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第十話

その時だった。

――カン、と張り詰めた夜気を裂いて、激しくたくを打つ音が響き渡った。

続いて、鋭い鳴弦の音。 有雅がはっと顔を上げる。

「賊か」

朝成も反射的に振り返った。遠く、朱雀門の方角に灯が騒いでいる。再び鳴り響く鳴弦。 先ほどまで朝成の心を狂わせていた甘い混迷は、一瞬で吹き飛んだ。有雅の表情が、一瞬で冷徹な近衛武官の顔になる。

「行けるか」

「無論」

つい先ほどまでの混乱を、朝成は無理やり胸の奥の暗がりへ押し込めた。今はそれどころではない。

二人は急ぎ馬を飛ばした。夜の都を駆け抜ける。ひるがえる直衣、揺れる灯火、飛び交う怒号、逃げる黒い影。

「三人だ!」

回り込んで路地の奥へ追い詰める。逃げ場を失った賊たちが、狂乱して刃を抜いた。

――その瞬間、二人の身体が自然と連動する。

打ち合わせるまでもない。互いの背を預け合い、視線だけで瞬時に獲物を分かつ。

有雅はいぬいの側を、朝成はたつみの側を。

闇を切り裂く刀光は、まるで一対の美しい舞のようだった。

朝成が鋭く踏み込んで一人の刃を弾けば、その背後から迫るもう一人を、有雅の太刀が完璧な精度で叩き伏せる。長年、宿直を共にしてきた二人の呼吸は、寸分の狂いなく噛み合っていた。

だが、あと一人という、その刹那だった。

組み伏せられた仲間を前に激昂した最後の一人が、突然有雅の背後に現れる。袖の奥から抜かれた小柄(短刀)が、有雅の背中を目がけて真っ直ぐに突き出された。

「有雅――っ!」

少し離れた場所にいた朝成は、反射的にそちらへと身体を突き出していた。有雅を突き飛ばすようにしてその身を庇う。

一瞬、反応が遅れた。有雅を捉えるはずだった刃が、代わりに朝成の脇腹を鋭く抉っていった。

「朝成!」

有雅の、悲鳴のような大きな声が響いた。

次の瞬間には、有雅の手によって賊は叩き伏せられ、駆けつけた部下たちに取り押さえられていたが、朝成はその場に片膝をついていた。

有雅がすぐさま駆け寄り、朝成の脇腹の血に気づいて息を呑んだ。

「朝成、傷を見せろ!」

有雅は躊躇うことなく己の直衣の太い帯紐を解くと、朝成の傷口へ容赦なく巻きつけた。

「――っ、く、有雅……」

「黙れ、声を出すな」

必死に血を止めようとする有雅の指先は、白く、けれど驚くほど力強い。きつく食い込むほどに帯紐の布を縛り上げられ、朝成は痛みに歯を食いしばりながら、目の前の有雅を見つめていた。

「…相済まぬ」

朝成が強がって立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れてふらついた。

「――動くな、大馬鹿者が」

有雅がすぐさまその大きな身体を抱きとめるようにして肩を支える。その声音は、いつもの冷静さを完全に失って低く震えていた。

「……宿所まで、肩を貸してもらえるか」

「その青ざめた顔でか?」

有雅はひどく険しい顔でため息をついた。

「うちへ来い」

「何……?」

「宿所より、私の屋敷のほうが近い。薬師もすぐに呼べる」

朝成は、本能的にそれを断ろうとした。有雅の家に行けば、妹君がいる。今の自分があの屋敷に赴けば、今度こそ正気でいられなくなる。

「だが」

「異論は許さぬ」

有雅の強い腕に抱えられ、半ば押し切られるようにして牛車へ乗せられた瞬間、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。

ガタゴトと夜の闇を進む車内。

傷の痛みと、身体を支配する強烈な熱のせいで、視界が急速に暗転してゆく。朝成はそのまま、がくりと意識を失った。

――車内は、完全な静寂に包まれる。

外を歩く従者たちの足音と、牛車の軋む音だけが規則正しく響いていた。

意識を失った朝成の大きな身体が、有雅の肩へと深く預けられる。

有雅は、己の華奢な肩にかかる男の確かな重みと、衣服越しに伝わってくる尋常ではない熱さに、じっと耐えていた。

わずかな隙間から差し込む月光が、朝成の傷口にきつく巻かれた帯紐を白く照らし出す。じんわりと血の滲むそれを見つめながら、有雅の胸に、抑え込んでいた記憶が蘇る。

(あの夜、お前は俺の濡れた細紐を、あきれるほど優しく結び直した──)

なのに自分は今、朝成の傷口へ容赦なく帯紐を縛り上げることしかできなかった。

有雅は、自分の肩に頭を預けて眠る朝成を、ただじっと見つめていた。いつもなら自分を鋭く見据えるその瞳が、今は固く閉じられている。

有雅はそっと手を伸ばし、朝成の額に張りついた、水と汗に濡れた黒髪を静かに指先で払った。

その顔には、いつも朝成に向けていた、涼しげな同僚の仮面など、もうどこにもなかった。

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