第二話
嵯峨の夜は静かだった。夏の虫の声が遠く続き、昼の暑気をはらんだ池からの風が、簀子を吹き抜けてゆく。有雅は几帳の内で髪を拭いていた。濡れた黒髪はまだ乾ききらない。
(女姿など、二度とするものか……)
そう思いながら、深くため息をつく。 有雅はその端麗な容姿ゆえに、都では男女問わず言い寄られることが多く、常に他人の視線に晒されていた。この嵯峨へ来たのも、そうした喧騒を離れて静かに過ごしたかったからだ。しかし、一歩外へ出ればやはり目立ってしまう。 どうしたものかと部屋で思案していた折、妹の小萩が
「でしたら、私の衣を纏って女姿になられれば誰も有雅お兄様だとは気づきませんわ」
と悪戯っぽく提案してきたのだ。
背に腹は代えられぬと妹の藤色の薄衣を借り、人目を避けて散歩に出た結果が、あの池への転落である。几帳の外で衣擦れがした。
「兄上、入りますよ」
返事を待たずに入ってくるあたりが妹らしい。有雅は眉を寄せた。
「何だ」
「何だ、ではございません。池へ落ちたと聞きました。女の姿は足元がもつれやすいと申し上げましたのに」
「……お前がそのような格好を勧めたのだろう」
「兄上が姫君の格好で散歩なさるのが、あまりに似合うからです。それで、助けてくださった殿方は、どのような方でした?」
有雅の手がわずかに止まる。 夕暮れ。水音。駆け寄る足音。そして、躊躇いもなく池へ飛び込んできて、己を抱きすくめた男の腕。
「……変な男だった」
「それは褒めております?」
「知らん」
有雅は顔を背けた。
あの時、池の冷水で指先が完全に凍え、衣の紐がどうしても結べなかったのだ。かの邸の女房を呼べば、己の骨格や肌つきで男だと一発でわかることだろう。
(あやつなら同僚だし、男同士の気安さもある。声を潜めて、少し手伝わせれば済むと思ったのだが……)
まさか、几帳を回り込んできた朝成があんなに使い物にならないほどガチガチに緊張し、釣られてあんなに心臓を跳ねさせる羽目になるとは思わなかった。
「……普段は涼しい顔をしているくせに」
「はい? どなたのことですか、兄上」
「何でもない。お前には関係のないことだ」
よくよく考えてみたら、朝成を困らせたことだろう。己は女姿であったのだから。至近距離で見つめられていた、うなじのあたりが、思い出すだけでじわじわと熱くなる。
小萩がじっと兄の顔を覗き込む。
「兄上、お顔が赤うございます」
「暑いだけだ」
有雅は即座に答えたが、小萩は訝しんでいた。がやがて追求を諦め、
「兄上が無事でよかったです」
と安堵していた。




