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第十二話

朝成が有雅邸へ身を寄せてから、三日ほどが過ぎていた。

傷は深くなかったが熱が長引き、まだ本調子ではない。それをいいことに、小萩は日に何度も朝成の部屋へ顔を出した。

「朝成さま、薬湯をお持ちしました」

「……またか」

「またか、ではありません。兄上など放っておくと薬を飲まないのですから、朝成さまも同じかと思いまして」

小萩はそう言って、勝手知ったる様子で几帳の脇へ座る。 本当に明るい姫君だった。よく笑い、よく喋り、人懐こい。朝成にもすっかり気を許している。 その無邪気さに救われる反面、朝成の胸は時折どうしようもなく苦しく、痛んだ。

違うからだ。

ふとした目元。言葉を切る独特の間。香の調子。兄妹なのだと一目でわかる共通点はある。だが、あの夜の人ではない。その残酷な事実が、彼女に会うたびにはっきりと浮き彫りになってゆく。

「兄上、今朝も朝成さまのお話をしておりましたよ」

小萩が楽しそうにくすくす笑う。朝成は思わず寝台から顔を上げた。

「……私の?」

「ええ。“朝成はすぐに無茶をする”とか、“面倒な男だ”とか」

「それはただの悪口では」

「ふふ、でも兄上、朝成さまのお話をする時だけ、いつもより少し楽しそうに目を細めるのです」

朝成は妙に返事に困り、胸の底に熱い澱がたまるのを感じた。そこへ、ちょうど簾の向こうで衣擦れの音がした。

有雅だ。

「小萩」

「あら兄上」

「また病人の部屋に長居をしているのか」

「だって、病人は退屈でしょう?」

小萩は悪びれもせず笑う。有雅は呆れたようにため息をつき、朝成の枕元へと歩み寄ってきた。

その瞬間――ふわり、と宿直姿の時と同じ、あの甘い藤の香が激しく揺れた。

朝成の心臓が、またどくりと音を立てて鳴る。 同じだ。いや、違う。小萩がまとう香よりも、今、目の前にいる有雅の身体から漂う匂いの方が、あの蛍の夜に、己の五感を狂わせたあの人の香へ、圧倒的に近い。

朝成は無意識に、貪るような視線を彼に向けてしまう。有雅はその視線の熱に気づかぬまま、枕元の薬碗を取り上げた。

「飲んだのか」

「……今からだ」

「冷める前に飲め」

低い声。手が触れそうなほどに近い距離。それだけで、朝成の胸が激しく波打つ。

小萩はそんな二人をじっと見比べ、急に何かを思いついたように、ぽんと手を叩いた。

「そうだわ」

「何だ」

「朝成さま、香はお好きですか」

朝成は不意を突かれ、少し意外そうに瞬く。

「……嫌いではないが」

「では、試していただきたい香があるのです。今、新しい香を合わせておりますの」

有雅が露骨に嫌そうな顔をした。

「また新しい香か。朝成は静養中だと言っただろう。あちらこちらの部屋を燻すな。」

小萩はぷくりと頬を膨らませる。

「ご心配なさらずとも、もう完成したところです。今しばらくは致しませぬ。朝成さま、こちらをお試しくださいませ」

小萩は笑いながら、小さな香包みを朝成へ差し出した。

「女房たちが『兄上の衣へ移した時は、どうしようもなく良い香りになるのに、わたくしが着てもなかなか同じにならなくて、悔しい』と申しますの。朝成さまもそう思われませんか?」

その一言に、朝成の指先がぴくりと強張った。

「……移ると、変わるのか」

「ええ。香は身に纏うと、皆幾らか香りに変化があるのです……兄上はよく動かれますし、お肌の熱のせいかしら。香が馴染みやすいのでしょうね。わたくしが調ぜたものなのに、兄上が着ると、どこか重くて艶めかしい別の香に変わってしまうのです」

有雅は面倒そうに眉を寄せる。

「人を香炉みたいに」

「だって本当のことですもの」

朝成は、震えそうになる指先でそれを受け取る。 ふわりと、小萩の調ぜた香が立つ。 似ていた。たしかに、あの夜の香に。

けれど――決定的に、何かが足りない。小萩の香には、あの夜、薄衣の袖の中で朝成の指先を狂わせた、あの艶が抜け落ちていた。

朝成はゆっくりと息を吸う。 蛍の夜。袖へ差し入れた手。乱れた髪。近づいた、あの切ない吐息。 その記憶に触れるたび、朝成の脳裏に浮かぶのは小萩ではない。

目の前で、鬱陶しそうに衣の襟元を引いている、有雅だ。

朝成ははっとして顔を上げた。有雅は朝成の脳裏のことなど露知らず、手元の巻物を淡々と開いている。 灯火に照らされた、涼やかな横顔。白く長い指。伏せられた睫毛。静謐な気配。

そのすべてが、おそろしいほどの精度で、あの夜の「水辺の姫君」へ重なってゆく。

(まさか……そんなはずはない。相手は男だ。有雅なんだぞ)

小萩が不思議そうに首を傾げた。

「朝成さま? お顔が赤いですよ」

「……いや、なんでもない」

朝成は慌てて視線を逸らし、寝台へ身体を伏せた。 喉が引き裂かれそうなほどに渇く。だが今は、冷たい水でも酒でも、この狂いそうな胸の熱を誤魔化せる気がしなかった。

もしこのまま、あの夜のように、もっと近くで有雅の香を嗅いでしまったら。 自分はもう二度と引き返せない、恐ろしい真実に気づいてしまう。

そんな予感が、薄暗い部屋の中で、静かに朝成の胸を満たしていた。

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