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第十一話

目を覚ますと、有雅の邸についたところだった。邸は、思っていたより静かだ。 大きすぎず、けれど隅々まで整っている。几帳の色合いも落ち着いていて、妙に有雅らしい。

手際よく傷の手当てを受け、温かい薬湯を飲まされ、ようやく人心地ついた頃には、もう夜も深まっていた。

「今宵は休め」

有雅が枕元で言う。

「……世話をかける」

「己を庇って受けた傷だろう…お前に助けられた」

そう静かに言って、有雅は灯火を少し落とした。

その時――ふわりと、あの香が部屋に流れた。 朝成の胸がどくりと跳ねる。 間違いない。蛍の夜の、あの薄衣に残っていた香だ。

朝成は思わず弾かれたように顔を上げた。簾の向こうに女房ではない、若い女の気配が揺れる。そして、柔らかな声が響いた。

「兄上、薬湯はこちらへ」

声を聞いた瞬間、朝成は息を止めた。

(違う――)

簾が上がる。現れた姫君は、小柄で愛らしい少女だった。年の頃は十六、七ほど。くるくるとよく動く瞳に、柔らかく笑う口元。たしかに有雅と面差しはよく似ている。

だが、違う。決定的に、違った。

「お加減はいかがですか」

小萩は薬湯の器を抱えたまま、心配そうに朝成の顔を覗き込む。

声の高さが違う。笑い方が違う。まとう気配が違う。 あの夜の人は、もっと静かだった。夜の水辺のように、どこかひんやりとして、頑なな人だった。なのに、目の前にいるこの姫君は、まるで春の日差しみたいに明るい。

朝成はただ呆然と、目の前の少女を見つめることしかできなかった。

すると小萩は、朝成の視線に屈託なくぱっと笑った。

「朝成さまですね。兄上からいつもお噂を伺っております」

「……いつも?」

「ええ。“また朝成と宿直だ”とか、“朝成の奴は面倒だ”とか」

「おい、小萩」

有雅がたしなめるように、低い声を出す。小萩はそれを怖がる風もなく、くすくすと言い訳するように笑った。

「でも、本当はとても仲がよろしいのでしょう?」

朝成は、言葉を返せなかった。 小萩は人懐こく、悪意などどこにもない。香を調ぜるのが本当に好きなのだろう、彼女の衣からは、たしかにあの夜の薄衣によく似た香が漂っていた。

けれど、違う。あの夜、薄衣の袖口へ手を差し入れたときに、肌の熱とともに朝成の鼻腔をくすぐったあの香とは、何かが違っていた。

朝成の胸の奥が、激しくざわつき始める。

(小萩殿が、あの夜の姫君ではないのなら……)

では、あれは誰だったというのだ。 嵯峨の夕暮れ、水辺で抱き上げたあの人は。 蛍の夜、困り果てていたあの人は、あの薄衣は。

その時、ふと、看病のために朝成の枕元へ一歩近づいた有雅の袖が、夜風に揺れた。

――あ。

朝成は息を呑んだ。 同じだった。

小萩のまとう軽い香ではない。有雅の身体から立ち上る、その肌の熱に馴染んだ、あの夜の、あの人とまったく同じ、重く甘い藤の香。

小萩ではない。 ならば――。

朝成の視線が、無意識に有雅の姿へと向く。

有雅はそんな朝成の動揺など知らぬ顔で、ただ妹へ静かに告げた。

「もうよい。小萩、朝成を休ませろ。お前も下がりなさい」

灯火の陰で、有雅の横顔が美しく伏せられる。 その、涼やかな、けれどどこか見覚えのある頑なな唇の輪郭を見た瞬間。

朝成の胸の奥で、これまで自分を支えていたすべての前提が、静かに音を立てて崩れ始めた。

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