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第一話

都を離れて三日目の昼下がりだった。 朝成あさなりは、完全に機嫌を損ねていた。 避暑のために嵯峨の別邸まで来たというのに、暑い。暑すぎる。風は生ぬるく、蝉は喧しく、あまりの寝苦しさに一人、邸の奥にある池のほとりへと歩みを進めていた。

だが、日が傾き始めた夕暮れ時、その水辺で朝成は足を止める。 向こう岸に、人影が見えた。 女だった。薄い藤色の単衣を着て、池へ身をかがめている。長い黒髪が、水面すれすれまで落ちていた。その足元には、夕闇の訪れを待つように、待宵草がひっそりと花をほころばせ始めている。

朝成は思わず足を止める。 都でも美しい女は見慣れているはずだった。だが、その姿には妙に目を奪われた。夕暮れの光に溶ける姿は、まるで絵巻から抜け出してきたかのようだった。池のほとりにぽつりと咲いた、一輪の花のようでもある。

女が、こちらに気づく。涼しげな目元。けれど次の瞬間、明らかに驚いた顔をした。

「あ――」

裾が石に絡む。ぐらり、と身体が傾いた。

「危ない!」

朝成は反射的に駆け出した。だが、間に合わない。 激しい水音。女はそのまま池へ落ちた。

思ったより深い。白い腕が水面からのぞき、すぐ沈む。朝成は上衣を脱ぎ、迷わず池へと飛び込んだ。山から流れ込む池の水は驚くほど冷たく、昼間の猛暑が嘘のように二人の体温を奪っていく。水の中で袖が重く絡みつく。女の腕を掴むと、驚くほど細い。抱き寄せると、水中で相手の身体がびくりと強張った。

「大丈夫か」

返事はない。ただ息が乱れている。朝成は半ば抱えるようにして岸へ上がった。

二人ともびしょ濡れだった。女は咳き込みながら、乱れた髪を押さえる。濡れた単衣が肌に貼りついていて、朝成は慌てて視線を逸らした。

「……申し訳、ありません」

「いや、怪我がなくてよかった。そのままでは風邪をひく、これを」

朝成は、脱ぎ捨てていた上衣を拾い上げて、女に差し出した。朝成の体温がほんのりと残るそれを、女はしばらく迷っていたが、やがて小さく頭を下げて受け取った。

「……ありがとうございます」

その声が、妙に低く耳に残った。どこか聞き覚えがあるような気もしたが、もちろん思い当たるはずもなかった。

別邸へ戻る頃には、空はもう群青になっていた。 客間へ通し、着替えを用意させる。だが女房が来るまでには時間がかかるらしかった。 几帳の向こうで、衣擦れの音がする。それを耳にするたび、朝成は落ち着かず、扇を握る手に思わず力が入った。


すると、不意に、

「……紐が」

という声がした。

「え?」

「濡れて、うまく結べぬのです」

朝成は固まった。几帳の向こうで、相手も黙る。沈黙が妙に長い。

「……誰か、女房を呼ぼう」

「いえ!」

思ったより強い声だった。そして気まずそうに、

「……人に見られたく、ないので」

朝成の胸がどくりと鳴る。本来、高貴な女性が、初対面の男に衣服の紐――それも下着に近い結び目を乞うなど、あり得ないことだった。頑なに身分を明かしたくないゆえに女房を拒むのだろうが、それにしても、だ。

(冷静になれ、冷静になれ、(おのれ)……!)

動揺する心を必死に抑え、朝成は、ほとんど夢心地で立ち上がった。

「では、己が」

本来なら許されぬ一線を越え、几帳を回り込む。 そこには、灯火に照らされた濡れ髪と、白い首筋があった。肩に貼りつく薄衣、そしてうなじ近くにある小さな黒子が、妙に目を引いた。

朝成は息を呑みながら、細紐を取る。指先が触れた瞬間、相手の身体が震えた。寒さによる震えか、それとも――その震えが、朝成の指にも伝わる。


「……苦しくないか」

「ええ」

掠れた声だった。朝成は紐を結ぶ。濡れた衣の下の細い身体に、どうしようもなく鼓動が速くなる。こんなにも近いのに、互いの顔は灯の加減でよく見えない。それがむしろ幸いな気がした。ここで顔を見つめるなど、無作法がすぎる。なにより、今の自分にはそれを直視する心の余裕がなかった。

朝成は慌ててその場を離れた。

だがその時、相手の濡れた髪から一滴、水が落ちた。白い首筋を伝って、あの黒子のそばを滑り落ちてゆく。その光景だけが、やけに鮮やかに胸へ残った。

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