第三話
冷たい冬の風が和らぎ、宮中の梅が散って桜の蕾が膨らみ始める頃になっても、朝成の心の内が晴れることはなかった。内裏の蔵人所で、朝成はいつものように淡々と公務をこなしていた。弱冠ながらも仕事の差配は見事で、その端正な顔立ちと、誰に対しても表裏のない実直な人柄は、上たちの信頼も厚い。宮中の女房たちの間でもしばしば噂に上るほどの好青年であった。
だが、当の本人の心は、遠い嵯峨の地に囚われたままだった。
(……もう、半年か)
あのうだるような夏の夕暮れ、池から救い上げた名も知らぬ姫君。 あれから秋を越し、長い冬の間も、朝成は密かに嵯峨の別邸へ何度も使いを出していた。だが、人づての手がかりなど風の噂よりも頼りなく、それらしい話は一向に聞こえてこない。馬を走らせるにも限界があり、身元を隠したがっていた彼女の意思を思えば、あからさまに人目を引くような大がかりな詮索もできなかった。
名も知らない、家名も知らない。驚くほど、何も知らなかった。
(これ以上は、あの方の平穏を乱すだけではないか。そろそろ捜索を打ち切るべきなのかもしれない……)
そう思い詰めてはみるものの、己の心にそんな折り合いがつけられるはずもなかった。
内裏の回廊を歩いていると、ふ、と、すれ違った女房たちの袖から甘い薫物の香が漂ってきた。 春の夜気に乗って届いたその匂いを感じた途端、朝成ははっと足を止める。脳裏に、あの夕暮れの光景が鮮烈に蘇った。
(違う。あの人の香りは、内側から匂い立つような……)
宮中のどんな名香ですら、あの夜の香りの前には色褪せてしまう。華やかな宮中に身を置きながら、朝成の五感は、あの一夜の瑞々しい記憶から一歩も動けずにいた。
「何を難しい顔をしている」
声がして振り向くと、同僚の有雅だった。朝成はとっさに表情を消す。
「別に。そういえば、お前の家は嵯峨にも領地があったな。確か、己の別邸とも目と鼻の先だったはずだ。避暑には良さそうだ」
「良くない、暑いぞ」
即答だった。朝成は思わず笑う。……たしかに、あの夜は暑すぎたな、と池の記憶が過る。有雅も少しだけ口元を緩めた。その端麗な横顔を見て、なぜか胸が妙に騒ぐ。
「家の者も行くのか。……妹君も?」
「小萩か。何だ急に」
有雅が怪訝そうに目を向ける。朝成は平静を装いながら口を開いた。
「都でも美しい姫だと評判だ。……時に有雅、今度その妹君に、一度会わせてはもらえぬか。あるいは、己が文を認めたなら――」
「知らん。そして、断る」
被せるような即答だった。
朝成が驚いて見ると、有雅は酷く険しい顔でこちらを睨み据えていた。普段の冷静な彼からは想像もつかない、何か大切なものを奪われまいとするような、底冷えのする眼差しだった。 「小萩は気安く男に会うような娘ではない。お前のような男の文など渡しはしない」
すげなく言い放ち、有雅はそれきり口を閉ざして歩き出してしまった。
残念だったが、怒る有雅の様子を見て、朝成はむしろ胸の内で淡い期待を抱いていた。隣り合う領地で、そこまで大事に隠される姫君なら、やはりあの夜の、人目を避けていた美しい人ではないか、と。
同時に、朝成の胸を占めていたのは、焦がれる恋心ばかりではなかった。
(あの方は、あの夜のことを思い詰めてはいまいか……)
いくら緊急の事態だったとはいえ、初対面の男に下紐を結ばせるなど、高貴な姫君にとっては生涯の瑕になりかねない恥辱。己の軽率な行動のせいで、彼女が一人で傷つき、涙を流していないか。真面目な朝成は、その責任の重さにずっと胸を痛めていたのだ。もし彼女があの夜のことで苦しんでいるのなら、己が誠心誠意、責任を取らねばならない――そんな、痛いほどの義務感と切実さが、彼を突き動かしていた。
一方、先を行く有雅の胸中は、怒りと焦燥でひどく乱れていた。
(まさか朝成は、あの夜の女を探しているのか……?)
時折、嵯峨へ使いを出して誰かを探している様子なのは知っていた。それが、今わざわざ小萩の名を挙げ、文を認めようとまでしている。点と点が、頭の中で繋がっていく。
朝成は真面目な男だ。ふざけて妹をからかうような不実な男ではないことも、よく知っている。実直なあやつのことだ、あの夜の女を心配し、傷つけたかもしれない責任を真っ直ぐに取ろうとしてくれているのだろう。
(──だからこそ、妹に会わせるわけにはいかない。あいつに真実を知らせることなど、許せるはずもない)
知っているからこそ、彼が己とも知らず、幻の姫を気遣ってあのように探している姿を見るのが、有雅にはどうしようもなく切なく、苦しかった。
――その頑なな拒絶の裏で、お互いがどれほど相手を意識しているかなど、まだ二人は知る由もなかった。




