第五話
「嫌だ」
有雅は即答した。だが、小萩は少しも怯まない。
「どうしてです」
「どうしてもだ」
「では、この子をお連れください」
小萩の後ろから、小さな童がひょっこりと顔を覗かせる。今宵、屋敷で預かることになった親戚の幼子だった。童は武官である有雅の厳めしい直衣姿に気圧されたのか、見るなり小萩の袖へと隠れて震えている。
有雅は不本意そうに眉を寄せた。
「……己は鬼か」
「少し」
「少しなのか」
小萩は真顔で深く頷く。
「ですが、姫君の姿でしたら安心です」
「安心とは何だ」
「それが、急に今夜中に仕上げねばならない調香の依頼が入ってしまい、どうしても手が離せなくなってしまったのです。けれど、この子を蛍見に連れて行くと約束してしまいましたし、女子と子供だけで夜歩きをすれば、また兄上がお怒りになるでしょう?」
「ならば、護衛を何人か連れて行けば済む話だ」
有雅が当然の義務として告げると、小萩は待っていましたとばかりにため息をついた。
「蛍を追い回す無邪気な童の横に、そんな厳めしい男たちがぞろぞろと付いて歩くなど、せっかくの風情が台無しではございませんか。それに、兄上ほど頼りになる『姫君』が他にどこにいますか」
「…それなら、己がついて行けば万全ではあるか」
男手を一人、それも誰より腕の立つ自分を忍ばせておけば、安全は何よりも保証される。そう己に言い聞かせ、有雅は深く、重いため息をついた。小萩はここぞとばかりに、仕立て上がったばかりの、見事な藤色の薄衣を両手で差し出した。
「きっと、よくお似合いになりますよ」
「要らん」
「きっと――」
小萩はいたずらっぽく、にこりと笑う。
「この前の、あの嵯峨の殿方も喜ばれます」
有雅の眉が、ぴくりと跳ねるように動いた。
「……何の話だ」
「さて、何の話でしょう」
小萩はくすくす笑いながら、童の手を引いて部屋を出て行ってしまった。
有雅は何も答えなかった。答えたくなかった。
なぜなら――その一言のせいで、あの池の中で必死に自分を抱き上げてくれた、あの真っ直ぐな男振りを、鮮烈に思い出してしまったからだ。
(あの藤の夜、あやつをあんなに不機嫌にさせてしまったというのに……)
あの春の宴以来、朝成がどんな顔をしてあの夜の女を捜しているか、有雅は痛いほど知っている。妹への文を拒絶され、それでも諦めきれずにいる不器用な誠実さ。
男の己には、あやつの真っ直ぐな想いに応える資格などない。それは分かっている。分かっているのに、心のどこかで――ほんのいっときでもいい、あの男の熱い眼差しが、もう一度だけあの夜の女――己へと向くことを、どうしても願ってしまうのだ。
有雅は自嘲気味に息を吐き、差し出された藤色の薄衣に手を伸ばす。
そこへ、部屋の襖の向こうから、小萩の楽しげな声が再び響いた。
「ああ、兄上! 言い忘れておりましたが、今宵の蛍狩りは嵯峨のあたりが一番見事だそうです。くれぐれも、池には――」
「池には近づかぬ!!」
小萩の言葉が終わるより早く、有雅は被せるように鋭く言い放った。
「分かっておりますよ」
と、襖の向こうで妹のクスクスと笑う気配が遠ざかっていく。
有雅は薄衣を身に纏いながら、一人、苦々しく、そして小さく胸を弾ませるのだった。




