第七話
蛍見の宴から、五日ほどが過ぎていた。 朝成の部屋には、まだあの薄衣があった。
几帳の脇、灯台の届く場所に、丁寧に畳まれて置かれている。 返さねばとは思っていた。思っているのに、なぜか機を失ったままだ。宴の後は人の出入りも多く、誰がどこの姫君だったのかも定かでない。探しようがない――そう己へ言い訳している。
けれど本当は、返せない理由など、朝成自身がいちばんよくわかっていた。
夜になると、つい手に取ってしまうのだ。 薄く残る香。水辺の夜気に混じっていた、あの甘い匂い。 袖へ手を差し入れた時、ふわりと近づいた体温。
『……いたずらな光でしたね』
そう囁いた瞬間、至近距離で相手がはっと息を止めたことまで、香に触れるたび鮮やかによみがえる。 だが、その香を深く吸い込むたび、朝成の胸には奇妙な違和感が澱のように重なっていた。
(なぜだ……。これは確かにあの姫君の香のはずなのに)
目を閉じると浮かぶのは、水辺の姫君の顔ではない。藤見の宴の夜、髪に藤を挿し、己を煽るように艶やかに舞っていた有雅の姿ばかりだった。姫君への恋慕なのか、有雅への割り切れない執着なのか。己の胸の中でふたつの熱が激しく混ざり合い、朝成はそれ以上考えるのが恐ろしくなって、薄衣へ顔を寄せ、小さく息を吐いた。
「……己は何をしている」
呆れる。名も知らぬ女の薄衣を、夜毎取り出して香を確かめるなど、正気ではない。
その時だった。
「少将さま」
声とともに、女房が簾の向こうから顔を覗かせた。 朝成は慌てて薄衣を畳む。 だが遅い。 女房はしっかり見ていた。
「またそれを」
「……またとは何だ」
「蛍見の夜より、毎晩ご覧になっております」
「見てはおらぬ」
「では、嗅いでおられるので?」
朝成は気まずさに眉を寄せた。
「お前は近頃、口が過ぎるな」
女房はくすくす笑う。年かさの女房で、朝成が幼い頃から仕えているから遠慮がない。
「それにしても、その薄衣。いつまで置いておかれるのです。お洗いしましょう。川風の匂いも残っておりますし」
朝成は反射的に、その手を押さえていた。 女房が目を瞬く。朝成自身も、己のあまりの素早さに驚く。 しばし、気まずい沈黙が流れた。 やがて女房が、ゆっくり笑った。
「……大事なお品なのですね。ですが香も薄うございますよ。洗えば少しは整いましょうに」
香が薄い。その言葉に、朝成の胸が妙にざわつく。この香が消えたら、あの夜まで消えてしまう気がした。
川風。蛍の光。袖の内へ差し入れた手。乱れた髪。あの人の、小さな吐息。
朝成は観念したように、薄衣を差し出す。
「……丁寧に扱え」
「承っておきます」
女房は笑いを堪えながら受け取った。
「ですが少将さま。洗うのは薄衣だけになさいませ」
朝成は顔をしかめる。
「どういう意味だ」
「さて」
女房はするりと簾の向こうへ消えていった。
残された朝成は、しばらくじっと自分の指先を見つめていた。あの夜、確かに触れた手。 けれど今は、そこには何も残っていない。




