第九話
有雅はそれ以上は何も言わなかった。
ただ、文机へ向き直った拍子に、ふわりとまた香が揺れる。
朝成は思わず息を止める。
同じだ。
蛍の夜。薄衣。袖へ差し入れた指。乱れた髪。
記憶が、その香に引かれるようにして鮮烈に蘇る。
喉が激しく渇いていた。
朝成は手元の盃を取り、ほとんど一息に酒を流し込む。冷えた酒のはずなのに、胸の奥の熱は少しも消えない。むしろ、有雅が近くにいるほどにその熱は増してゆくようだった。
おかしい。朝成は眉を寄せた。
何を考えている。相手は男、しかも親しい同僚。
なのに、あの夜の人を思い出すたび、どうしても視線が有雅の姿へと引き寄せられてしまう。
有雅がふと顔を上げた。
「……朝成」
「何だ」
「酔っているのか」
「まさか」
答えが少し早すぎた。有雅はますます怪訝そうな顔になる。
その真っ直ぐな視線に、朝成はもう耐えきれず立ち上がった。
「少し風に当たる」
返事も待たず簀子へ出る。夜気はぬるい。それでもあの香りが充満し、有雅に見下ろされている部屋にいるよりは、いくらかましだった。
暑さに耐えかねて、肩からずり落ちた直衣を腰のあたりで無造作に結び留め、白い単衣の袖を肩までたくし上げる。
(冷静になれ。冷静になれ、己……!)
朝成は胸の奥の熱を吐き出すように、深く、深く、息を吐いた。これ以上妄想には呑まれぬ。肩を硬く震わせながら、限界まで息を押し出す。庭の隅の、井戸から汲ませてあった水桶へと手を伸ばす。冷たい水を両手ですくい、そのまま額へとかけた。ぽたり、と雫が落ちる。もう一度、今度は熱を持った首筋へ。濡れた水滴が、たくし上げた腕のしなやかな筋肉を伝い、白い単衣の肩をじわりと濃い色に染めてゆく。肌を刺す冷たさでなんとか熱を冷ましたかった。なのに――。
濡れた水の感触が、最悪なことに、また別の記憶を呼び起こした。
池。夕暮れ。 腕の中に抱き上げた、あのしなやかな身体。濡れた単衣。水を吸った髪。肩へ張りつく薄衣。
「――っ」
朝成は思わず濡れた手で額を押さえた。 駄目だ。思い出すな。
だが、一度決壊した妄想は止まらない。 水辺の女が、ゆっくりと振り返る。白いうなじ。乱れた呼吸。 細紐を結んだとき、指先へ伝わってきたあの体温。 そのすべてへ、今、部屋から漂ってくる有雅の香が、ぴったりと重なってゆく。
朝成は目眩を覚え、その場にしゃがみ込みそうになった。
(……呑まれぬと、言っておるのに……!)
「何なんだ……」
掠れた声が漏れる。わからない。小萩殿の香なのだから、妹君なのだろう。そう考えればすべて済む話だ。なのに、心のどこかが、違う、と激しく囁いている。
背後で、簀子が小さく軋んだ。
「朝成?」
有雅の声。いつもなら隙のない武官であるはずの朝成が、直衣を腰に下ろし、濡れた腕を晒して張り詰めた背を震わせている。その見たこともないほど切羽詰まった背中を目にして、有雅は息を呑み、声をかけることさえ躊躇う。
朝成は振り返れなかった。 もし今、その顔を見てしまったら。有雅の姿と、あの夜の記憶が重なってしまう気がした。




