第六話
嵯峨の水辺に、夜風が渡っていた。 昼の暑気をわずかに残しながらも、川面を吹き抜ける風は涼しい。今宵は蛍見の宴。灯を落とした庭に、人々は思い思いに集い、闇を漂う淡い光を眺めていた。草陰に明滅するその青白い光は、まるで闇にこぼれ落ちた夜露が、密やかにまたたいているかのようだ。
朝成は、ひとり少し離れた場所に立っていた。人の多い宴は嫌いではない。だが今夜は妙に胸が落ち着かず、喧騒から距離を置きたかった。
――有雅の顔が、どうしても頭から離れないのだ。
戯れとして流してしまえばいいものを、有雅の柔らかな舞と、飲み交わした酒の辛さと、胸に残った妙な甘さが、今も朝成の心をじりじりと灼いている。 己の割り切れない熱を誤魔化すように、川面を流れる光をぼんやり見つめていると、不意に、見覚えのある色が視界へ入った。 淡い藤色の薄衣。 胸がどくりと鳴る。
柳の影に、その人はいた。以前、嵯峨で出会った女。池へ落ちたあの姫君だった。 夜気に紛れて顔はよく見えない。けれど、静かに立つ姿だけでわかった。胸の奥に残り続けていた気配と、完全に同じだった。
女は童を連れていた。七つか八つほどの幼い童が、夢中になって蛍を追いかけている。
「あっ、待って!」
小さな手を伸ばすたび、蛍はふわりと逃げた。女はそれを叱るでもなく、ただ微笑みながら見守っている。その横顔が、やわらかな光に照らされていた。
朝成は知らず、そちらへ歩み寄っていた。童がまた蛍を取り逃がし、悔しそうに声を上げる。
「つかまらない……」
「蛍は気まぐれですから」
女が笑う。朝成はその声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。やはりあの人だ、そう思った。思ったというより、そうであってほしいと願ったのかもしれない。あの夕暮れ、水辺で聞いたあの低い声。健やかに過ごしているようで、安堵した。胸の支えが解れていく。
「お貸しなさい」
気づけば、そう口にしていた。 童が振り向く。朝成は袖を払うようにして、一匹の蛍をそっと両手に包んだ。淡い光が指の隙間でまたたく。童が目を輝かせた。
「わあ……!」
「こうすると逃げませぬ」
朝成はそう言って、女が夜風を避けるために愛らしく肩に羽織っていた、あの藤色の薄衣をそっと手にとって借り受けた。その薄絹で蛍を優しく包み込む。まだ彼女の体温が残る薄絹の中で、光が優しく滲んだ。
「近寄ってご覧なさい」
童は歓声を上げる。女も、少し驚いたように朝成を見た。
「ありがとうございます」
その声に、朝成は微かに笑った。風が吹く。川の匂いがした。 女房が蛍を受け取ろうとした、その時だった。 ふ、と薄衣の裾が揺れる。 「あ……」
蛍が、するりと抜け出した。緑の光が宙を舞い、そのまま女の袂へ飛び込む。
「ひゃっ」
女が小さく声を上げる。袖の内で、淡い光が揺れた。どうやら蛍が薄衣の裏へ入り込んでしまったらしい。
童は面白がって笑う。
「姫さま、光ってる!」
「わ、笑いごとではありません……」
女は困り果てたように袖を押さえる。蛍は袖裏を這い回っているらしく、光があちらこちらへ揺れた。薄絹越しに、緑の灯が透けて見える。 朝成は思わず笑いそうになり、しかし慌てて咳払いした。
「失礼」
そっと近づく。女はびくりと肩を震わせた。
近い。ふわりと香が届く。あの夕暮れ、濡れた髪から漂った匂いと同じ――至近距離で嗅ぐその香は、どこか肌の熱を孕んで艶めかしい香りに思えた。
朝成は袖口へ静かに手を差し入れる。薄衣の下で、女が息を呑む気配がした。朝成の指先が、薄絹を隔てて、女の細い腕のなめらかな熱に触れた。触れてはならぬ衣服の内に手を忍ばせているという背徳感と、指先から伝わる相手の拒まぬ震えに、朝成の理性がじりじりと音を立てて崩れていく。蛍は逃げ回る。細い腕のあたりをそっと這い、また奥へ。そのたび、袖の内で淡い光が散った。 川風が吹く。女の髪が乱れ、袖の中の光もまた揺れ散る。
朝成は彼女の細い腕の熱を指先に感じながら、思わず、小さく呟いた。
「川風に 乱れて散りし 光かな」
女が、はっと顔を上げる。 朝成はようやく蛍を包み込み、そっと袖から取り出した。掌の中で、小さな光が明滅している。
「……いたずらな光でしたね」
朝成は少し笑った。
「もう大丈夫ですよ」
女は一瞬、言葉を失ったようだった。安堵のなかに、ふっと奇妙な寂しさが混ざる。
掌の中の蛍は、再びふわりと夜へ飛び立ち、闇の奥へと消えてゆく。その光の行方を見送るように、女は衣の擦れる音よりもかすかな声で、静かに言葉を継いだ。
「……いずれの空に 消えゆかむとて」
朝成の胸が、どくりと大きく跳ねた。
消えてしまう、と彼女は言ったのだ。この夜の幻が覚めるように、自分たちの関係も、今夜限りの光として闇に溶けてしまうのだろうか。その問いかけるような、けれどすべてを諦めたような響きに、朝成の心は激しく揺さぶられる。
(行かせない。絶対に、あなたをこのまま消させはしない――)
言葉にならない衝動が朝成を突き動かし、思わずもう一歩、彼女へと踏み出そうとした。
だがその時、
「姫さま、ほたる、行っちゃったね」
我に返ったように呟いた童の声が、ふたりの間の濃密な静寂を小さく弾いた。はっとしたように控えていた女房が歩み寄り、さりげなく朝成と女の間に割って入るようにして、主を庇う位置に立つ。
これ以上の接触は許されない――周囲の無言の壁に朝成が足をとめられた一瞬の間に、女は、ふ、と切なく笑った。
「……行きましょう」
女房と童を促すその掠れた低い声が、夜気に溶けるように響く。そのまま影を連れて静かに去ってゆく後ろ姿は、蛍の光より静かで、なのに朝成の胸へあまりにも深く刺さった。
朝成の手元には、蛍を包むために借りたままの、あの藤色の薄衣が取り残されていた。 かすかに残る肌の熱と、胸を灼くあの艶やかな香りを愛おしそうに吸い込み、朝成はそれを、彼女の身元を突き止める唯一の口実として大切に持ち帰った。




