第十五話
御簾の隙間から、金木犀の香りがふわりと香る昼下がり。朝成は有雅と碁を打っていた。
白木で作られた碁盤の上には、すでに何十手もの黒白の星が散らばっている。 カチリ、と硬質な音が響き、有雅が陶器のように白い碁石を指に挟んだ。
その細く、しなやかな指先が、白石をなぞるようにして絡め取る。
パチリ。
カチリ。
朝成の視線は、いつしか盤面ではなく、完全にその指先に奪われていた。その細くしなやかな指先が白石をなぞるのを見つめ、朝成は惚けている。いつでも己を惹きつけてやまぬその白い指。その愛おしい指先に、今や己の心までを完全に絡め取られている。
じっと見つめる朝成の熱に、有雅が冷ややかな、けれどどこか微かにあわてるような視線を向けた。
「……その黒は、そこでよいのか」
「っ……!」
有雅の低い声に我に返った時には、すでに遅かった。見惚れている間に致命的な下手を打ち、有雅が静かに白石を置いて勝負が決する。
「少し、頭を冷やした方がよさそうだな」
有雅の提案で、気分転換に庭で蹴鞠をすることになった。
「アリ」「ヤウ」と、爽やかな掛け声が静かな庭に響く。 直衣の衣を大きく翻し、身軽に宙を舞う有雅の姿は、息を呑むほどに優美だった。朝成が最後にひときわ高く切り上げた球を、有雅は右足の先でぴたりと受け止め、しなやかな動作で手の中に掴む。
「ふぅ……」
わずかに息を弾ませた有雅が、朝成に歩み寄る。
動いた拍子に、朝成の胸元の紐が緩んでいたのだろう。有雅は何気ない仕草で指先を伸ばし、朝成の紐を整え、最後にきゅっと結び直した。その細い指先が己の胸元に触れた刹那、朝成の胸は歓びにどくんと跳ねた。──その近すぎる姿から、あの香が香る。いつも己を惑わす、藤の香。
もっとそばに。もっと、その香りの奥へ。
朝成の理性がついに千切れた。
「……朝成?」
驚く有雅の言葉を遮るように、朝成はその華奢な身体を、引き寄せるように強く、強く抱きすくめていた。
「……十たび、息をする間だけだ。頼む、動くな」
胸の奥から低く響くその声に、有雅の耳元がじわりと熱を持つ。抱きしめられた有雅の身体が一瞬、硬直した。朝成の衣服を掴んでいた白い指先に、はじめは戸惑いがちに……だがやがてぎゅっと力がこもる。 有雅はただ静かに、朝成の胸にその身を預けた。
朝成は有雅の首筋に深く顔を埋める。そのまま、はだけた衣の隙間から立ち上る熱を、肌ごと胸の奥へと深く、深く、すううと吸い込む。
「……何を、嗅いで……」
有雅が呆れたように、けれど赤面を隠すように低く呟く。朝成は首筋に深く顔を埋めたまま、離そうとはしなかった。
「嗅ぐ。お前の香りを、こうして吸うと言ったら吸うのだ」
「っ、童のようなことを……」
有雅はあまりの強情さに一瞬あっけにとられ、それから、困ったものだと諦めたように小さく笑った。抗いきれぬように吐き出された、その愛おしげなため息とともに、有雅はただ静かに、朝成の胸にその身を預けた。
ガタゴトという牛車の音も、外の喧騒も、すべてが遠ざかる。互いの心音が重なり、高鳴る。朝成は目を閉じ、有雅の髪から、首筋から溢れる香りを、己の五感のすべてに刻みつけるように深く、深く吸い込んだ。
──ひとつ、ふたつ。
呼吸を重ねるたびに、有雅の熱が、愛おしくて堪らなくなる。 有雅は何も言わない。ただ、朝成の背中に有雅の細い腕が、優しくそっと回された。
──十。
「……終わりだ」
有雅の、少し掠れた、けれど酷く優しい声が響いた。御簾の隙間から斜めに差し込む夕陽が、重なり合う二人の直衣の袖を茜色に染めてゆく。外の庭ではいつの間にか、鈴虫が密やかに羽音を震わせ始めていた。




