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第八話

洗い上がった薄衣は、以前より白くなって戻ってきた。白くなったはずなのに、どこか別のものになってしまったようだった。

皺ひとつなく畳まれ、几帳のそばへ置かれている。 けれど朝成は、それを手に取った瞬間、小さく息を止めた。

香が消えていた。 当然だ。洗ったのだから。それなのに、胸のどこかが妙に空虚だった。

朝成は自嘲気味に苦笑する。

「……馬鹿らしい」

たかが薄衣ひとつに、何を惜しんでいるのか。自分でもわからない。 そう思いながら、愛おしむように指先で白い布を撫でた、その時。

簾の向こうで人の気配がした。

「朝成、いるか」

有雅だった。

「入れ」

簾が上がる。夜風がふわりと流れ込む。 そして――朝成の心臓が、どくりと跳ね上がった。

香。 あの夜の香だった。

あり得ないと思った。だからこそ目を離せなかった。 川風の中で嗅いだ匂い。蛍の夜、袖へ手を差し入れた時、薄衣の下から立ちのぼったあの狂おしいほどの甘い香。 消え去った、忘れようとしていた記憶が、一瞬で胸の奥から引きずり出される。

朝成は思わず顔を上げた。 有雅は何も知らぬ顔で部屋へ入ってくる。いつもの宿直姿。少し疲れた顔。

だが、その男の身体から、どうしてあの香がするのか。朝成はしばらく声が出なかった。

一方、有雅もまた、部屋に足を踏み入れた瞬間に息を呑んでいた。

朝成の文机の上に、皺ひとつなく丁寧に畳まれた、あの見覚えのある薄衣が置かれていたからだ。有雅の視線が、そこに釘付けになる。一瞬、目元がわずかに戦慄いたが、彼はすぐにいつもの冷徹な仮面を被り直した。

(――な、なぜお前がそれを……っ!?)

あの蛍の夜、童に見せる蛍を入れるために渡した衣だ。まさか、宿直所にまで持ち込んで夜毎眺めていたというのか。

朝成を呼びに来た本来の用事など、一瞬で頭から消し飛ぶ。

有雅が微動だにせず、奇妙な静けさをまとって立ち尽くしているので、朝成が怪訝そうに眉を寄せる。

「どうした」

「……いや」

有雅は努めて緩やかに視線を逸らし、平静を装って文机へ巻物を置いた。

沈黙が流れる。お互いに胸の奥で猛烈にそわそわしながらも、それを悟られまいとする奇妙な空気が部屋を満たしていく。

有雅は無造作に首筋をなぞった。

「暑いな。今宵は風もぬるい」

その低い声を聞いた瞬間、朝成の脳裏にまたあの夜の残像が鮮烈に蘇る。

『わ、笑いごとではありません……』

袖越しに触れた、あの細い腕の体温。乱れた髪。川風。 朝成は慌てて視線を逸らした。 おかしい。何を考えている。相手は有雅だ。男だ。男の宿直姿に、何を重ね合わせているのだ。

すると有雅が、机の上の巻物を広げながら、朝成の反応を値踏みするように、ふと思い出したような口調で言った。

「そういえば」

「……何だ」

「小萩が新しい香を調ぜた」

朝成の肩がぴくりと動く。

「香?」

「ああ。近頃そればかり焚いている。なかなかの出来だと言うので、己の衣にも少し焚き染めてみたのだが……いささか香が強すぎる」

有雅は少し煙たそうに衣の袖を引いた。

(――鎌をかけた。どうだ、朝成。お前が持っているその衣の香りと、同じだろう)

有雅は扇の影で、じっと朝成の表情を盗み見る。

一方、朝成はといえば、心臓を強く抉られたような衝撃を受けていた。

朝成はただ黙り込むしかなかった。

小萩。妹君。

その言葉が、崩れかけていた朝成の理性を、今一歩のところで慌てて支えた。

そうか。妹君の香か。 ならば、あの夜の人と同じでも不思議はない。あの夜、姫君が纏っていたのも、この新しく調ぜられた香だったのだろう。そう考えれば、すべて筋は通る。通る、はずだった。

なのに――胸のざわめきが、どうしても収まらない。

朝成は自分でも理由がわからぬまま、吸い寄せられるように有雅を見つめていた。 灯火に照らされた、涼やかな横顔。筆を取る、白く長い指。伏せられた睫毛。静かな気配。

そのどれもが、あの夜の姫君の姿に、恐ろしいほどの精度で重なってゆく。

有雅が強い視線に気づいて顔を上げる。

「何だ」

「……いや」

朝成は逃げるように、慌てて手元の盃を取った。 喉が渇いている。酒を流し込んでも、胸の熱は消えなかった。

有雅は朝成の様子を不審そうにしながらも、それ以上は追及しない。 ただ、ふと資料を手渡そうと近づいた拍子に、また男の衣服から甘い香が揺れた。

朝成は息を止める。

すぐ目の前にいる有雅のせいで、あの夜の人が、急に近くなった気がした。 それが恐ろしくて――同時に、どうしようもなく嬉しかった。

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