある」と言っていたが、たぶん、高いところとこの老婆が苦手なんだろう
俺は、屋根の上でそこそこ活躍した。
風で瓦を持ち上げ、水で漆喰を練り、狙った場所に、寸分違わず——は、まだできない。
できないので、ナナの補助で、そこそこの場所に。
それでも人力の何倍も速い。
昼過ぎには、雨漏りしていた屋根が、すっかり塞がっていた。
「……ふん」
下から見上げていたシスターが、腰に手を当てて、屋根を見ていた。
呆れているような。
値踏みしているような。
どちらともつかない目だった。
「業者を呼んだら、ひと月と、金貨十枚の仕事だよ。それを、半日とはね」
「昼ごはん、楽しみにしてます」
「……芋のクロケットしかないよ。文句を言うんじゃないよ」
そう言いながら、俺たちの皿の芋だけ、ほんの少し多かった。
気づかないふりをしておいた。
その芋のクロケットが、また、やたらとうまかった。
*
事件は、昼飯の後に起きた。
庭で子供たちと遊んでいると——正確には、ナナが子供たちに質問攻めにされているのを眺めていると——柵の外から、だらしない声が飛んできた。
「よお、ババァ。まだ生きてやがったか」
空気が、一段冷えた。
振り返ると、男が一人、柵にもたれていた。
三十代半ばくらい。
無精髭に、着崩した革鎧。腰には使い込まれた剣。柄の悪い笑みを浮かべて、爪楊枝を噛んでいる。
強面、というより、擦れた顔だった。
「モーリー」
シスターの声が、露骨に低くなった。
「何しに来た」
「なに、通りかかっただけよ」
言いながら、モーリーの視線は、俺たちの方を——修繕を終えたばかりの屋根と、見慣れない顔ぶれを、ゆっくりと舐めるように確かめていた。
値踏みするみたいに。
「相変わらずボロい院だなァ。ガキども、まだ売っ払ってねぇのか? いい値がつくうちに手放しときな。慈善なんざ、腹の足しにもならねぇぜ」
——は?
俺は、耳を疑った。
子供たちの前で、その言い草はないだろう。
だが、子供たちは、慣れているようだった。
「またモーリーだ」
「けちんぼ」
「このまえ石投げたら逃げたやつー」
口々に囃し立てる。
シスターは箒を振り上げた。
「この罰当たりが! 二度と来るんじゃないよ!」
「へっ、来たくて来てるかよ」
そこで、ジェスが立ち上がった。
「……おい、モーリー」
低い声だった。
ジェスのこんな声は、初めて聞いた。
「ジェスかァ。相変わらず、無駄に熱いツラしてやがるな」
「子供らの前で、その口はやめろ」
「あァ? 本当のこと言って何が悪い。こんなボロ院、いつ潰れてもおかしかねぇ。現実ってやつを教えてやってんだよ、俺は」
ジェスの拳が、鳴った。
「表出ろ」
「おー、こわ」
モーリーは大げさに肩をすくめた。
それでも、柵は越えなかった。
*
——結果から言うと、ジェスがボコられた。
一方的だった。
ジェスの拳は速かった。
この一ヶ月、何度も稽古を見ているから分かる。ジェスは弱くない。むしろ、普通に考えればかなり強い。
だが、モーリーは全部、半歩早かった。
避ける。
流す。
足を払う。
転ばせる。
まともに打ち合わない。
ジェスが力任せに踏み込むほど、モーリーは涼しい顔で、その勢いを利用して地面に沈めた。
剣は抜かなかった。
腰に差したまま、最後まで。
汚い。
とにかく、戦い方が汚い。
つばを吐き、砂を蹴り上げ、襟を掴み、隙を見て脛を蹴る、すぐ間接をとる。
正々堂々の欠片もない。
なのに——強い。
「よえぇなァ、おい」
土まみれになったジェスを見下ろして、モーリーは爪楊枝を吐き捨てた。
「護りてぇもんがあるなら、もっと上手くやれよ」
ジェスが、悔しそうに歯を食いしばる。
モーリーはしゃがみ込み、わざとらしく顔を近づけた。
「熱いだけじゃ、誰も護れねぇぜ」
その言葉に、俺は、ん、と引っかかった。
今のは。
悪党の台詞じゃ、なかった気がする。
モーリーは立ち上がり、踵を返した。
去り際に、ちらりとシスターの方を見る。
ほんの一瞬。
皺だらけの老婆が、箒を握りしめて、こちらを睨んでいる。
その一瞬だけ、男の擦れた目が——妙に、静かだった気がした。
「じゃあな、ババァ。次はもっと高く売れるうちに、な」
「二度と来るんじゃないよ、この疫病神!」
男は、片手をひらひらさせて、去っていった。
一度も。
柵の内側には、入らないまま。
*
帰り道、ジェスは全身に湿布を貼られていた。
貼ったのはシスターだ。
「若いくせに無茶ばかりするんじゃないよ」と、散々小言を言いながら、手つきだけはやたら丁寧だった。
本人は、なぜか、そこまで怒っていなかった。
「あいつ、ムカつくんだよなァ……」
言葉とは裏腹に、口調に棘がない。
「でも、嫌いなんですよね?」
「うーん……」
ジェスは首を捻った。
「それが、なんつーか……分かんねぇんだよ。ムカつくのに、なんか、放っとけねぇっつーか。……あいつ、変な奴なんだ」
隣で、ナナがぽつりと言った。
「一つ、記録された事実があります」
「なに?」
「あの男——モーリー。孤児院に来てから去るまで、一度も、院の敷地には入りませんでした。柵の外から、一歩も」
「……そういや、そうだな」
ジェスが目を丸くした。
「悪態をつくには、近づいた方が効率的です。にもかかわらず、距離を保っていました。理由は、不明です」
「ナナって、そういうとこよく見てるわね」
クーリが感心半分、呆れ半分で言う。
「観察は得意です」
「感情は?」
「学習中です」
「そこは即答なんだ……」
理由は、不明。
俺は、去っていったモーリーの背中を思い出した。
「護りてぇもんがあるなら、もっと上手くやれ」
ボコった相手に、なぜか、戦い方を教えていった男。
子供を売れと言いながら、柵の内側には、決して入らなかった男。
なんだろう。
この、噛み合わない感じ。
(伏線キャラだ、絶対)
デバッガーの勘が、そう告げていた。
この手のキャラは、後で絶対、ひっくり返る。
その勘が、これほど痛い形で当たるとは、この時の俺は、まだ知らない。
そして——遠い山の奥で。
名もなきダンジョンの赤い光が、少しずつ脈を速めていることも。
(第十話・了)




