第四話
藤の花は、盛りを少し過ぎていた。 内裏では藤見の宴が催されていた。殿上人たちは酒を酌み交わし、楽の音がゆるやかに夜へ溶けてゆく。
朝成は盃を傾けながら、ぼんやり簾の外を見ていた。紫の花房を見るたび、なぜかあの夕暮れの姫君を思い出す。名も知らぬまま別れた人。彼女は本当に、有雅の妹君なのだろうか。
「朝成」
呼ばれて振り向くと、主上が笑っておられた。
「退屈そうだな。ならば、退屈しのぎに得意の剣舞を見せてみよ」
座がざわめいた。朝成は静かに頭を下げ、立ち上がった。濃紫の直衣。灯火を受けて、藤の影の中から現れたように見えた。
剣を抜く。楽が変わる。 鋭く踏み込み、翻る袖が風を裂いた。白刃が月光を弾く。そのたび紫の袂が揺れる。
有雅は目を逸らせなかった。綺麗だ、不本意なくらい、悔しいほど。女たちのため息が聞こえる中、酒の熱とは違うものが胸を灼いた。舞い終えると、張り詰めた静寂のあと、一拍置いて大きな歓声が湧き起こった。 御簾の向こうで、主上が深く「見事」と頷かれる。 褒美として朝成が賜ったのは、見事な藤の一房だった。長く垂れた紫の花、そこからこぼれる淡い香。帝自ら、扇に載せて下賜されたものを、朝成は恭しく受け取った。
朝成は席へ戻ると、隣に座る有雅へ、その扇を差し出した。
「頼みがある」
「なんだ」
「紫の 揺るる香りを 見ぬ人に。これを妹君へ届けてくれぬか」
(……見ぬ人に、だと?)
その言葉に、有雅の胸が鋭く痛んだ。ほんの一瞬だったが、細い針を深く刺されたような痛みだった。
「見ぬ人」とは、あの夜の女のことだ。朝成は、藤の花に託して『あの夜の香りを纏うのは貴女ですか』と、小萩に答え合わせを迫ろうとしているのだ。
(お前にそんな想いで、この花を渡されてたまるか──)
有雅の胸の奥で、どろりとした黒い嫉妬がざわめいた。この花を妹へ、いや他の誰へも渡すのはどうしようもなく嫌だった。有雅はしばらく黙っていたが、ふと、胸の痛みを覆い隠すような悪戯心が湧いた。
「……なるほど」
そう言って、藤花を一房持ち上げる。朝成が怪訝そうに眉を寄せた。
次の瞬間、有雅はその花を自らの髪へ挿した。黒髪に紫が垂れる。まるで女のかんざしのように。
座がどよめいた。
「有雅、お前」
「このように持ち帰れば風情がありましょう」
有雅はわざと涼しい顔で言う。
「妹もこの方が喜ぶ」
ふと視線を戻した先で、朝成が言葉を失ったまま己を睨みつけていた。怒っているようでもあり、ひどく動揺しているようでもある、剥き出しの熱い視線。
その顔を見た瞬間、有雅の胸が妙に甘く痺れる。
(――なんだ、その顔は。まるで、誰にも見せたくないものを取られたような……)
「返せ」
低い声。有雅は扇で口元を隠し、笑った。
「まだ預かっているだけだ」
「その髪に挿す必要はないだろう」
「花は、人に添えてこそ美しい」
「お前は人ではなく狐だ」
「褒め言葉として受け取ろう」
宴の空気が和む。
「藤花を挿して櫛とす…」
誰かが笑いながら囃した。
「色男!」
「野暮だ」
「下の句をつけねばなるまいな」
「何がいいか」
有雅は盃を取る。藤の香が、髪のそばで揺れていた。そのまま立ち上がる。
「では、花の礼に一つ」
「待て」
朝成の制止をさらりとかわし、有雅はぱちりと扇を開いた。あからさまに不機嫌なその視線をあえて楽しむように、ふっと挑発的な笑みを浮かべ、そのまま流れるように座を立って舞い始める。剣舞ではない。もっと柔らかく、酔いにまかせた戯れの舞。 藤花が髪から揺れ、紫の香が散る。灯火の下、黒髪に垂れる花房は妙に艶めいて見えた。女房たちが息を呑み、若い公達が見惚れる。
だが有雅は知っていた。ただ一人、向かいの男だけが、ひどく不機嫌そうな顔をしていることを。朝成は盃を持ったまま、こちらを睨んでいた。耳だけが赤い。
有雅は舞いながら思う。 ――お前、そんな顔もするのか。 胸が熱くなる。なぜだかわからないまま。
舞い終えると、朝成が乱暴に酒を注いできた。
「……飲め」
「怖い顔だな」
「酔え」
「命ですか」
「命だ」
有雅は笑って盃を受ける。酒は辛いのに、妙に甘かった。 藤はまだ髪に挿したままだ。
もちろん。その夜、その花が小萩の手へ渡ることは、とうとう最後までなかった。




